早くも黄昏を迎え始めた街は賑やかだった。賑やかな街を構成する人々の中には私と、そして私と同じグループで活動する四人も含まれている。アイドルバンドのPastel✽Palettes、そこは私の芸能活動の居場所だった。メインボーカルである私の大切な居場所。
アイドルバンドなんて言ってはいるけど、アイドルであっても、私も、そして他のみんなだってまだ一人の女子高校生に過ぎない。流行りに敏感で、SNSのチェックを欠かさない、アオハルを楽しむ一人の女の子だった。今だっていつもと変わらぬ姿で与えられた僅かなアオハルを楽しんでいる。ほんの少しだけ、雪が灰のように降っている目の前の光景にそぐわない自らの表現にクスリと笑った。
「何を笑っているの? 彩ちゃん」
「……えっ?! 何もないよ?!」
まるで今の自分の思考が全て見え透いていたと勘違いするかのようなタイミングで、私の心臓は飛び跳ねた。隣を歩く千聖ちゃんの訝しげな表情に肝が冷えた私は気持ちを引き締めて、平然を装って答えた。
それでも千聖ちゃんの表情は何も変化がなくて、視線に耐えられなくなった私は救いを求めて振り返った。でも、もう片方に並んで歩いていた日菜ちゃんの視線もどうやら私に突き刺さっているらしかった。
後ろを振り返る。並んで歩く麻弥ちゃんは苦笑いで、イヴちゃんだけは不思議そうにこてんと首を傾げている。背後を歩いていた天使に心を和ませていると、隣を歩いていた邪気が大きくなって、私の心臓はもう一度跳ねた。
「あーあ、彩ちゃんまたお説教だね」
「日菜ちゃん?」
「えっ、お説教って何?!」
得体の知れない恐ろしさで振り返らない私を煽る日菜ちゃんもそそくさと後退していく。私はカクカクとした動きでゆっくりと、未だ隣で歩きながら、般若の面をしているであろう千聖ちゃんの方を振り向いた。でも、そこに怒れる千聖ちゃんはいなくて、むしろ呆れたような気の抜けた顔色で、大きな嘆息まで漏らしていた。
「って、どうしたの? 疲れてるの千聖ちゃん?」
「違うわ」
「彩さんは自分で一切気づいてないんですね……」
「どういうことですか? マヤさん」
「イヴちゃん、耳貸してよ」
どうやらイヴちゃん以外のみんなは共通認識が取れているらしく、イヴちゃんも日菜ちゃんからの告げ口で合点がいったように、パッと顔を上げた。気がついていないのは本当に私だけらしい。困惑を隠さずに、私はキョロキョロと四人の顔を見渡した。
「今日のアヤさんはいつになく笑顔がステキです!」
「えっ、そうかなぁ。えへへ」
「イヴちゃんはすごく優しい言い方するよねぇ」
「彩ちゃん。いくらなんでも今日の彩ちゃんはニヤニヤし過ぎよ」
「……ええっ?!」
てっきり褒められたと思って照れていたのに、日菜ちゃんの言葉尻に気を取られた私。間髪入れずに千聖ちゃんからのボディーブロー。慌てて私は手鏡を取り出して、自分の顔を眺めてみる。そんなにいつもと違うのだろうか。自分では普段と同じ顔がそこにいるようにしか見えない。
「アヤさんが『これから幸せになります』という風にニコニコし続けてますね」
「うんうん。分かりやすすぎだよ」
そこまで言われてみんなの言わんとすることが漸く思い当たる。点と点が線で結ばれて、冷や汗が額に吹き出す。千聖ちゃんからの視線がさらに痛いものになった。
「彩ちゃん。分かっているの? 私たちはアイドルなのだから、万が一そういった色恋沙汰が露呈することは致命的、タブーなんだって」
「うっ」
完全に千聖ちゃんには私の行動パターンも思考回路も読まれ切っているらしかった。この際だから認めるが、私の恋人の存在は千聖ちゃんにもバッチリバレている。千聖ちゃん以外も然りだけど。
それはまぁ、千聖ちゃんの初めの怒りは凄まじいものだった。私の言い分を聞き入れるわけでもなく、全て感情論だとバッサリ切り捨て、泣きついた私を見下ろす千聖ちゃん。最終的には呆れ果てたまんま、『泣いても仕方ないわよ』って頭を抱えていた光景を思い出した。
今日だってこれから会う……謂わば密会になってしまうけど、その予定だった。私がニヤニヤを抑えきれてなかったのはそれで弾む心の問題だろう。そりゃ無理な話なのだ。この感情をこれまで一緒にいたみんなの前で隠し通すなどということは。
「大丈夫だよ……きっと」
「彩ちゃん汗すごいよー?」
「アヤさん、ハンカチをどうぞ!」
「うぅ、ありがとうイヴちゃん」
純粋なイヴちゃんの心遣いが心に刺さる。千聖ちゃんに散々恋人の存在を詰られ、後ろめたいことをしている自分に気がついたからそれはもう余計だ。心配そうにこちらを見つめるイヴちゃんの穢れなき瞳に、穴があったら入って土に埋まってしまいたいぐらいの気分だった。
イヴちゃんから受け取った可愛らしい白のハンカチで額に浮かんだ汗を拭う。柔軟剤の香りが鼻腔をついて、すぐさま目の前の現実から逃避ができてしまうような夢見心地であった。けど、ゆっくり目を開くとまだまだお怒りモードの千聖ちゃんがそこにいて、僅かに目を逸らした。
「別にね、私も彩ちゃんが嫌いで言っているわけじゃないのよ? もしも公になったら一番困るのは彩ちゃん、貴方だから言っているの」
「わ、分かってるけどぉ……」
千聖ちゃんが私のことを思って言ってくれていることなんて百も承知だ。嫌がらせのようにくどくどと言うのではなく、少しでも気を緩めたらボロが出そうな私のために、千聖ちゃんは気をつけるように注意してくれている。
でも、ずっと言われっぱなしだったこともあり、目の前に置かれた甘いスイーツを邪魔することへのイラつきから、私は少々不機嫌だった。多分、宿題をやれと親から口酸っぱく言われる子どもの気持ちは、今の私がこの地球上で誰よりも共感できるだろう。
「あっ、もうこんなところまで来ちゃった。それじゃあまたね!」
「ちょっと!」
感情がほぼこもっていない棒読みと、振り切るように言い切った私は、振り返って大きく手を振る。千聖ちゃんは『しまった』という表情を浮かべてこちらに手を伸ばしているけど、駆け出しそうになっていた私を捕らえるには至らない。千聖ちゃんの掌が空を切った。
まるでステージから去るアイドルのように笑顔に満ちた私は四人を一瞥した。麻弥ちゃんの苦笑い、イヴちゃんのキョトンとした顔、日菜ちゃんが千聖ちゃんを横目に爆笑する姿。半ば日常に溶け込んでしまいそうな光景に少しだけ安心感を覚えて目を瞑り、そのまま駆け出した。
千聖ちゃんが追ってくるようなことは流石になく、こっそり後ろを振り向くと頭が痛そうに片手でおでこを抑える姿が見えた。千聖ちゃんに悪いことをしたなとほんの少しだけ反省した私は、待ち合わせ場所となっている駅前に急いだ。
気がつけばすっかり外は暗くなって、周りを歩く人の顔色も街灯やネオンでようやく視認できる程度になっていた。薄暗い路地を歩いてなんかいれば、最早通りすがりの雑踏が誰かなんてのはそう分からない。行きたがった人ですら顔の輪郭は朧気だった。
それでも、事前にここだと待ち合わせをしている場所に着くと、私の待ち人はすぐに分かった。私よりちょっとだけ高い背丈、心配そうに見つめている携帯電話の画面の青白い光で目元がハッキリと見えていた。赤と白のマフラーは一週間ほど前にデートした時にも見かけたものだ。
「お待たせっ」
「うわっ」
本人の意識が完全に手元に持っていかれていた。私はその懐に急に飛び込むような勢いで現れる。予想通りの驚いた反応に満足した私は無防備でフラついた胴体を支えるようにしながらこちらへと抱き寄せた。
「彩かぁ。びっくりしたよ……。連絡もなかったし」
「あとちょっとで着きそうだったもん。ごめんね?」
「ううん、気にしてないよ。さっ、行こうか」
「うんっ」
差し出された手を握る。恋人繋ぎという、いかにもな名前がつけられた握り方で彼の手を捕まえた。手の皮膚の隅から隅まで彼の体温を感じている。私と同じで外を出歩いていたせいだろうか、表面はひんやりとして冷たい。少しでも暖を取ろうとして、いや、彼の近くにいたかったから、彼の厚手のコートの袖口に身を寄せた。少しだけ歩きにくそうにしているけど、今日のデートは少しぐらいワガママをぶつけてやろう、なんて思って離さなかった。
「最初はここ、だよね?」
「だね。でも本当に良かったの?」
「うん、ステージとは全然違うもん!」
待ち合わせ場所からも見える商業用ビルの入り口に立つ。ここの二階に入居しているところが今日の目的地だ。どこかのテレビのCMなんかで幾度となく目にしたチェーンのカラオケ店。勿論個室。
入ってすぐにあったエレベーターに乗り込み、わずか一階層だけを昇る。この時間にこのビルを使う人はそう多くないようで、すぐにやってきたエレベーターの中には誰もいなかった。ドアを閉めるボタンを連打して、零次会とばかりに彼のさらに近くに身を寄せた。それでも彼からの反応は鈍いみたいで、十秒も立たずに開いたドアに恨めしい思いを抱きながら店に入ることにした。
「よいしょっと」
「思ったより狭いねこの部屋。上着もらうよ」
「ありがとー!」
狙ったかのような小さめの部屋で彼に上着を手渡した。対面のソファが小さなテーブルを挟み、私は部屋の奥側のソファにカバンを置いて、その反対側のソファに座る。壁のハンガーに上着をかけた彼を私は手招いた。私の隣に座って、という気持ちを込めて。彼の方も私の意図を汲み取ったらしくて、コートを脱いでセーター姿になった彼が頬を掻きながら私の隣に腰を下ろした。
一気に私の心は満たされる。外でも同じような体勢でいたはずだけど、周囲からの目が完全に断ち切られているせいか、すっかり私の心は落ち着きを取り戻し、それでいて心臓が高鳴っていた。監視カメラがあるだとか、ドアの磨りガラスから少し部屋の中が見えてしまうだとか、そういうのは野暮な話だ。ただこうして狭い部屋で同じ空気を吸っているのが彼と二人だけだという事実に酔いしれているわけだから。
「……彩? 歌わないの?」
「えっ?」
「カラオケに来たいって言ってたから、てっきり歌いたいんだとばかり」
「あ、なるほど」
ここは個室カラオケ。部屋の中には家のテレビなんかより遥かに大きな画面を備えた液晶が最新のアーティストの楽曲を垂れ流している。その下の台には音響装置のつまみが大量に置いてあるし、部屋の隅っこにはマイクだってご丁寧に二本並んでいる。ここまで来て歌わないやつがいるのか、ということなのだろう。
でも、正直に言えば私からすると歌を歌うかどうかはそこまで大切ではなかった。ステージでも、スタジオでも、歌を生業として生きる私にとっても、カラオケはみんなで騒いだり、そういう場所として使うことも当たり前に受け入れている。今日は専らそういうものとは違うつもりなわけだが。
「また二時間ぐらいあるよね?」
「入ったばっかりだからね」
「……じゃあいっかな、なんて」
二時間まるまる歌い続ける、なんてのもいいけど、それはまた別の機会でいい。彼は少し落ち着きがないようにソワソワしているけど、自分としては今のこれが目的なわけだ。
私が彼の手を少し強めに握ると、彼の体はさっき私に驚かされた時のようにピクリと跳ね上がった。付き合い始めてそこそこになると言うのに、ここまで初心だというのは変な感じもする。
最初こそ、恋愛経験なんてものはなかった私の方がよっぽど恋愛には初心になるとばかり思っていたけど、気がつけばその立場はまるっきり逆転した。私は何も気にせずに彼とスキンシップを取るけど、彼は意外と硬派というか、そういうのにあまり積極的になることはない。勿論私からのアプローチには応じてくれるけど、彼からの反応は今みたいだったり、逆に薄かったりもする。
「寒くない? 大丈夫?」
彼の手を握りしめると、外で握っていた時よりほんの少しだけあったまっているようだった。けど、私の手と比べるとかなり体温は低そうに見える。私の斜め上の暖房から生ぬるい風も噴き出てはいるし、部屋も外に比べてはるかにあったかいのだから、そろそろ熱を帯びても良さそうなものなのに。
「彩が温かいから、こんなのなんでもないよ」
「指先こんなに冷たいのに?」
掌は誤差とはいえ、熱を持っている一方で、指の先の方はまだ凍りついているように冷たい。自発的にも動かなさそうな具合だ。彼の哀れな指先を何度も擦り、下から彼の顔を覗き込む。どういうわけか恥ずかしがっているらしく、彼は私から目を逸らして、知りもしないグループの歌う液晶の方を向いていた。それがなんだか癪に触った私は、彼の手首の皮膚をつねった。
「どうして反応してくれないの?」
「どうしても」
「むぅ」
視線を私の方へと変えることなく、彼は少々ぶっきらぼうに答えた。どうせ彼なりの照れ隠しなんだろうなんて思っても、私からすれば受け入れ難い粗雑な扱いだった。あんな散々な決別で彼に会いに来ているのに、そんな態度はないだろうという八つ当たりだ。
少し爪を突き立ててみても、彼の顔色は微動だにせず、私は諦めて最終手段に出た。
彼は少し屈み気味の私の方に何の視線もやっていない。だからこっそりと彼の右手の人差し指を曝け出す。他の指と離れ、寒くて仕方なさそうな指。私は好物をほうばる時のように、口を大きく開けて。その指を咥え込んだ。
「えっ?!」
明らかにこれまでと違う感覚が来たものだから彼も驚いたのだろう。素っ頓狂な声をあげて、きっと彼の指を咥える私の姿を見たに違いない。それでもお構いなしに、私は水音を立てながら彼の指をねぶり続ける。
「んっ……ちゅる……」
「待って待って、彩何してるの?!」
私の名前を大声で、慌てながら呼ぶのを聞いてようやく満足した私が口を離す。口を離した瞬間、私の口の中で濡れに濡れた人差し指と、私の唇が糸を引いた。彼の着込んだ茶色のセーターをバックに、白くて半透明の糸が名残惜しそうに繋がり続けている。彼も、私が膝の上に乗っているような体勢になっているのを気にしてなのか、声こそ荒げても、のけぞったり指を素早く離したりはしなかった。そのせいで糸は長々と、切れることもなく妖しげな光を反射し続けている。
「何してるも何も、指を咥えてただけだよ?」
「それは分かるよ。なんで急に咥えたの?」
「私のことを散々放置したのはどこの誰?」
「それはまぁ……僕だけど」
頬を膨らませながら少し強めの口調と、鋭い視線を浴びせる。すると、彼は観念したらしく、縮こまったまま、やっとのことで私と目を合わせてくれた。
「指めっちゃベタベタしてるね」
「彩が舐めたんだよね?」
「うんっ」
彼の頬もようやく緩み、彼が私の名前を呼ぶ声も優しげになった。彼はベタベタになった指先を気にしているようだったが、やがて気にしても仕方がないといったように、テーブルから乗り出して、向こうの台の上に置いてあるカラオケの端末とマイクを手に取った。
「ほら、歌おう? カラオケに来たんだし」
「……まぁ良いけど」
本音を言えばもっと彼とこういう他愛もないスキンシップをしたかったけど、若干呆れ気味の彼の口調に、渋々受け入れることにした。彼がその端末を手渡してきたものだから、何の淀みもなく、『歌手名』のところに自らのグループ名を入れる。
曲が転送され、大音量が部屋の中に響き始めた。私はせめてもの抵抗で彼の体に背中を預けて歌い始める。彼は何か私にちょっかいをかけてくれるわけでもなく、ただ静かに私の歌を聴いているようだった。間奏で首を捻って、彼の顔を見たけど、彼は目を瞑って曲を聴いているらしい。少しの嬉しさと少しのつまらなさに挟まれたけど、歌い出しが重なって慌てて画面に視線を戻した。
本来なら、ステージの上で歌っている時はこんな振りで歌ってるな、なんてのが頭を一瞬過ったりもしたけど、彼が求めてくれてるのはそういうのではないから、ただ彼の様子を伺うように静かに歌うことにした。
曲がゆっくりとフェードアウトする。彼が満足したように目をゆっくり開く。私は彼が口を開くのを静かに待つことにした。
「やっぱり彩の声、好きだな」
「うん。でしょ?」
「自信満々に答えるんだ」
「だって知ってるもん」
上機嫌な私は持っていたマイクを彼に渡す。次は彼の声を聞きたいという意思表示だ。彼はテーブルの上に置いた端末で曲を検索し始める。彼の少し低い声ではパスパレの曲とかは歌いづらいだろう。案の定、彼は男性ボーカルの曲を入れる。彼の視線はすっかり向かいの液晶の方に移っていた。
彼の歌う声はどことなく優しい。低くて甘い声だとか、そういう単純な感じではなく、ずっと聴いていたいけど、ただ少し物足りなくも感じる、そんなもどかしい声だ。地声とそれほど変わりがあるわけじゃないけど。物足りなさを感じるのは、単に歌声の問題ではないのかもしれない。
少しずつ降り積もった不満の種を潰すように、私は歌っている彼の脇腹を人差し指で突きはじめた。そんなに力を込めているわけでもないし、気にもならない程度なのかもしれない。彼の薄い反応を見て、私は徐々に指を上へ上へとなぞる。胸元でも反応の無いのを見て、痺れを切らした私はついに歌っている彼の右頬を突いた。その時、流石に反応をしてしまった彼の姿にえも言われぬ満足感を覚えて、私は何度も突く。彼も私に気にかけざるを得ないようで、横目の彼と私の目が合った。思わず私も笑顔が溢れたけど、彼は少し困ったように歌いながらチラチラとこちらを見ている。
あっという間に彼の歌は終わる。彼は何か思うところがあるように何かを言おうとしていたけど、恐らく悪戯っ子みたいであろう私の幼い顔を見て、はぁと一つ息を吐いているだけだった。
「さ、次は彩の番だよ」
「えぇっ! もっとほっぺたツンツンされたいでしょ?」
「彩がツンツンしたいだけでしょ? ほら、僕が曲入れちゃうよ?」
「違うよぉ。って、本当に選ぶんだ」
「うん。そうだ! 彩が歌ってるMV付きの曲入れようか」
「えっ?!」
「折角彩が歌ってくれるんだし」
彼は頭の中で曲名が浮かんでいたのかと思うほどに手早く、端末に私の曲を、しかも私が、さらに言うならパスパレが歌っている動画を背景にして曲を入れた。途端にライブさながらの音量で部屋に聴き慣れた曲が響く。彼は悪戯をやり返したとばかりに笑ったが、すぐに視線を液晶の方に向けた。私が何かを言うより先に歌い出しになって、慌てて曲の入りに合わせる。
彼の目は画面で踊りながら歌う私の姿を追っているようだった。それに合わせて私は歌詞をなぞるように歌い続ける。でも、折角歌っているのに彼はこっちを振り向いてはくれなくて、私の中の蟠りははちきれてしまった。
一番が終わる。間奏は数秒ぐらいしかない。彼は一度もこちらを見てはくれなかった。
マイクをテーブルの上に置く。彼は気づかない。彼の斜め前にいた私はくるりと振り返る。彼の視線が釣られて僅かに動いた瞬間、私は彼の華奢そうな肩を握りしめてソファの上に押し倒した。
「わっ」
ボフンと跳ねた彼の体を上から押さえつけるように私は彼の体の上に倒れ込む。何事かと焦る彼が不注意にも口をぽっかりと開けていた。無防備な彼の頭を抱きかかえる。そして、開いた口めがけて、自らの舌をねじ込む勢いでその口を塞いだ。
彼は抵抗をする暇もなく私に蹂躙され続ける。背景では曲が爆音で流れているのに、私と彼と、密着した二人の作る衣擦れと水音が頭の奥にまで響いている。
二番がそのまま終わりそうな頃、私は仕方がないから唇をゆっくりと離した。彼は放心状態というか、酸欠になっていそうな息遣いで私を見つめている。彼の黒い瞳は見たこともないほど大きくなって、そこに反射しているのは桃色の髪を下ろした私の姿だった。
「ぶはっ、はぁっ……はぁっ……」
「まだ足りないよね?」
「……へ?」
「もっと欲しいよね」
「彩……?」
求めているのは否定や、決めつけられた答えではなかった。心ここに在らずな彼が譫言のように呼ぶ私の名前だった。私が上から乗り掛かっているから、どう暴れたところで彼は私からは逃れられない。観念するしかない。
そんな圧倒的に有利な状況で、私は彼にもっと顔を近づける。お互いの荒くなって色のついた吐息が混じり合うような距離。
「欲しいって、何を」
「私は欲しいよ? 足りないもん」
何かを呟こうとする彼を塗りつぶすように倒れ込む。受け止めるしかない彼は私の背中に腕を回しながら、私からの愛を受け入れている。でも、受け入れてもらうだけじゃ段々と足りなくなってきて、私は少し攻撃の手を緩めた。彼はそれを合図に反撃とばかりに私を強く、強く抱きしめた。絡み合う体が熱を帯びはじめた。
「……えへへ。足りないよね?」
「彩のせいで」
背後では、無機質で感情豊かな私の声がメロディラインに沿って小さく反響している。ガイドボーカルとかいうやつだろうか。でも、彼が涎を垂らしてまで欲しがっているのはそんなものではない。糸を引いて途切れることもなさそうな、熱情に満ちた私の漏らす声で、彼はさらに呼吸を荒げていた。
私は体の全ての力を抜いて、彼に全身を預けた。それまで、何をしても私に遠慮がちな態度しか取らなかった彼が、今はまさに目の前で乱れる私に夢中になっている。それが堪らなく幸せで、身を委ねた。
「曲終わっちゃったよ?」
「曲なんてどうでもいいよ」
「じゃあ最初っからそう言ってよ」
「それは……そうする」
液晶の中の私なんてどうでもよい。ステージの上の私なんてどうでもよい。彼に見ていて欲しいのは、彼に虜になってもらいたいのは、今ここにいる私だった。ほぼゼロ距離にいる私の呼吸を浴びた彼は、ただ私を見つめるだけだった。
「あとまだ一時間ちょっとあるよ」
「カラオケの時間?」
「うん」
それはもはや、脅迫と言っても差し支えなかった。私は暗に、全てを私に捧げろなんていう脅しをかけている。そして、彼は絶対にその誘いを断らない。それを知っていてなお脅しをかけている。
「歌わないよね?」
「歌えないよ?」
「うん」
私の手は最初こそ、寝転がる彼の首の裏に這わせていたはずなのに、気がつけばもう首の横数センチのところまで移っている。でも彼が抱く感情はきっと恐怖ではない。むしろもっと多幸感に満ちた、満足感なはずだ。息が詰まるような熱い呼吸のやり取りが出来なくなりそうな恐怖の中では、彼の顔はすっかり緩んでいる。外では決して見せない、彼の表情。
「彩の歌は聴きたいな」
「それは分かって言ってるの? というより冗談で言ってるの?」
「本心だよ。でも、彩の話を聞く方が先かな」
「やったぁ」
私はもう一度彼の唇を静かに奪う。流石にお腹を圧迫しすぎて彼は苦しそうだったから体を起こす。ゆっくりと起き上がった彼は壁際に寄り掛かるようにしながら座った。開いた股の間に滑り込むように、私が背中を彼の体に預けると、彼の腕が私のお腹の方へと回された。
ここからだとこの二人きりの天国と日常の狭間がよく見える。私をよく知らない人たちが蔓延る向かい側を歩く人の顔はまるで見えない。あの大画面の偶像は相も変わらずに新着の曲紹介を繰り返しているけど、先程とは違い静かに、邪魔をしないようにしているようだった。
「あったかいね」
「彩とあれだけくっついてたからかな」
「私のファインプレーだね」
力なくこちらを向いて、半開きだった彼の唇。私は少し腰を捻って、吸い付くようにキスをした。何度も繰り返されたキスで、お互いの唇の表面はすっかり唾液で濡れていた。
背中が密着しているから、彼の心音が聞こえたような気がした。さっきはあれだけバクバクと、必死になって全身に血液を送っていた心臓は静かになっていた。それは私も同じことだった。
「そういえば今日ね、また千聖ちゃんに怒られたんだ」
「食べすぎ?」
「違うよ! もぉ!」
彼は優しく微笑みながら、お腹に回した掌で私のお腹の脂肪を確かめていた。掴めるところはない。少し怒ったような私を見て悪いと思ったのか、すぐに彼の手は私の頬に添えられる。間髪入れずに襲ってきた彼のキスに私は力が抜けてしまった。
「怒られて落ち込んでるんだよ?」
「だから?」
「もっともっと、甘えてもいいよね?」
「おいで」
体勢を変えて、真正面から逞しい彼の体に倒れ込む。すっかり緩んだ私の頬を見せるのは恥ずかしくて、私は彼の体に顔を埋めた。彼は何も言わずに、私の背中をポンポンと叩いている。
穏やかに流れる時間は無限のようだった。それは、私と彼の二人だけがいる世界にいるから。ここに浸っていたいという哀れな私の細やかな願望ですらあったのだ。彼が私の瞳を見つめて、こうやって微笑んでいる。それだけで良かったのだ。だから私は、彼に甘え続ける。