ガールズバンドたちのBirthday   作:敷き布団

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【羽沢 つぐみ】今日ぐらいはツグらずに

 曇天の空は暗い。この外気はややもすれば重たい雪が降っていてもおかしくはない。現にガラス越しに見える路上は色が変わっているように見えるし、さらに目を凝らせば、雨粒か小雪か分からないような何かが降っているらしい。

 私が今いる家、もとい珈琲店の店内は外の寒さを忘れそうになるほど温かい。暖房が効いているから当たり前なのだけど、住み慣れた場所の安心感なんかが私を包んでいるようだった。おまけにこんな天気でお客さんが来ることもないし、実質的に貸し切りと言っても過言ではない。目の前のテーブルに積み上がった、小難しい表や整った文章で一杯のプリントの山を除けば、概ねいつも通りの景色だった。

 

「にしても……。本当にお客さん来ないんだな」

 

 後はそう、テーブルを挟んで向かい側に、プリントの麓の隙に勉強用具を並べ、難しそうな紙と睨めっこをする恋人の存在ぐらいだろうか。二人でこうして過ごすことはたまに見る光景ではあっても、こうもうちの店内で完全に二人きりというのはまず初めてことだろう。そして私たちの間を埋め尽くす紙の束が更なる異様を醸し出しているから、余計だろうか。

 

「天気も悪いし、時間も時間だもん」

 

「ま、そろそろ閉店時間になるからな」

 

 丸一日、分厚い雲が陽光を完全に遮っていたせいで分かりにくいけど、外はもうじき夜闇に包まれる頃だった。

 結局ほとんどお客さんも来ないで、今も店内に残っているのは家の手伝い中であるはずの私と、勉強ついでに賑やかしに来た彼だけ。お父さんとかも裏の方で休んでるから、店内には小さくなったBGMが流れるぐらいで、私たちの談笑の声が響くばかりだった。

 その上、私は生徒会関連の大量のプリントにすっかり気を取られている。彼は彼で学生に与えられた休暇中の責務に追われているから大した余裕もないらしい。結果として、黙々と作業に励むカップルだけがそう狭くはない店内にいるなんていう空間が生まれていた。

 今の時間を考えても、一時間ぐらいは少なくともこうしてるはずだ。最初の方こそいたお客さんも少しお茶をして帰ってしまって、接客ですることもなくなった私はずっとこの紙束と格闘している。それで集中力が切れたから、たまに外に目を向けてぼんやりと眺める。それを見た彼も、小休止にとシャーペンを持つ手を止めるなんていうわけだ。

 

「うーん。もうお父さんにお店閉めてもいいか聞いてこようかなぁ」

 

「そんなに緩くてもいいんだ」

 

「チェーン店っていうわけでもないしね。ラストオーダーまでも後二、三分だから、もう閉めちゃおうかな」

 

 席についた時からまるで変わらない机上の景色に少し大きめのため息を溢しながら立ち上がる。立ってみると、改めて店内にはまるで人の姿がないことがすぐに分かった。

 そして、ほんの少しだけ入り口のドアを開けて、『Open』の札を掛け替える。ドアを開けた瞬間に外気が一気に部屋に吹き込んできたみたいで、思わずくしゃみが出そうだった。寒暖差はすごいらしい。このまま外に出たら寒暖差だけで風邪をひきそうだった。

 

「外もうかなり寒いね」

 

「年も明けて、って考えたらすっかり冬本番だよな。本当嫌になる」

 

「冬は嫌いだっけ?」

 

「寒すぎ。朝なんて布団から出たくないぐらいだし」

 

「それは、そうかも」

 

 朝が特別弱いというわけではないけど、この季節は確かに布団から出るのが億劫だ。布団の中の空気は自分の体温もあってすっかり温められてて、なのに部屋の空気は外なのかと間違うぐらいの寒さだ。それは冬を嫌いになっても仕方がないのかもしれない。

 

「あーあ。休みが終わったらまたクソ寒いのに布団から這い出る生活が始まるのかぁ。休み終わって欲しくないなぁ」

 

「休みが終わって欲しくないのはそれだけじゃないでしょ?」

 

「ん? あぁ……。もちろんこの大量の宿題もやらなくちゃいけないからってのもあるよ」

 

「もう……やらなきゃ、めっ、だよ?」

 

「つぐに怒られるなら……。それもまた一興」

 

「へ、変なこと言ってないで! ちゃんとやるよね?」

 

 訳の分からない彼の言い草に形容しがたい恥ずかしさを覚えて、怒りを露わにしてみた。生憎、彼にそこまで響いているわけではないらしく、軽くあしらわれるし、おまけに宿題に集中するというわけでもないらしい。こんな様子で提出日までに本当に彼の宿題は終わるのだろうか。

 彼が宿題をやらずにいたって困るのは私ではないけど、彼が困ることになるのなら、きっと無理にでもやってもらったほうが彼のためだ。どうやら私がその宿題を彼が終わらせるかどうかも見なければいけないようだ。

 

「ま、つぐの抱えてるやつよりは宿題の方が絶対に楽だろうし。言われなくてもちゃんと期限までにはやるよ」

 

「本当かなぁ……」

 

「なんか。つぐ、まるで俺の母さんみたいだな」

 

「……へ? お母さん?」

 

「あ、いや。なんでもない」

 

 そんなに私、歳取ってるのかなぁ、なんて不安になるけどあんまり気にしたって仕方がないような気もする。多分そういう意図で言ったわけでもないだろうし、たまにあるデリカシーに欠けた発言だとかそういう類いだと思って見ないフリをするのが吉だ。

 また一段と大きなため息を生温かい店内に追い出して、右手で摘んだプリントに目を通す。プリントでまとめられた、直近の生徒会が関わる学校行事の羅列を見ると昨年も感じた、瞬く間に時間が過ぎていく感覚を思い出した。

 

「それ、生徒会のやつだよな?」

 

「うん。三月の卒業式だとか、引き継ぎ資料だとか」

 

 このペーパーレスの時代でもお構いなしに紙で渡された書類には、生徒会として知っておくべき事項が山のように書かれている。年度末が近づいてきた頃というのは、えてして忙しくなるものだけど、それにしても相当な量だ。普段学校で何かをする時は学校に据え付けてあるパソコンで作業をすることも多いから、紙媒体が多く見えるのも余計かもしれない。

 

「しかもそれ、この冬休みっていう期間中につぐが持ってるってところがまた」

 

「え? どういうこと?」

 

「いまつぐが持ってる紙の束って、つまり持ち帰りってことだよな? 年明け前に」

 

「うん。最後の授業の日に生徒会室に先生から呼ばれて手渡されたから」

 

「いやぁ。巷で噂のブラックだよ、その生徒会。ブラック生徒会」

 

「ブラック……。そうかなぁ」

 

 やらなきゃいけないことではあるから、手間なのは間違いない。学校での作業時間で終わらせられなかった自分の落ち度ではあるからブラックの一言で片付けるのも違うとは思うのだけど。ただまぁ、量が多いと言われればその通りすぎて、言い返す気力すら湧かない。

 

「冬休みの期間に書類持って帰らせて、淡々と処理させるのは十分ブラックだって」

 

「まぁ、時間はしっかり取られちゃってるもんね」

 

「本当に宿題とかやる時間なさそう」

 

「私はもう全部終わってるよ?」

 

「え……?」

 

 彼の中では私は未だに宿題が終わっていない状態だったらしい。でも、ここまで余裕を見せていることから分かるようにとっくのとうに冬休みの課題は終わっている。彼は落胆の表情を浮かべながら力なく机の上に突っ伏した。机の上の書類の山と彼の宿題の一部が音を立てて潰された。

 

「ってことは、つぐは冬休みは……もう生徒会の他は何もすることないってこと?」

 

「そうだなぁ。あっ、でもAfterglowの練習とか。あっ、商店街の新年のイベントでやることも確か……」

 

「……ん。ま、それもそうだよな」

 

 宿題を終わらせるスピードの格差に絶望していた彼がゆらゆらと体を起こす。でも、その表情を見るとなんだか思うところが色々とあるようで、まじまじと私の方を見つめたかと思えば、眼下に広がる乱雑な紙の散らかりを眺めていたりしている。何を言うでもなく単に押し黙っているようだけど、間違いなく私に何かしら言いたいことがあるというのは違いなさそうだった。

 丁度その時、カウンターの奥の方からお父さんの声が聞こえてきた。今日のところは店を閉めるということらしく、閉店とすぐに分かるように店のドアのプレートを付け替えてこいというお達しだった。さっき替えたからもう関係ないといえば関係ないのだけど、なんだか無言の空間を静かに切り裂いてくれたみたいで、心の中でありがとうとだけ呟いておいた。

 

「今日はどうする? もう少しだけ勉強する?」

 

「店閉めるんだろ? だったら帰ろうと思うけど」

 

 彼は座席の脇に置いていた鞄を持ち上げて、膝の上に置いた。出した筆記用具なんかを筆箱にしまって帰り支度を始めようとしていたものだから慌てて口を挟む。

 

「気にしなくてもいいよ? あとは少しだけお店の中を掃除したりするだけだから」

 

「そう? ならまぁ」

 

 それはもう少しここにいても大丈夫、あるいはもう少しゆっくりしていって欲しいという意思表示じみたものだけど、彼はそれを推し量ったらしい。手早く筆記具を回収しようとしていた手を止めて、机に肘をついた。それを見て安心した私は静かに立ち上がり、キッチンの方に一旦戻ることにした。

 店閉めとは言っても、大変な作業がそれほどあるというわけではない。キッチンの方の片付けはお父さんがやってくれているし、精々テーブルや床の清掃だとか、私が担当するのはそれぐらいだ。億劫なのは、この時期だと水道水が凍っているかのように冷たくて、それにびくびくしながら触ることぐらい。

 除菌スプレーと布巾を手に持ち、店の中に帰ってきた私は、勉強に勤しむ彼を横目に、片っ端からテーブルを拭き始める。中にはお客さんが一度も座っていない座席もあるから、パンくずの一つや水滴の一つすらついてないテーブルまであった。今日なんかは早々に接客を終えて、彼と二人で作業に励んでいたことを考えたらそれもそうかと納得できるけど。

 時々チラチラと彼のいる座席の方を振り返ってみたけど、何か集中しているらしく、雑談とかをするわけでもなく淡々と清掃するだけだった。まぁ本気になって宿題に取り組んでいると考えたらそれを邪魔をするというのは忍びないし、何よりいけないと思う。そうやって気を遣っていたせいか、いつもよりも早く粗方の掃除を終えて、残すは彼が未だ座っている座席だけとなった。

 

「お待たせ。ちょっとだけここの机の上も拭くね?」

 

「ん、りょーかい。ちょっとだけ待ってな」

 

「って、私の生徒会のプリント?」

 

 テーブルの下に帰ってきた私が目撃したのは、私がぼんやりと睨めっこを続けていた生徒会のプリントを彼が穴が空きそうなぐらいじっくり読んでいる姿だった。てっきり彼は自分の宿題に追われて手一杯だとばかり思っていたのだけど、私が掃除している間にあれだけ集中していたのはこれを読むことだったらしい。

 

「だな。勝手に読んで大丈夫なのかとか、全然分からなかったけど」

 

「個人情報とかはないから大丈夫だと思うよ? でも、そんなの読んでも何も面白くないよね?」

 

「いーや。つぐが普段こんな面倒そうなことやってるのかって考えたら、俺にとっては面白いよ」

 

 面倒そうだという割には、これを読むのは面白いというのはちょっと変な感じはする。一応言っておくと、大半の人は生徒会の仕事は面倒くさそうなんて思うかもしれないけど、私にとってはやり甲斐もあるし楽しい。作業量が増えるし、拘束時間が増えてしまうのは確かに厄介ではあるけど、それにも増して楽しいから続けられている側面もある。

 彼は若干名残惜しそうに、まだ読んでいる途中だとばかりにプリントを持ちながらゆっくりと立ち上がり、空いた左手で自分の勉強に使っていた冊子を閉じて、小脇に抱えた。

 

「じゃあちょっとだけ失礼して、と」

 

 多分ここら辺のプリントはしっかり整理してから片付けないと、次に見るときに大変になるだろうけど、わざわざ立ってくれた彼を待たせ続けるわけにもいかず、手当たり次第重ねたプリントをどけて、サッとだけ拭いた。私の手の動きに合わせて水滴の残滓が残っているから、乾いた布でもう一度拭く。

 この机自体は私たちしか使っていないから、この後も使うのならあまり綺麗に拭き過ぎても二度手間かと思ったので粗方拭き終えると、掃除道具の類は片付けることにした。彼がまた座ったのだけ確認して、キッチンの裏の方にしまう。

 

「お待たせ。続きしよっか」

 

「本当にこの場所借りていいのか? 片付け終わっちゃったのに居座るのもあれだし、帰るタイミングも見失っちゃいそうだけど」

 

「うーん。それもそうだよね……」

 

 仮にも恋人同士が二人でいる、所謂デートみたいな状況で、こんな淡々とした時間を過ごすだけなのは味気ない。だから出来ることならもう少し二人で何かするなんてことがあれば良いのだけど、別段することが思いつくというわけではない。この暗くなってしまう時間から外に遊びに行くというのも考えものだ。

 

「えっと。それだったら私の部屋……来る?」

 

 出した結論は私の部屋に呼ぶという、自分の中では少し攻めた提案だった。二人の恋人が片方の部屋で過ごすというのは少々破廉恥な展開も連想してしまうから、自覚している通りの奥手である私の口からこの提案が出たのは、ある意味では奇跡的かもしれない。自分から言い出しておきながら、恥ずかしさもあるという複雑な感情を抑え込みながら、彼の顔をチラリと窺うことにした。

 

「あれ、いいの?」

 

「うん……。その、ちょっと恥ずかしいけど」

 

 それだけじゃなくて、単に部屋を見られるというのも少し恥ずかしい。いつ人に見られても大丈夫な程度には部屋は綺麗にしているつもりだけど、彼からすればもしかしたら私の部屋が汚いっていう風に思われてしまうかもしれない。何より自分の部屋なのだから生活感だとかがモロに出てしまうし。

 そんなネックな部分を考え出すと、ますます数秒前の自分の発言を呪いたくなってしまう。どうしてそんな恥ずかしい発言してしまったのか、出来ることなら取り消したいぐらい。でも、取り消したら取り消したで彼からなんて思われるかも不安だ。

 

「つぐが良いなら。俺は全然」

 

「えっ、ほ、ほんと? 部屋あんまり片付いてないかもしれないけど」

 

「よし、じゃあいっそのこと、一緒に掃除しようか」

 

「そ、それはダメ! 本当に恥ずかしいから!」

 

 見られたら困るようなものがあるわけではないけど、何かしら恥ずかしいものが転がっている可能性はある。それだけは阻止しなければ。

 兎にも角にも、彼は意外にも私の部屋に来るのは乗り気らしく、意気揚々と机の上のものを片付け始めた。それを見た私も自分の出したプリントの束を、とりあえずすぐに持ち運べるぐらいには片付けた。

 彼が荷物を全部鞄にしまい込んだのを確認して、私は奥の家の方へと案内する。廊下を抜けて、自分の部屋のドアの前に着いた私は大きく深呼吸をした。

 

「どうかした?」

 

「……すぅ。一応ちょっとだけここで待ってて? 部屋の中が大丈夫かだけ見たいから」

 

「オッケー。まぁ、つぐの部屋が汚かったりしても一緒に掃除するだけだし全然」

 

「汚くはないよ! ……多分」

 

 彼には見えないようにして、そっとドアを開ける。よし、床の上にプリントがばら撒かれてたり、ゴミがそのまま放置されているなんて愚かしい真似は一切なかった。過去の自分はものすごく優秀みたいだ。胸を撫で下ろした私は彼を手でこまねいて、部屋に入れる。

 

「……どうぞ?」

 

「お邪魔します。おお……」

 

「ちょ、ちょっと恥ずかしいからそんなにじっくりは見ないで欲しいかな?」

 

 部屋に入ってすぐに部屋中を見渡す彼。流石にそんなことをされたら恥ずかしいこと極まりないので、無理やり彼の背中を押して奥の方へと追いやる。クッションを一個持ってきて、ここに座るように言うと、彼の悪ノリも珍しく発動することなく、そっとその場に腰を下ろしていた。

 

「宿題しないと冬休み明けたら大変でしょ? 頑張ってやろう?」

 

 ローテーブルの上に休み中に片付けなければいけないプリントだけをぱっと抜き出して広げる。もちろん彼の前にはスペースを作って、暗に早く勉強道具を広げて、勉強を始めようというメッセージも伝えながら。

 

「それはまぁ、そうなんだけど。やらなきゃいけない分は結構終わったんだよな」

 

「えっ?」

 

 彼がさっきまで開いていたテキストらしいものを見せてくれたものだから、私はその見開きのページを見ることにした。パラパラとまくっていくと、本当に彼が言うみたいに、粗方のページが既に問題を解き終わった後らしい。今日、彼がうちの店に来たばかりの時のページ数から考えると、終わっていてもおかしくはない範疇だけれど、それにしても想像以上だった。

 

「えっと……いつのまに」

 

「ま、店の方で進めてる間に結構進捗を生めたのもあったからな。まだ全部終わった訳じゃないけど、この分だと連休の間にどうせ終わるから」

 

 彼は私の手元からテキストをさっと回収すると、すぐに閉じて脇に置く。それで私が机の上に広げていた紙をこれ見よがしに一枚拾い上げると。

 

「手伝うよ。つぐのやること」

 

「えっ、ええっ?!」

 

 私が驚くのを意にも介さず、それまで向かい側に座っていた彼が私のすぐ隣に座って、私のファイルから順番が乱れ切ったプリント類を取り出した。正直、ここまで来ると私の驚きは宿題がすぐに終わったことだとか、そういうのはどうでも良くなっていて、すぐにでも触れられるような距離に彼がいることの方にばかり意識が向いていた。

 まぁ無理もない。恋人だ云々と言いながら、カップルらしい経験をいくつも踏んできたかと問われればそうではない。彼の体に触れることでさえ、控えめに手を繋いで歩く時だとか、それぐらいだ。キスは愚か、ハグすらちゃんとしたことがない。だからこそ、彼とこんなにも至近距離で、況してや私の部屋という完全にプライベートな空間でそんな状況に陥ったことというのは、私にとってはキャパオーバーしてもおかしくない事態だったのだ。

 

「えっ、いやっ、私のすることって」

 

「ま、力になれるか分かんないけど。取り敢えずプリント類の整理はしなきゃだよな。さっきぐちゃぐちゃになっちゃったし」

 

「う、うんっ」

 

 どうしよう。変に声が上擦ったりはしていないだろうか。あまりに挙動不審だったら、変に意識をしていることを疑われたりしてしまうかもしれない。必死に緊張、もとい興奮する体と心を鎮めて、平常心を保つように心がけた。

 自分のメンタルを保つのに必死な私とは裏腹に、彼は黙々とプリントの隅や表題を見て、机一杯に広げて順番を整理してくれている。順番もぐちゃぐちゃになってしまったプリント群の中には、卒業式のことやら、生徒会や各部活の予算案に関する資料やら、生徒会業務の引き継ぎに関するプリントやら、多種多様なものが紛れ込んでしまっている。それはまさに混沌と表現するのが正しい。

 

「こんなにあって、一人でどうにかできるものじゃないよな」

 

「そ、それは、そうかも?」

 

「多すぎて何があったか覚え切れないなこれ」

 

 そう言って、事柄ごとにプリントを分けてくれている彼の手に思わず目がいってしまった。ふと気を抜いてしまえば、すっとそこに手を伸ばして、思わず重ねてしまいたくなるような手。そういえば、寒い日に外に出たりする時ぐらいはこうやって手を重ねて、手を繋いで歩くことも多い。

 そこでハッとして、自分のやることをすっかり彼に任せきりになっているのに気がついた。私は彼からファイルを譲り受けようと手を伸ばすけど、すぐさま気付いた彼が手で私を静止させる。

 

「疲れてるでしょ? つぐはちょっとだけでも休憩してて」

 

「う、うん」

 

 彼は多分独り言なのか、種類がやたら多いだの、これとこれは殆どおんなじ内容だの、愚痴に似た何かをこぼしながらプリントの整理をしてくれていた。

 彼の言葉に誘導されるかのように、机の上に広がったプリントを見ると、本当にこんな量の作業を自分で捌いていたのかとビックリする。当然、既に終わった分と、まだこれから手をつけなければいけない部分も混在しているから、余計に多くは見えてしまうのだけど、総じてこれを全て受け持っていたと考えると、少しゾッとする。

 数分もしないうちに分別が終わったらしく、私の名前を呼ぶ。少し気が抜けて、ぼーっとしていた私は途端に現実に引き戻されたかのように、視界がはっきりとする錯覚に陥った。

 

「にしても、この量は本当にヤバいな。後、商店街の……なんだっけ? 新年の何かって言ってたやつ」

 

「あっ、うん。企画書とかがあったから持ってくるね?」

 

「待って」

 

 そして、立ち上がろうと脚に力を込めて中腰になった瞬間、バランスを取ろうとしていた私の手首が掴まれた。間違いなく彼の手なのだが、まさか掴まれるとは思っていなかった私はバランスを崩して、前のめりに、つまり彼が掴んだ手にまるで引かれるように体勢を崩した。

 

「えっ、わっ、あ……」

 

「あっごめっ、ちょ」

 

 よろけるようにして私は倒れそうになって目を瞑った。なんだか急に自分の体があったかくなったような気がして、恐る恐る私は目を開いた。

 部屋の明かりは私の視界の端から消えたように、僅かに暗い。

 立ち上がろうと前屈み気味だった私の体は今やすっかり床と平行になっている。

 バランスを取るために前に出していた手は僅かな温もりとともに、私の視界の両サイドで、床に掌を突き立てていた。

 でも体重を腕で支えているわけでもなく、私の体は少し柔らかく、少し大きな、何かに乗っかるように支えられている。

 何よりも強烈なのは、想いを寄せる彼の顔は、私が僅かにでも動けば、すぐに触れてしまうようなほど、すぐ近くにあったこと。

 最初こそあまり状況が掴めなかった私も、周りの様子が明らかになるにつれて、自分がどんな体勢でいるのかということに気がついた。

 

「あ……」

 

「ごめんつぐ。まさか倒れるとは。痛くなかった?」

 

「うん……。大、丈夫」

 

 私はそのまま、頽れるように彼に体重を預ける。意図せず抱きつくような姿勢にはなっているのに、どういうわけか体は動かず、むしろ動かすのを体が拒んでいるかのようで、なんとも言えない不思議な感覚だった。

 何分経ったか分からないけど、何も喋らない彼の姿を見て、私も少しずつ冷静な思考を取り戻した。やがてかなり破廉恥な体勢だと自覚して、ゆっくり体を起こす。

 

「ごめんね? 重くなかった?」

 

「まさか。全然。軽すぎて心配になるぐらい」

 

 私は横に体をどかして、起きあがろうとしたのだけど、やっぱり彼は私の手首を掴んだまま立たせないつもりらしい。

 

「えっと、商店街の紙のやつ……取りに行けないよ?」

 

「取りに行かなくてもいいよ」

 

「でも」

 

「いいから。ちょっとだけゆっくりしよう」

 

 ゆっくりしようと言われて、流されるままに頷いたのは良いものの、どうすればいいのかよく分からなかった。体を起こした彼が壁を背にもたれかかると、こっちにおいでと言わんばかりに、彼の横の床をぽんぽんと叩いていた。

 誘導されたみたいに私は彼の横に腰を下ろす。距離はさっき倒れた時と同じくらい、いや、少しマシなぐらいには近いけど、いつもなら緊張して硬直してしまいそうな距離だ。まるで二人きりの自分の部屋が私の背中を押しているように、不思議と何も緊張はしていなかった。

 

「ごめんね、つぐを転ばしちゃって」

 

「ううん。私もその、変に力を抜いちゃったから」

 

 こうして肩を隣同士に並べていると、彼の方が身長が高い分、肩の位置も少し高いのがよく分かった。私がもしも頭を横に向けたら、丁度彼の肩にピッタリ乗るぐらいの高さの違いだった。そんな考えが頭の中に思い浮かんだ瞬間、ビックリするぐらい自然な流れで、私は彼の肩に頭を乗せた。ここまで至近距離で体を寄せ合ったことが今まで殆どなかったのが自分でも訳がわからないぐらいに、自然とそうなっていた。

 

「別につぐを転ばせようとしたわけじゃなくて」

 

「もちろん、知ってるよ? でも、どうして手を掴んだの?」

 

「……ちょっとぐらい、ツグってない時も必要かなって思ってさ」

 

「ツグってる?」

 

 よく、私がてんやわんや彼方此方を駆け巡っている時なんかに使われる、『ツグってる』。その意味は多分、頑張ってるだとか、有り体に言えばそういう感じだと理解している。

 

「生徒会の仕事とか、それ以外にも色々、ね。つぐが抱え込みすぎなんじゃないかと思って」

 

「……そっか」

 

 自分ではあまり意識したことはない。辛いと思ったことはあまりないし、体調を崩すことはたまにあっても、今は別にそう体調が悪い訳でもない。でもどうやら、そういうことではないらしい。

 

「心配してくれたんだよね。ありがとう」

 

「それは、その」

 

「ふふっ」

 

 どうやら彼なりの優しさだとかそういうことらしい。きっと私は自分の頑張りという綺麗な部分で覆い隠して、誰かに心配をかけているということに見ないフリをしていたらしい。

 もう一度、私は力を抜いた。彼の肩は何か重荷が降りたみたいで、枕のように私を受け止めていた。

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