ガールズバンドたちのBirthday   作:敷き布団

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【レイヤ】君の歌が聴きたくて

「一緒に歌おうよ。私と、ね」

 

 かつて、自分自身が歌を嫌いになっていた頃の幼い自分。それまで音楽と触れる世界のどれもが色鮮やかだったはずのスクールが、苦痛に満ちた監獄に様変わりしてしまった、囚人の頃の自分の姿が、頭の片隅にいた。

 誰もいない児童公園で、周りからの心ない言葉に傷つき、塞ぎ込んで、私は殻に籠るように三角座りをしていただろうか。明かりのない世界に閉じこもって、目の前の全てから目を背けようとしていただろうか。

 やがて、一筋の光が差した。その光の中にいたのは、不思議な言葉と、優しい声色で、私に声をかけてくれた大切な幼馴染となる人の姿だった。

 今、私は丁度、あの時の花ちゃんがいた地面に立っている。そして、いつかの自分と同じような、全てから目を背けて逃げ出そうとしている大切な人に、手を差し伸べているのだ。

 

「大丈夫。私しか聴いてないよ」

 

 眼下に座り込んだ彼が被る、灰色のニットに咲いた不香の花は、どこまでも白い色をしていた。あまりに儚くも、数える間もなく散ってしまうその花は、たとえ散ってしまっても、またすぐに咲き揃う。それは、まるで。

 

 

 

 

 

 

 とある都電の駅前。人が疎らに生活を営む街角。地面なんか、冬の寒さを際立たせるような、人工的な舗装路のせいで、足元から身体中に冷えが伝わってくるほどだ。

 けれど、私は幼馴染に誘われて、そんな寒空の下で暢気なことに路上ライブを開いている。青いギターを携えた花ちゃんの隣で、ベースを弾きながら歌う私。幼い頃に夢を見た、いいや、大きくなって花ちゃんと再開してからも、何度も何度も夢を見ていた、花ちゃんとの擬似ライブに胸が躍る。どこか興奮を隠せない自分がいたけど、花ちゃんには特に伝わっている様子もなさそうだった。

 曲が終わり、安堵の息をついた私は顔を上げた。思いの外その息は大きかったのか、視界が一瞬、白い息で覆われてしまう。けれど、そんな息の曇りも晴れると、私たちのパフォーマンスを楽しんでくれた聴衆の温かな拍手が待っていた。

 ライブなんかと比べると圧倒的に少ない聴衆の数。僅かな人集りしか出来ていないのは才能がどうとかじゃなくて、そもそもの人通りの人数のせいだろう。そんな少ないお客さんでも、大きな声でお礼を言う花ちゃんの姿に突き動かされるように、私は頭を深く下げた。

 演奏が終わったことを悟った見物人は散り散りに各々の生活に戻っていく。その背中を見送って、私は花ちゃんの方に視線を戻す。さっきまでファンサービス精神旺盛だった花ちゃんのことだから、最後まで手を振っているのかと思いきや、花ちゃんは少し気が抜けた表情のまま遠くの方を眺めているらしかった。

 

「花ちゃん、お疲れ様。どうかしたの?」

 

「あっ、レイ。見て、あそこ」

 

「あそこ?」

 

 花ちゃんが指を指したのは駅前の商店街のアーケードの入り口。その中でも、車が走れるような公道に面した角っこのお店の店頭の方だった。赤い看板に濃紺の文字で店名が書かれた、なんともいえないセンスの商店の軒先には、遠く離れたここからでもよく見えるほどの大きさのウサギのモニュメントが飾られていた。

 

「あのウサギが気になって全然集中出来なかったよ」

 

「あ……それで」

 

 花ちゃんが演奏に気を取られすぎていると思っていたのは私の勘違いらしい。ギターを弾いている間でさえウサギを自然と探してしまう花ちゃんらしさにほんの少しだけ面食らったけど、すぐにいつも通りだと思い直してしまう。慣れというのは怖いものだ。

 

「卯年だもんね、今年って。街のあちこちにウサギが飾ってあるよね」

 

「そういえばそうだった」

 

 いつもと全然変わりない花ちゃんの姿にどこか安心しながら、背後の柵に立て掛けておいたケースに歩み寄る。多分ここで弾き続けるのは全然出来るのだけど、きっと楽しすぎて本当に終わりが見えなさそうだ。名残惜しい気持ちを抑え込みながら、鼻歌を口ずさむ花ちゃんの顔色を窺った。

 

「この後、花ちゃんって用事とかあるかな?」

 

「夜はポピパのみんなとパーティーするんだ、有咲の家で。蔵を貸し切って新年会」

 

 蔵を貸し切り、というのも最早聴き慣れたもので、なんならポピパのみんなはライブ会場や練習場所として有咲ちゃんの蔵を使っているし、貸し切り状態というより所有して独占していると言っても良いだろう。というより有咲ちゃんに至っては自分の家の一部なわけだし。

 それはそうと花ちゃんをご飯にでも誘おうかと思ったけれど、花ちゃんはポピパのみんなとの約束があるらしい。内心ではいいな、なんて羨んではしまうけど、花ちゃんにだって私以外の友達がいて当然だし、むしろ同じバンドメンバーとしての絆だとか、私が知らない部分だっていっぱいあるはずだ。そこに踏み入れてしまってはいけないと思って、引いておくことにした。

 

「レイも来る? みんなきっと喜ぶよ」

 

「誘ってもらえるのは嬉しいけど、ポピパのみんなの集まりに私一人だけ参加するのも気が引けちゃうから、今日のところはやめておくね」

 

「そっかぁ。あ、それならRASのみんなも呼んじゃおう。もしかしてレイはRASのみんなと新年会?」

 

「あはは……。流石に新年会の予定が入ってたりはしないかなぁ」

 

 有咲ちゃんの家の蔵なら、ポピパとRASの十人が入ってもまだまだ余裕はありそうだけど、そういう問題ではないから潔く断っておこう。それにみんなも忙しいだろうし、急に呼ばれても行けるはずがないだろう。

 

「それじゃあ、帰るね。今日はありがとう、レイ」

 

「こちらこそ、花ちゃんとライブ出来て良かった。バイバイ」

 

 花ちゃんの背中は小さくなっていく。もっと早めにこちらから誘っておけば良かったかな、なんて少しだけ気を落としながら帰り支度をすることにした。地面に置いていた荷物を持ち上げて、くるりと反転して、花ちゃんとは反対方向に帰ろうと歩き始めようとした。丁度その時だった。

 

「良いライブだったな、レイヤ」

 

「うわっ」

 

 急に声をかけられて、思わずのけぞりそうになる。けれど、私の名前を呼ばれて声をかけられた時点で知り合いであることは確定しているし、何よりその声には聞き覚えがあった。聞き覚えがあるどころか、むしろ親しく接する仲であるから、聞き慣れていて当然なのだけど。

 

「急に話しかけられたからビックリしたよ」

 

「ごめんごめん。驚かすつもりはなかったんだよ」

 

 私と同じように音楽で生きていることを象徴するように、背中にはギターが入っているであろう、黒いケースを背負っている。冬の季節を象徴するような薄灰色のニット帽を目深に被って、季節柄つけざるを得ないマスクで顔を覆い隠して、目元辺りしか顔が見えない姿も、いつも通り。けれど、目尻にひっそりと佇む黒子で、誰かということはすぐわかる。

 

「今日も花ちゃんとライブしてたんだ」

 

「うん。今日も、って言ってもそんなに頻繁にしてるわけじゃないけどね」

 

 彼は持つよ、と小さく声を発しながら、私のバッグを指さした。そこまで重いというわけじゃないけど、ここは彼の好意に甘えておくことにした。どちらかと言えばベースの方が重量感もあるのだけど、そこは音楽を嗜む彼のリスペクトとして受け取っておくべきだろう。

 

「もしかして私たちのライブ観てた?」

 

「途中からね、バッチリと。バレちゃったらあれだろうから少し離れて観てはいたけど」

 

「そっか」

 

 駅の方とは反対側、緑の庇に書かれた薬局の文字。彼はどうやらそっちの方からずっと私たちのライブを見ていたらしい。私たちが思い思いにライブしていたところからは少し距離があるけど、この時間帯は比較的静かなこともあって、難なく聴き入ってくれていたらしい。

 

「どうだった? 同じミュージシャン目線で」

 

「こんな売れてないど素人の目線で物申しても大丈夫なのか?」

 

「売れてるか売れてないかとか、ど素人かベテランかなんて気にしてないよ。それに売れてないなんて言ってたけど、ちゃんとこの間のライブのチケット、すぐ売り切ってたよね?」

 

「……その節はどうもお世話になりました」

 

 こうも卑下をする割には、彼はいつも自信満々で振る舞っている。多分彼がこんなに萎縮してしまっているのは、この間の彼のライブで私がチケットを一枚買ったからだろうか。それ以外にもRAISE A SUILENのボーカリストと比べたらちっぽけだ、なんてのは彼の口癖と化してしまっているけど、過剰なぐらいに謙遜する時の口実として使っているらしい。

 でも、私にとって重要なのは他でもない彼がどう思ったかという部分であって、彼がどういう人間であるかなんてのはさして重要ではない。そもそも彼がどんな人柄で、どんな立場で、なんてのは付き合いがそこそこにもなれば知っていて当然なのだから。

 

「それで、率直にどう感じた? もちろん私だけじゃなくて花ちゃんに対して思ったことでも良いけど」

 

「花ちゃんのギターに関して俺から言うことは何もないけどな」

 

「最高だったってこと?」

 

「というより面識も大してないのに、評論家みたいにクソ辛口にも、ベタ褒めにも、する気は起きないってこと」

 

「面識って言っても、前に話してなかったっけ?」

 

「レイヤがいた時に一、二回だけ、な。とにかく不思議な子すぎて掴みどころがなかったけど」

 

 彼と花ちゃんを何度か引き合わせたこともあった。けど、彼からすれば花ちゃんというのはよく分からない人、という感じだったらしい。花ちゃんの方も男の人、としか認識していなかったからそもそもの相性の問題かもしれないけど。

 もしかしたら、彼が今日私たちのライブ中に囲いに来なかったのも、そういう花ちゃんの存在を多少なりとも気にしてしまっていたからだとかかもしれない。堂々とした振る舞いを人前では見せてはいても、彼の本当の姿はかなりの人見知りだし、今だって花ちゃんとの会話になったら困る、なんてのを考えていそうな顔をしている。

 

「それで、花ちゃんのギターに関して、ってことは、私はどうだったの?」

 

「俺からレイヤにコメントするのも、それはそれで畏れ多いけど」

 

「そんなの気にするような仲でもないでしょ? 本当に思ったこと言ってくれたら良いだけだよ。テクニック的な話をしてくれても良いけど」

 

「そんな話出来るぐらいなら畏れ多いなんて言ってないって。それで、レイヤかぁ」

 

 彼は顎に手を当てうんうんと唸り出す。あまりに私に対するコメントを捻り出すことに四苦八苦していたのか、注意が散漫になったらしく、偶然足元のタイルが凸凹していたところに躓きかけた彼が大層驚いた表情で声を上げた。その光景があまりに滑稽でこっそりと笑っていると、拗ね気味の彼はプイと顔を背けた。

 

「ごめんてば、笑っちゃって」

 

「別に、怒ってないよ。ドジだし俺」

 

 三文芝居にも似た流れが、どことなく懐かしさを感じさせるように楽しくて、笑いが止まりそうにない。これ以上笑い続けたら彼が本当に拗ねてしまうかもしれないから、どうにかお腹に力を込めて笑わないようにする。

 

「……で、レイヤに対してのコメントか。そうだな」

 

「ん、ん。どうだった?」

 

 隠しきれない引き攣りを手で覆い隠し、彼の顔を覗き込む。隣を歩く彼と急に目線が合った。僅かに下に目を向けた彼は至って真剣な表情をしている。

 

「……優しいよね。レイヤの声って」

 

「……びっくりした。RASのこと引き摺ってるのかと思って」

 

「そりゃ、どのバンドで歌うかとかで変わるかもしれないけど」

 

 突然立ち止まった彼は一度空を見上げて、商店街のアーケードに吊るされた垂れ幕をぼんやりと見上げているらしかった。彼なりに考えをまとめているらしく、言葉を待つために私も立ち止まろうとした瞬間。

 

「ん、でも俺はやっぱり好きだな。ごめんな、浅い感想で」

 

「え、ちょっと」

 

 何の前兆もない、待望の言葉に心臓が飛び跳ねる。何の気無しにこういう言葉を口にするのだから、罪作りと言えばその通りだろう。でも、これだけの付き合いがあれば分かるけど、彼は間違いなく本心でそう言っているし、そこに打算的な何かが隠れているわけでも、無用すぎる気遣いに塗れているわけでもない。だからこそ私はそういう言葉を待っていたのだ。

 ふと、そんな良くも悪くも正直すぎる彼の顔を覗き込んでいたことへの恥ずかしさが増して、慌てて直立姿勢に戻した。彼は構わず帰路を歩み始めようとしたから、それに遅れないように追いかける。

 

「本当ならもっと、ここはこうした方が良い、みたいな具体的な感想というか、提案というか、アドバイスが出来たら良かったんだけど」

 

「いやいや、それだけで十分。というより」

 

「まぁ。率直に好きだなぁって、感じ?」

 

 それ以上褒めちぎるのは顔が熱くなってしまうから辞めて、なんて言おうとした瞬間にこれなものだから、柄にもなく私は彼を肘で小突く。彼は彼でそんなことされるとは思いもよらなかったのか、心配そうに、そして変なものでも見たように、目を大きく見開いて困惑している。

 

「えっと、あ。どこが好きかって言うと」

 

「ほんとそれ以上はダメだって」

 

「ええ?」

 

 何も分かっていない頓珍漢が話を続けようとするものだから慌てて切り上げさせた。

 

「でも感想ってレイヤから言い出して」

 

「十分すぎるぐらい貰ったから。そんなに歌の話したいなら、次は私が歌を聴いて感想をあげるから」

 

「俺の?」

 

「うん。だからストップ」

 

「うーん、そっか」

 

 納得がいかないという顔をしているけど、物申したいのはこっちなぐらいだ。人の気持ちを慮ろうとしている割にはこういうところには超が何個もつくほどに疎い。なんならまだ何個か文句を言ってもいいぐらいかと思ったけど、彼は途端に静かになってしまったものだから、そこで矛は収めることにした。

 でも、私の必死の懇願が相当効いたのか、それから数分ぐらい彼は一言も発さない。あまりに鈍い反応に、私がもう一度チラリと彼の様子を窺うと、彼はどうにもこうにも渋い表情をしている。ここまで真剣に、かつ渋い表情をしているのはあまり見たことがなかった。

 

「えっと、どうかした?」

 

「……いや、何でもないよ」

 

「何かあったでしょ?」

 

「うん」

 

 随分と潔い返答だった。正直なことはありがたいけど、どうやらそれが彼の顔が曇ってしまった原因らしくて、私はパンドラの箱を開けることに成功してしまったらしかった。

 

「俺の歌……。いつまで歌ってられるのかなって」

 

「え?」

 

 いつまで歌っていられるか。そんなのもっと歳を取って、声帯が役割を終えてしまうその時まで、それこそ、歌い続けられるならいつまでも、そんな風な答えがすぐに浮かんだから、私は安易にもそんな言葉を口にしようとした。けど、私が頭の中を整理している僅かな間に彼が残した言葉は、もっと重いものだった。

 

「出来ることならずっと歌いたいけど、いつか、そう遠くない頃にこのギターとも、別れなきゃいけない時が来るよなって」

 

「えっ……」

 

「親からも言われてるからな。早く音楽なんて辞めて、帰ってこい。なんて」

 

 彼の頭の中にあるもの、それはもっと重く、苦しい問題だった。人生そのものを決定づけてしまうもの。ギターとのお別れ、なんていうのも、単にギターが壊れてしまうだとか、そんなんじゃなくて、音楽の道を諦めざるを得ない、その岐路に立たされている。そういうことだった。

 

「ま、だから俺の言うことなんて、そんなに当てにしちゃダメだから、意見ならもっとまともな人に貰った方が良いぞ……ってことで、ここら辺で」

 

 話を勝手にまとめて終わってしまうようにして、彼は私の鞄を手渡してきた。そして、捨て台詞を言い残してこちらに背中を向ける。こちらに見せた縁の赤い手の甲は、サヨナラの合図だった。バイバイ、なんていう軽々しい手の振り方ではなく、何か固い決意をしているかのように動かない手の甲。まるで見たくもない現実を私に突きつけているみたいに。

 

「待ってよ」

 

「え?」

 

 私は考える間も無く、気がつけば彼の腕を掴んでいる。なんだか、今この機会を逃すと、彼が遠いどこかへ行ってしまうような、そんな気がしたから。何の根拠もないけど、そんな気がしたのだ。

 

「えっと、何かあったのか? レイヤ」

 

「ちょっと、話をしよう」

 

 私たちが立ち止まっていたのは、生活道路の重なる交差点。中央には十字の白い模様が印され、そんなど真ん中で話を続けるわけにもいかない。

 帰ろうとしていた彼を了承も取らずに引きずるようにして、近くの公園にまで連れていくことにした。彼の言葉の真意を、彼がどうするかを聞きたかったから。そして、もしも可能ならば。

 

「いきなりこんなところまで連れてきて、そんなにしたい話でもあったのか? はっ、まさか愛の告白」

 

「ちょっと、もっと真剣な話」

 

 彼はおちゃらけているようで、私の反応を見て、少し真剣な顔つきに戻った。彼のおふざけに付き合うのも楽しいし、なんだったら選択肢の一つとしては大いにアリなのだけど、今はそれどころではない。

 

「そういえば、上京して来たんだっけ」

 

「まぁね。そこはレイヤと一緒だよ」

 

「うん。それで、その、親御さんからはなんて?」

 

「ま、都会で無駄金ばら撒いて、時間を浪費するぐらいなら帰って家のこと手伝うか、定職に就け、ってね。まぁ至極真っ当なアレだよ」

 

 そういうと彼は懐からライターと煙草を取り出して、火をつける。公園内は多分禁煙なんだろうし、そもそも二十歳になってたっけ、なんて色んな疑問が噴き上がるけど、今はそんなことにも気を留める余裕はなかった。彼がため息のように吐き出した煙草の煙は、冬の白い吐息の何倍も重そうだった。

 

「売れてない自覚もあるし、厳しい時には仕送りもしてもらってる分、それに何も文句が言えるような立場じゃないけどな」

 

 彼が背中に背負っていたケースを下ろす動作は些か乱暴に見えた。外で溜まった鬱憤だとかの八つ当たりをするかのようにすら見えてしまう。普段は大事には扱っているだろうに、中のギターだって突然の衝撃に驚いたに違いない。

 

「でも、それって結構前から言われてたんだよね」

 

「まぁね。元は親の反対を振り切ってここまで出て来たわけだし。父親にはビンタもされたし、けどさ、最近思うことは増えたんだよ」

 

「増えた……?」

 

 彼の目はどこか遠い空を見つめている。それは煙が立ち上って消えていく空気の方だろうか、それとももっと遠い、遠い空のことを見上げているのだろうか。夕暮れ時を少し過ぎた空には星が所々出始めている。

 

「自分には才能も、努力し続けられる気概もない。そんな俺がこの先大成することなんてないってな」

 

「そんなこと、やってみなきゃ」

 

「分かんないよな。でもな、分かることは確かにあるんだよ。それこそレイヤの歌を聴いてても、自分とはここが違う、ここがレベチだ。逆立ちしても敵わない、なんて」

 

「私の歌で……?」

 

「……素直に褒められるような器のデカい男だったら良かったのに、ごめんな。レイヤが悪いわけじゃない。ただ、歌い続けるうちに、違う世界を見ちゃった俺が悪いんだから」

 

 別に、彼に嫌味のように言われたって私がどうか思うかなんてことはない。もちろん素直に褒め言葉として与えられた方が嬉しいけど、彼の心の中に私の歌が生きているならそれだけで私は満足できるほどだ。

 でも、まるで嫌いな食べ物を必死に拒む子どものように、歌そのものに恨み節をぶつけようとしている彼がそこにはいて、それは酷く悲しかった。

 

「違う世界って、どんな世界? これまで、音楽に夢を見て来た世界と、何が違うの?」

 

「……上京するまでは、本当に歌で頂点を取るなんて、恥ずかしげもなく大きなこと考えてたよ。自分が好きな歌で、何か出来たらいい、そんな簡単に考えてた」

 

 多くのミュージシャンがチャンスを求めて東京に集うように、きっと彼もそのうちの一人だった。でも、夢破れて、死んだような目をするには、あまりにも若すぎるような気がした。

 

「蓋を開けば、自分一人じゃ生活すら出来ないし、歌は生きるための手段に過ぎなかった。知り合い作って、必死に集めて、どうにかライブ開いて、少しだけネットでバズって、それでもギリギリ。親の言う通りだ。何で歌ってんだろうなって、歌うことすら嫌いになりそうなんだよ」

 

「そんな……」

 

 否定したかった。でもきっと、彼がそう考えるのも無理はなかった。前に家に押しかけた時には、まるで殺風景な部屋の様子。聞けば余裕もないのに家の中を充実させられる訳がないって言われて、ひどく納得した覚えがある。

 彼にとっては、夢を叶える術だとか、音楽の楽しさはとうに消えて、その日その日を生きるためとほぼ同じになってしまったらしかった。

 

「……だから。いつまで歌えるんだろうな。俺」

 

 そう呟いたまま、ベンチに深く腰掛けて、前屈みになった彼の背中は寂しかった。もう二度と歌わない、そう誓うかのように、口は横一文字に結ばれている。彼の手から離れたギターケースは力なく横たえられていた。

 私は彼にどんな言葉をかけるべきなのだろうか。歌を嫌いになってしまった彼の背中を押して、次のあるかもしれない未来に送り出すべきなのだろうか。あの交差点で、彼の背中を見送ったまま、どこか知らない世界で別々に生きていくべきだったのだろうか。否、それが嫌だったからこうして、彼の手を引っ張ってでもここまで来たはずだった。でも、答えは出なかった。

 

「ネットでエゴサなんてして、批判を見るのも慣れて来たぐらいだもんな」

 

 彼は無理やり笑い飛ばして、沈み込んだ空気を吹き飛ばそうとしていた。きっと私が塞ぎ込んだ表情をしているのを見てしまったからだろう。慌てて取り繕おうとしたけど、私を止めたのは彼自身だった。

 

「ま、俺にとっては歌は聴くぐらいが丁度良かったってこと」

 

「私は、聴きたいよ。君の歌」

 

「え?」

 

 いつのまにか私は彼の手を握っていた。寒空の下で握った彼の手はひどく震えている。それを証明するかのように、視界に白くて小さな雪がチラつきだした。

 

「好きなんだもん。聴きたいよ」

 

「……レイヤ?」

 

「一緒に歌おうよ。私と、ね」

 

 私は立ち上がっていて、彼の手を取っていた。灰色のニット帽を被った彼は、キョトンとしながら私の方をぼんやりと見つめていた。

 そこには、かつての幼い自分がいた。音楽が嫌いになってしまいそうなぐらい、全部から逃げ出そうとしていた臆病者の自分がいた。音楽すら嫌いになってしまいそうなぐらい弱い、自分がいた。

 あの時、私に声を掛けてくれた花ちゃんに小さくお礼を呟きながら、私は彼の手を強く握りしめていた。私が少し引き上げると、彼は釣られたように立ち上がる。力が抜けていたらしい彼の体が私と折り重なる。私が放っておけば倒れてしまいそうな彼の体を支える。細い彼の体を抱き止めながら、静かに呟いた。

 

「大丈夫。私しか聴いてないよ」

 

 二人だけのライブ。出演するのは君と私。観客は君と私の二人だけ。

 

「だから、私に聴かせて? 君の歌」

 

 そのステージにはギターも、ベースもない。ただ音楽を通じて出会った二人が口ずさむ幼い歌だけ。

 まるでそれがツアーライブの千秋楽のように、舞い散る花吹雪が銀花となって咲いていた。

 

 歌って楽しいんだよ。

 

 幼い頃から、今の今まで私は歌と一緒に生きてきた。きっと彼も、彼の小さい頃は知らないけど、私と同じで、歌が大好きだったんだろう。

 歌うことというのはもちろん楽しいことだけじゃない。苦しいことだって振り返れば何度もあった気がする。でも、楽しいんだ。

 駅前で私と花ちゃんのライブを見ていた彼は何を思っていたのだろうか。そして今、凍るような空気の中、身を寄せ合って口ずさむ彼は何を思っているだろうか。二人で繋ぐ手の甲の上には、すぐに溶けてしまいそうなほど小さな雪がしんしんと積もり始めた。冷たいね、冷たいな、なんて童心に帰ったように、二人で笑い合っていた。

 

 

 

「って、もうこんな時間じゃん」

 

 笑い疲れた私たちはベンチの上で静かな時を過ごしていた。ここぞとばかりに私は彼に思いっきり身を寄せていたのだけど、彼は何を言うでもない。この辺りはいつも通りらしいのだけど、そんな並大抵のことでは靡かない彼が時計を見て驚きの声を上げた。

 

「もう真っ暗だね」

 

「帰んないと。送ってくよ」

 

「私の家遠いよ? もしかしたら泊めてくれた方が風邪ひかなくて済むかも」

 

「確かに。レイヤって天才だな」

 

 鈍さで世界一を取れそうな彼の良心を悪用して、私はそんな提案をする。何も疑わない彼は、この先大丈夫だろうか。

 

「レイヤ」

 

「え?」

 

「……ありがとう」

 

「お互い様、だよ」

 

 不意に呟いた彼の声にドキリとした。さっきまで笑い声ばかりが脳に反芻していたのに、急に低くなったから余計だ。

 こんな冷たい空気の日には彼の声がよく通る。彼の歌が聴きたい。そんな気持ちを、私はずっと持ち続けるのだろう。何度も咲き続ける花に、無限の白い吐息に、想いを託して、同じ帰り道を歩いたのだった。

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