ガールズバンドたちのBirthday   作:敷き布団

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【倉田 ましろ】私を励ます一人の魔法

 モフモフのお布団。夜も朝も、太陽がなかなか姿を見せないこの頃には、部屋の中まですっかり冷え込んでいるものだから、その布団の中の生温かい空気に、私はどっぷり浸かり込んでいた。

 既に明かりを落として、部屋は暗い。一日の終わりを示している時計もその姿は見えず、体に朧気に残る疲労感と憂鬱さだけがこの世の終わりのような夜を教えてくれていた。

 身体中に残った疲労感は、今日のライブで頑張った証だろうか。Morfonicaというバンドでボーカルを務める私は、近場のライブハウスでの一仕事を終えて、振り返りという名のディナーを嗜み、ガッチガチに強張った筋肉を休ませるようにベッドに倒れ込んだのだ。

 

「はぁー……。もう嫌だ……」

 

 先に言っておきたいのだが、私は自己肯定感というものがとてつもなく低い。それは周囲の環境、通っている月ノ森女子学園の生徒の優秀さだとかに影響されているのもあるけど、やはり一番は生来の性格だ。損な性格だとは思っている。生まれ持ったものなのに、簡単に変えることは出来ないし、月ノ森に入り、バンドを始めて少し変わったかと思えば、今もこうして大きすぎるほどのため息をついている。人前では到底つくことのできないため息を、一人だけの空間でここぞとばかりに毛布に吹き付けている。

 そんな恐ろしく低い自己肯定感の権化たるため息をついて、脳裏をよぎるのはライブでの自分の姿だった。別撮りをしていた自分の映像を見れば、まあ及第点と言わずとも思い切りのよい歌い方ができている、ような気がする。だけど、ライブが終わり、一緒に同じ曲を作った仲間とああだこうだと話し合いうちに、自分のダメなところがこれでもかというほどにぽんぽんと出てくる。恐らく周囲が私を一方的に詰ったりだとか、罵倒したりだとかそういうことをしようとしているわけではないことは理解している。なのに、そんな評価の難しいスレスレの言葉を聞くだけで、どんどんと自分の自信というのは欠けていくものなのだ。

 メッセージアプリの方では、夜遅い時間に差し掛かっているというのに、通知がチラホラと音を立てている。いつも同じバンドを成すメンバーのやりとりが煩わしいと感じてしまう私はもしかするとクズなのかもしれない。私の名前がもしかしたら出ているのかもしれない、そう思っただけで心が痛む。文明的なブルーライトが酷く目に突き刺さっていた。

 部屋は静かになった。外の街灯から漏れて、窓を透き通る光だけがシェードランプのように部屋を照らす。私もそんな長いこと、辛い現実を見たくはなくて寝返りを打って目を閉じる。明日は学校もない、久しぶりの休日だ。課題だとか、やらなければいけないことはあるけど、何にも追われることのない静かな休日だ。現実逃避にはもってこいの時間か。

 

「寝よ……」

 

 うっすらと瞼を閉じる。周囲の僅かな明かりの照らす部屋の景色が見えなくなったことで、私はまたも、瞼の裏にステージライトを見ていた。力強く目を瞑れば瞑るほどにその光景はありありと思い出される。ベッドサイドに置いてあった、ふわふわのぬいぐるみを引っ掴んで、胸元で抱きしめた。行き場のない力がぬいぐるみに伝わっていくけれど、それで幾分か解れた気持ちのせいか、私は暫くして夢の世界に旅立っていた。

 

 

 

 目が覚めると、いつのまにか部屋には太陽の光が差し込んでいた。瞼の裏まで焼き尽くしてしまうような、冬には珍しい熱を持った陽光から身を隠すように寝返りを打って、部屋の中の方へと体の向きを変える。太陽光を浴び続けていたせいか、瞼の裏は何か人的な力を超えた何かによって血管が大きく拡張したのかと錯覚してしまうほどに赤い。絵の具の橙と黒と赤を全て同じ比率で混ぜて、パレットの上でぐちゃぐちゃにしたような色に、私はうめき声を上げた。

 私の苦悶の声に呼応するように、いつのまにか枕元に放り出していたぬいぐるみが床に転がり落ちる音が聞こえる。ぽすっ、という休日の昼を象徴するかのような気の抜けた音は私の目を覚醒させるにまでは至らない。むしろ、今日は何もしなければいけないこともないという、妙に表現の難しい謎の安心感を抱いて、私の心はもう一度心地よい快眠に向かおうとすらしていた。そこには眩しすぎるほどの光は一切なかったものだから、力の抜けた瞼が落ちれば、すぐにでも再度の眠りに就いてしまうことができた、はずだった。

 

「たく、起きたのかと思えば二度寝か。起きろましろ」

 

「ふぇ……」

 

 それまで穏やかに流れていた時を遮るかのようなシャッキリとした声がうっすらと聞こえる。特に何もなければ、朝を告げる小鳥の囀りか何かだと、気にも止めないままに意識を手放してしまいそうなものだったのに、そうは問屋がおろさないらしかった。

 それまで私の体を覆っていた、緩やかな眠気を誘っていた温い空気が、一瞬で入れ替わってしまった。体の上に覆い被さっていた布団やタオルケットの重みも一瞬で取り去られて、少しばかり軽くなってしまった体が、マットレスの反発によって浮き上がってしまうような錯覚すら感じる。

 何事かと慌てるより先に伸ばした手は、当初掴もうとしていた私から逃げようとする毛布を一寸も掠ることなく、空を切ったばかりか、不意に私の右手首に緩やかな拘束感が伝わってきた。どことなく柔くて心地よい感覚に負けてしまいそうになるが、感触だけでは一体全体、皆目見当もつかない存在の正体を知るためにも、私はぼんやりと重みで閉じていたはずの瞼を開いた。

 

「ほれ起きろ。朝だぞ、いや、なんならもうすぐ昼だぞ、昼」

 

「んん、え……?」

 

「だから、昼だって言ってるんだよ」

 

 まだ寝ぼけているに違いない私の耳はまともに機能せず、何らの言語も聞き取れそうにはなかった。聞いたとしても、それが何を表すかを理解するより先に頭から抜け落ちてしまうような脆弱な寝起きの記憶力と聴力には頼れそうにない。その代わり、それまで哀れな瞼の裏の景色を覗いていた瞳は、太陽の光に右半身が照らされて、影を半分に作った人型の何かを捉えた。

 

「え、うわ、え」

 

「人をそんなお化けか何かみたいに言うのはやめろ。口を慎め」

 

「え、え」

 

 私を襲ったのは困惑の感情だった。私が瞼をきっちりと閉じ切る前に予想していた光景とは百八十度違う周囲の様子に呆然とする。私は確か、数分前までは何の柵も、何のレンズも、誰の目もない空間で惰眠を貪りながら世の中の安泰に感謝して現実からかけ離れた空間にいるはずだったのに。惰眠を貪る暇も、世の中の動きに想いを馳せることもなく、限りなく現実に近い非現実への困惑で満ち満ちていたのだ。

 やがてまともに働いてくれるようになった私の思考回路が、直ちに体を起こすように全身に命令する。けれども、部屋に訪れた突然の冷ややかな空気に体は硬直してしまって、口をパカパカと開けながら状況を整理する以外に私が出来ることはなかった。

 そう、目の前に佇む彼が口にしたように、お化けにあったか、金縛りに遭遇してしまったか、狐に化かされたと考えるのは一番合点がいきそうなものなのだ。見たくもない現実は別の見たくない現実に、私はすっかり言葉を失ってしまっていた。

 

「なんで、なんでいるの?!」

 

 ステージでも滅多に出さない、いや、出したことすらないかもしれないシャウトに近い、寝起きの耳を痛めつけて劈くような声。奇しくも腹式呼吸をマスターしていなければ出てこないような厚い声は、私の寝起きの姿を見て愉しむ、えらく性格の悪い彼の耳も破壊しようとしていた。

 ほんの数センチぐらい浮いた頭は力が抜けて、叫び声と一緒になって枕に落ちた。本当は今すぐにでも起き上がってなんとか取り繕うべきなのかもしれないけど、判断能力の乏しい早朝に私の選んだ選択肢は諦観だった。

 

「なんでって、約束してたから来たのに、ましろがずっとすやすや寝息立てて寝てるものだから」

 

 キョトンとした顔で私のその場しのぎの、咄嗟に出た反応にバカ真面目に回答したその人は、密かに交際を続ける私の恋人であった。同い年でありながら、私よりほんの少しだけ精神年齢の高い彼は、文句を言うような口調にも関わらず淡々と、親が子を諭すような声色で、寝転がって天井のシミを数えざるを得ない私を見下ろしていた。

 彼曰く私は彼と約束をしていた云々と聞くが、矮小な記憶の回路を辿ってもそんな約束をした記憶は一欠片もない。可能性としてあり得るのは不意打ちか、それとも完全な私の忘却か。前者は彼の誠実さに照らして、また彼の立場を考慮して、まず百パーセントあり得ない。となると後者になってしまう。

 また、彼によれば、彼がここに訪れてしまったのはどうやらかなり前のことらしい。そういえばベッドから落ちたぬいぐるみの行方や音の在り処の記憶はあるのに、彼がこの部屋に来るまでに通るであろうドアの軋む音などは聞いた覚えがない。要は私が覚醒するよりも前に彼はやってきて、私の眠気との格闘も全て目撃されているわけで。

 

「……全部、見てた?」

 

 特段やましいようなことをしたわけではないのだが、寝起きの姿を見られる以前に、睡魔に襲われて無様な声を上げたり、必死の抵抗の方を見られたというのは、私のメンタル的にはかなりのダメージだ。

 私の一縷の望みをかけた疑問も、彼は少し目を逸らしながら小さく首を縦に振った。彼が追加で何かを付け足したりはしなかったけど、それはあまりに雄弁すぎた。

 

「……もうヤダ」

 

「おお、よしよし」

 

 朝目覚めたばかりだというのに、私の心は嬉しい憂鬱感に塗り替えられてしまった。先程まで感じていた眠気とかいうのは完全に吹き飛んでしまって、寝坊した時よりもひどい焦りを感じて冷や汗をかき始めている。

 最初こそ恥ずかしいだとか、みっともない姿を見せてしまったことへの恥じらいだとかが心を襲って、軽々しく否定的な言葉を吐き捨てた。けれども、現実を直視すれば直視するほどそれがどんな意味を持つかをひたすらに言い換え続けて、答えに辿り着いた私は絶望する。

 彼はもう起きてからそこそこ時間が経つのだろうか。パッチリと開いた瞳は盛んに動いているし、受け答えも口調もしっかりしている。傷ついた私の気持ちを察して最低限の励ましの声をかけてくれるけど、私がして欲しいのはそうじゃなくて、でも、それを求めていたりもする。

 

「約束って、なんだっけ……」

 

「今日出掛けるって」

 

「……一緒に?」

 

「じゃなきゃここに来ないって」

 

「……最悪だ」

 

 どうやら多忙だとか、そういうので私の大事な予定はすっぽかされてしまったらしかった。でも仕方がないのだ。そういうのを考える余裕すらない状況で、私がこれ以上頑張ってもきっとこれは回避できようがなかった。そう考えるほかない。

 

「家に着いたらましろのお母さんが出てきて、『ましろならまだ部屋から出てこないからきっと服装選びに四苦八苦してる』なんて言われたから部屋まで来たんだけどな。まさか寝てるとは」

 

「だって、だってぇ……。そ、そもそも、女の子の部屋だよ? 勝手に入るのはどうかなって」

 

「何回もノックしたからな。叩きすぎて拳が痛いぐらいだ」

 

「……嘘だよね」

 

「本当に」

 

 私が言い訳だとかをできる余地はまるでない。彼に恐らく非はなくて、話の限りでは何回も私が中にいるかを確認してドアを開けたらこの有り様らしかった。眠りに就く際に抱きかかえたままだったぬいぐるみが布団の外にほっぽり出される経緯も、私が何度も何度も寝返りを打っては太陽光から避け続けたところも、彼はベッドサイドに腰掛けてずっと眺めていたらしかった。悪趣味だなんて怒りたい気持ちもある。でも、彼は時間通りに私を迎えに来てこんなことになっただけで、せめて起こして欲しいなんてことも言えないぐらいに私が悪いみたいだった。

 とはいえ約束の時間に準備が間に合わなかった私を目の前にして、起こしたりだとかもせずにただ眺めて時間を潰すなんてのはいかがなものだろうか。私が言えるわけではないというのは分かっていても言いたくはなる。

 

「ちなみにちゃんと起こそうとしたからな」

 

「……えっ?!」

 

「何回も肩は揺すったし、声もかけたし、名前も呼んだし、キスもしたけど、ましろ何故か何しても起きないから、逆に何したら起きるのか試したいぐらいだったよ」

 

「うそうそ、そんなにされたら私絶対起きるもん」

 

 彼の仕草だとかを見れば相当強く私の体も頭も揺すられたようなのだけど、生憎私の朝の記憶にそんなものは何もない。彼が本当のことを言っているかは分からないけど、本当だとしたら私は相当深い眠りに就いていたのではないだろうか。

 

「それが起きなかったんだよ、普通のだけじゃなくて、激しいキスもしたのに」

 

「そんなぁ……。……え、え? キスなんてしたの? しかも激しいの?」

 

 彼は何も答えるでなく、ただ真っ直ぐに私の方を見ている。純真無垢に映る彼の瞳は揺れることもなく私と目線が合いっぱなしだ。たった一メートルすらも離れていない、私と彼の顔の間の距離。私は思わず詰め寄りそうになったけど、気恥ずかしさからか目を合わせられなくなって目を逸らす。

 普通に起こすならまだしも、どうしてキスなんて斬新かつ大人な方法で起こしているのだろうか。いや、毒の入った果物を齧ったプリンセスが恋人として結ばれる王子様のキスで目が覚めるならメルヘンチックで理想像ではあるけど。でも私はそれで起きてはいないし、なんなら御伽噺で済まないようなアダルティックなストーリーがすぎる。

 もしかして私の口元に付いてしまっているような気がする、口の開きの悪い原因である口元の涎の固まった後は、彼との愛の交わりの名残り、証明として残されているものだろうか。だとしたらそれはそれで彼のものになった気がして嬉しいのと、僅かばかりの反感と、それを覆って潰してしまうほどの期待の気持ちが入り混じって複雑だった。

 

「……したんだ。全部、大人の階段昇って……」

 

「まぁキスは何もしてないけど」

 

「えっ?」

 

「冗談だよ、冗談」

 

「……なんだぁ、良かったぁ」

 

 筆舌に尽くし難い安堵感に、腰まで起こしていた私の体は力なく彼の方へと倒れ込む。すっかり妄想の世界に耽る直前まで沈み込んでいた私は慌ててこちらの世界に戻ってこようと踏ん張ることにした。

 毛布の上でもそもそと彼ににじり寄った私は、彼が外に放り出した膝の上に着陸する。着陸した先で息を吐くと、彼の柔い掌がゆっくりと降りてきて、私の頭を撫で始めた。

 

「ふぁ……」

 

 その姿を外から見た人はきっと、聖母が我が子をあやす姿にでも見えるのだろう。私はこの居心地の良い空間が好きだ。自分が一番真ん中に、先頭に立ってしっかりと二本の足で立たなければいけない時よりもはるかに。下手をすればどんなところよりもこの場所が好きかもしれない。私のことを良く知る人だけが居る空間で温もりを感じる枕に顔を埋められるこの場所が。

 

「ましろは寝癖がすごいなぁ」

 

「ううん……。寝癖?」

 

「うん、今抑えてるところ」

 

「……えっ?!」

 

 慌てて起き上がりそうになったのを力尽くで寝かされる。確かにこのまま起き上がっていれば危うく彼の頭をぶつけるところだったかもしれないけど。彼がパッと手を離した瞬間に寝癖とやらではねた髪は抑える前の状態に戻ってしまったらしい。やはり私は彼にだらしのない姿を見せてしまっていたらしい。

 

「って、こんなことしてる場合じゃないよね。いい加減起き上がらせてくれないの? 出掛けるんだよね」

 

 私は慌てて部屋を見渡して、時計を探す。時計は自分の想像した時よりもはるかに天辺に近づいているようだった。驚きの声を上げた私を冷静に抑えつけた彼に必死の抵抗として力を入れるけど、上から抑えられたものだからまるで起き上がれない。

 

「出かけようと思ってたけど映画、もう上映時間過ぎちゃってるからなぁ」

 

「えっ、あっ……」

 

 そこまで言われて、ようやく合点がいった。データの詳細とやらはそれだ。この間街に赴いた時にボソリと呟いたのに彼が反応してくれてなし崩し的に決まったものをすっかり失念してしまっていたのだ。

 

「……そっか、私のせいだ」

 

 もう何から何まで悪いのは私ばかりで本当に救いようがない。今日の出掛けるきっかけも、その肝心な時にすっぽかしてしまったのも私ばかりで、今日はどうやら最悪な日らしい。何もかもがついていないらしかった。

 

「そうだな。ましろのせいだから、大人しく今日はましろの家で過ごすか」

 

「え?」

 

 自己嫌悪が最高潮に達したところで、彼はよそ行きで着てきたであろう上着も、帽子も、いそいそと脱ぎ始める。彼が身動ぎする度に私の顔の本当に目の前で芳しい彼の匂いが立ち込める。それは恐ろしいほどに中毒性を孕んだ毒花であるけれど、既に私は囚われの身であった。

 彼は脱いだ衣服を目の前のローテーブルの脇に固めて置いていた。それはまるで、今日はもう着ないと片付けながや言っているようなものだった。私は彼の心変わりへの焦燥感に揺らぎながらも、胸を撫で下ろした。

 彼は少しばかり軽装になると、また居直ったもので、残香は部屋に拡散し始めた。私はそれにうっとりとして味わいながらも、バレないように口を結んでおくことにした。彼は私の心を探るように顔を覗き込んでいる。

 

「それで、二度寝する? まだましろも眠たいなら」

 

「ううん。もう色んな意味で眠くはないかも」

 

 朝からこれだけのことがあれば眠気なんてのはとうになくなっている。彼の膝枕は眠気を誘うのに十分かもしれないが、今日ばかりはそんな悠長というか、呑気なことを垂らすわけにはいかない。私は彼の真似をするように、彼の表情の細かな変化を凝視していた。だけども、何かをそこから読み取るというのは私にはできない。

 

「……だな。まあそうだろうとは思ったけど」

 

「眠くはないけど、もっとここに居たいな」

 

 だからこそ、私は彼に揺さぶりをかける。彼の心がこれ以上怠惰な私に幻滅したりしないように、又はしたとしてもかすり傷で済むように。我ながら姑息で子供騙しの手だとは思うのだけど、私の乏しい人生経験じゃこれ以上上手いやり方を思いついたり、聞いたりしたことはない。

 所謂猫撫で声、なんてやつだろうか。もしかしたら声のトーンが僅かに上がっているだけかもしれない。普段との比較はできないけど、なるべく彼の気を引くような声色を作る。そして、頬を彼の逞しい膝の頭に擦り付けた。さながら動物のマーキングだった。

 

「私のせいでこうなっちゃったから」

 

 何が私のせいなんだなんてツッコミを自分に入れながら、もっと体を彼に寄せる。最初こそ布団の奥の方に入り込んでいたはずの足首も今や向きを変えて枕を見ている。部屋の空気は布団と比べれば寒いものの、幾分か暖かいので、そんなひんやりとした空気はあまり気にならなかった。

 先程までは頭を枕にのせるだけだった私は満足もできずに、体を起こすと体ごと彼の体にもたれかかった。触れ合った肌は互いの衣服越しでも二人の熱を伝え合っている気がした。

 

「そういってましろはくっつきたいだけだもんな」

 

「うん。ダメかな」

 

「俺はいいけど。ましろは寝巻きなの気にしないんだな」

 

「着替えて欲しかった?」

 

「俺はどっちでも」

 

 どっちでもいい、なんていう答えは嫌いだったけど、何か文句の一つでも言えるわけでもない私は顔を彼の腕に埋める。これ以上ないぐらいに馥郁な彼の匂いに私は体ごと埋めることにした。

 それはモフモフの布団に疲れた体を倒れ込ませるのとはまた違って、こう癖になるような、魔力のような人を容易に魅了する何かを秘めた魅力を持っている。魔力といっても邪悪だとか、不快なものではなく、人を心地よくさせるものだ。

 ただ、他者から見れば諸刃の剣のような毒なのかもしれない。こう考えを巡らせられる私はまだまだまともな方なのだろう。そんな根拠のない尊大な自信によって、私は優越感に浸っていた。この部屋には彼しかいないのにそんな比較の感情に依存してしまうあたり、この気持ちが過去の、そして将来的に向き合わざるを得ない嫌いな自分に向けられた感情であることは明白だった。

 

「どうせ出掛けないんだろ。もしそうなら今日はそのままでもいいんじゃないか」

 

 今日は家からも出ないし着替えずにそのままでいるのか。それはそれで楽だしアリかもしれない。早朝、だと思っていた寝ぼけていた頃の自分じゃ至ることのできなかった考えに内心呆れはある。もうあれほどの姿を見せたら何も変わらないだろうし、変に取り繕わずにありのままで生きようとかいうアレなのだろう。

 これは即ち彼の優しさに甘え続けることを意味するのだけど、これまでも甘え続けて生きてきた私からすればそれは逆張りして粘るつもりも毛頭なかった。私が今、昼前の時間を彼とこんな風に過ごしているのは、それを受容していることの証左でもある。

 

「うん。そうしようかな。着替える時間の分だけ、会える時間減っちゃうから」

 

 こうすれば彼は喜んでくれるだろうか。私を好きでいてくれるだろうか。そんな淡い期待は、自分一人ではまるでアプローチできない、恐ろしいほど低い自分への愛を貰うためである。重いと捉えられるかもしれないけど、自分で自分への愛を与えられない以上は、こうやって彼から承認をもらうしかないのだ。それは依存と表現ができるけど。

 

「言っても今日は予定他にないけどな」

 

「本当? それなら夜までずっと一緒?」

 

 私の心は躍る。跳ねる。輝き始める。今日は全ての現実から自らを遮断して、ただ時間の過ぎるのみをぼんやりと感じて過ごそうとしていたところが、あっという間に危うさを抱えた彩りの日常になっていたのだから。

 彼もデートということなら彼はきっと今日は一日中、私のために空けてくれているだろう。仮にそうだとするとすっぽかしていた申し訳なさも少しある一方で、私の心は喜びと満足感に満ちている。

 

「家に一日中居ないと、結局着替えないとだもんな。俺はいいよ、夜まで出掛けるって親には言ってあるし」

 

「……はは」

 

 こうも上手くいくとは。眠りに就くばかり、目覚めたばかりの自分では考えられないほどの幸運が舞い込んで、私は例のごとく沼に沈み込んでしまった。やはり、彼は私の期待通りに考えていたのだ。多分朝までの不幸はこの幸せをより噛み締めるための予兆かなんかだったのだろう。

 

「ましろのお母さんになんて言うかだけど」

 

「入ってきた時はなんて言ったの?」

 

「夜までエスコートしますって」

 

「わぁ」

 

 聞いておきながら言うのもなんだけど顔が熱くなるほどの中毒性。気を抜くだけで失神してしまいそうなぐらいの感情の起伏で、もはや風邪をひいてしまうまである。

 私がきちんと朝起きて、彼と一緒に街を歩いて、美味しいものを食べたりする世界もあったかもしれないけど、そうではない未来も私にとっては相当価値のあるものだ。これで喜ばない人がどこにいると言うのだろうか。

 

「えへへ……へへ」

 

「隠そうともしないのか」

 

「うん。ギュッてしたいな」

 

 感情を隠す余裕もないし必要もない。だってこの部屋には私の他には彼しかいない。全てを受け入れてくれるであろう彼への隠し事なんてのは不要だろう。だから私は僅かに体を起こすと両腕を広げる。受け止めた彼は私が少しばかり体重をかけたって何一つ文句も言う様子がない。そこに私は別の種類の優越感を覚えていた。彼から返しの抱き締めが来る度に、その気持ちは強くなって、私の傲慢さを加速させるようだった。

 彼の背中に回された私の両の掌はガッチリと繋がれている。私の華奢な肩幅では彼を締め付けるようになっているかもしれないけど、私にとっては些細な問題だった。彼は苦しいだとか、なんとも言わないものだから。彼の適当さはこういう時ですら私を救っているのだ。

 

「ふわ……ぁぁ」

 

「おっと、眠くなってきた?」

 

 彼はそう言うと、脱力して彼の腰ぐらいまで下がってきた腕を解いて、私の掌を握った。先程よりも柔くなっていた彼の掌は幾分か冷たくなっているようだった。部屋の冷たい空気にでも当てられてしまったのだろうか。

 気怠さに負けてしまいそうな私は小さく首を縦に振る。きっと声を出すことすら面倒臭がっていたに違いない。腕だけでなく、全身に力が入らなくなって、元より彼に寄りかかっていた体はベッドのマットレスに吸い込まれているようだった。いつのまにか私の体の上から消失していた毛布が私に乗っかっていた。

 

「それじゃあ二度寝しようか。俺も入って良い?」

 

「来てくれないとやだ……」

 

 私は最後の力を振り絞って呟く。既に半分ぐらいまで閉じかけた目が最後に見た景色は、数センチ先の彼の瞳が薄らと閉じられるところだった。

 布団の中は温かい。昨晩の外の寒さを吹き飛ばすほどに温かい空気が私を呑み込んでいた。私は決して離さないように柔い彼の手を握った。

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