ガールズバンドたちのBirthday   作:敷き布団

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【瀬田 薫】彼と二人で儚い恋を

 喧騒が冷めやらない放課後の教室の前の廊下。私にとってそこは、多くの観衆が固唾を飲んで作中の人々の運命を見守る舞台と、なんら変わりはなかった。私の生み出す瀬田薫を求める子猫ちゃん達が集う場所であるならば、そこは私にとってどこであっても舞台であり、ステージである。こんなに懸ける想いが強くなったのは、一体いつからなのだろうか。そんな独りよがりの思案に耽る時間さえも、背後から、そして両脇からも、私の名前を呼ぶ黄色い声援が飛び交っていた。

 

「……儚い」

 

 群衆から追われて、蜂が標的を見つけて集ったような一団が、遂に校門の前にまで辿り着いた。羽丘女子学園の敷地全てを練り歩いてきたのではないかと疑うほどの疲労感はひた隠し、最後の最後まで追っかけてきてくれた子猫ちゃん達の方を一瞥する。

 春先を予感させるような風が一陣、門扉をすり抜けて私を通り過ぎて、校庭の方へと駆け抜けてゆく。走る風にせき立てられるように、私の紫の髪は靡き、一瞬だけ私の視界を覆い隠すと、力を失ったように重力に従い垂れ下がった。私の一挙手一投足を求めて止まない子猫ちゃん達の期待の目に応えようとして開いた口から飛び出したのは、私がおそらく、いつ何時も使い続けるお気に入りの台詞であった。

 あまりに表現の難しい、常世に遍く存在する言の葉を散りばめて語ってしまえば、すぐに味わい深さを散らしてしまうようなこの気持ちを、逃げるように外を向きながら私は呟いた。それまで長い紫の枠が切り抜いたファンの姿のない、外の世界に踏み出すのである。

 直後に背後から、その日一番の歓声が上がったことは言うまでもなかった。

 

 私は足早にアスファルトの道を急ぐ。学校の敷地に沿って植わった名もなき木々があっという間に視界の端に消えて、みるみるうちに学校の活気というものは消えていった。

 ここは果たして舞台なのだろうか。正確な答えを語れば分からないというのが私の与えられる答えだろうか。外とはいえども、まだ学校の敷地を出て数百メートルも歩いていない。ここを通る、羽丘の女子生徒は多い。だから、舞台である蓋然性があるというのがより実感に近いだろうか。全くもって、どこもかしこもステージであるのと変わりがない身に対しては頭が上がらないのだが、こんな不安を吐露するというのはそれこそ、瀬田薫としての自覚がまだまだ足りないと言うべきだろうか。

 それでも、私が向かっている先は、むしろ舞台からどんどんとフェードアウトする方向を向いている。歩けば歩くほど、私を瀬田薫であると知っている人間の数は減っていき、この世界に数多く存在する女子高生の一人になっていく。車の行き交う大通りを抜けて、乱立するマンションを何棟も通り過ぎる。他の棟とほとんど変わり映えしない建物の真下に来ると、さらに私は急ぎ足になった。

 インターホンを鳴らす。けれども、特に返事が返ってくることすらなく、諦めた私が手を掛けた扉はドアノブを捻ると簡単に開いた。生活感の溢れた玄関が現れて、私は見慣れた間取りであることに安堵して、一番奥の扉を開く。

 

「やぁ、……君はまた本を読んでいるんだね。実に勉強熱心だ。私の来訪に気づかないぐらいとはね」

 

「……英雄の凱旋気取りかな。冷やかしならお断りだよ」

 

「実に味わい深くて詩的な表現だ。……儚い」

 

 私が部屋に入り声をかけると、分かりやすく目の前の男子が溜息をついた。私の紫色を遠目に見るような薄緑のインナーカラーは、窓から入り込む肌寒い風に靡いている。

 彼は実に分かりやすい反応をくれたけれども、私としては冷やかしの気持ちなど寸分たりともない。彼の貴重な読書の時間を邪魔してしまったならばともかく、私が来ることを見越してか、いつもの体勢ではなく、背もたれがこちらからは見えない向きに回転しているところを見ると、彼の集中力も限界というところに私の来訪があったに違いない。それを簡潔に示すように、あまりに長い時間、細かい文字を見続けて疲労を重ねた彼の両目は、暫しの休憩を求めるように瞬いている。

 

「私が訪れたのも良い機会だから、少しばかり休息を挟むというのはどうだろうか? その本だって、心に余裕がある者に読まれたいはずだ」

 

「生憎読みたい本が溜まってるものでね。一冊一冊の本に掛けられる時間があまりないんだよ」

 

 彼は小さく吐き捨てた後に、部屋の一面の殆どを占める本棚に目を向けた。彼が読みたい本とやらが何かは分からないけれども、目の前の光景が全てを物語っているらしい。

 本棚にぎゅうぎゅうになるまで詰め込まれた本や、その真ん前に不恰好にも積み上げられた途中まで読まれた形跡のある本を除けば本当に物が少ない部屋である。私は遠慮することもなく、スクールバッグをドア横の壁際の床に置く。彼はいよいよ意図を察したのか、背後の机の縁で、風に煽られて床に落ちそうになっていた栞を引っ掴んで、それを差し込んだ本をわざと音を立てながら閉じた。とはいえ、私は何ら態度を変えるつもりもなかった。

 

「さて、まずはその窓を閉じよう。虚弱な君が風邪を引くのは忍びないんだ」

 

「換気だよ。僕だって外の空気を吸いたい時ぐらいあるんだよ。単に薫が寒いだけでしょ」

 

 机の横の壁から日光を取り込む窓。彼の髪の毛を揺らす程度には風が吹き込んでいるその窓ガラスを、彼の了承を得るでもなく閉じる。彼の言うように換気というのは嘘ではないのだろう。窓を閉じるほんの一瞬だけ、部屋から外に解き放たれる空気の中に、古臭い本の強い紙の匂いの中に彼の香りがした。この窓の近くで、部屋の空気が外とかなり入れ替わっているらしい。

 それでも、私が窓を閉じると、外から安寧を壊すように入り込んできた風の冷たさは霧散した。突然消えた肌寒さに私は強い安堵を覚えながら、二度とこの窓が容易には開かないように、二枚の番となった窓ガラスを固く閉ざした。

 

「鍵まで閉めなくてもいいのに。別に、薫が閉めたいんだったら無理して開けたりしないよ」

 

「私が施錠をしたかっただけさ。気にしてないで欲しい」

 

「……で、何のよう?」

 

 私はてっきり彼が文句をぶつくさと垂れ続けるのかと思ったけど、今日の彼はそういう気分ではないらしい。彼の機嫌の良さに心の底から感謝しながら、私は本題を話すためにくるりと翻り、カバンの中からそっと紙の束を取り出した。

 卒業公演は少し前に終わってしまったものの、私とて演じたい役柄はまだまだある。願わくはこの世にある全ての物語に私の命を吹き込むことすら。彼のように哲学者の遺した深い思惟の書物を読むのもまた一興だけれども、今日はそういう気分ではない。

 

「なんてことはない。ただ私も書き物を読みにきただけだよ」

 

「そうかそうか。空いてる部屋なら好きなだけ貸すけど」

 

「私が迷いなくこの部屋に来た意味が分からない君ではないだろう?」

 

 私のことに関して、長い付き合いで聡い彼はそれ以上反論することもなく、先程閉じたばかりの本に視線を落とした。彼の了承と見た私はきっと笑みを浮かべている。様式美として成り立ってしまいそうなほどに使い古されたやり取りの締めくくりに、彼が毎日睡眠に使うベッドをありがたく拝借する。勿論寝転がりながら台本を読むなんてことはせず、その柔らかいマットレスの端っこに深く腰掛けて。

 私の方は完全に準備が整ったのだけど、彼は気が散っているように複雑そうな表情を浮かべながら、栞の紙に括られた赤い紐を引っ張っている。

 

「相席はダメなのかい?」

 

 静寂な部屋で小さく音を立てるマットレス。その音と私の声に釣られるように彼は顔を上げる。

 

「集中できないから」

 

「フィアンセの我儘だよ」

 

「結婚の約束をしたような覚えは誰ともないんだけどね」

 

 彼は今日一番大きい溜息をついた。けれども、これはきっと呆れだとかそういうものを通り越した溜息であった。ゆらゆらと力なく立ち上がった彼は、まだ目的のページを開けてすらない本を落とさないように握ったまま、私のすぐ隣に腰を下ろした。

 途端に私の鼻腔を襲う彼の、春の花をも想起させるフローラルな香り。私はそれに言葉にならない悶絶を上げながら、平静を装って彼に身を寄せた。

 

「我儘には素直に応じてくれるんだね。素直が一番みたいだ」

 

「ここで応じなかったら、きっと要求がだんだんとエスカレートしていくんだろ? それぐらいならここで妥協しておいた方が、幾分かマシかなと思って」

 

「際限なくエスカレートする訳じゃないさ。ただ君が私を甘やかすその限界を突き詰めようとしているだけだから」

 

「もういい、僕の負けだ」

 

 彼は肩をすくめて、身を縮こめた。きっと何を言っても今日の私はそれを聞き入れるような広い心を持ち合わせてはいないということに気がついてしまったのだろう。

 私の手に握られるでもなく、私から遠く離れた壁際に置かれたカバン。数分か前までは外界の空気を吸い出そうとし続けていた窓の隙間。私が握りしめる紙の束の分厚さ。いつもはもう少し聞き分けのいい私の頑なな態度。

 きっと彼が見ている世界のそのどれもが彼を諦めさせるには十分だったのだろう。事実、どれもが私の極端に恣意的な算段であり、決意表明でもあり、強い自己主張なのだから。

 

「負けを認めるだなんて君らしくないじゃないか」

 

「薫にだけは言われたくないよ」

 

「私が負けず嫌いとでも言いたいのかい?」

 

「そうじゃないよ。ただ癪なだけさ」

 

「……儚い」

 

「……はぁ」

 

 まるで私の決め台詞と呼応するような彼の小さな溜息。それは慣れ親しんだ光景ではありながらも、少し物寂しさも孕んでいる。それでいて、彼を彼たらしめる唯一性の証左でもあった。

 

「千聖の他には、君だけだよ。そこまで不服そうな表情で私を扱うのは」

 

「そう思うんだったら態度を少しぐらい改めようっていう気持ちにはならないんだ? 僕はともかくとして、千聖への態度は本当に改めた方が良いと思うよ」

 

「確かに、幼馴染という関係性、それはとても儚いことだからね」

 

「何も分かってないでしょ? あ、いや……分かってるのか……?」

 

「全てわかっているさ。瀬田薫、だからね」

 

「あぁ、やっぱりダメそうだ」

 

 彼は頭を抱えるけど、どうして頭を抱えているのかはよく分からない。私だってちーちゃんとの関係が大切なものだなんてこと、よく分かっているのだから、ここまで言われることなのかと問われればよく分からない。

 

「今の僕の気持ち、きっと千聖なら首を勢いよく縦に振りながら理解してくれるんだろうなぁ」

 

「まさか。君の気持ちを私以上に理解する人なんて、たとえ千聖でもあり得ないよ」

 

「……これだから」

 

 より一層おでこに力を込めて頭を悩ませる彼。でも、私は何の嘘偽りも言っているつもりはないし、全てが全て、本気で口から溢れた言葉である。ところが、どうやら大きな乖離が生じているらしく、彼は本気で訳がわからないと頭を思い切り横に振っていた。その挙措のおよそ全てが穏やかな彼にしては珍しい姿であった。

 

「薫のことに関しての気持ちだとか、呆れだとかなら、きっと千聖との方が共有できると思うよ」

 

「なら試してみよう。千聖よりも私の方が君のことを理解していると」

 

「千聖がいないのにどうやって……」

 

「現代の科学が産んだ素晴らしい道具がそこにあるじゃないか。実に儚い発明品だ……」

 

 私が指さした先には、机の上に埋もれるような状態で放置されたスマートフォン。本の虫と化した彼にとっては、現代では必要不可欠な機器となったそれすらも自らの読書に耽る時間を邪魔するもの、だなんて考えていそうだ。

 彼は何か居心地が悪そうに首の後ろを掻きむしると、立ち上がって乱雑に手を伸ばす。物凄く気怠げな振る舞いも彼の不可思議さをかもしだすことに大いに寄与しているのだけど、彼がそこに気がつく様子はない。

 やがて数回のコール音が鳴り、スピーカーモードで部屋に響く声が、私の耳にまで届くこととなった。

 

『何かしら。お仕事の移動中で忙しいのだけれど』

 

「やぁ千聖」

 

「ちょっと、薫は黙ってて」

 

 電話口に聞こえてきた幼馴染の声に反応しようとした瞬間に釘を刺される。その瞬間、今日何度か耳にした嘆息と似たものが電子音となって響いた。

 

『何? お惚気のことなら私はもう懲り懲りだからまた今度にしてくれるかしら?』

 

 電話の向こうにいる千聖は明らかに不機嫌な声色だった。仕事の合間だという話をしていたか。この時期になっても盛んに芸能界の仕事に引っ張りだこの幼馴染がいるというのは鼻が高いものの、ハードワークに体を壊さないか心配になる。多分仕事続きで大層疲れているのだろう。また今度近場のカフェ、それでこそ羽沢珈琲店なんかに誘ってみるのが吉だろうか。

 私が遠いところで仕事に励む幼馴染に想いを馳せていると、彼は慌てたように取り繕うと弁明している。これだけ困った様相の彼を冷静にあしらう千聖を見ていると、やはり私の方が彼のことを理解しているように思えてならない。これは驕りだとか、驕傲ではなく、紛れもない事実なのだろう。

 

「待って、違うんだよ千聖。どちらが僕を理解してるかって薫が確かめたがってて」

 

『見せつけかしら? 幸せそうでいいことだと思うわよ。それじゃあ、忙しいから切るわね』

 

「ああ違う、僕の伝え方が悪かった……って、切られた」

 

 千聖の声は妙なほどに明るく、外行きの声色に変わった。そして、分かりやすく話を強制的に終わらせて、少しばかり無常感の漂う無機質な音声だけが部屋に響く。彼は哀れなことに千聖に見放されてしまったみたいで、暫くぽかんとしていたが、私が声をかけるより先に何の反応も見せないスマートフォンを放り出してしまった。

 

「やっぱり私の方が君のことをわかっているみたいだ」

 

「……もういいやそれで」

 

 勝ち誇ったような私の笑みをスルーして、彼は少しばかり咳き込む。それをすぐに取り繕うと、電話をする前のように白いシーツのかかったベッドに座り込む。どこか彼が疲れたような表情を浮かべているような気がするのは、私の気のせいだろうか。

 何度も深い呼吸を繰り返す彼に私からこれ以上何かを言うことが出来るわけでもなく、諦めて私は手元の紙束を捲り始める。部屋には人の声すらなくて、私が大量の文字が書かれた台本をペラペラと一ページずつ捲る音だけが、定期的に響いていた。そう、音を立てるのは私の指先だけ。

 

「おや、もう本は読まないのかい?」

 

 彼の興味は、先程までの椅子の上での彼と違って、私が何の気無しに彼の隣で読み進め始めた舞台の脚本らしい。静かになってしまった彼の様子を窺おうと視線を少し横に逸らすと、彼の目線の動きはものの見事に上下を一定間隔で往復している。

 

「……ん。疲れちゃったから。薫のそれは、もしかして僕が見てはいけないやつかな?」

 

「まさか。そんな超極秘の物があったらこんなすぐ隣で読むわけないだろう? さぁ、好きなだけ見てくれ」

 

「そこまで言われちゃうと……」

 

 遠慮がちに彼がそっぽを向いたのは、私が彼に見やすいように台本の向きを少し斜めにしたからだろうか。私としては彼が私の読んでいるものに興味を持ってくれたならば万々歳なのだが。

 ならば、それならばと、私はそこまで読み進めた台本の一部を頭の中でなぞり始めた。記憶の中に溶け込んでしまっていたこの物語を想起した。この本の中に生み出された世界を、そこに生きる人々の営みを、そこで彼は、彼女は、どんな思いで何を呟いていただろうか。物語の歯車が回り始めたように、突然脳内で動き出したストーリーが私を立ち上がらせていた。

 

『ああ姫……。どうして貴方はそれほどまでに美しいのか。生まれ落ちた所から今この瞬間まで、悉く違う人生を辿っていたはずの一人の男さえも狂わせてしまうほどに』

 

「わ、ちょっと。急に始まるのか……」

 

 それまで数えることすら億劫になるほどの本で埋め尽くされていたはずの部屋はあっという間に綺麗で物一つない板張りにへと変わる。部屋の中央でただ静かに薄暗い白の明かりを垂れ流しているだけだった照明は消え去り、遥か遠くまで照らせるような強いライトが私の足元を照らしていた。

 あの台本に書かれていた世界。文字通り儚さを感じさせる、人々の醜さにより滅び行く国の恋物語が始まっていた。一人二役、役者は一人で良い。今にも倒れてしまいそうな顔色の彼をこの辛く切ない舞台に立たせるのはあまりに可哀想であるから。

 

『私の貌がこの国を傾かせてしまったと言うのならば、私はこのような姿で生まれたくはなかった! 其方と同じような、俏すこともなく生きていく民衆になりたかった!』

 

 私は輪郭が歪んでしまうのではないかと勘違いしそうなほどに強い力で頬骨を抑えつける。醜く顔の造形が歪んでいく姿が脳裏を過った。流れるようにあのト書きに並んだ字面が口から飛び出していく。淀みなく吐き捨てられた台詞が部屋に何度も反響した。

 私が演じていたのは、身分の違いすらも恨まざるを得ないほどに一生を狂わせた姫と、ただ細々と暮らして、本来ならば何も世の憂き目の殆どを知ることもなく果てる民衆の男だった。あの台本に吹き込まれていた二人の命が完全に出来上がった。

 そう思っていた途端、私の視界が少し歪んだ。瞬く間に舞台は崩れ去ってしまい、それまで格式の高さを強く主張していた高貴な紅の幕が姿を消してしまった。残されたのは、少し前まで穏やかな時間を過ごしていた彼の部屋。立ち尽くす私と、あまりに冷静で読書をする時と同じ眼差しでこちらを見つめる彼。

 唐突に訪れた劇中の世界の終わりに、私は大きく肩で息をするしかなかった。二つの視線が交錯して、それに導かれるように、私は部屋の端のベッドに歩み寄る。いつのまにか物語に入り込むうちに部屋の中央に私は立っていたのだ。

 

「終わった? 薫」

 

 もはや見飽きたと言わんばかりに小さく呟いただけの彼の声。それは黄色い歓声の中でただ一つ存在した罵倒の言葉のように強調されて、私の心を掻き乱した。下手をすれば私よりも華奢かもしれない彼の体は、ベッドに腰掛けていることもあって、より小さく、虚弱に思われた。

 私は彼の前まで辿り着いて立ち竦む。衣服が擦れ合うほどの距離に立つ私にどこか恐怖感に似た感情を抱いたのか、彼は少しだけ顔を険しくして、眉をパクりとひくつかせた。

 

「ああ。なんて綺麗で、儚いんだ」

 

「え? 薫?」

 

 片足を後ろに引いて跪く。目線の高さが揃うどころか彼の方が高くなってしまった。けれども、近くで見上げるような姿勢になったことによって、彼の体が微妙に左右に震えているような気がした。これほどまでに線の細い彼の体を見る度に心配になってしまう。

 だが、心配になると同時に心を支配した感情は、それとは真逆の感情だった。

 人間が知恵を得た時、台本とは比にならないほど分厚い聖書の世界では、悪魔の如き蛇に唆されて禁断の果実を口にしてしまった時だと言う。その意味合いこそ違えど、私はその果実を貪り食おうとしているのだ。それも、悪しき知恵を持ち合わせた状態で。

 私を唆すのは私自身である。目の前にたわわに実る果実は、病的な儚さを持ち合わせて、青白く光を反射している。それでいて、花唇はこれからの繁栄を予感させるような赤で満ちていた。彼の薄緑のインナーカラーが揺れた。

 

「薫? えっ……」

 

 可能な限り彼が苦しまないように、それでいて私の中で渦巻く欲望が出来る限り満たされるように、結果として少し荒々しく彼は背中からベッドに倒れた。彼の頭の下に私の右の掌を滑り込ませてしまう。もはや逃げる事は叶わない。

 彼という支えが倒れてしまったことによって、私の体勢も限界を迎えた。跪いたところから無理やり立ち上がりながら彼という支えを失ったのだから。なるべく彼に負担を加えないように残された左腕で自分の体を支えようとするが、支えきれずに私の体は彼の上にのしかかった。

 彼の体は不思議なほどに冷たい。きっと換気だなんだと外の空気に浴びすぎて風邪を引く寸前とかなのだろう。

 

「私よりも、君の方がよっぽど傾国の姫が似合うみたいだね」

 

「何を言って……。そんな」

 

 彼が言いたいのはきっと、これが演技の延長線なのかどうなのかというところだろう。彼とて全ての台本を読んだわけではなく、ほんの一部しか見ていないはずだ。だから彼には判別できないだろうから、私は敢えて突きつけるように彼に告げる。

 

「アドリブさ。台本通りにはいかないみたいだ」

 

「アドリブって、ん……」

 

 病的なまでの儚さを抱えた存在の吐息。流行り病のように、近づくだけでその熱が伝播してしまう。既に私の頭は何も考えられないほどに熱を帯びている。触れ合う赤い花唇はすっかり潤ってしまって、濁りながらも半透明な糸を紡ぎ出している。

 彼が身動ぎするものだからようやく私は体を起こすことにする。シーツが乱れて幾層もの皺をなす。彼の身動ぎに巻き込まれそうだった紙束を、私は無造作に床に放り捨てた。彼は既に力を宿さない虚になってしまった瞳でその台本を追っていた。

 

「今、この部屋で頼りになる台本なんてないから。これは要らないだろう?」

 

「そんな、大切なものなんじゃ」

 

「あぁ、大切かもしれないけど。今目の前にいる君ほど、私にとって大切なものはないんだよ。だからどうか、私の愛を受け入れておくれ」

 

 愛なんていう都合のいい言葉がこんな咄嗟に見つかるだなんて。フィアンセだなんだのと言いながら、半ば私が強引に彼を持ち込もうとしているのに、それを正当化する儚い言葉があったのだ。そのフレーズは甘美が過ぎて禁断である領域に踏み入れようとする私をさらに駆り立てる。もはや私のブレーキがどうやっても効かないようになるほどに私をどんどんと追い立てる。

 愛だの恋だのなんて、普段はそう使うこともないのに、これほどまでに無防備で蠱惑的に私を魅了する君が目の前にいるだけで、それがたとえ見せかけのものであったとしても、語りたくなってしまうのだ。

 

「……いいよ」

 

 途端に部屋が静かになる。それまで彼が身悶えて起こる衣擦れの音が絶えず聞こえていたのに、まるでそこに何もなかったかのようなほどに静寂が訪れて、その静寂を切り裂くようなか細い声が聞こえた。その声は紛れもなく彼のものであった。か細いけれども、芯の通った声だった。

 

「ん?」

 

「……いいよ。薫」

 

 私は自らの耳を疑った。けれども、その言葉は疑いようもない。目の前で、手を伸ばさずとも触れられるほどの距離で、彼の瞳は揺れている。決して涙に濡れることもなく、全く微細に震えることもなく、視線が重なった。私の長い髪は重力に従って私と彼を切り取る。私が反応するできない間に弱々しく伸びた腕が私の背中を包み込み、脱力した私の腕は彼を迎えていた。

 

「いいよ。薫の好きにして?」

 

「……いいのかい?」

 

 先程までは冷たかったはずの皮膚はいつのまにか熱を帯びている。ややもすれば私よりも熱く、熱くなっている。彼はニコリと微笑んだ。今日一度も見なかった彼の笑みを、私はこの目で、間近で目撃したのだ。

 私の体は震える。衝撃と、歓喜と、後悔の狭間で。私は下敷きになっていた右手をもう一度深く彼の体の下に入れ込むと、彼を抱き抱えるように包む。もちろん持ち上がるわけはないのだけど、彼の体の熱が直接心臓に伝わってくるようだった。

 そして、粗方満足した私はゆっくりとその抱擁を解き、ゆらゆらと立ち上がった。彼は名残惜しさを楽しむように、はたまた私を誘惑するように私の後を追うように立ち上がった。

 

「あぁ。儚い……」

 

 ふと気を抜いてしまえば倒れてしまいそうな彼の体を辛うじて支えた。彼の唇はまたも誘惑するように濡れて、照り輝いているのだが、私は昂る熱情をどうにか鎮める。

 

「薫……」

 

 この恋は荒唐無稽ではないだろうか。否、そんな出鱈目な恋ではない。

 この恋は一人芝居ではないだろうか。否、そんな惨めな恋ではない。

 自分が恐れていたような独りよがりではなかったのだと、目の前にいる他でもない彼が証明していた。彼はすっかり私を求めていて、その様は数分前までの自らと同じであった。私と同じく禁断の味を知ってしまった、一人であった。

 ここは舞台ですらない。ここに舞台はない。彼のことを不思議そうな目で見る人がいないのと同じように、私を期待に満ちた目で見る人がいないのだから。だからこの恋は紛れもなく純真無垢な恋であって、芝居じみた見せかけの恋などではないのだ。

 少しばかり孤独を感じる、この本塗れの空間は、ただ二人だけの居場所である。私をよく知る幼馴染ですら、この空間には容易には踏み入れることが出来ない。私だけがここで、彼との何気ない時間を過ごすことが出来るのだろう。まるでここで過ごす時間が悠久のものであると勘違いするほどに穏やかな時間を。

 

「儚い……」

 

 そんな楽園とも理想郷ともとれるこの空間を表すこれ以外の美しい表現を、私はまだ知らない。

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