ガールズバンドたちのBirthday   作:敷き布団

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【氷川 紗夜】星月夜の明ける頃に

「星見るの、好きなんだね」

 

 ひんやりとした風の吹き抜ける丘の上でかけられた甘い言葉。ここが異世界だったか、怪奇現象かと疑うような、懐かしい奇妙さを覚えながら、私は笑顔で振り返った。

 

「えぇ。この時間が、一番」

 

 寄せた肩は温かい。

 

 

 

 

 

 事の発端はたった数日前の何気ない電話のやりとり。彼の言葉からだった。甘ったるさを思い出すのはとてつもない羞恥に襲われるから端的に言えば、彼の誘いなのだ。もう少しだけ詳しく言うと、私の誕生日を祝うというこの上なくありがたい申し出にどう答えようかと悩んでいた私の思考を遮った、妹の存在が大きかったのかもしれない。

 

『紗夜が行きたいところ、食べたいもの、何でもいいよ』

 

『何でもいい……と言われてしまうと、逆に難しいですね』

 

 電話口の彼の声色は柔らかい。普段はもう少し口早だったはずだから、私を焦らさないようにとゆっくり喋っているのだろう。幸いなことに今日はもうしなければいけないこともないから、遅くなりすぎなければ何も焦るような要因はなかった。

 ただ、特段これがしたいだとか、何が食べたいなんてものがあるわけでもなかった。好物、それこそフライドポテトを食べるなんていう考えは言われて一秒で思い至ったものの、生誕という記念日に食すには少々安直すぎる。私の誕生日を祝いたいと言ってくれる彼ももう少し特別感だとかを考えたいはずだ。本音を言えばそういうように扱って欲しいという妄想の産物、もとい僅かながらに滲み出た私の我儘が紛れ込んでいるというのが事実ではあるが。

 

『うーん。まぁ紗夜の希望がなかったら、俺の考えるプランに任せてもらうというのでも大丈夫だけど』

 

『そんな。それは嬉しいですが、任せっぱなしというのは気も引けるので』

 

 理想的というか、嬉しい提案もあったものだが、ほんの少し罪悪感なりが残ってしまうもので却下した、その瞬間だった。それまでスマートフォンの向こう側から聞こえてくる電子音声だけが聞こえていた部屋に響く雑音。これまで幾度となく聞いてきた音の煩さの正体は妹の日菜であった。

 

『おねーちゃん、今日ってこの後暇?』

 

『日菜! 人の部屋に入る時はノックをしなさいと何度言えば』

 

『空いてたら少しだけ外に出ようよ! 流れ星が見えそうで、るんってするよ!』

 

『急に言われても空いてなんか』

 

 そこまで言いかけてハッとした私は右手で握りしめていたスマートフォンを見る。完全に通話中であることを忘れたままで声を荒げてしまったことに気がついた私は日菜そっちのけで彼との通話に戻る。日菜には目配せと手で静止させようとしたが、意図が分かっていないのかとぼけているのか、日菜はわざとらしく首を傾げているばかりだった。

 

『すみません、その日菜が部屋に来たので』

 

『いやいや、気にしてないよ。それじゃ、プランは決まったから俺はここで失礼するよ』

 

『え? いやもう少し話したいことが、ちょっと』

 

 急いで並べた弁明の言葉に返ってきたのは少しばかり淡々と、まるで急いでいるかのような声。なんだか話を終わらせようとしているような雰囲気があったから少し強めに引き留めようとしたものの、役立たずの機械から聞こえてきたのは無情な音の繰り返し。慌てて画面を見れば完全に電話が切れて、正確には切られてしまったことが丸わかりだった。

 

『ごめんね? もしかして電話中だった?』

 

 日菜はバツが悪そうに目線を極力合わせないようにしながらこちらの様子を窺っていた。

 

『ええ、そのもしかして、よ。……だからあれほどノックをしなさいと』

 

 呆れていた私は直後に震えたスマートフォンに驚き、目線を下げた。目に悪そうなブルーライトの真ん中にぼんやりと浮かんだ通知には、『妹さんと綺麗な星見てきてね』、なんていう文章だけがぽつんと並んでいる。少しの間彼から追加のメッセージだとか、些細な反応だけでも返ってこないかと手を震わせながら期待して待ったものの、スマートフォンが音を立てることはなかった。

 文面からだけでは彼がどう思っているかなんてはっきりとは言えないし、釈然としない。これまでの彼との交際から鑑みると、本当にそう思っているのか、それとも若干の嫉妬、有り体に言えばヤキモチが混じった言い方になっているのか、はたまた失望というか、そういう負の感情が現れたのかさっぱりであった。

 そういう事実に気づいた時点で、私は彼のことを分かっているつもりで本当は何も分かっていないんだと気づかされて、思わず閉口するぐらいには悲しくなっていたのだった。私は繊細で、臆病だったのだ。

 

『おねーちゃん……?』

 

 全てのきっかけを作った肝心の妹は、まるで通じ合えない一組の番の片割れが怯えるのと同じように、心配そうにこちらを見つめていた。そんな瞳をされてしまえば、今の私が日菜をぞんざいに扱うことなんて出来ようはずもなく、日菜に気づかれないように息を吐いた。

 右手に握りしめていたスマートフォンを、自分の迷いや怯えから断ち切るがごとくベッドの後ろに放り投げて、私は立ち上がった。日菜の目は突然立ち上がった私をしっかりと追いかけていた。

 

『それで、星を見るの?』

 

 私が努めて明るくさせた声調のおかげか、日菜の顔は晴々しいものに変わった。幼い子供が聖夜の早朝に歓喜するように、日菜は飛び跳ねんばかりだった。

 

『うん! 行こうっ!』

 

 私の手を取るなり駆け出した日菜に引っ張られて家の前の道路に出た。日菜曰く、その日は幸運にも流れ星が多く見えるかもしれないとのことで、それであの興奮した様子だったとかそういうことらしい。

 首が痛くなるほど高い空を見上げる。周りに立ち並ぶ家々の屋根が視界の端から次々と消えていく。真っ暗闇に切り取られた円形の視界に瞬く星を眺めながら、その流れ星とやらを必死に探す。

 視界にも入らない後ろの方で私を外に連れ出した張本人が騒いでいる。星が見えた、流れ星だ、と。私を揶揄っているかのように何度も何度も、数分おきぐらいに興奮の声をあげていた。間が悪いことに、私がその時に意識を向けていないところで何度も流れ星が見えたらしい。どうやらその日の私はとんでもなくツキが悪いらしく、皮肉なことに流れ星がそれを証明していたのだった。

 

 

 

 そこから数日。出かけると言っていた日が近づいても、彼はそんなにプランがどうやらということを何も話してくれなかった。細かく尋ねてものらりくらりと話題を変えて躱され、それどころか日課にしようとしていた彼との電話の時でさえも彼はどこか早く話を終わらせようとしているように見受けられた。そりゃあいつもと違って少し電話の頻度が高くなっていたかもしれないが、それでももう少しこちらと話をしようとしてくれたって良いだろうと思うほどであった。

 そんなわけだから、準備も要らないから、寒くない格好だけをして今から出かけようと言われた時は心底焦った。確か今日の六時前ぐらいだったか。今日の夜出掛けるということだけは教えてもらっていたものだから、いつでも出掛けられるような心算はしていたが、持ち物も何も要らないと言われて、結局は彼のプラン、彼の掌の上だということに気がついたのだ。

 急いで外套を羽織り、玄関から飛び出た私を、彼は待っていた。

 

「紗夜。それじゃあ行こうか」

 

「え? えぇ」

 

 まさか待ち合わせも何もなしだとは思っていなくて気が抜けた声を出した私に差し出された手。とにかく欲しかった彼の確かな温もりに触れて安心したのか、私は力が抜けそうになっていた。

 ただ、彼が強く握りしめたことで意識がハッとして、私は彼の表情を見た。やはり彼の考えは読めない。これから何をするのかというのも想像がつかないし、この前の自己分析の通り、私は想像以上に彼のことを知らないらしかった。

 私と同い年。好きな食べ物はオムライス。好きな私の仕草は耳元にかかる髪を耳の上にかきあげる仕草。得意なことは勉強と私のギターを聴き続けること、それから私を喜ばせること。そして、私の大切な恋人。

 彼について知っていることをつらつらと頭の中で並べていく。それは間違いなく、臆病な私が彼との確かな関係のために、自己暗示を重ねているだけであった。今まで過ごしてきたことが嘘ではなかったと自分に言い聞かせるための慰めである。

 

「紗夜? 心ここに在らず、って感じしてるけど、どうかした?」

 

「いいえ。気にしないでください、少し考え事をしていただけなので」

 

「そっか。歩くの早かったら言ってね」

 

 そういうと彼は突然手の握り方を変えたものだから、二人の指がより絡まり合う。日が落ちた時間ということもあり少しずつ寒くなった外気を忘れてしまう程度のぬるさに思わず頬が緩みそうになった。けれども、どこか心に引っかかるものがあったせいか、私は手放しに喜べるわけではなかった。

 先日の電話口で見た、非常識で慎みのない私に淡々と接する彼。今私の目の前にいる、腰の引けた私に優しく接してくれる彼。どちらの彼が本物なのか、それとも虚像なのか、私は知らない。知らないけれど、後者が本物であって欲しいし、そうだという気がしている。

 こういう正反対の事象が眼前で起きた時、人間という生き物は自分にとって都合が良い方をあたかもそれが全てで、真実なのだと思い込む性質があると、どこかで聞いたことがある。そんな何の責任も取ってくれない無遠慮な言説に振り回されるなと叫ぶ私もいて、開始早々から私の心はぐちゃぐちゃであった。ただ、その複雑な感情を自ら進んで解消できるほど私は強くないし、恋愛に長けているわけでもない。彼以外とそういった関係になったことすらない私には、未知の領域に等しい。

 

「ちょっと冷えますね」

 

「だね。今週は一段と冷え込むらしい、もうすぐ春のはずなのにね」

 

「逆に、寒くはないですか?」

 

「寒いなら、温かいものでも飲みながら行こうか」

 

 そんな私の心の混沌を、彼はかけらも察している様子はなかった。家を出て少ししたところにある途中のカフェで温かいコーヒーをテイクアウトで買う。デートのほんの小休止となりうるその時でさえも、たまに彼は小難しそうな顔をしていた。

 かと思えば、こちらと目が合うと、私を宥めすかして、それに止まらず勢い余って私の心を砕いてしまうほどに強烈な甘ったるさを含んだ笑みをこぼす。

 店員さんに注文を聞かれている時でさえもチラチラと何度もこちらの顔色を窺っている。その光景はもしかすると滑稽だったかもしれない。肚の読み合い。奇妙な無言の探り合い。カウンターに置かれたコーヒーを手渡された時も、珍しく見つめ合ったままの時間があるようだった。

 

「……行こうか、紗夜」

 

 左手に蓋のついた熱いカップを握った彼は空いた手を差し出す。お姫様をダンスに誘うプリンスのように指先まで綺麗に揃えられた右の掌は、私と同じく少しばかり震えているようだった。どこか可愛らしさもあり、それでいて、私をまだ撹乱させているようで、心臓の鼓動は激しいままであった。

 

「行き先を聞いていませんから、私は貴方に連れられるままですよ?」

 

 少し戯けて見せた揺さぶりの一言。彼と目を合わせたい一心で、私はわざとらしく語尾を明るくする。彼が私と目を合わせてくれてもいいように限りなく作った笑顔のまま。

 結果、彼は無言で歩き出したかと思えば、無念なことに私の方を見ることもなく小さく、最寄りの駅の名前を口にする。確証を持てなかった私が聞き返したら、彼は誤魔化すようにコーヒーを啜っているようだった。どうやらビンゴらしい。それまで彼主導で歩いていたのに、その日初めて私が彼を連れ出して歩き出す。どことなく安心感が勝るようだった。

 

「どこか、電車に乗って出掛けるんですか?」

 

「まぁ、ね。じきにわかるよ」

 

 どうやらまだ行き先を私に教えるつもりもないらしい。彼が明かさない分を無理やり口を割らせるというのも不本意で、望むところでもなかった。私は彼の歩くスピードなんてのを気にすることもなく駅に向かうことにした。

 意図的に早く歩いているせいか、それとも沈黙が支配することが多かったせいか、駅までは本当にすぐに着きそうだと感じられる。二人の間の空間は静かなはずなのに、帰宅途中の大勢の人たちで溢れた街中は煩わしいほどに煩い。いや、私の気を害する程度には騒音である。

 そんな騒音に負けているのか、私の呟きが彼に届くこともなければ、彼が吐き出したかもしれない愚痴なんかが私に届くこともないまま改札を抜けていた。待ち構えていたかのような電車を指さした彼の案内で電車に飛び込む。満員電車とは言わずとも、座席を狙うサラリーマンたちの水面下の争いが勃発していそうなほどには車内は混んでいるようだった。私も彼も、その不毛な争いに巻き込まれようとするつもりもなく、そこの考えは少なくとも一致していたらしい。降り口の反対側のドア横の手すりに二人して身を寄せた。

 電車に揺られること数十分、一時間弱は掛かったかもしれない。降りた駅は少々、いや、かなり都会の喧騒からは距離のある町の駅だった。花咲川の近くでは都心の高層ビルなんかが屋根の隙間から煙突のように突き出しているのが容易に見えるのに、ここからではそんな文明の結晶のような明かりを拝めはしなかった。むしろ街灯は少なく、ネオンの光もないに等しいぐらいである。

 

「ここが目的地、ですか?」

 

「まだ到着はしてないけどね。少しだけ高台に登るけど、歩けそう?」

 

「え? えぇ」

 

 降り立った町の辺鄙さに見回していたが、彼の言葉に私は自分の足元を確認した。運がいいのか、ヒールやパンプスとかではなく、歩きやすそうなスニーカーを履いていた。少しぐらいは運の巡りとやらがあったのかもしれない、そんな考えても仕方がないようなことに小さく感謝の言葉だけ残した。

 

「そんな登山だとかは難しいかもしれませんが、少しぐらいなら」

 

「まぁ、無理だったら俺がお姫様抱っこで連れて行ってあげるから」

 

「なっ、は、恥ずかしいですから……人前でそういう話は……」

 

 彼の不意打ちに周囲を確認してしまった。だが、またまた運がいいことに人の数も少ないみたいで変な話も聞かれていないらしい。強いていうならロータリーに申し訳程度に停まっているバスぐらいしか、人気のあるところはなかった。

 

「とりあえず、一旦バスに乗って行こう」

 

 丁度私が目を向けていたバスが今回の移動手段らしい。ほぼ終バスなのではないかと疑ってしまうような辺りの暗さ。彼の後を追うようにして見かけた時刻表によれば、まだこれが最終便というわけでもないらしい。自分が想像したよりは住宅地が広がっているみたいだ。

 そして、バスの行き先表示を見て私は彼がここに来た理由をぼんやりと察することとなった。

 

「天文台行き……。空……ですか?」

 

「バレちゃったか。うん、そうだよ」

 

 悪戯のバレた子のように彼は戯けて見せる。私はそれを咎めるなんてわけもなく、バスに乗り込むことにする。チラホラと前の方には地元の客層らしき姿が見えて、彼に押されるがままに後部座席へ。

 走り出したバスは意気揚々と、緑になったロータリー出口の交差点の信号を潜り抜けた。駅前に僅かに残っていた二十四時間営業の店舗を通り抜けて、やがてバスは住宅街を走る。町は新しく出来たばかりという雰囲気を街全体に残しながら発展していた。並んだ住宅の、外見上の間取りがほとんど変わり映えもしないところなんかは、まさにそうだった。

 何度目かの、バスが停留所で停まったことを知らせるアナウンス。私たち以外でいたお客さんの最後の一人が前方のドアから車外に降りていく。加速するバスの窓からその背中を見送りながら、バスはさらに山の奥の方、上の方へと向かっていた。彼は何も焦る素振りもないから、予定通りということらしい。私は自分の手の甲に乗せられた彼の掌の温かさにすっかり酔っているみたいだった。

 

「紗夜、もうすぐ終点だよ」

 

「……え、もうそんな時間ですか?」

 

 しばらく記憶がないのは、バスに揺られるうちにうとうとしていたということだろうか。彼の声の音量が少しずつ大きくなっていったことでそれを悟った。窓の外に見える景色はそう変わっていないような気がするが、彼に連れられて終点で下された外の空気を吸えば、かなり上ってきたということは容易に想像がついた。

 

「さ、長かった旅も後少しだから、足が辛かったら言ってね、紗夜」

 

「……ええ。お姫様抱っこは結構ですが、お気遣いありがとうございます」

 

 彼なりの優しさを少しばかり揶揄いながら、折り返して山を下って行こうとするバスを見送る。

 正直に言えば足の疲れが云々だとかなんてことはなく、それよりも顔の皮膚を突き刺すような肌寒さの方が気になるところだった。山の上ということもあってか気温は町の方よりも数度下がっていそうだし、吹き抜ける風でより寒さが増している。その分空気は凛と澄んで、普段の身に付き纏う一切の煩わしさがないような気もする。当然のように街灯もなく、少し離れた公衆トイレの入り口にある光源が唯一と言っても差し支えはなかった。

 

「あの階段を登るんですか?」

 

 私が指さしたのはそのトイレのもう少し奥にある階段。左右を木に囲まれて怪しい感じはあるが、上に続いているようで、山の上に行こうとするならばあそこがルートに思われた。

 

「うん。後は道なりに行くだけだよ」

 

 そうして階段の下までくると、せいぜい一分も登れば開けたところに出そうだった。彼の握る手の強さは一段と強くなって、私は言い知れない緊張感と一緒に階段を登る。

 細い丸太を滑り止めのように配置した階段は足元も悪い。ゴロゴロとした石も障害物のようになっていた。だからだろうか、彼は何度もこちらの様子を窺っているし、一段ごとに気遣ってくれていた。それが何段も続いた頃には、それまで隠れていた月の明かりが足元に差し込んでいた。

 視界が開ける。広い空から吹き込んだ風はより冷たくなったが、視界の端に映る建物が遮っているせいか、あまり風は強くなかった。

 

「着いたよ。紗夜」

 

「ここが」

 

 彼は空いた右腕を天高く突き上げる。その指先を、私は自然と追っていた。

 都会はどうやら明るいらしい。明るすぎて夜空の星は満足に見えないし、その中で肉眼でしっかりと見えるのは本当に輝きの強いごくごく一部の星だけ。

 あの都会で見る星とは比べ物にならないぐらいの数の星が夜空に浮かんでいた。どこもかしこも星だらけと表現するのが稚拙であり、正しいのかもしれない。複雑に考えることも億劫になるような光景に暫し固まっていた。

 それはここに連れてきた彼自身も同じようで、サプライズを喰らっていたはずの私よりも興奮冷めやらぬ状態らしかった。子どものように燥ぐ彼を見れば、私が考えていたことはどれも杞憂だったと思うほかなかった。

 

「あの」

 

 謝ろう、なんて思って声をかける。けれども、彼は目の前の自然の壮大さに完全に心を奪われているらしくて、少し名前を読んだ程度じゃ反応すらしなかった。それはもはや、杞憂を通り越して私に悔しさや複雑さを味合わせていた。そうでもないと、自分の今の行動に、説明がつかなかった。

 

「え、紗夜」

 

「こっちを、向いてください」

 

 彼の狼狽の静止を聞くよりも先に、私は我慢しきれずに彼の口を塞いだ。未だかつて、自分がこんなに情熱的だったことはないかもしれない。創作の世界で欲望のままに自らが望むものを貪る獣と同じような自分がいた。

 彼が必死に酸素を求めて喘ぐ姿に気がついた私は、ようやく口を離す。小さく謝罪の言葉を呟く。途端に、数日前から頭をぐるぐると渦巻いていた気持ちがありありと思い起こされた。

 

「この間から、少し私に冷たかった……ですよね?」

 

「……え? 冷たかった?」

 

「軽くあしらったり、話を逸らしたり」

 

 言わなければ良かった、なんてことを思いながら、私は続ける。

 

「日菜に気を取られた私が悪かったということは間違いないのですが」

 

「いやいや、何の話? 冷たかったって?」

 

 そこまで惚ける彼がいて、急に血の気が引いたような気がした。これが彼の素だったから、謂わば私のこれは言いがかりに過ぎない。

 

「……ごめんなさい。私は、面倒くさい女だったかもしれません」

 

 思い込みで彼が淡々と接している、そんな人間だと想定して萎縮していたのが馬鹿らしくなったと同時に、後悔したのだ。それを素直に打ち明けると、彼は何となく察したようで、それを笑い飛ばしていた。

 

「面倒くさいなんて、俺も緊張してぶっきらぼうだったところもあるし、サプライズなのにバレちゃいけないからさ」

 

 詰まるところ、私も彼も不器用だったということらしい。彼は私を喜ばせようと可能な限り情報を秘匿しようとしたし、それを私が誤って彼が怒っていたり、呆れていたりと怯えていただけなのだ。安堵の感情に加えて、拍子抜けだという思いが出てくる。でも、彼はやっぱり優しいらしい。

 

「えっ」

 

 何よりも情熱的で、慈愛に満ちたハグだった。

 

「ちょっとでも、紗夜に辛い思いさせてたら、ごめん」

 

「……私が、一方的に思い込んでいた、だけですから」

 

 思い込んで、怯えて。それらは結局。

 

「……嫌われたく、ないんです。貴方のことが、誰よりも好きですから」

 

 すっと口をついて出た言葉は、私の抱える全てだった。恋愛のれの文字も知ったばかりのひよっこかもしれないが、私が彼を想う気持ちは本物だと私は思っている。だからこそ、彼から冷たい態度を取られたりするのは、怖くて、耐えられないのだ。それが幼稚すぎる考えだと分かっていてもなお。

 

「だから、その」

 

 彼は私の目を一心に見つめている。

 

「ずっとそばにいてください。私をもっと甘やかして、貴方なしでは、生きていけないようにしてください」

 

 それは想いを告げる言葉としては些か変だったかもしれないし、重すぎる言葉だったかもしれない。それでいて奇妙で、滑稽だ。今でさえ彼の態度をこんな気にしているというのに、もっと彼に依存させてくれ、なんて言っているようなものである。ただ、どういうわけか私はそれを求めていた。

 

「それはこちらこそ。紗夜に、ずっと隣にいて欲しい。他の誰でもない、紗夜じゃなきゃダメだから」

 

 彼の反応を恐れて俯いていた私は顔をあげる。ゆっくりと彼の瞳が迫っていた。私は弱々しい両腕を彼の首に回した。吹き抜ける風も温かいものへと変わっていた。

 以前に聞いた初めて想いを告げた時とは、まるで覚悟だとか、重みだとかざ違っていた。それほどまでに彼との日々は濃密で、沼と同じようなものになっていた。私も彼も、それを求める程度にはすっかりどハマりしてしまっていたらしい。

 吐息の白さをようやく感じるようになっていた。彼の開かれた目はすっかり蕩けていて、黒い瞳に反射した私の姿は、完全に箍の外れた獣であった。愛おしい彼しか映っていない瞳を宿した私は、どうやら彼に堕ちたらしかった。

 

「私じゃなきゃ、ダメなんですか?」

 

「うん。紗夜じゃなきゃ、ダメ」

 

 その高揚感は毒ですらあった。この夜を二度と忘れられないぐらいには中毒性に塗れている。神経まで回った毒に導かれるままに彼の唇を求めて、酸欠になった私は彼と二人、大きく息をついた。私ははしたなくも彼に寄りかかる。彼自身も息が苦しいだろうに、私を受け止めて、頽れた。

 地面は少しひんやりとするが、ぼうぼうに茂った背の低い草が芝生のようになっている。彼と同時に倒れ伏した私は彼に体を委ねた。彼も後ろに手をついて、余った片手と胴で私を支える。彼の撫でる掌は慈愛に満ちている。

 

「……はぁ、はぁ。ここにこれて、よかった」

 

 呼吸が落ち着くまでに何分ぐらい経っていたのだろうか。ほぼ同時に、そんなことを考えて、声に出していた。背中を預けた彼の方を振り返って、私は満足げに笑った。違うタイプに見えて、本当は同じような人間である私と彼、それはつまり、私の分身のようなものだった。それの奇妙さと既視感に私は、思わず笑った。

 ふと、空を見上げる。脳裏によぎったいつかの記憶を辿りながら、空に瞬く無数の星を見上げた。彼は何かを思い出したように体を強張らせた。けれども、私がそれを許さずに、振り向きざまに口づけを残した。

 力の抜けた彼は放心状態で、私と同じく空を見上げた。

 

「星見るの、好きなんだね」

 

 心地よい感覚の残る、彼の甘い言葉。彼がここに誘ってくれた真意も、あの夜の態度も、そしてこれからの彼の優しさと。全てが手にとるように分かった。そして何より、それを共有できる彼がどうしようもなく愛おしくなった。言葉や態度だけ表現するのがもどかしいぐらいに、彼が愛おしかった。

 

「えぇ。この時間が、一番。貴方と過ごすこの時間が」

 

 力強い抱擁に、私は心を奪われた。暗がりもなくなった、何処よりも離れがたいこの場所は、もはや呪縛と呼ぶ方が相応しいのかもしれない。愛という呪縛に今、私はすっかり酔いしれている。

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