ガールズバンドたちのBirthday   作:敷き布団

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【牛込 りみ】もう一度二人で

 そのカウンターは悲恋の舞台だった。

 あまりに悲惨で、思わず目を覆いたくなってしまうような、薫さんの公演や本の世界で幾らでも見てきた悲劇がそこにはあった。見慣れていたと思い込んでいたけど、いざそれを目にすると、とても耐えられそうにはなかった。

 香ばしい匂いが一面には漂っていた。仕切りの奥からは窯で焼かれるパンの匂いも立ち込める、ここは私にとって癒しを与えてくれる桃源郷であり、それでいて心を乱す場所でもあった。商品棚の一角を華々しく飾る大好物のチョココロネは少しも私の気持ちを安らげてはくれない。むしろそこにあることで私を嘲笑しているかのようで、底抜けの甘さが私の臆病さを詰っているような感覚すら覚えた。

 

「りみりん、今日はチョココロネは買わないの?」

 

「えっ……? えっと、まだ何のパンにしようか悩んでて」

 

「あはは、パンは逃げないからゆっくり選んでね?」

 

 背後から私を呼ぶ声にどきりとする。適当に作り上げたそれらしい文句で質問を躱し、首だけ捻って声の主の方を見た。トレイ一杯に敷き詰められていた焼き立てのパンを陳列し終わったのか、沙綾ちゃんはカウンター横の腰ぐらいの高さのスイングドアをそっと押してカウンターの中に戻っていた。前までならたった一人しかなかったはずのその立ち位置は少し、いや、かなり窮屈そうに見えた。間違いなく私の中の醜い感情の増幅のせいだった。

 

「りみりんしかお客さんいないからって、あんまり気を抜きすぎちゃダメだよ?」

 

「いやー、バレたか。って近い近い。ごめんなさい」

 

 沙綾ちゃんが、レジ前でぼんやりしていた私の想い人の顔を覗き込んでいた。そんな沙綾ちゃんの姿に、香澄ちゃんが時折私たちに見せるような距離感に近しいものを感じて私は焦る。そして、何もできない己の無力さを呪うのだ。

 沙綾ちゃんが親しい人にだけ見せる、揶揄う時の戯けた顔。彼が心を許した人にだけ見せる、まんざらでもなさそうな緩んだ表情。他所から見てもお似合いに思える二人の掛け合いに私は耳を塞ぐ。

 カウンター奥の壁に揺れる二つの影を横目で確認した私は、僅かにでも気を紛らわせるために苦々しいパンの観察に没頭することにした。

 

 

 

 この心のざわめきの始まりはいつからだっただろうか。少なくとも、Poppin'Partyという居場所が私に出来てからなのは間違いない。ポピパのみんなと同じ時を過ごすようになって、同じ音楽を奏でるようになって、このベーカリーに訪れる頻度が増えたの自体もそれ以来なはずだ。

 商店街の角っこ。早朝から窓から明かりをこぼすその店は、近所でも評判の良いパン屋さん、やまぶきベーカリーだった。

 私はただの常連、もちろんここの看板娘の沙綾ちゃんの親友ということを強調すれば特別なのかもしれないけど、ただの一客。ちなみに言っておくと、私はこのベーカリーの作るチョココロネに依存していると言っても良いほどのリピーターだ。

 そして肝心の彼は、数ヶ月前までは私とさほど変わらない立場だった彼は、気がつかない間にカウンターの向こうの人間になっていた。なんでも沙綾ちゃんが直々にスカウトしたとかなんとか。

 

『実はやまぶきベーカリーの店員になることになったんだよね』

 

『……ええっ?! 嘘やろ?!』

 

 唐突に彼からその事実を告げられた時には素の関西弁が溢れてしまうほどには驚いたなぁ。なんて思い返せるほどには直近の出来事で、思い出深いことなのだった。まぁ、想い人、とあの私が断言するほどなのだから、彼に関することなら強烈に覚えていても仕方がないかもしれない。

 

『なんと賄いで、お店の売れ残りのパンが出ます。チョココロネも実質食べ放題』

 

『ええっ?』

 

 じゃあどうして彼を恋い慕うようになったのかなんてのを語れば、特にそこに大きな理由があったわけではない。ただ、私が今もこうして複雑な気持ちを抱くまでにはこんな経緯があったのは間違いないはずだ。私と同じくお店のパンをありがたく貪っていたはずの彼はいつのまにか店員になっていて、その隣には沙綾ちゃんがいる。それこそが私がやまぶきベーカリーでひしひしと感じる焦燥感の原因であり、この心のざわめきであり、発端なのだ。

 

 

 

 店の外から聞こえて来る音楽で、途端に私は現実に引き戻された。店内に流れる穏やかで静かなBGMをかき消すようなその音楽は、暮れなずむ街に宵の訪れを知らせる音楽だった。小学生なんかだと足早に家に帰るような時間、それぐらい。

 店外の暗さを少しずつ反映して、店内に差し込む太陽光が微妙に少なくなってきたベーカリーの店内。未だに私を含めて三人しか姿が見えないこの店舗で、ただ耳を塞ぐ。親友と想い人の談笑には耐え難かった。

 目の前にたくさん並べられた美味しそうなパンを、ただ目的もなく吟味するだけだった。そこにどのパンを食べたいか、なんていう考えはない。パンのことなど、眼中にすらない。だからこそ沙綾ちゃんに咄嗟に聞かれた質問への答えはあやふやなものしか出せないのだ。普段はあれほど私を魅了して止まないコロネでさえ、今は背景の一部でしかなかった。

 パンは素材の麦が焼かれた色が、傾いた陽光によってさらに強調されていた。時刻は既に午後五時、ぼちぼち会社帰りのサラリーマンなんかが店に立ち寄ったりする時間帯。もしかすると新しいお客さんがこのお店に来るかもしれない、否、間違いなく来るだろう。現に窓の外に見える街角を彷徨う人の影は明らかに先ほどよりも増えている。

 ……こうしたお客さんの多い時間帯を乗り切るためなのか、それまでまるで聞いたことも想像したことすらもなかった、彼が店員になるという現実が出てきてしまったのかもしれない。羨ましさで、飽きるほどに眺め続けてしまったパンから目を逸らした一瞬で、私はそう嘆いていた。

 

「りみー、買うパン決まったかー?」

 

「え? ま、まだだよ」

 

 気を抜いていた私を焦らせるような彼の声。思わず私はすぐ手の届く距離にあったトレイとトングを引っ掴み、目の前で金色を反射するチョココロネをトングで挟んでいた。チョココロネを選んだのは別段好物だからというような浅い理由ではなく、それでいてすぐ目の前にあったからというとんでもなく薄っぺらい理由であった。

 早く会計を済ませてしまおうと踵を返す。やはり視界の端には見たいけど見たくない光景がちらついていて、トレイの端の方に控えめに乗ったコロネに必死に意識を向けた。こうすれば今この瞬間だけでも、変な悩みを忘れて生きられるから。

 

「だから、いくらお客さんがりみりんだとしても焦らせたりしたらダメだって!」

 

「痛っ、ごめんてば沙綾」

 

「全く反省してないでしょ? もう」

 

「あはは……仲良いね」

 

 はやる気持ちを胸の奥に隠しながら私は苦笑いを浮かべた。天板一枚を隔てて向こう側にいる二人。接客態度がイマイチな店員に少しむくれた表情の沙綾ちゃんも、意図的か無意識か不真面目さを露わにしている彼も稀に見るやまぶきベーカリーの光景で、私は肩を落とした。奇遇にも財布に入っていた丁度の小銭をレジに出す。既につま先は店の出口に向いていた。

 

「それじゃあ、私は帰るね」

 

「うん。りみりん、また明日ね」

 

 彼から短いレシートを受け取って、沙綾ちゃんに手を振りながら店を後にする。なんだか清々しいようで、それでいて陰鬱な気分になって、思わず店内に所狭しに並べられたパンに目線を移した。やはり太陽光を適度に反射して黄金色に輝いており、本当に眩しかった。早くここから立ち去りたくなってしまう程度には眩しかったのだ。

 どうせ変な葛藤を起こしていたって、習慣のように体に染み付いてしまったのだから、明日も明後日も用事がない限りはこの店に来ているのだろう。カウンターの向こう側に誰がいるかは別の話として。そんな自分自身への諦めの言葉を残しながら私は店を出た。

 

 

 

 翌日、案の定私はやまぶきベーカリーを目指していた。昨日よりは少しぐらい早い時間帯。聞いたところによれば、彼は昨日に引き続き今日も今日とてシフトに入っているらしい。それを確かめるため、私は意気揚々と店のドアを開ける。そこに広がっている光景は当たり前と言えば当たり前なのだけど、昨日とそう変わらない光景が広がっている。いつも通りの行きつけのベーカリーだった。

 

「あっ、りみじゃん。いらっしゃい」

 

「また来ちゃった。今日も二人で捌いてるの?」

 

「捌いている、なんて大層なことは言えないけど、まぁ沙綾と二人かな。奥に沙綾のお父さんはいるけどな」

 

 物凄く小さく、そっか、なんて呟いた私。まぁまず間違いなく私が呟いた言葉は彼には気づかれないだろう。私の出している落胆にも似たオーラにも気がつかないのだろう。もし万が一にでも気がつかれていたり、察されていたりなどすれば、今頃私はここから飛び出して、逃亡を図っているかもしれない。

 そうこうしているうちに、レジの前で暇を持て余した彼以外の、もう一人が奥の部屋から現れる。私は咄嗟に不満を覆い隠したように口角を上げた。学校やCiRCLEで会ったりするのとは、違う意味を孕んでいるのだから。

 

「りみりんいらっしゃい。またゆっくり食べたいパンを頼んでね」

 

 食べたいパン、か。至極当たり前の話なのだが、パン屋さんに来る以上はパンが欲しいから来るはずだろう。一方で、今の私にはあまりそういう目的はないような気がしてしまった。彼に会いにくるためかと問われれば、それも全てが全て正しいわけじゃない。なぜ劣等感、敗北感を味わいながら悲運のレジカウンターを眺めなければならないのか。むしろ、今まで挙げたどれよりも、ルーティーン、悪い言い方をすれば惰性で訪れているという表現の方がしっくりくるのだった。

 

「うん、ゆっくり見させてもらうね」

 

 個人経営のベーカリーだ。店内がそう広いわけでもないし、十人ぐらいのお客さんがフロアに入った時点で既に窮屈感を感じるほどだ。そんな極端に広いわけじゃないのに、連日、訪れるだけ訪れてパンを眺め続けるというのはどうにもつまらなさを感じるものがある。当然置いてあるパンの種類、順序は大きく変わらず、店の内装がガラリと変わるわけでもないから、昨日散々睨めっこしたばかりのパンの数々にもう一度勝負を挑むだけなのだ。実に退屈だった。

 

「じゃあパンを見るついでにお喋りでもしようか」

 

「わっ」

 

 退屈さの極みのような遊戯に励もうとしていたところに声をかけられる。間違いなく彼の声で、私の肩の上あたりからすっと抜けていくような声に、私は驚いて尻餅をつきそうになる。

 居直った私はお喋り云々以前に人を茶化す気満々の彼に薄っぺらい抗議の意思をぶつける。やはり彼は飄々と、持ち前のスルースキルで何事もなかったかのようにパンの直近で目を凝らしている。

 

「うん、このパンは焼き目がいい感じ。こっちは逆に窯から出すのが早すぎたんだろうな」

 

「へぇ。ここで働いてるとそういうことまで分かるようになるんだね」

 

「え? あー、うんうん」

 

「りみりん。適当に言ってるだけだと思うからあんまり真剣に相手しなくても良いんだよ? そもそもまだレジしか基本的にやってないでしょ」

 

「あちゃあ。沙綾にバラされちゃったか」

 

 言われてみれば彼がパンを焼く工程を担当しているところなんて見たことがない。まぁそれも考えればすぐに分かる話か。働き始めてすぐにパンなんて焼けるようになるものじゃないと思うし、沙綾ちゃんだってパンを作る方に回ることは稀なのだ。ちょっぴり意地悪な彼に騙されているみたいだ。

 特に悪びれるような様子もないまま、彼は相もかわらずに同じように店先に並ぶパンを見つめている。店名のロゴが入ったガラスの裏手で、まるで威厳のある評論家のような厳しい目つきのままパンをいくつも見つめている。よくよく見れば、単に視覚的な情報、例えば焦げ目があるかないか、香ばしい色合いに焼き上がっているか、みたいなところだけじゃなくて、鼻を近づけてどのような匂いがするのかなんてものを確かめているようだった。そこを見れば、本当にパンを格付けするような職業の人なのかと思うばかりの真剣さだった。

 

「よし、これにしよう」

 

 だからそのまま彼が見せた行動は私からすれば少々違和感がある、というよりも突飛すぎて予想も真似も全く出来ないものだった。彼はカウンターの横に掛かっているビニール袋を一枚引っ掴み、掛けて吊るされていたトングを拾い上げると、あっという間に並べられたパンからいくつかを取って袋に放り込んでいく。あまりに慣れた手付きだったもので、きっと彼はレジだけじゃなくてこういう風にパンを扱ったりもしているのだろうことは容易に想像がついた。ただ、袋に少しばかり乱雑に放り込んでいく様は、褒められたものではなさそうである。

 

「よし、じゃあこれ持って出掛けようか。りみ、お供してよ」

 

「……へ?」

 

 お供、なんていう聞き慣れないワードが飛び出てきて私は彼の方を見上げた。出掛けるも何も彼は今まさにアルバイト中だし、その証拠に彼はここ、やまぶきベーカリーの店員たる象徴のエプロンを体に纏っている。ここで出かけたら完全に職務怠慢だ。

 私も状況というか、彼の行動の訳がわからないまま、彼は袋に放り込まれたパンのいくつかを指差している。

 彼の行動の真意が見えずに沙綾ちゃんに助けを求める。アイコンタクトで沙綾ちゃんに確認してみたが、沙綾ちゃんはただただ苦笑いを浮かべるだけ。どうやら何も完全に理解できていないのは私だけらしい。

 

「えっと、出掛けるって、お仕事はいいの?」

 

「あはは、今はお客さんもそんなに来ない時間帯だから私一人でもレジは回せるよ。ちょっと休憩してくる?」

 

「店長ありがとうございます!!」

 

「調子の良いこと言わない。ほら、行った行った!」

 

 確かに今も店内に私しかお客さんが居ないように、忙しい時間帯というわけではなさそう。だが、それでも良いのだろうか、なんていう良心に私が苛まれている一方で、彼はなんの懸念も葛藤もなく意気揚々と店を出ようとしている。右手にはご丁寧にパンがいくつも入ったビニールを提げて。

 私は急展開にポカンとしていたが、すぐに彼の後を追うように私は急いで店を出る。沙綾ちゃんはカウンターの向こうから明るく手を振ってくれていたから、私も甘えて気兼ねなく駆け出した。

 お供云々なんてことを言いながら、彼は私のことなんか気にすることもなくどんどんと歩き出していた。お店のドアから飛び出したら、既に彼の背中は少し小さくなりかけている。

 

「はぁっ、はぁっ、待ってぇ……」

 

 やっとの思いで彼に追いつく。彼は流石に店の外であることを気にしているからなのかエプロンは既に脱いでいて、普段通り、ただ外に出かけるだけのような風貌をしていた。

 

「さてさて、どこ行こうかな」

 

「あれ、行き先決めてないの?」

 

「んー。本当にただ抜け出してきただけだからなぁ」

 

 思いの外、彼の勤務態度というのは悪いかもしれないらしい。沙綾ちゃんが許容しているからまだマシとはいえ、特にあてもなく店を抜け出したなんていうから驚きだ。彼の表情を見ても本気で何も考えていなかったらしく、うんうんと唸ってふらついているばかりだった。

 

「なにかりみは行きたいところある?」

 

「え、行きたいところ?」

 

 そう問われて私は辺りを見回した。ここは商店街だからお店ということなら大体なんでも揃っている。ただ、別に商店街で買いたいようなものがあるわけでもないし、そもそもの話をすれば私がどこかに出掛けたくて店を出たわけでもなかった。そんな時だった。

 ぐぅ、という音だけを聞けば可愛らしく、少し間抜けな音が聞こえてくる。自分のお腹からの音だった。咄嗟に私はお腹を押さえて、腹筋に力を入れたけど、すぐ隣を歩いていた彼には聞こえていたらしい。

 

「うーん、公園とか行こうか」

 

「う、うん。そう、だね」

 

 形容し難い恥ずかしさだとかで私は一気に口数が減る。というより彼の顔が見づらくなる。彼も恐らくは音に気が付いてはいると思うが、気遣いなのか気まずさなのか触れないでいてくれるのはありがたい。ただ、私から話しかけることもない状態で彼も無口になると、耐え難い沈黙が訪れるのも確かだった。

 どうやら私も、我慢しきれずに腹の虫が鳴ってしまうぐらいにはお腹を空かせてベーカリーに行っていたらしい。結局何も買わないでお店から出てきてしまったことが悔やまれる。

 空腹というものからどうにか気を紛らわせようと歩く街並みを眺めてみても、隣で同じ歩幅で歩いてくれる彼が気になって仕方がない。けれども、そんな風に気を取られているうちに目的地らしきところに着いたらしい。

 

「折角の公園だし、ブランコとか漕ごうか」

 

 訪れた公園はありふれた児童公園。端っこの方に申し訳程度に所々植わった木々は春の訪れを待っているのか静かに葉を風で揺らしている。人の姿はあまり見えないし、頻繁に町の人が訪れるような規模の公園には見えない。

 そんな中で公園の入り口から一番離れた奥に青いペンキが剥がれかけたブランコがポツンと立ち並んで、二枚の板がチェーンに釣られて揺れていた。彼はそんな奥まったブランコを指差しながら、硬い砂の地面を駆ける。

 片っぽに腰掛けると振り向いて、私をもう片方に座らせようと手招きしている。座る前にちょいちょいと呼ばれて、彼が袋から取り出したものに目を見張った。

 さっき彼が店を出る前に引っ掴んでいたパンだ。シンプルな味の、少し小さめのクロワッサンを差し出される。私は瞬間的に自分の顔が赤らんでいったことに気がついた。ただ、彼は何の悪気だとかもなく、むしろ親切心でこれをしているだろうことが表情で余計に分かった。それが尚のこと私のちっぽけな羞恥を加速させている。

 

「パン、お腹空いたでしょ?」

 

「お腹は、空いてるけど」

 

 受け取らないの、と言わんばかりに首を傾げている彼を放っておくわけにもいかず、差し出されたパンをそのまま受け取ることにした。彼はご満悦と言わんばかりの表情でうんうんと頷いているけど、私は少しだけ複雑に感じるところもあった。パンを差し出してくる彼の顔つきを目にする度に、あまりに矮小すぎる私の醜い感情を意識せざるを得なかったからだった。

 パンを手にした私は彼と目を合わせることなく板に腰を下ろして、早速とばかりに揺られることにした。右足で強く地面を蹴って、前の方に大きく漕ぎ出す。座ったままでも意外とそれなりの振り幅になるみたいだった。視界の高さこそ普通に立っている時とそれほど変わらないものの、日常であまり味わうことのない軽度の浮遊感が僅かに重苦しさを払拭してくれていた。

 片っぽの手でチェーンを握り、もう片方でもらったパンを掴んだままブランコを漕いでいると、また腹の虫が鳴き出しそうな折になったので、パンを落とすようなヘマをすることもないまま慌ててクロワッサンを齧る。

 ほんの少し塩味がするのは気のせいではない。多分岩塩だとかそういう類の味付けなんだろう。いつもなら何よりも甘い、それこそチョココロネなんかのパンを欲することが多いはずなのに、今日は何だかこういう塩気のするものを食べたくなっている自分がいた。

 

「やっぱりやまぶきベーカリーのパンは絶品だな。いつ食べても美味い」

 

「うん、味はずっと変わらないね」

 

 そんな懐かしむような口調で、私はかつての自分の姿を思い起こしていた。もっと言えば、私と、それと彼の姿と言った方が正しい。まだ彼がやまぶきベーカリーで働き出すなんてなかったころだ。それはつまり、まだ私が気まずさや一抹の切なさを覚えずに生きていた頃だった。

 こうしてパンを二人で買って、互いの家の前だとか、こういう公園に立ち寄ってパンを食べて、なんでもない学校の話を話したりしただろうか。そうやって当時を思い返すだけでどことなく無常感のようなものに包まれる気がした。色褪せた写真に写る、今とは違う自分を見ているようだった。思い出がどんどんと褪せていって、紡ぎ出すものも変わっていく一方で、今口にしているパンの味が、いつ思い出しても、いつ齧ってみても変わらないというのが皮肉が効いていて悔しくなる。それでもなお私はやまぶきベーカリーに通い続けるのだから、本当に変な話だった。

 

「パン、一個で足りないよな? 何個食べたい?」

 

「んぐ……。うーん、あと一つあれば大丈夫だよ?」

 

 彼は私よりもさらに大きくブランコを漕ぎながら話しかけてくる。私が気がつかない間に随分と大きな振り幅になっていて、それどころかさっきまで座ってブランコを漕いでいたのに、今は立ち漕ぎをしているではないか。それなのに、彼の左手はチェーンを握り締めながら、パンがゴロゴロと入った透明なビニールを提げている。風の音だとか、チェーンに擦れるビニールの音が、彼の声を思わず掻き消してしまうぐらいに響いていた。

 

「えーとな。今あるのが、チョコクロワッサン、メロンパン、クリームパン、チョココロネ。何が食べたい?」

 

 風に掠れてなのか、それとも古いブランコが軋んでいる音、金属の擦れる音、ビニールの音、そんな色んな音が混ざり合って彼の声は消え入ってしまいそうだった。辛うじて聞き取れたのは私が好きなパンの名前ぐらい。聞き返すのも少々億劫なぐらいのこの時間、私は何を恨めば良いのだろうか。

 

「じゃあ……」

 

「よいしょ、っと」

 

「え?」

 

 私の答えを聞いたりする前に、まさかの彼はブランコから飛び降りた。しかも一番高いところに到達する直前で飛び降りたもので、私の視界の端で彼が大きく空に駆けているようだった。それはとても格好良くて、清々しい姿だったが、間違っても小さな子どもには見せられないような危ない様子だった。それなのに彼は飛び降りたまま体の向きをクルリと翻して、幼い少年のように屈託のない笑顔を浮かべている。

 彼が着地した瞬間に、雨も降らずに乾燥した砂が僅かに舞う。思わず私はブランコを座って漕いだまま目を閉じた。公園の中を颯爽と吹き抜けていく風がまた再度砂を巻き上げて、春の嵐が一段と早く訪れたのかと錯覚するほどだった。

 

「それで」

 

「うわ、とと……」

 

 惰性で動いていたブランコだったけど、彼が飛び降りてから、バランスを崩したら彼に衝突しそうだったので慌てて足裏を地面につけて動きを止める。ズザザ、なんていうこの歳になってからはあまり聞いた覚えのない砂の滑る音がして、私はほうと息をついた。勢いのままにブランコから立ち上がる。彼は私の気がつかない間に脇に立っていた。

 途端に、彼の目線が私を貫いた。乾いた一陣の風と共に、私の髪を靡いた。

 その時、今日初めて彼の表情を完全に真っ正面から見たような気がした。距離を一定に保っていたカウンターもなければ、売り物を示すような値札もない、殺風景な公園がどことなく居心地が良かった。彼と目が合う。とても純粋そうな瞳をしていた。

 彼は、私がさっきの質問に答えなかったことを不思議に思っていそうな顔をしている。彼が手に持つ袋の中では、風に煽られぷらんと揺れた袋の中でパンが今か今かと待っているようだった。

 

「チョココロネ、食べたいな」

 

「オッケー。チョココロネね」

 

「二人で、食べたいな」

 

「え?」

 

 彼はキョトンとした顔をしながらも、袋の中に一つしかないチョココロネを取り出す。そして、およそ真ん中辺りでパンを千切ろうとする。ただ、彼も不器用だったのか、パンは明らかに二等分ではなく、コロネの細い方の部分が小さく別れてしまっている。なんとも言えない絶妙な空気感の中、彼はそのコロネの細い方の部分を手渡してきた。

 

「はい、半分」

 

「半分……、ふふっ」

 

 何食わぬ顔をして小さい方を渡してくるところは彼らしいと言えば彼らしい。こういう時は大きい方を渡してくれるのが定石というか、手心というもののような気もするのだけど、私はこれで良かった。これが良かった。

 ただなんとなく、店の中で憂鬱になっていた自分がバカらしく思えてきたのだ。窮屈なカウンターに羨望を抱き、臆病な自分に劣等感を覚えることが。そんなこと考えたって仕方がないと、彼が言っているようだった。

 

「半分だね。このコロネ」

 

 私はもう一度二つしかないブランコの椅子に座る。彼もしどろもどろになりながらも隣の椅子に腰掛けた。ただ、私が隣を向いてにこりと笑うと、彼も微笑みで返してくれるようだった。

 

「ねぇ、またチョココロネ。二人で半分にして食べたいな」

 

 私がそんなことを呟いた時、彼はどこか驚いたような顔をしていた。何度も私の表情と手持ちのコロネを交互に見返している。彼に私の呟いたささやかな願いの意味が伝わっているかと問われれば、それは違うようにも思われるが、彼へのお願いというよりは、これは自分への誓いじみたものだった。

 並びあった二つのブランコの椅子の振れ幅が丁度揃って、同じ音を立てていた。

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