ガールズバンドたちのBirthday   作:敷き布団

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【広町 七深】幼い天才を重ねて

 私は所謂、『天才』だった。初めて体験することであっても一通りできるし、しかもその出来は周囲と比べると格段に良かったことは自分の自覚するところでも、周囲の称賛するところでもあった。

 だが、何をするにしても私がその才能、謂わば天賦の才と言えるそれに感謝したことはない。私にとってそれは、平穏な私の周囲を取り壊していく悪魔の囁きだった。

 

『広町さんは何でも出来ていいよね。私も出来たら良いのに』

 

 私にとって『何でも出来ること』というのは、他者から羨望の恨言を被るだけの貧乏籤のようなものであった。私は両親から与えられた才能の遺伝子を恨んだ。周りの人間から嫉みを買う力を恨んだのだ。

 私がとりわけその力を発揮したのは特に絵画の部分だったか。中等部の時に書いた私の絵は快挙を成し遂げた。周囲からは称賛され、絵が描くのを楽しいと、そう錯覚した。

 でも、私は知ってしまったのだ。

 

『私たちの絵と全然違うね……』

 

『すごいね。普通こんなこと出来ないよ』

 

 多少の羨望混じりであることは最初から分かっていたつもりだったが、私に降り注いだ言葉の数々は称賛の面を被った拒絶であった。

 独創的と表現され、高い評価を受けた絵のコンセプトも、魅力的と言われ、高い表現力を買われた絵の細部も、それらは全て私を周囲から遠ざけるための、性質の悪い神様のくれた呪いであった。周囲の絵と比較して優れているからこそ評価されるであろうに、比較した結果他のものと違っているからこそ、周りの人間は私と距離を取るようになった。幼いながらに感じた、消えていった人間関係の悲しみが私の才能を狂わせていったのである。

 それから、私にとって『周りと違うこと』は悪であった。『普通であること』が高い価値を持つようになった。

 だからだった。私が突然現れた()()()のことを目で追うようになったのは。かつての私と同じように、『周りと違うこと』で拒絶された異端児が目の前で、黙々と自分の好きなものに打ち込む姿を見て、目を離すことが出来なくなってしまったのだった。

 

『すごいんだね、その絵』

 

『……はい?』

 

 私の口をついて出た言葉は、かつて私自身を苦しめた下卑た、心の底から憎むべき称賛の文句で、私は思わず口をつぐんだ。何故私は、過去の自分が苦しみを背負ったその言葉を、何の躊躇いもなく吐き出せたのだろうか。突然湧いて出た疑問に頭を抱える間も無く、私は彼と目が合った。

 

『……あ、いや……その……』

 

 何の前触れもなく話しかけて来た私を、まるでおかしな人のように見つめてくる目線は純粋さを保ちながらも、どこか冷徹であった。その目線が私を串刺しにしている限り、私は何も話すことが思い浮かばなかった。

 

『まだ何か?』

 

『……ごめんなさい』

 

 その場で私は一言謝罪の言葉を残して逃げた。今から考えれば不誠実極まりなかったかもしれない。だが、その場に立ち尽くすほどの勇気もなく、また、かつての嫌な記憶が喚び起されそうで、その現実から目を背けたのだ。

 

 それからだろうか。私が決して自ら進んで近寄ろうとすらしなかった、アトリエという空間に赴くようになったのは。勿論その異端児以外の人がいたこともあったが、多くは私と二人きりの空間が続いた。

 二人きりと雖も、私たちの間に会話は殆どと言って良いほどなかった。彼はずっとキャンバスに向かって、よくわからない絵を描き続けているし、それに話しかける勇気はなかった。偶に休憩らしき時間が訪れても、会話はあまり弾まなかった。

 でも、逆に彼が私以外の誰かと喋っているところを見ることもなかった。顔を合わせこそするが、会釈もせずに、況してや会話をしようともしない。話しかけられても最低限の返事しかしていなかった。それが余計に訳が分からなくて、私は目を離せなくなっていったのである。私とは()()()、周囲と違うことを平然とやってのける彼のことが気になって仕方がなかったのだ。

 

 

 

 

 

 外の空気はジメジメとしている。人の目線が雨粒に反射して全方位から自分が見られているように感じる。それは私を均そうとするような悪意に満ちた目線で吐き気を催した。

 私は梅雨の悪意に苛まれながらアトリエに入った。そこには先日私と共にコンクールに作品を出品し、賞を総なめした天才たる異端児がいた。学校というコミュニティに縛られないものだったため、私は周囲を余り意識することなく絵というものに向き合うことができた。けれど、思い思いのままに描いて出された私の絵は、その異端児とやらの絵に一歩及ばなかった。別に負けたことに恨みを述べたりするつもりはないが、私も普通の子どもであるから、評価が文字として定性的かつ端的に表される賞という、簡潔で明瞭な表現には囚われていたのだ。

 

「ごきげんよう。最優秀作品賞に、特別審査員賞、すごいね」

 

 相手の受けた評価を丁寧に並べる私は性格が悪いのかもしれない。それは私の羨望を隠さずに表現した言い回しだったから。謂わば私がかつて受けてきた、周囲と異なることを良く聞こえるように言い換えられた、嫌味のようなものであった。

 

「ごきげんよう広町さん。ありがとうございます。でも広町さんだって、優秀作品賞を獲ってましたよね」

 

 受賞したとしても、彼の下位互換なんだ、と場の空気を乱すようなつまらない返しはしない。多分彼からすると嫌味の部分はないだろうし、その言葉は全て善意からくるものなのだろう。ふと、そんな気がしたのである。

 彼は腰掛けていた木製チェアから腰を上げると、強張っていた筋肉を解すように伸びをした。その時、絵と向き合う時には全く見たこともなかった幼さを残した表情と、弛んだ口角が目に入った。伸びを終えて視界がはっきりとしたであろう彼と目線が合う。すると見られていたことに気が付いたのか、普段からは想像もつかないほどに焦り始めて、頬を赤らめたかと思うと腰をチェアに下ろした。テーブルの足に膝をぶつけて大きな音が出るも、何事もなかったかのように澄ました表情に戻していた。

 私はこれまで見ることのできなかった、天才の新しい一面を目撃してほくそ笑んだ。弱みを握っただとか、そういうのとは少し違うが、何故だか心がほんの少し暖かくなったのだ。けれど、私が目撃した不意の一面はあっという間に取り繕われてしまった。

 

「優秀作品賞なんて、そんなに凄くないよ〜」

 

「左様ですか」

 

「うんうん。一番というわけでもないから」

 

 今回のコンクールとて、私は敢えて最優秀作品賞とやらを狙っていたとか、そういうわけではない。無意識のうちに良いところを目指す、なんていう感覚はあったのかもしれないが、それだけを目標に絵を描いたわけではなかった。むしろ自分としてはただ楽しく、周囲と比べて可笑しかったとしてもそれを周囲の親しい人たちに知られることのない、そんなステージで絵を描くことが出来ることだけを考えていたつもりだった。

 それだけに、自分がそんな言い訳じみた返しをした理由がよく分からなかった。そんな理由に困惑するうちに私の口から吐き出されていた言葉は、意味のない弁明の言葉だった。

 

「別に一番を獲りたかったわけじゃないんだけどね〜。好きな絵を描こうとしただけで、変な絵になっちゃったかもって、思ったぐらいだったから」

 

「……まぁ、僕も敢えてトップを狙ったとか、そういうわけではないですが」

 

 妙に含みのある言い方に、逸らしていた目線を彼の方へと戻した。哀愁すら漂わせたその表情の醸し出す意味がまるで読み取れず、私は何か失言をしたのかと只管自分の過去の発言を振り返る。そこには確かに、過去の自分が聞けば羨望と他者との隔絶を意識するような言葉があった。

 けれど、例え私が彼の立場で、広町七深という人間に嫉妬混じりの妄言を吐き捨てられたところで、彼からすればそんな隔絶がどうなどということを意識するとは思えなかった。

 

「えっと。何か嫌なこと言ってたら、ごめんね?」

 

「……え? いえ。お気になさらず」

 

 そう言い切るなり、彼は黙りこくって、キャンバスの前のチェアに腰掛けたまんま固まってしまった。どうやら私はやはり失言をしたらしく、それがどこなのかということが分からないあたり、私は普通ではないらしい。

 居た堪れないから足早にここを立ち去るという考えもあったが、私がこの部屋の空気を最悪なものにしてしまった自覚があったので、そんなことは私には出来なかった。それでいてこの失言を帳消しに出来るほどの挽回も出来ず、結局のところ私はその場に立ち竦むことしかできない。そんな私の独り善がりの葛藤に気づいたのか、彼はいつもより小さな声——普段は落ち着いてこそいるが、発音は明瞭であったのに——で、蚊が鳴くよりもボソボソとした声色で私に問いかけた。

 

「僕の絵は、変な絵でしょうか?」

 

「……え?」

 

「……言い方が変でした。変な絵であることは、独特な世界に生きる絵は、悪いことでしょうか?」

 

「それは……その……」

 

『変な絵』と言われて思い出した。さっき私は自分の絵をそのように表現したのだと。それを踏まえてきっと彼はその定義に自身の絵が含まれるのかどうかを聞こうとしたのだ。私自身もその定義を表現することは難しいが、一つ言えることがあるとすれば、彼は私などでは足元にも及ばない『本物の天才』なのであろう。世間一般的には『天才』などと揶揄される私も、彼の絵が凄いことは分かるが、その凄さを説明することはできない。だからこそ『変な絵』かと問われて思考が止まったのである。

 けれど、何のためだろうか。私にはその質問の意図も見当がつかない。そして答えを返しあぐねていると、答えに窮するところを見た彼はまたいつもの明瞭な発音で呟いた。

 

「変なことを聞きました。忘れてください」

 

 私は何も聞くことが出来なかった。私がぼうっとしている間に彼は蜃気楼のように部屋から姿を消していた。木枠の隙間から部屋に吹き込む外の湿気混じりの空気がカーテンを揺らして、これから絵が描かれるのであろうキャンバスを台無しにしていた。

 

 

 

 

 

 次の日、私はMorfonicaの練習でライブハウスを訪れていた。別段特筆すべきこともなくその日の練習は終わりを告げたのだけれど、私の頭の中には昨日のアトリエで起こった、絵を介した呪いの押し売りのことがあった。押し売りというと、私が彼にその呪いを与えてしまったような言い方かもしれないが、それでも間違いなく、あの時の彼はかつての私であった。

 

「ななみー? どうしたんだ?」

 

「……え?」

 

 私が川の向こうに広がる真っ赤で、紫の混じりかけた夕焼けに見惚れていると、後ろの方からとーこちゃんの声がした。しろちゃんやつーちゃん、るいるいはいなかったから、もしかしたらとーこちゃんが一人で私を追いかけてきたのかもしれない。

 

「とーこちゃんこそどうしたの?」

 

 少しだけ息の上がったとーこちゃんの姿の方が、よっぽど何かあったのかと尋ねてみたい部分である。けれど、まず間違いなく私に用があるのだろうし、不毛で無駄な問答はよそうと思った。

 

「あたし? いや、今日の練習中のななみ、ずっと心ここに在らず! って感じしてたじゃん?」

 

「……え?」

 

 私の中ではそんなことはなかった。少なくともベースの出来は文句をつけられるほど酷いものではないと思うし、謂わば中庸を貫いた、文句なしに、普通の演奏の出来だったと思っている。

 

「私の演奏、なんか普通じゃないところとかあった?」

 

「いいや? 演奏はいつも通りで、変なところとかは無かったと思うけど、たまーに考え事してんのかなって時とかあったよなーって」

 

 どうやら、私の頭の中をずっと漂っていた昨日の後悔が、他人からも読み取れるほどに私の表情に表れていたらしい。一応隠してはいるつもりだったが、意外にもこれほどあっさり考え事なんてものはバレるものなのだろうか。

 私のちっぽけな後悔を話そうかどうか悩んだが、とーこちゃんをはじめ、Morfonicaのみんなは私の絵を、それこそ私が普通であることに意味を見出す理由すら知っている。ならば話したって問題ないかもしれない、そんな風に思い立った私は、昨日のアトリエで起きた不穏な時間をとーこちゃんに語り始めた。

 

「ふーん……。変な絵であることが悪いことかどうか、かぁ」

 

「……うん。何か気を悪くしちゃったのかな、って」

 

「まぁそうなんじゃねーの? ななみだって、『自分の絵を見た誰かが自分を見る目が変わっていく』のが嫌だったんだろ? ならそいつだって、変な絵って言われるのは嫌なんじゃないの?」

 

 Morfonicaのみんなに私の描いた絵のことを知られたあの日。私はみんなが私を見る目が変わることを恐れていた。中等部の時に描いた、あの時の絵のように。けれどみんなは私の描く絵を至極当たり前のように受け入れてくれたのだ。

 その時の嬉しさは今でも胸に残っているのだが、だからこそ自分の描いた絵を『変な絵』、即ち人と違う絵であると形容されることの辛さは理解しているつもりだった。自分の描いた絵が原因で周りから身近な人が消えていくだなんて、そんな辛いことはそうないから。

 

「それは……いい気はしないだろうけど」

 

「まぁななみがその絵を『変な絵』って言ったわけじゃないんだろ? なら気にしすぎても仕方ないっしょ!」

 

「そうなの、かなぁ」

 

 確かに私がその独特とも取れる絵を罵倒したりだとか、小馬鹿にしたつもりはないし、そのような誤解をされるような言動も取っていないはずだ。獲得した賞を並べていくのは意地が悪かったかもしれないが、それでもそれはあくまでもその絵を否定したものではない。むしろ中途半端な自信に自惚れていた哀れな自分を隠して許す、免罪符である。

 私の心の中のモヤモヤ感はあまり解消されることはなかった。とーこちゃんと話をして、少しだけ過去のことを鮮明に思い出したから、その時の自分に投影して考えてみても、異端児たる彼の機嫌を狂わせる程度のダメージを与えたとは思えなかった。梅雨時の肌に優しくない空気を撫で回しながら、帰宅の途に着く他なかった。

 

 

 

 

 

 あれからまた数日が経った。それ以来異端児の登場を見ることはなく、私はずっと複雑な思いをうまく消化できずにいた。もちろん自業自得のところもあるから愚痴ばかり言っていても仕方がないとも思うのだが、それでも早く会って、胸に巣食った得体の知れないざわめきをどうにかしたかったのである。

 とはいえ簡単に会えるのであればそのざわめきはここまで肥大化していないし、私は自分がこれまでこっそり描いていた絵を見返したりしながら、無益な時間を過ごさざるを得なかった。

 空虚に過ぎていく時間を数えることを忘れた頃だった。ガラガラと木製の引き戸が渋い音を立てながら開いて、音の発生源を辿った。そしてその先には数日前に私が堂々と傷つけてしまった男が居た。

 

「……ごきげんよう。早いんですね」

 

 そういうと彼は定位置ではなく、いつも座っている席の向かい側、私の腰掛ける場所からいつもより距離が近い席へと移動した。こうしていつもより近くでじっと横顔を見ていると、思った以上に端正な顔立ちをしていて、なんだか神秘的、いや、畏怖を感じてしまうほどの幻惑を感じさせる空気が立ち込めている。

 

「……何か、ありましたか?」

 

 私がその畏敬すべき厳かさに釘付けになっていると、その陶酔を悟ったのか彼の方から声をかけてきた。ここに足繁く通うようになってしまった目的は、心がキュッと苦しくなるような感覚、それでいて浮遊感もあるこのざわつきを確かめたかったからなのだ。だから私は、元凶とも形容できる、謂わば私を根本から狂わせていた絵を、彼の絵を求めたのである。

 

「……もう一度、絵、見たいな」

 

「絵を、僕のですか?」

 

 私のそんなお願いに対して、彼はかなり渋っているようだった。そりゃそうか。『変な絵』と言われてしまうのかもしれない、そんな風に思いながら自分の絵を見せられる勇気がある人間が、この世にどれほどいるだろうか。そう考えていた矢先だった。

 

「いいですよ、はい」

 

「……え?」

 

 意外にもあっさりと、拍子抜けであった。絶対に見せてもらえないだろうな、なんて半ば諦めながらのお願いであった。けれど彼は私に堂々と、誇るような態度ではなく、毅然とした雰囲気のままに、作品を仕舞っていた棚から引っ張り出してきたその絵を見せた。仮にもコンクールで頂点を獲った絵をそのようにある意味では粗雑に扱っているのは、彼なりの葛藤の結果なのかもしれない、そんな答えのない妄想を広げながら、私はざわつきの震源たる絵を見つめた。

 

「……どうですか。僕の絵は、変ですか?」

 

「……ううん。変じゃ、ないと思う」

 

「変だと思ったなら、気遣いなんてせずとも、変だと言ってください」

 

「え?」

 

 私には『変であること』、即ち『普通でないこと』がよく分からなくて答えを濁してしまった。それは一瞬で見抜かれてしまったようで、彼の純真で、それでいてどこまでも深い闇を背負った瞳から放たれる視線が交錯した。

 その瞳に宿っていた、『普通でないこと』への恐れのような感情は、もしかすると私がかつてとーこちゃんたちに絵のことを知られるまで、いや……それからもずっと、今でさえ抱いている絵に対する評価への根源的な恐怖を凌駕しているのかもしれない。他人の感情と自分の感情を比べるなんて出来ないけど、それでも私のちっぽけな、受け入れてくれる人が少なくとも近くにいる安心感で軽減された私の恐怖よりも、大きいもののように思えた。

 

「変な絵だと思うのであれば、それでも構いませんから」

 

 いや、私が分からないのは彼の絵が変であるかどうかではなかった。正確に言えば、彼の絵が変であると評価されることに対して彼がどう思うのか、それが分からなかったのだ。

 何故私がそんな絵の評価に対する他人の感情なんてものに目を向けようとしているのか、自分でもよく分からないのだが、強いて一つ理由を挙げるとすれば、かつての私とどこか似ているから、とかになるのであろうか。

 

「……私がこの絵を、変な絵だと言ったら、どうするの?」

 

「そう……ですね。自覚は、ありますから。自分の感性が普通の人とはかなり……いえ、全く違うということも。だからきっと、そんな僕の作る絵が変だと言われるのは、仕方ないんだと思います」

 

 中等部の頃、『広町さんって私達と住んでる世界が違う気がする』と言われた時のことをふと思い出した。あの時の私は変な話だが、自分の絵の才能を恨んだ。周囲と比べてズレていることを自覚していて、周囲の普通の人たちに溶け込もうとしたのだ。だから変な絵を封印して、みんなの目に触れないようにした。

 

「私がその絵を変だと言ったら、悲しい? 寂しい?」

 

「悲しい、とは?」

 

「みんなの描く絵とは違うから、周りの人から変な目で見られるから、辛い?」

 

 私の問いかけに、彼はすぐさま答えるわけでもなく、徐に腰を上げた。木の床が体重の移動とともに唸り声を上げて、段々と私の元から離れていった。彼がどうにも形容し難い空模様を映し出した窓の方へと歩み寄ると、か細い声が聞こえてきた。

 

「広町さんは、周りと違う絵を、変な絵を描くと、周りの人から白い目で見られて辛いんでしょうか?」

 

「え? ……私は、辛かった……かな」

 

「今はそうじゃない、と?」

 

「……うん。今はもう、私の絵を上手いと褒めてくれて……、ただ褒めるだけじゃなくて、私の絵を見ても私に対する態度が変わらない人が居てくれる、から」

 

「なるほど」

 

 私にとってMorfonicaのみんなは、私がどれほど変な絵を描こうがそれを受け入れてくれる存在だ。だから、そういう意味では今はそれほど辛くはなかった。勿論それ以外の友達に絵のことを隠し通すのは辛い部分もあるけど、私が普通でいることで変わらない仲で居てくれるなら構わなかった。絵以外の部分だって、真ん中を、中庸を貫き通せば、誰も私の変な部分に気がつかないでいてくれるから。

 私がどうにか心の奥底に澱みとして溜まった膿を言葉にして伝えると、窓を向いて話していた異端児が振り返り、目と目が合った。その瞳は揺れていた。

 

「でも、他の人は、ただ褒めるだけの人は、態度をころっと変えて離れていく人に対しては、どうするんでしょうか」

 

「それは……、私は、基本他の人に絵は見せないようにしてるから」

 

「バレない、と」

 

「……うん」

 

 そうだ。私は言ってしまえば、Morfonica以外のみんなには偽りの私を、普通である私を見せようとして逃げたのだ。私の答えを聞いた彼は、ゆっくりと元いた椅子を通り過ぎて、私の隣のチェアに腰掛けると、白い線の入った天井を見上げた。

 

「僕とは、違うんですね」

 

「え?」

 

「僕は、自分の絵が変だと言われても仕方ないと思っていますし、それで人が離れていくなら、それでも良いと思っています」

 

「……離れていっても、いい?」

 

 彼が言うには、感性のおかしな自分の描く絵を否定されようが、それで気味悪がられて態度を変える人がいてもいい、そういうことらしい。私とはある意味で真逆だった。芸術がわからないやつには好きに言わせておけば良いと言えば少し乱暴だが、そんなニュアンスにすら聞こえた。

 

『変な絵であることは、独特な世界に生きる絵は、悪いことでしょうか?』

 

 数日前のこの質問はどうやらそういう意味だったらしい。数日前の私は、正直『本物の天才』の無意識の驕傲だと思っていた。でもそれは私が僅かにでも嫉妬をしていたからかもしれない。謂わば卑屈と目の前の『天才』への苦し紛れの嫌味である。

 

「広町さんが、羨ましいんです。自分の絵を見せても、いつも通りで居てくれる心優しいご学友がいる広町さんが」

 

 けれど、私はそんな風に甘く考えていた過去の自分が恥ずかしくなった。結局、目の前の『本物の天才』、いや、哀れな業を背負わされた天才は過去の自分と一緒なのだ。孤独に打ち震え、怯える自分を奮い立たせて、自分の好きなものと向き合い続けようとするための強がりを言って見せただけで、あの時の私と何一つ変わらないじゃないか。

 でも、かといって私がそれを慰めるだけの言葉を持ち合わせているわけではなかった。私はただ、そんな去っていく人たちを作らないために普通を演じて、繋ぎ止めて、偶然私を受け入れてくれる人と出会っただけだから。アドバイスなんて高尚なことは出来ないし、きっと普通を演じることすら彼にとっては苦しみなのだ。だから割り切ったように振る舞って、受け入れ難い孤独を受け入れようと格闘しているのだ。

 

「僕は変なところで頑固ですから、普通の絵を描こうとしても、出来ないんです。だから、羨ましいんです」

 

 僅か1m足らずの距離で、同い年とは思えないほどに悲哀を知った瞳を遠くに向ける彼の話を聞いて、私の心のざわめきはいつの間にか鳴りを潜めていた。まだ彼のことを知って一年も経っていないのだが、彼の胸の奥底に仕舞い込まれた傷跡は手にとるように分かった。

 私はどれほどの時間か分からないが彼の透き通るような鋭い黒瞳を見つめていた。何度も揺らいだその瞳を見つめているうちに、かつての私よりも八方塞がりの彼の心に、私はいつの間にか触れていた。何故か赤くなった手で、私は彼の頭頂部を隠すような膨らみを上から押さえつけていた。私の突然の行動に物思いに耽っていた彼は驚いてこちらに振り返る。

 

「……ふふっ」

 

 私は何か言葉をかけるでもなく、自分よりも小さく見えた悲しき天才の頭を撫でていた。立った時は私よりも身長が高かったはずなのに、その背中は小さく見えた。まるでノイズに隠した幼い背中のようだった。だから私は手を止めたりなんてしない。顔に吹き上がる恥ずかしさを隠すために、ご利益がありそうだな、なんて考えながら。

 

「広町さんは、僕から、離れていかないんですか?」

 

「……んーん。離れていったら、寂しいでしょー?」

 

 私は誰よりも、身近な人たちが離れていく辛さを知っている。それでいて、近くにいる親しい誰かが傍にいてくれる安心感も知っている。それが同情という、上から目線の驕りであるか、信頼という、対等な癒しであるかはまだ分からないが、少なくとも今この瞬間は、無駄に大人びてしまった、幼い天才の傍に居たいと思った。

 

「寂しい……ですか」

 

「……あれ、あんまり?」

 

「……いいえ。寂しい、です」

 

「そうでしょー?」

 

 私たちは二人とも不器用であった。『天才』だからなんでも出来るのかと問われればそうではないのだ。似たもの同士だからこそ、今の彼の気持ちも想像がつく。

 

「……でもちょっと、その、恥ずかしいです」

 

「……うん。私も」

 

 恐ろしく不器用であるからこそ、私たちはこうして素直になれたのかもしれない。気持ちを、いや、それこそ絵だって明かすことはとても怖い。だけど、今だけは不思議と伝えたいと思ったのだ。

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