「時代劇……! まさにブシドーですね!」
「あはは、イヴ、ずっと楽しみにしてたもんな」
ソファに二人で腰掛けて、その始まりを今か今かと待ち侘びていた。私の興奮する姿に、隣に佇む彼は大人びながらも温かい眼差しを向けていた。私はそんな温かな目線を浴びながら、これから始まる時代劇に輝くブシドーに想いを馳せていたのである。
武士道には七つの教えがある。義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義である。その中でも、私が特に共感したのは、礼、即ち他者を思いやり、礼儀を尽くすことと、誠、即ち一度決めたことを貫き通す心である。その二つの教えがあるからこそ、私は理想のブシドーを追い求めるようになったのである。
その日も、私はブシドーを探すために、武士道の魂が宿った映像を観ていたのだ。隣に腰掛けた私の恋人——ある意味では私が忠義を誓った、ブシドーを尽くした人——と共に。彼は私ほど武士に興味を持っているわけではないだろう。しかし、一緒に武士の世界を知ろうとしている優しさは、私が見習うべき仁の心の表れであった。
『殿……。お命、頂戴致す!』
『この……謀りおって! 返り討ちにしてくれる!』
けれども、私の意識がその仁からすっかり奪われてしまう程度には、目の前の物語は佳境を迎えていた。
ブシドーを学ぼうとする者であれば、かつて武士道に生きた人々を学ぶことは当然であると、元はその思いで見始めた時代劇であった。そして、暗い部屋に青白く光るテレビの画面では、今まさに命の奪い合いが始まろうとしていた。それも、謀反である。歴史上起こった、とある武士による主君への裏切りであった。
『裏切り者が……。貴様が、天下を、獲る日など……』
『家臣にすら信を得られぬ者の天下も、万に一つもなかろうな』
かつて主君に忠誠を誓った家臣が、瞬く間にその主君を裏切り、謀反を演じて見せたのを見て、私は呆気にとられたのだ。その瞬間、私の中のブシドーが、音を立てて崩れ去った。テレビに映る、裏切りを重ねた似非武士の騙るブシドーに、私のブシドーはすっかり黙り込んでしまったのである。
「これが武士道かぁ……」
「え?」
私は能天気で中身の乏しい感嘆に、驚きと呆れの声が混じった反応を返した。武士道のかけらもない、忠義を尽くし、自分の身を差し出してでも守ると誓った主君を、あろうこと自らの手で葬り去る愚か者の所業を、彼は武士道と呼んでいるのである。
「何故武士道なんでしょう? これは裏切りの場面では?」
「え? 謀反はそうだけど、己が主君に代わって天下を獲ると誓った、武士道のシーンじゃないの?」
「こんなの、ブシドーじゃありません!!」
未だに残党の粛清の続く場面を迎えていたテレビの音量が聞こえなくなるほど、私の叫びは部屋に響めいていた。私の声ですっかり勢いを失った紛い物のブシドーに、私は必死になって反駁していた。
「ブシドーは本来、自らの意思を貫き、仲間を想う心であるはずです! 盃を交わして主君を守ると誓った言葉を台無しにして、主君を殺めたどこにブシドーがあるのですか!!」
それはブシドーからはあまりにかけ離れていた。私の生きる芯、何よりも尊いブシドーを冒涜するような武士道の出現が許せなかった。今になって思えば、これは私と彼がした、ほぼ唯一と言っていいほどの喧嘩かもしれない。普段は、喧嘩なんてしない上、互いを思い遣ればすれ違いなんて起きないから。
けれど、今この瞬間だけは違った。いとも容易く自らの言葉——自らの主君を絶対に天下に導く——を覆したそれをブシドーと呼ぶことが許せなかったのだ。
「武士と言ったって……」
「武士に二言はないんです! 主君を守ると決めたのであれば、それをやり遂げるべきです!」
「でもその主君を守るつもりが」
「でももキュウリをありません! 私はこんなものをブシドーだとは認めません!!」
「それを言うならヘチマ……って、イヴ……」
私は嘘言だらけの似非武士が目指す武士道にも、言い訳塗れの似非武士道を語る彼にも嫌気がさして、部屋を飛び出してしまった。自分が全く見たことも聞いたこともない、謂わばこれまでブシドーであると思ったこともない考えをブシドーであると言い張るような不誠実なブシドーが、私には考えられなかったのだ。
どの道そろそろPastel✽Palettesの活動で事務所に向かうことになるのだ。予定でもあの時代錯誤の時代劇を見てから家を出ることにしていた。精々少し早く事務所に着くぐらいだろう、だなんて考えながら、私は家を後にした。
「……話を聞いてくれたって、いいのにな」
義を願っていた哀しい声を私が聞き届けることはなかった。
予定よりも何本も早い電車に乗って、私は事務所に辿り着いていた。普段から早めに目的地に到着することを心掛けているが、ここまで早くに着いたのは初めてかもしれない。遅刻をしてしまっては、誰かを待たせてしまうかもしれない。そんな配慮から現れた私の行動、それはまさに仁の表出そのものであった。
それに、早く着けば練習も出来るし、そんな姿を褒めてもらえるかも知れない。少し小賢しい考えを抱きながら、私は扉を開いた。
「たのもー! なんて……誰も居ませんよね」
「……え? イヴちゃん?」
「え、アヤさん?」
誰よりも早くレッスン室に着いたと思って、消えかけていた声は僅かな羞恥心と一緒になって溶けていった。控室に人のいた形跡が全く見えなかったものだから、一番乗りであろうと勘違いしていたのだ。
けれども実際には、私が意気揚々と扉を開けると、アヤさんが鏡の前でプルプルと凄い体勢のままこちらに振り向き、私の来訪に驚いていた。その姿は幾分か滑稽で、それでいて愛らしさに溢れていて、私は少しの間その光景に見惚れていた。
「イヴちゃんいつもより早いよね? いつも早いけど、こんなに早く来てるの?」
「いえっ。その今日はたまたま……」
「そっかぁ。あっ! じゃあ折角だからイヴちゃんも一緒に練習しよっ?」
「練習、ですか?」
私はアヤさんに手招きされたが、持ってきていた鞄が邪魔だったので、取り敢えず手持ちの荷物を壁際に下ろす。その時、アヤさんから声がかかった。
「なんだか今日のイヴちゃん、あんまり元気ないね」
「えっ?」
先程から自分にとって予想外の出来事が続いていたせいか、私の頭では処理しきれないような情報量にパニックになる。アヤさんが何故そんなことを聞いたのか、私にはあまりよくわからなかった。
「そんなことないです! 元気、元気ですよ!」
私は空元気でアヤさんの疑問に答えつつ、アヤさんに元気だと思って貰えるように両腕で頼り甲斐のある力瘤を見せた。アヤさんの私を見つめる瞳はどこか訝しげであったが、それでも私の心に巣食う葛藤を見抜くことはできなかったようで、分かりやすい溜息が漏れていた。
「その、私にはイヴちゃんが何で悩んでいるか分からないけど、辛いことがあったらなんでも言ってね?」
「辛いことなんてありませんから! でも何かがあったらすぐに言います! お気遣い感謝です!」
いつも以上にアヤさんの語気が強く、その威圧感にたじろぎながらも私は精一杯の元気を装って見せた。それを見るなり、アヤさんは再度壁一面のガラスに向き直して、新しく練習中の楽曲のフリを確認し始めたようだった。
なるほど、それでこんないつもよりも早い時間にレッスンに来たのに先客がいたのか。アヤさんは私たちが次にステージで披露する曲に向けて、早めに着いて練習に励んでいたのだ。しかもその額から零れ落ちている汗を見ると、その練習にかけている時間は相当だろう。梅雨でジメジメとした季節であるからこそ、部屋の中は空調が効いて涼しくなっているはずなのに、アヤさんの周囲には熱気が漂っていた。
「——」
アヤさんは辿々しく、小声で歌いながらフリを確かめながら、自分のなすべきことに励んでいた。その努力の姿勢に頭が上がらないのは今に始まった事ではないが、必死に練習するためにスタジオに早く入ったアヤさんと、喧嘩擬きが要因で何の目的もなく、つまらない事を思案しながらスタジオ入りした私。自分の愚かな考えが酷く恥ずかしくなっていた。
「……ってわっ!」
「え?」
私が数分前の自分の浅はかさを恥じていた折、レッスン室に響いたアヤさんの声。私がその声の発生源を知ろうと顔を上げると、アヤさんが体勢を崩して後ろ向きに倒れそうになっている瞬間だった。
「アヤさんッ!!」
私はダッシュで駆け寄ったが、気が付いたのがあまりに遅く、アヤさんは後ろ向けに倒れてしまった。受け身は取っていたようで、後頭部を打ちつけたとか、そういうことではなかったようだが、尻餅をついて痛そうに手で抑えるアヤさんの下に屈んだ。
「いっててて……」
「アヤさん! 大丈夫ですか?!」
「イヴちゃんありがとぉ……。う、うぅ……」
最悪の事態が避けられた事に安堵の息を吐きつつも、アヤさんが怪我をしていないか、私はアヤさんに入念に痛いところがないかを聞く。アヤさんは心配させないためか、頻りに大丈夫であると強調するが、私はアヤさんが右足首を押さえている事に気がついた。
「アヤさん! 足首を見せてください!」
「大丈夫だからイヴちゃん……」
「ダメです! 怪我をしていたら大変です!!」
私は半ば強引にアヤさんの手を払いのけて、アヤさんの白く綺麗な肌を凝視した。本来ならそんな白肌が見えるはずが、足首の外側の部分がやたらと赤くなっている。捻挫など、その類いであろうが、アヤさんが今ので怪我をしてしまったことは明らかだった。
「アヤさん? 痛いんですよね?」
「そ、そんなことは……」
「誤魔化しても分かりますよ? えいっ」
「いたっ……うぅ。……痛いです」
「素直が一番です! 今冷やすものを……!」
普段から救急箱のようなポーチを持ち歩いているから、持ってきていた鞄を漁り湿布なんかをアヤさんに手渡す。アヤさんはバツの悪そうな顔をしながらも、それを受け取ってじっと見つめているようだった。
「直ぐに氷貰ってきますから! 待っててください!」
私はアヤさんの返事を聞くこともなくダッシュでフロアの階段を駆け下り、氷を袋に入れてまたスタジオの方に戻ってきた。そして手持ちのハンカチに包み、それをアヤさんの足首に押し当てる。
「アヤさん、冷たすぎたりはしてないですか?」
「ううん、大丈夫だよ。ありがとうイヴちゃん」
「はいっ、なんでも言ってください!」
アヤさんはヘタリとスタジオの床に座り込んだまま、捻った足を放り出し、悔しそうに唇を噛んでいた。私には何故アヤさんがそんな風にしているのかが分からず、ついつい口に出していた。
「アヤさんは、どうしてそんなに不満そうな顔をしているのですか?」
「え?」
「なんだか悔しそうな、そんな表情に見えました」
「……新曲の発売も近いし、絶対にみんなをアッと驚かせるぞ! って息巻いてたのに、イヴちゃんに見つかっちゃったり、こんな風にこけちゃったり、私ってドジだなぁ……なんて思っちゃって」
「そんな! アヤさんはドジなんかじゃありません!」
少なくとも、私の知っているアヤさんは頑張り屋で、どんな困難なことにでも努力を続けて、実現を諦めない、勇を体現するがごとき人間だった。だからアヤさんが卑下をすることなんてない、そう励まそうとしていたら、先にアヤさんの方が口を開いていた。
「ドジだよ? 努力すればなんとかなるなんて思ってるけど、大抵のことは空回りしちゃうし、上手くいくことの方が少ないもん」
「それは……。……でも、アヤさんが居るからこそパスパレのみんなは頑張れるんです! 私もそうですから!」
私は思いの丈をアヤさんにぶつけた。何一つ嘘はない。みんながアヤさんの頑張る姿を見ていることで、私たちはパスパレのためにもっと頑張ろうと思える。それはきっとファンのみんなだってそうだ。頑張るアヤさんをみて、勇気を貰っているはずだ。
「アヤさんはドジなんかじゃありません、最高のアイドルです!」
「……ううん。Pastel✽Palettesをもっと引っ張っていけるようにって、そんなアイドルになるって心に決めたのに、私は全然立派なアイドルになれてなんかないんだなって。私、このままパスパレのボーカルでいても大丈夫なのかなって、今でも偶にそう思ったりするんだ」
鏡に映る自分の姿を悲しい目で見つめながら、アヤさんは私から目を逸らそうとした。だから、自然と私の体は動いていて、両手でアヤさんの顔を包み込んで、強引にこちらを向かせてしまった。アヤさんは大層驚いたように目を丸く、大きく見開いていた。
「違います! アヤさんは、アヤさんは私が一番尊敬する、最高のアイドルです! アヤさんが居るだけで私は頑張れます! パスパレを好きで居ることが出来ます! アヤさんのために、私はパスパレを頑張れるんです!!」
「イヴちゃん……」
剣道で鍛えられた私の大きすぎるほどの声が部屋中に響き渡った。アヤさんがこちらを見上げる目線と、私の眼差しが重なったような気がした。それまでずっと強張って、影を落としていたアヤさんの表情が一気に柔らかくなって、明るさを取り戻していた。
「イヴちゃんありがとう。でも私だって頑張れるのはパスパレが、イヴちゃんたちが居るパスパレが大好きだからなんだよ? ……こんなに信頼してもらえてるって分かって、本当に嬉しいな」
「アヤさん……!」
「私、これからもパスパレで、イヴちゃんの信頼に応えられるように頑張るね!」
「アヤさん! ハグハグっ!!」
「わわわっ……」
アヤさんを大切にしたい、アヤさんのためにこれからも頑張りたいという気持ちが胸に溢れて、私は気がつけばアヤさんに思い切りハグをしていた。私の勢いを受け止めきれなかったアヤさんは若干後ろに倒れそうになりながら私を抱き止める。
不安な心に打ち震えていたアヤさんに全幅の信頼を置いて、励ましの声を掛けている私はきっと、アヤさんに礼の心を向けようとしているのだろう。相手を思いやり、礼儀を尽くそうとする心を向けて、アヤさんへの忠義を示そうとしているのだろう。
「えへへ……。こんな私だけど、これからもよろしくね? イヴちゃん」
「はいっ、一生お供します!!」
私がそんな宣言をした時、私の頭の中にふっと湧いて出たのは、つい1時間ほど前に見たばかりの時代劇であった。何故今私はアヤさんにお供をするだなんて発言をしたのか、それを考えると腑に落ちたような気がしたのだ。
「どうかしたの? イヴちゃん?」
「え? いえっ、何でもないです!」
丁度その時、背後の方からガチャリと重たいドアの音が響いた。振り返ってみると、ヒナさんやチサトさん、マヤさんがはにかみながら部屋に入ってきたのだ。
「一応話はついたところですかね?」
「そーみたいだね。イヴちゃんの叫び、良かったよー?」
「……へ?! 聞いていたんですか?!」
どうやらこの三人は私たちが取り込み中と見るや、ずっとドアの影からその様子を伺っていたということらしい。しかもアヤさんもその存在を全く悟ることなく、私と話し続けていたらしい。
「そんなぁ。見てたなら入ってきてくれても良かったのに!」
「水を差すのも憚られたもの。それにしても……、イヴちゃんが一番尊敬するアイドルは彩ちゃんだったのね……」
「そっかー、あたしたちじゃ勝てないもんねー」
「残念です」
「……えっ?! そういうわけでは!」
「私が一番って言ってくれたのは嘘だったの……?」
「それは……!」
「ふふっ、分かってるわよイヴちゃん。私も、彩ちゃんは凄いアイドルだと思うから」
「むぅ、それならそんなに揶揄わないでくださいっ!」
アヤさんやヒナさん、チサトさんにマヤさんがいて、私がいて、今のパスパレがある。その中でもアヤさんの存在は一つ大きいところがあり、絶対的な支柱としてのアヤさんを私は信頼していた。そういった思いやりの心を持つからこそ、ずっとアヤさんの側に居たいと思うのであろうし、それを相手に言葉にして伝えているのだ。
そんなわけで、また一つ、レッスン室に笑い声が満ちているのだが、私は早く家に帰って、ブシドーのすれ違いを埋めたいという想いに駆られるのだった。
レッスンが終わった帰り。私の足取りは朝のそれよりも遥かに軽かった。むしろ、何よりも早く彼に会って、先程の何も見えていなかった自分のことを謝りたいと、そう思っていたからであった。
「ただいま帰りました!!」
「イヴ、お帰り」
何の連絡もしていなかったけれども、私が大声で帰宅を知らせると、待ち構えていたように彼が出てきた。彼の顔を見た瞬間、頭ごなしに言葉を、考えを否定してしまった苦々しい経験がフラッシュバックする。けれど、その黒い記憶を掻き消すように彼に駆け寄った。
「わっ……。危ないよ?」
「……さっきは、ごめんなさい! 私は……」
「……良いんだよ。お腹空いたでしょ? ご飯食べよう?」
「え?」
手を引かれるがままに私がリビングに辿り着くと、ダイニングテーブルには私の食欲をそそるようなご馳走の数々が並んでいた。
「なんで……」
もしかしたら、私がパスパレでご飯に行くという可能性も十分考えられたはずが、喧嘩して連絡もよこさない私のためにご飯を作ってくれていたのである。
「もしイヴが来てくれた時に、お腹が空いてたら早くご飯食べたいでしょ?」
その時私は心の奥底が温かくなった。私がいつのまにか見失いかけていた思いやりと礼節を尽くす、礼の心の表れを見たのだ。それがこの上なく嬉しかったと同時に、どこまでも幼稚だった自分が辛く、情けなくて私の目からは思わず。
「わっ、ちょ、イヴ? どうしたの? 何か嫌いなものあった?」
「ちがっ……違うんです……!」
ブシドー。私にとっては確かに一つの大事な精神ではあったが、それを理由にここまで周囲を振り回してしまうなど、それでこそ礼が欠けていたのだ。
生涯をかけて尽くすと誓った主君を裏切る家臣を見て、私は誠に欠ける、武士として失格であると口酸っぱく主張していたのだが、そんなことが言える立場ではなかったのだ。
「私は……武士失格です……! 自分を棚に上げて、主君への忠誠の言葉を反故にする裏切り者の武士道の精神に文句を付けていたのですから……!」
「イヴ……?」
「私がアヤさんとの誓いに触れ合った時、薄らと分かりました。私はアヤさんのことを信じているから、アヤさんに礼を尽くしたいと思っているからこそ、その誠を貫こうとしているんです!」
「……そっか」
口数の少ない彼の目は、とても優しい目をしていた。先程はこちらから酷く理不尽な拒絶をしてしまったというのに、それすらも包み込むような温かい目をしていて、私の気持ちはさらに熱い気持ちで溢れそうになっていた。もはや、ただのハグだけでは抑え切れないほどに。
「イ……ヴ?! ……っ」
「んっ……」
私にハグされたまま立ち尽くしていた彼の体を逃さないようにしてから、口付けを残した。一昔前までの自分なら、はしたないと思ってしなかったであろう。ゆっくりと、心を通わせながらのキスだった。
「……ただの一時の恋愛感情ではなく、信頼を形にしたかったんです。私が貴方に想いを伝えた時、恋人としての忠義を誓ったあの時を思い出すように、燃え盛るような気持ちを形に残したかったんです」
私が思い出していたのは、私の辿々しい告白に優しく応じてくれる彼の姿だった。特殊な立場にあった私という存在を恋人として受け入れてくれたその優しさを、丸ごと享受できていた頃の胸の温かさだった。
「あの時、抱いていた貴方を愛おしく想う気持ちを、また伝えたいと思ったんです。あの時の自分の意思を貫きたいと、時代劇の裏切りの家臣のようではなく、死ぬまで貫き通したいと思ったんです!!」
まるで私が今なしていることは、プロポーズのようなものであった。結婚なるものには漠然とした憧れのようなものを抱いてはいるが、それは絵空事のような感覚もあった。だが、今の私の気持ちは、まさに初志貫徹、あの時の素直な愛をずっと貫き通したいと、誠の心を持ち続けたいと思ったのである。
「だから、……えへへ、キス、しちゃいました」
いざその気持ちを伝えるとなると、ものすごく恥ずかしく感じてしまったが、それでもこの気持ちをスッと伝えられたことに後悔はなかった。礼から生まれた忠義の誠を、目の前で私を見守り続けてくれる恋人に注ぎ続けたいと思ったのだから。タブーだとか、不純だとか、そのようなまどろっこしい柵を全て無視してまで、信頼を続ける思いを貫きたいと、そう思ったのだから。
「……ダメ、でしたか?」
「ダメじゃないよ」
「はいっ、ブシドーです!」
私の心を惑わせ続けたブシドーは、いつしか口癖のように私の側に居続けていた。感情の昂りをその言葉に乗せてぶつけるのだ。
「……イヴにとっての、ブシドーって?」
その問いは今まで頂いたどの質問よりも難解で、むしろ私が気持ちの整理を付けた時の考え方よりも形にするのが難しかったかもしれない。武士道の精神に含まれる考え方の中でも、特に礼と誠を大切にする。それに留まらない、忠義を尽くすこと、諸々を含めてそれはブシドーと言えるのだと思った。
「私が貴方に真っ直ぐな気持ちで向き合い続けられること、それが私にとっての、ブシドーです!」
すっと抱き寄せられた私の体は温かな腕に包まれていた。先程までの自分の昂りの返事のような熱さに脳が溶けてしまいそうなほどだった。
私の顔はきっと、凛々しくも笑顔で満ちていたに違いなかった。
私はまた、録画されていたあの時代劇を二人で隣に座って鑑賞している。シーンとしては、忠臣とされていた家臣が葛藤の末、主君を裏切ったあの謀反のシーンである。
あの時はよく分からなかったが、今ならばこの裏切りのシーンもブシドーだったのであると、よく分かるのだ。
「この家臣、確かに主君を裏切って首を討ち取るけど、武士道に生きてるんだよな」
一見すればその意見は、武士道とは程遠いと感じる人が大半かもしれない。それはまるで初めてその光景を見た時の私の考えと同じように。謀反だなんて、天下を獲るまで仕え続ける忠臣としてあるまじき、謂わばずるいと言えるような行為だと。
「主君に代わって天下を獲る。それは確かに過去の自分の忠誠心を覆すことになるって思うかもしれないけど、そうじゃないんだよね」
主君の首を討ち取る、かつての忠臣の表情はまるで、苦しんでいるように見えた。そこには、ただ自分こそが天下人になるのだという欲望だけがあるわけではない。
「その主君に仕えたいと、謂わば思いやりと礼節を尽くす心が消え失せてしまったんだから、最早過去の自分の言葉、イヴの言うような誠を貫くことすら出来なくなってしまったんだよ」
自分の意思を貫く強さがなくなってしまったのは、その人自身が弱くなってしまったり、目先の欲に目が眩んだのではなく、その意思の根幹となる忠義が、相手に尽くそうとする礼がまるで消えてしまったからであった。だからこそ、かつての忠臣が主君の首を討ち取る時の表情は、決別の感情を浮かべているのである。
「そこまで見抜いていたなんて……私もまだまだ修行が足りません……!」
「イヴだって、自分なりのブシドーを持っているなんて、素晴らしいと思うよ」
彼の優しい言葉を聞いていると、己のブシドーの源泉が見つかるように感じるのだ。
「……私は、信頼から生まれる誠を知りましたから!」
「……うん」
「ずっと、ずぅーーっと、この貴方を思いやりたいという気持ちを大切にして、ブシドーを磨きながら、自分の意思を貫きます!」
「……嬉しいよ。イヴ」
「はいっ! 私はずっと、貴方の傍で思いやりを、礼を尽くすことを誓いますから!!」
パスパレを通して知った誠の源泉。その本質はただ自分の意思を貫くことだけではないと知った。ブシドーのそれは、ただ一つで存在しているものではなく、それらの総体がブシドーである。一つ一つの教えを大切にするのは良くても、固執すれば良いのではない。
今私は目の前で笑みを浮かべる彼に心を尽くしたいと思っているからこそ、誠の精神を貫こうとしているのである。
「わっ……。どうしたの?」
「……いえ、こうしたいと思っただけです!」
テレビでは謀反を企てた首謀者が討ち取られていた。各々の抱えた武士道の衝突がその結果に至ったのである。思惑が行き違えば刺し違えるのがその世界。
もしもあのすれ違いの歪みが大きくなっていたら、そう考えると僅かな不安を覚えた。勿論今の世界と劇の世界は違う。けれど、もしもすれ違いの結果、彼と決別することになれば、それは私にとって途轍もなく哀しいことである。
だから、そうはならぬように、私の心の中で穏やかに育んでいた思いやりの愛を、静かに彼に伝えているのだ。ブシドーの言葉に隠された愛の意味を確かめながら。