授業が全て終わった解放感でぼんやりしていたから、帰りの会での担任の説明を聞いていなかった。目の前に配られたプリントを一瞥してようやく清水陽菜はその正体を悟る。
「希望職業調査?」
中学2年生になって1ヶ月半足らず、もうそんなことを考えるような頃合いかと陽菜は中学生の象徴たる紺ブレザーの制服に身を包んで考える。ふたつにまとめた橙色の髪をふわりと揺らしながら早速陽菜はプリントを机に置き鉛筆を走らせる。
第1希望:お嫁さん
「うえへへへ~……」
アメジスト色の瞳を細めながら陽菜はだらしなく唇を緩めた。
帰りの買いが終わり、三々五々生徒たちが教室を離れる。自らもスクールバッグを持ち上げ、陽菜は同級生の不破知美の机に近づく。桜色の髪をポニーテールにした知美が陽菜に気づく。
「今帰るところですか、陽炎?」
自分のことを戸籍名の“清水陽菜”ではなく本名で呼ぶ知美に、陽炎も知美の本名で返した。
「うん、今日は部活もお休みだしね。一緒に帰ろ、不知火」
そう、彼女たちは艦娘―――陽炎型一番艦・陽炎、同二番艦・不知火。
艦娘―――それは、在りし日の艦艇の魂を持つ娘たち。かつて、人類の敵・深海棲艦と死闘を繰り広げた少女たち。
5年以上続いた対深海棲艦戦争、しかしある日、深海棲艦はその姿を消した。もう何度目になるかわからない大規模作戦、しかしその作戦を期に深海棲艦は急速にその勢力を減じていった。瞬く間に出現個所を減らし、個体数を減らし、いくばくもせず世界の海からいなくなった。
数か月後、各国政府は「深海棲艦との戦争終了」を宣言した。
戦いから解放された艦娘たちを待っていたのは半年間にわたる鎮守府の施設を目的替えしての社会復帰プログラムだった。海の上で、あるいは工廠で生を受け、生まれ落ちたときから艦娘としての戦いの日々を送ってきた彼女たちに与えられた教育プログラム、その中で基本的な社会知識を教え込まれた後、彼女たちは鎮守府から離れ、各地にそれぞれ居を構える場所を与えられ散っていった。
そして数か月の時が流れ―――陽炎は不知火と同じ中学に通う身分となっていた。
帰り道を歩きながら陽炎は傍らの不知火に問う。
「不知火は、希望職業調査票なんて書くの?」
「陽炎は?」
質問に質問で返されたことを不満に思うでもなく陽炎は胸を張って答える。
「お嫁さん!」
「……こっぱずかしい台詞を臆面もなく放ちますね」
呆れたような顔を見せる不知火だがその答えに納得もしている。もちろん、陽炎にはアテがある。戦時中に結ばれ、今もお付き合いをつづける当時の鎮守府の提督。その人との未来こそが自分の唯一の未来だと陽炎は信じて疑わない。
「それで不知火はなんて書くの?」
「医療関係」
意外にも即答されたその返事に陽炎はぱちくりと目を瞬かせる。その陽炎の視線を頬のあたりに受けながら不知火は歩く方角を見据えたまま続ける。
「私たち艦娘は、破壊しか知らない存在でしたから……戦後は、他者を癒す仕事がしてみたいと」
「ふ~ん……医療関係って、看護師とか?」
「代表的なのはそれですね。他にも理学療法士とか作業療法士とか……まあ、具体的なところはこれからゆっくり考えます」
いつも通りの落ち着いた口調でそんなことを言う不知火の姿に、陽炎は落ち着きない気分にさせられる。そんな陽炎の気持ちには気づかぬまま不知火は更に言葉続ける。
「そういえば、田中さんは教師になりたいとか言っていましたね……山中さんは、調理師の道を目指したいとか」
急に自分の足元が定まらなくなったような気がして、陽炎はふと足元に目を落とした。
寮の部屋より大分広いリビング、そのリビングのソファにクッションを抱いて陽炎は座る。「料理を作ったのは陽炎だから後片付けは俺がやる」との言葉で台所に立つ提督の水仕事の音が届いてくる。その音が止み、エプロンを外しながら提督は陽炎のところに近づいてくる。
「どうした、食事中から元気がなかったな」
「……そう?」
放課後そのまま今日公休日の提督のマンションに上がってきた時から、提督は陽炎の様子に気がついていた。陽炎の隣に腰を下ろし、ラフな白TシャツとGパン姿の提督は制服姿の陽炎に問う。
「学校で、なにかあったのか?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
クッションをぎゅっと抱きしめなおし、陽炎は小さな声を出す。
「……今日、希望職業調査のプリントが配られて」
陽炎も学生らしい台詞を言うようになったな、と提督は感慨にふける。そんな提督の思いは知らぬまま陽炎は目を伏せ呟きを続ける。
「みんな、学校の先生とか調理師さんとかしっかり考えているみたいで……不知火は、医療関係に就きたいんだって」
「陽炎は?」
「言わせるの?……司令の、その……お嫁さん」
その答えに満足感を覚えながら提督は陽炎の薄い肩に腕を回す。
「お嫁さんだって、立派な職業だぞ?」
「それはそうだけど……」
肩を抱く提督の手のひらの感触を頼もしく感じながら、それでも陽炎はひどく頼りない気持ちになる。
「戦いしか知らなくて、その途中で司令と結ばれて、その司令のお嫁さんになることが今の全てで……なんか、私の世界狭いなあ、って」
足をソファの上にあげクッションごと脚を抱えながら陽炎はそのまま黙り込んでしまう。そんな陽炎の横顔を提督は見つめていたが、やがて陽炎の肩に回していない方の手を陽炎の頬に添え、陽炎の顔を自分の方に向ける。
「……司令?」
そのまま、提督は陽炎の唇を塞いだ。
脱ぎ散らかされた中学校の制服がリビングの床に散乱している。激しいソファでの交合のあと、陽炎は愉悦の余韻に肩を小さく震わせていたが、やがてその慄きも治まる。けだるげにソファの上に白い裸身を晒す陽炎がもう立ち上がって身支度を整えなおしている提督に抗議する。
「……あの展開で、いきなり押し倒したりするかなあ……」
「でも気持ちよかっただろう?」
「うう~……」
「気持ちいいことすると、元気が出るだろう?」
「……もう!」
唇を尖らせ抗議の声を上げるが提督の言葉も認めざるを得ない。さっきより大分晴れた気分で、それでも悩みの根幹は消えぬまま陽炎はまだ動かぬ身体をソファに横たえ提督にねだる。
「ちょっとタオルかなにかちょうだい……この格好のままじゃ、恥ずかしい」
提督が一度洗面所に姿を消し、陽炎の身体の上に大判のタオルをかぶせる。もぞもぞとタオルで自分の身体を隠しながら陽炎は消えぬ悩みの根幹を口にする。
「やっぱり狭いよね、私の世界」
「まだ言うか」
もう一回黙り込ませてやろうかと提督は考えるが、すぐに妙案を思いついて陽炎に声をかける。
「陽炎、もう動けるか?」
「え?うん、なんとか」
「じゃあ起き上がって仕度しろ。いいところに連れてってやる」
制服を再び纏った陽炎を助手席に乗せて提督は車を出発させる。「どこに行くの?」との陽炎の問いにも「いいところ」としか提督は答えない。車が走るにつれ沿道の家々の数が減り景色が閑散としてくる。もう夜の帳が下りて暗い道をヘッドライトだけが照らし出す。やがて気がつけば車は山道に差し掛かり、道は標高をあげながらくねくねとカーブを連続させる。
だいぶ山道を登ったところで道はいきなり開ける。駐車場だ、と陽炎が気づくとともに提督は車を停車させる。自分が先に降りてから提督は陽炎の座っている側の助手席のドアを開け、陽炎を夜の駐車場へ誘う。
「こんな人気のないところへ連れてきてどうする気?まさか、ここでまた私を襲うつもりじゃ……」
「お前、人をなんだと思ってやがる」
胸を庇うように抱いて警戒の視線を向けてくる陽炎に提督はため息で応える。腰に手を当て気を取り直し提督は陽炎に無造作に告げる。
「陽炎、上を見てみろ」
「上?」
言われるままに陽炎は顔を空に向け―――そのまま、絶句する。
星々。
満天の、星々。
瞬きから音が聞こえてくるかのような、空を覆う星々の輝き。街の明かりにもここからなら邪魔されず、星々は降るかのように空を覆う。言葉を失い輝きを見つめる陽炎に提督が邪魔することを恐れるかのように静かな声を向ける。
「どうだ?この景色を見れば、多少の悩みは吹っ飛んじまうだろう?」
うん、と半ば夢うつつで応える。星々の煌きから目を離せないまま陽炎は傍らの提督に向けて呟く。
「……ねえ、海の上の星空を見たことある?」
「俺を誰だと思っているんだ?一応、海軍将校だぞ」
「うん……あの星空を、思い出した」
夜間航海中に見上げた星空。怖いくらいの美しさで、空を、自分たちを包み込んでいた星々。地上の戦いを清めるかのように天空を覆いつくしていた輝きたち。
「きれい……よね」
そんな陳腐な感想しか言えないのが少し悔しいな、と思った。透き通った光の奔流が自分を清めてくれるのを感じながら陽炎はいつまでも星空を見つめていた。
その日、陽炎は提督のマンションに泊った。提督が起き上がってきた時には陽炎はもうベッドを離れていた。目を覚ました提督がリビングに向かうと、陽炎は提督のYシャツ一枚だけを身に羽織り、ダイニングテーブルでノートパソコンを弄っていた。
「あ、おはよう司令。パソコン借りてるわよ」
「そりゃ構わんが……なにか、調べものか?」
「ちょっとね……う~ん、やっぱり高いなあ……」
テーブルを回りこみ提督は陽炎の背後に立ち、屈んで陽炎の見つめる画面に目を凝らす。
「天体望遠鏡?」
「うん……欲しいな、と思って」
提督の顔は見ぬまま画面から目線を外し、顔を伏せて陽炎は小さな声で呟く。
「天文学者になりたいな、って思って」
自らの肩越しに画面を見ていた提督の顔が、その一言に陽炎の方を向く。提督に自分も顔を向けて提督の視線を受け止めながら陽炎は真剣な顔を見せる。
「海の上で私を導いてくれた、昨夜私を照らしてくれた星のことをもっと知りたいなって。唐突かもしれないけれど、真剣なの。私、天文学者になりたい」
そこまで言ってふと不安げな表情を見せ、陽炎は提督におどおどと訊く。
「……主婦と天文学者の両立って、できるかな?」
ふっと提督の顔に微笑みが浮かぶ。その手のひらを陽炎の頭に置き提督は力強く陽炎に告げる。
「陽炎なら大丈夫。応援するよ」
「うん!」
満開の笑顔を陽炎は見せる。その髪を静かに優しく撫ぜる。少女が見つけ出した自分の道、その道を傍らで見守っていこうと彼は思う。
画面を見つめ直す少女の瞳が輝きを増す。そう、まるで星々のように。少女の瞳が見据えるは輝きに満ちた自分たちの未来―――
―――遥か星空に繋がる自分たちの未来
了