穏やかな陽光が放課後の教室に差し込んでいる。運動部の練習する声が微かに届く残る生徒もまばらな中学の教室、濃紺のセーラー服を身にまとった栗毛のロングヘアと琥珀の瞳を持つ少女が机に肘をつき窓の外を見つめている。その少女に近づき、声をかける黒髪ロングの少女の姿。
「荒川さん、帰りましょう」
「ああ、朝倉さん…もう日直の用事は終わったの?」
声の主に顔を向け、荒川と呼ばれた少女は軽く問う。朝倉と呼ばれたもうひとりの少女が微笑み浮かべひとつ頷くと、少女・荒川由美は椅子から立ち上がり帰り支度を整えた。
帰り道の道すがら、荒川由美は横を歩く朝倉由香に声を向ける。
「”戸籍名”にもなかなか慣れないわね~朝潮ちゃん」
「そうですね、荒潮……正直、ふたりきりになるとほっとします」
そう、彼女たちは艦娘―――朝潮型駆逐艦四番艦・荒潮、同一番艦・朝潮。
艦娘―――それは、在りし日の艦艇の魂を持つ娘たち。かつて、人類の敵・深海棲艦と死闘を繰り広げた少女たち。
5年以上続いた対深海棲艦戦争、しかしある日、深海棲艦はその姿を消した。もう何度目になるかわからない大規模作戦、しかしその作戦を期に深海棲艦は急速にその勢力を減じていった。瞬く間に出現個所を減らし、個体数を減らし、いくばくもせず世界の海からいなくなった。
数か月後、各国政府は「深海棲艦との戦争終了」を宣言した。
戦いから解放された艦娘たちを待っていたのは半年間にわたる鎮守府の施設を目的替えしての社会復帰プログラムだった。海の上で、あるいは工廠で生を受け、生まれ落ちたときから艦娘としての戦いの日々を送ってきた彼女たちに与えられた教育プログラム、その中で基本的な社会知識を教え込まれた後、彼女たちは鎮守府から離れ、各地にそれぞれ居を構える場所を与えられ散っていった。
そして数か月の時が流れ―――荒潮は、近所に住む朝潮と同じ中学に通っていた。
「それにしても中学生扱いっていうのがいまだにショックだわぁ~……荒潮、もっとオトナなレディのつもりだったのに……」
「どこかで聞いたようなセリフですね……しかたありません、朝潮たちの見た目を考えれば」
歩きながら大げさに嘆いて見せる荒潮を朝潮はなだめる。朝潮の言葉に納得しきったわけでもないだろうが荒潮は唇を尖らせつつもそれ以上の愚痴を封じる。と、朝潮が彼女にしては珍しく少し悪戯っぽい表情と口調で問いかける。
「ところで荒潮、司令官はお元気ですか?」
「ふふっ、お元気もお元気、相変わらずよ~?」
朝潮の問いかけに意味ありげな笑みを浮かべ答えてみせる。戦時中に想いを交わし、ケッコンカッコカリという儀式で結ばれた当時の上官の話題に荒潮の表情もついほころぶ。その荒潮の様子にふたりの仲は相変わらず順調だと朝潮は知ると自身も微笑みつられたように浮かべる。朝潮たちが中学生という身分を得ることが決まったのち、提督と荒潮の間に突然生じた身分差と年齢差にふたりの仲がどうなるのかと気をもんだこともあったが、ふたりは難なくその障害を越えたようであった。
ふたりの結びつきの象徴の銀色の指輪はさすがに学校にははめていけないが、お守り袋に入れて肌身離さずつけている。
十字路で朝潮と手を振り別れ、荒潮は自宅を目指す。住宅地の中の瀟洒な一軒家、そのひとつの門を潜り「ただいま~」と扉を開ける。
「お帰り、荒潮……」
「長門さん、今まで寝てたのぉ~?」
白Tシャツに黒の短パン、ぼさぼさの長髪でどう見ても寝起きの風情で廊下の向こうから現れる長門に荒潮は靴を脱ぎながら呆れたような声向ける。大手電機メーカーに今は勤める長門は、先日の休日出勤の代休で今日はお休みの日であった。
小中学生に割り振られた艦娘たちは、さすがにひとり暮らしなどをさせるわけにもいかず企業に就職するなどした艦娘と共同生活をすることになった。荒潮の同居相手が長門と決まった時、どういうわけか周りからやたらと心配され荒潮自身内心ビクビクしたものだったが、一緒に暮らしてみれば特に危険な目にあうこともなくふたりの共同生活は順調だった。
家の奥に足を進めながら朝潮は、まだ眠そうな長門に声を向ける。
「長門さぁん、明日のことでちょっとお願い事があるんだけど……」
「なんだ?」
「あのね?……」
翌日放課後、いつもの帰り道の代わりに駅に向かう道を荒潮は走る。はあはあと息を切らしつつも走る足を止めずに商店街を突っ切り、駅にたどり着くと滑り込んできた電車に飛び乗る。
目的地にたどり着き電車を降りる。駅を出て、辺りをきょろきょろと見まわす。と、その瞳が探し求めていた人を見つけ出す。ほぼ同時に向こうもこちらに気づいたようで、紺のジャケット姿の長身の青年がこちらに手を振りながら近づいてくる。
「てーとくー♪」
「なんだ、荒潮……学校から直接来たのか?」
「いけなかったかしらぁ?」
軽く笑って「そんなことはない」と言葉の代わりに表情で伝える。荒潮を誘い“提督”は道を歩き出す。いや、今でも彼は提督だ。対深海棲艦戦争を戦い抜いた若き海軍中将は、今は巨大な鋼鉄の軍艦の艦隊を指揮する身分となっていた。
士官学校を出て数年で艦娘たちの指揮官となり、そのキャリアのほとんどを艦娘たちの指揮に費やした提督がはたして他の海軍のポストでやっていけるか、心配したのは本人だけではなかった。しかし200名を超える艦娘たちを束ねてきた統率力は通常戦力の現場でもいかんなく発揮され、あまりに若くして得た中将の地位に恥じない働きを今の提督は見せていた。
道すがら、提督は傍らの荒潮に話しかける。
「考えてみれば荒潮をうちに招くのは初めてだな」
「そうね~……ふふふ、お掃除は終わっているかしらぁ?」
「まあそれなりに片付けたつもりではあるぞ」
「あらざんねぇん、荒潮がお掃除してあげようと思ったのに~」
そんな会話を交わしながらふたりはあるマンションの前にたどり着く。戦時中は鎮守府に寝泊まりしていた提督も、戦後は街中に居を構えることを許され海軍基地のほど近くにマンションを購入していた。
「ここね~。あらあら、立派なマンションじゃなぁい?」
「そういってもらえて嬉しいよ。」
荒潮の肩を抱きオートロックのエントランスを潜る。エレベーターで5階を目指す。エレベーターを降りて少しばかり進んだところで提督はひとつのドアの前で立ち止まり、ポケットから鍵を取り出しノブの鍵穴に差し込む。
「さあどうぞ。」
「おじゃましま~す」
廊下を進んでリビングに出る。男やもめの部屋にしては片付いているその様子に荒潮は素直に感心する。
「ほ~んと、キレイに住んでるわねぇ……」
「そりゃどうも」
ジャケットを脱いで壁にかけながら提督は荒潮の賛辞に答える。すっきりしたリビングの様子をきょろきょろ眺める荒潮は、後ろから提督が近づいてくる気配に気がつかなかった。
「ねえ、提と……」
振り向いた瞬間、肩を掴まれた。そのまま荒潮は唇を奪われた。
…ゆらゆらと意識が戻ってくる。重い瞼をゆっくり開ける。うつぶせの恰好で全裸でベッドに横たわりながら荒潮は先ほどまでの激しい交合を思い出す。
―――ああ……気絶してたんだ、私…
先ほどの自分の乱れっぷりまでもが思い出され、荒潮はさすがに恥ずかしくなりながら身を起こす。セーラー服の脱ぎ捨てられた絨毯に足を下ろし、手近に落ちていた提督のYシャツを羽織る。リビングに足を踏み入れるとバスローブに身を包んだ提督がグラス片手にソファに腰を下ろしていた。
「目が覚めたか」
「突然襲うなんて、ひどいことするのね~」
クスクス笑いながらソファではなく絨毯に直接腰を下ろす。提督が立ち上がりキッチンに入る。コポコポという音が微かに響いたのち、提督がマグカップ片手に戻ってくる。
「ココアだ。これで、機嫌を直してもらえるかな?」
「あらあ?別に、荒潮怒ってないわよ~?」
言いながらマグカップに手を伸ばす。マグカップに口をつけると温かな甘さが口に広がる。少女らしくココアの味に微笑み浮かべていた荒潮だが、提督がグラスを口にまた運ぶのを見ると悪戯っぽく提督にねだる。
「荒潮もそっちがいいなぁ~」
「おいおい、お前今は中学生だろう。中学生が酒なんか呑んでいいと思ってるのか?」
「その中学生にさっきあーんなことやこーんなことしたのは誰かしらぁ~?」
小悪魔チックな微笑みと視線で提督をいなす荒潮に、提督は苦笑浮かべて降参する。キッチンに向かいお揃いのグラスに氷を入れ、自分が飲んでいたのと同じウイスキーを薄目の水割りにする。リビングに戻り、グラスを荒潮に差し出すと荒潮は両手を伸ばして受け取りそのままひと口飲みくだす。
「苦っ!」
「ははは、荒潮にはまだ早かったか」
「鎮守府ではいつもワインとかしか飲んだことないからねぇ~……」
初めて飲む琥珀の液体を荒潮はおっかなびっくりちびちびと口にする。戦時中は年齢不詳が故、飲酒の機会もあった荒潮たちだが戦後の査定で中学生相当と判定されてからはさすがに初めての飲酒だ。久しぶりのアルコールの感触にほうっと息をつく荒潮に、提督は穏やかに問いかける。
「荒潮、今日は泊まっていかないか?明日は休みだろ?」
「あらぁ?まだ荒潮のこといじめ足りないのかしらぁ~?」
Yシャツ一枚の姿でアルコールに頬を赤らめ蕩けた瞳でそんなことをのたもう荒潮の姿は、あどけなくもあり妖艶でもあった。質問の答えの代わりに意味深な笑み浮かべる提督に荒潮は艶っぽく答える。
「今日、泊まるって長門さんには言ってあるの……だからいいわよぉ?今晩ずっと、荒潮のこと好きにして」
週明け、いつも通りの学校風景。昼休みを迎え荒潮はお手製のお弁当の包みを開こうとする。そのとき、近づいてきた男子生徒が荒潮に粘っこい声をかけてきた。
「荒川、この間の金曜日横須賀でお前を見たんだけど……一緒にいたの、誰だよ」
「え?ああ、親戚の人よ」
どこかで提督と一緒のところを見られることぐらい想定している。今までだって、何度もデートを繰り返しているしその程度のごまかしは用意している。しかし、少年の続けた一言は荒潮の想定を超えたものだった。
「ふ~ん、お前、親戚の人と肩組むわけ?」
「!!」
いったいどのシーンを見られたのか瞬時に悟った。つまり、提督のマンションに上がり込んだところも見られたということだ。顔から血の気が引く荒潮を年はいやらしい笑み顔にこびりつかせて追撃する。
「ありゃどう見ても親戚の人と一緒って雰囲気じゃなかったよなぁ~……」
「………」
「荒川、もしかしてお前、援助交際とかしてるの?」
「な、っ!」
あまりの侮辱に頭がくらくらする。反撃の言葉を探そうとするが、言葉がうまく見つかってくれない。そうこうしているうちに場の異常な空気を感じ取ったか、少年と荒潮の周りに人だかりができる。
ひそひそと聞こえる声の端々に「援助交際?荒川さんが?」「人は見かけによらないわねえ~…」といった言葉が混じっているのがわかる。怒りと焦りだけが渦巻く中、言葉を失う荒潮の視界に、自分と少年の間に割って入る朝潮の姿が写り込む。
「荒川さんはそんなひとじゃありません!謝ってください!」
「ふーん、でもさ、朝倉。荒川がおっさんとマンションに消えたのは事実だぜ?」
「あの人は荒川さんの……!」
言いかけた朝潮の肩を後ろから掴んで言葉を封じる。ここで、提督のことを出すわけにはいかない。提督には迷惑はかけられない。
反論がなかったことを自分の勝利の証としたか、少年は侮蔑の眼差しと嘲笑の表情荒潮に向ける。少年から目を逸らし、荒潮はきつく唇を噛み締めるしかなかった。
長門の帰りが最近遅く、帰ってくる前に寝床についてしまうのが幸いだった。カンのいい長門のこと、荒潮の様子におかしなものを感じ取れば荒潮を問いただしたことだろう。だけど、このことに誰も巻き込むつもりはなかった。誰にも、迷惑をかけるのが嫌だった。
翌日、登校した教室の黒板に色とりどりのチョークで書かれた落書きを荒潮は見つける。
『援交女・荒川由美』
カッと頭に血が上り、黒板に駆け寄ると黒板消しをつかみ取る。乱暴に黒板を拭い落書きを消すが、同級生の悪意までは黒板消しは拭ってはくれない。
「おーおー、売春オンナのご登場だぜ~」
「ひと晩おいくら~?」
ケタケタと響く下卑た声、ヒソヒソと届く囁き声。その両方に背を向けて荒潮は浮かぶ涙堪え唇を強く噛み締めた。
昼休み、教室から離れたくなって椅子から腰を上げる荒潮に教室に入ってきた担任が声をかける。
「荒川、ちょっと話があるんだが」
「……なんでしょう、先生」
「君に関するウワサのことでな」
なんのことだかすぐに察しがついた。周りの同級生が好奇心もあらわにこちらを窺っているのがわかる。面白がっているようなその雰囲気を疎ましく感じる荒潮に担任はさらに声をかける。
「ちょっと、職員室まできなさい」
「イヤです」
強い視線と口調で言い返す。担当が気色ばむのが見て取れる。でも、ここで引くわけにはいかない。行けば、認めることになる。自分のしてきたことが不純なことだと、皆に認めることになる。
「イヤです、じゃない。来なさい」
「お断りします」
「いうことを聞きなさい!君は……」
「えーと、この教室でいいのかな?」
緊迫した空気に割って入る少し間延びしたような若い男の声。その声の方向に目を向けた者たちの目に映ったのは、あまりに場にそぐわない者の姿。純白の海軍制服に身を包んだ、若き海軍将校。
学びの舎にあまりに不似合いなその闖入者の姿に言葉失う面々の前で、海軍将校は荒潮の姿を認めるとまっすぐにそちらに足を進める。予想もしなかった想い人の登場に言葉失う荒潮の前で担任と提督は言葉交わす。
「え、えっと、あなたは……」
「ああ、突然お邪魔して申し訳ない。私は海軍中将の―――」
名乗る提督の姿に「すげえ!中将!」「まだあんなに若いのに!」と野次馬たちが騒ぎ出す。すっかり荒潮に代わって場の注目の的になった提督に担任教師が恐る恐る問いかける。
「あの、海軍の中将様が当校にどのようなご用で?」
「ああ、私の婚約者が世話になっているのでね。一度挨拶をしておこうと思いまして。そこにいる荒川由美君のことですが」
ドヨッ!と教室の空気が揺れる。場の中心、突っ立つ荒潮の顔が一気に真っ赤になる。足をガクガク震わせながら荒潮はうわごとのように呟き続ける。
「こっ、こっ、こここここ……」
「君はニワトリか、荒川君。しっかりしたまえ…ここにいるのが荒川君の学友かな?彼女を、よろしく頼むよ」
威厳たっぷりに言い放つ提督のオーラが教室中を包み込む。まだ何が起きているのかわかりきってないまま棒立ちになる荒潮の耳元に、いつの間に近づいたか朝潮が耳打ちする。
「ごめんなさい、荒潮。昨日、ことの次第を司令官に全部電話でぶちまけまして……」
そういえば正面突破戦法の好きな方でしたね、と朝潮は付け加える。そんな朝潮の囁きも荒潮にはろくすっぽ聴こえていない。巻き込むまいと悩んだ私の苦労は何だったのよ、との思いがかっかと湯気を立てる頭の片隅に去来する。それと同時に沸騰する頭でわかるのは、どうやら自分は同級生の中で「下劣な援交オンナ」から「エリート海軍将校の婚約者」に一気にクラスチェンジしたらしい、ということであった。
提督の電撃奇襲以来崇め奉らんばかりだった同級生たちの態度も、時がたつにつれ衝撃が日常の中に埋没していったか普通のものに変わっていった。何週間かの時が過ぎ、荒潮の身辺もだいぶ落ち着いた。ことの次第が伝わってから自分に黙っていたことを長門にこっぴどく叱られたが…落ち着きを取り戻した日常のある日、放課後の時間を喫茶店で荒潮は過ごす。
「学校帰りに喫茶店なんていいのかしら……」
「保護者が付いていれば問題ないだろう」
余裕しゃくしゃくの態度で珈琲を口に運ぶ提督の姿。その姿に荒潮は肩の力を抜くことに決める。純白の海軍将校制服、やはりこの格好がこの人には一番似合っている。あれから提督は忙しい執務の合間を縫って荒潮の学校に顔を出してくれる。まだ幼い婚約者が安心して学校生活を送れるように。
「荒潮、それ……」
「え?」
「指輪……また、はめることにしたのか?」
ああ、と初めて気がついたように自分の指を見つめる。銀色の輝きがきらりと光る。その輝き目に収め、提督を見つめなおしながら荒潮は微笑んで悪戯っぽく囁く。
「“婚約者”は指輪をはめるものでしょう?」
喫茶店の窓から陽光が差し込み、荒潮の指輪の上で反射して光った。
了