放課後の中学校の教室で海色の瞳を持つ長い黒髪の少女が帰り支度を整える。彼女の左手薬指に嵌められた銀色の指輪が陽光を浴びてきらりと光る。そのきらめき見とがめた学生服姿の男子生徒が紺色のセーラー服纏うその少女に問いかける。
「朝倉、それ指輪?学校にアクセサリつけてくるの校則違反じゃねえの?」
「アクセサリではありません。身分証明です」
朝倉と呼ばれた少女は少年に顔を向け微笑んで答える。指輪の嵌まった左手を胸の高さにあげ右手を添えて少女は更に付け加える。
「“婚約者”は指輪をつけるものですから」
少女・朝倉由香の静かな言葉が少年を圧した。
朝倉由香―――それは、少女が深海棲艦戦争後貰い受けた戸籍名。彼女の本当の名は朝潮。
朝潮型駆逐艦一番艦・朝潮。
そう、彼女は艦娘―――在りし日の艦艇の魂を持つ娘たちのひとり。かつて、人類の敵・深海棲艦と死闘を繰り広げた少女たちのひとり。
5年以上続いた対深海棲艦戦争、しかしある日、深海棲艦はその姿を消した。もう何度目になるかわからない大規模作戦、しかしその作戦を期に深海棲艦は急速にその勢力を減じていった。瞬く間に出現個所を減らし、個体数を減らし、いくばくもせず世界の海からいなくなった。
数か月後、各国政府は「深海棲艦との戦争終了」を宣言した。
戦いから解放された艦娘たちを待っていたのは半年間にわたる鎮守府の施設を目的替えしての社会復帰プログラムだった。海の上で、あるいは工廠で生を受け、生まれ落ちたときから艦娘としての戦いの日々を送ってきた彼女たちに与えられた教育プログラム、その中で基本的な社会知識を教え込まれた後、彼女たちは鎮守府から離れ、各地にそれぞれ居を構える場所を与えられ散っていった。
そして数か月―――朝潮は朝倉由香を名乗り、とある中学校に通う女子生徒となっていた。
校門を潜り、朝潮は街中に足を踏み出す。住宅地を抜けて自分の家に帰る代わりに朝潮は最寄り駅近くの小さな公園を目指す。先に着いていた紺のジャケットにベージュのチノパン姿の青年が公園に入ってきた朝潮に声をかける。
「朝潮」
「司令官!」
戦時中に将来を誓い合った恋人の姿を認め朝潮が嬉しそうに破顔する。かつての朝潮の上官である提督が駆け寄ってくる朝潮に手を伸ばす。提督の一歩手前で立ち止まる朝潮の頭を提督は撫ぜる。心地よさそうに朝潮はその感触に身を委ねていたが、すぐに心配そうな顔をして問いかける。
「すいません、お待たせしてしまいましたか?」
「なに、俺も今来たところだ。学校の終業時間など決まっているからな」
朝潮たち艦娘の指揮を執っていた提督は、今でも海軍に籍を置く身分だ。その指揮する対象は鋼鉄の艦隊と様変わりしたが。日頃の仕事中の厳しい雰囲気を感じさせない穏やかな表情浮かべながら提督は朝潮を誘い、駅の方へと歩き出した。
電車に揺られてしばらく後、提督と朝潮は提督が住む街に着く。かつて戦時中は鎮守府に寝泊まりしていた提督も戦後は街中に居を構えるようになっていた。駅からそれほど歩くこともなくふたりは白い外壁のマンションに辿り着く。
8階建てのマンションの5階の部屋までエレベーターで昇る。ドアを開けて朝潮は提督の客となる。「おじゃまします」と礼儀正しくご挨拶して頭をぺこっと下げながら朝潮は奥のリビングを目指す。
リビングに通じる廊下の途中の扉を開け提督は寝室に入るとジャケットを脱ぎ壁に掛ける。朝潮を追ってリビングに足を踏み入れると朝潮は絨毯の上に座り込み低いリビングテーブルにノートを広げ何やらスクールバッグから取り出した大判の本をぱらぱらとめくっている最中だった。
「朝潮、それは?」
「はい!まずは明日の宿題を片付けてしまおうかと!」
真面目だな、と提督は苦笑いする。朝潮に近づきその隣に腰かけ、提督は朝潮に声をかける。
「後でいいだろ、そんなもの」
「先に片づけてしまった方が気持ちが楽ですから」
そんなお返事をする朝潮の肩を抱く。朝潮がぴくっと身体を震わせる。朝潮の肩を抱く手に力を籠め、提督は朝潮を押し倒す。
「え、司令か……」
何か言おうとする朝潮の唇を塞ぎ、提督は制服姿の朝潮を組み伏した。
……ぼんやりと意識が戻ってくる。ベッドに全裸でうつぶせに横たわり、朝潮はようやく自分の状況を思い出す。
ああ、そうか。あの後ベッドに運ばれて……
私、気絶してたのか……
幾何かの恥ずかしさを感じながら朝潮はのそりと身を起こす。剥ぎ取られたセーラー服の散乱する床に足を下ろし、枕元にあった朝潮には大きすぎるワイシャツを一枚身に纏い、朝潮はリビングに戻る。先に起き上ってソファでくつろいでいた提督がスウェット姿で朝潮に声をかける。
「起きたのか、朝潮」
「はい……宿題をしないと」
言いながらリビングテーブルの前にぺたんと座る朝潮の姿に提督はまたも苦笑するが、流石にもう邪魔をしようという気は起こさない。その代わりに朝潮の後ろに胡坐をかいて腰かけ、朝潮の腰を抱いて持ち上げ自分の脚の上に乗せながら提督は朝潮に問いかける。
「なんの宿題だ?英語か?数学か?」
「いえ、希望職業調査で……」
「希望職業?」
自分に後ろから抱かれる朝潮の肩越しに手を伸ばし、提督は朝潮の手にしていた大判の書籍を持ち上げる。カラフルなイラスト付きで様々な職業が紹介されているページが目に入る。提督に向かって振り向きながら朝潮は宿題の内容を説明する。
「将来就きたい職業について調べてきてレポートにまとめるんです」
「ふーん、なるほどね。中学2年ともなればそんな歳か」
頷きながら提督は朝潮の頭の上でぺージをぺらぺらとめくる。自分が軍人になろうと思ったのはいつ頃だったかな、などと考えながら提督は大判の本に目を通したまま朝潮に向かい声を降らせる。
「朝潮は、真面目で正義感が強いから警察官なんかいいんじゃないか?あ、艦娘だから海上保安官とかの方が……」
言いかけて気配を感じ提督は言葉を止め視線下げる。こちらを振り向いたまま自分の膝の上できょとんとした顔をする朝潮と目が合う。
「……朝潮は、司令官のお嫁さんになるものとばかり思っていました」
自然な口調でそう言葉にし、すぐに恥ずかしくなって提督から目を逸らし俯き腕を突っ張りながら朝潮はちょっと慌てたように付け加える。
「あ、もちろん将来の話ですけれど!でも、朝潮は高校を卒業したら……」
それは朝潮の左手薬指に光るケッコンカッコカリの指輪の示すふたりの約束。少女がひたむきに信じる少女の未来の姿。しかし、その時の提督には少女のその真っ直ぐさが危うく脆いものであるように急速に感じられた。
朝潮が提督のマンションにお泊りしてしばらく、土日祝が休日とは限らない軍人である提督が久しぶりに迎えた日曜日の休みの日、提督は朝潮の住む町にある喫茶店で朝潮の同居人の陸奥と待ち合わせる。
「珍しいわね、朝潮ちゃんじゃなくて私に用だなんて」
「朝潮は、今日はテニス部の試合だそうだからな」
「あら、恋人が部活動の隙を狙って浮気?悪い人ね」
そんな陸奥の軽口にも提督はくすりとも笑わない。その提督の様子を見て陸奥も表情を引き締め手にした白いコーヒーカップを木目のテーブルの上に戻す。縦縞の入った薄いブラウンのニットセーターに黒のパンツルックという大人びた格好の陸奥―――今は奥原睦美を名乗り総合商社に勤めている―――に提督は世間話抜きで用件に入る。
「陸奥、お前今は確か人事部員だったな?それを見込んで聞きたいことがある」
「人事部と言っても私も新入社員だけど……」
遠慮がちな声を陸奥は出すが、提督の真剣な瞳に射抜かれ姿勢を改める。
「聞きたいこと、というのは?」
「学生結婚した女子は、採用に当たってやはり不利になるか?」
朝潮のことだと、瞬時に分かった。高校を卒業したら大学に進んで、進学後すぐに提督と結婚するつもりだと朝潮に何度もうっとりとした顔で言われたことがある。提督と朝潮の年齢差を考えればそれが一番現実的だろうと陸奥も思っていたが、どうやら提督が今放った質問は朝潮の“その後”を見据えてのことだと陸奥にもわかった。
「……率直に言えば、採用意欲は阻害されるわね」
慎重な言い回しを選びながらも率直に陸奥は答える。提督にとって意外ではないその答えを補強するように、陸奥はコーヒーカップを持ち上げ提督に向かい言葉続ける。
「大学生で学生結婚した場合だと、企業に採用されてそう長くないうちに妊娠出産によって長期の職場離脱が予想される、というのが企業の考え方よ。一人前に育てたか育てないかのうちに職場を離れる可能性の高い人材を採るのは躊躇する、というのが本音ね」
「やはり、そうか」
言いながら提督は窓の外に顔を向ける。手にしたコーヒーカップに口をつけないまま陸奥は提督に向かって問いかける。
「朝潮ちゃんのこと、よね?」
「そうだ。学校で希望職業調査があったらしくてな。朝潮は、俺と結婚する以外の未来は思いつかない様子だったが……」
顔を前に向け直して、それでも陸奥とは目を合わせず自らもコーヒーカップを持ち上げながら提督は独白のように続ける。
「本来、中学生である朝潮には無限の可能性があるはずなんだよな」
コーヒーを口に運び、一口含んで提督は言葉続ける。
「戦時中彼女を幾たびも戦地に送りこみ、戦後ようやく彼女を戦場から解放してやれたと思っていたのだが……今俺は、朝潮を再び縛り付けているのかもしれん」
淡々と放たれるその言葉は、淡々としているがゆえにかえって提督の苦渋を偲ばせた。その提督にどのような言葉をかけていいか分からず、陸奥はただ提督を揺れる瞳で見つめることしかできなかった。
陸奥と別れて夕暮れの駅に向かい、提督は家の方角とは逆の電車に乗る。向かう先は朝潮が今日テニス部の試合を行っている市内の総合競技場。広い敷地に陸上競技場やサッカーグラウンド、そしてテニスコートの並ぶその競技場公園を歩きながら提督はスマホをポケットから取り出す。しかし、目当ての電話番号を呼び出す前にその相手の声が耳に届く。
「司令官!」
その声に顔を上げると、目に映ったのは制服を纏った笑顔の朝潮。大きなバッグを背負い直してテニスラケットを手にしながら朝潮は提督に駆け寄ってくる。
「司令官、来てくれたんですね!今日は朝潮は試合なかったのにわざわざ……」
「朝潮」
言葉を探し、見つからないまま提督はもっとも簡単な言い回しで朝潮に告げる。
「俺たち、しばらく会うのをよさないか?」
「え?」
笑顔を顔に貼り付けたまま、朝潮の瞳が凍りつく。自分の言葉が少女に与える衝撃は承知の上で、それでも提督は少女の未来のために言葉続ける。
本来、朝潮には計り知れないほどの未来への可能性があること。
自分の存在が、その可能性を奪ってしまっていること。
だから一度、自分と離れて朝潮の本当に進みたい道を考えてみて欲しいこと。
あまり上手く言葉を選べた自信はないまま、それでも伝えるべきことは伝えたとみて提督は朝潮に最後に告げる。
「一か月、一か月真剣に自分の未来について考えてみてくれ。その上で、答えを出してほしい。本当に俺と結ばれるのが、自分にとっての幸せなのかを」
それだけ言い残して提督は朝潮に背中を向け、大足でその場を離れる。朝潮は、追ってこなかった。それを期待してはいけないことは、提督にもわかっていた。
ふとした瞬間に少女の面影が脳裏をよぎるのを、そのたびに意志の力で抑え込んだ。自分から解き放たれて少女がどんな広大な世界を見ることになるのか、それを想像することは提督には難しかった。ただ、これだけは分かっていた。少女は、今、初めて自分の無限の可能性と向き合っているのだと。そしてその中から彼女の選ぶ道に自分がいなくても、自分はそれを受け入れ少女を笑顔で送り出すべきなのだと。
一か月の時が過ぎ、木々の緑はその濃さを強めていた。随分強くなった日差しを片手で遮りながら提督はもう懐かしささえ感じる電話番号をスマホの画面から呼び出した。
少女の通う中学校の最寄り駅にほど近い公園、いつかも待ち合わせ場所にした公園。そこに少女は現れる。最後に会った時の濃紺のセーラー服とは違う純白の半袖の夏服に身を包んで。自分と目を合わせようとしない少女の姿をたまらなく懐かしく愛おしく感じながら、それでも提督は少女の下した決断を受け入れるべく自らを抑える。その提督の一歩手前まで歩み寄り、少女は俯いたまま提督に問う。
「……海に、連れて行ってもらえますか?」
波の寄せる音が耳に優しい。提督は、少女と並びながら水平線の彼方に視線をこらす。この果てない海と同じように広大に広がる少女の未来、その未来に向けて少女がどんな結論を下したのだろうと思いながら。
幾何かの時ののち、少女が小さな声で呟く。
「……会いたかった、です」
その小さな呟きを引き金に、少女・朝潮は提督を見上げ叫ぶようにして声を振り絞る。
「会いたかったです、司令官!この一か月、ずっと司令官のことを考えていました!ずっと、ずっと、ずっと!」
涙、朝潮の瞳から迸る。頬を伝う涙拭いもせず、朝潮は訴えるような言葉提督に向ける。
「司令官はおっしゃいました!朝潮の未来を、司令官が奪っているのではないかと!でも、最初から朝潮の未来は司令官とともにあるのです!司令官がいなければ、朝潮の未来もないのです!」
「朝潮……」
「朝潮は、まだ子供かもしれません。愚かなほど、世界を知らないのかもしれません……でも、そんな朝潮にもわかるのです!司令官が、朝潮の未来なんです!」
しゃくりあげながら、それでも朝潮は必死に言葉振り絞る。その言葉に撃ち抜かれ、提督は言葉失いただ朝潮の泣き顔見つめ自らの愚かさを思い知る。
少女は、もうとっくに自らの未来を見据えている。朝潮は、幼いながらもひたむきに自らの未来と向き合っている。
そんな朝潮から、一度は自分は手を離した。朝潮の想いを見くびって。まだ幼い朝潮は、まだ自らの未来を見定める頃はできないと見くびって。
少女の身体を抱き寄せる。強く、強く抱きしめる。もう愚考は繰り返さない。少女の未来を、疑わない。朝潮の未来が自分にあるというのなら、自分はそれに応えよう。朝潮を強く抱き締めて、その存在を護り続けよう。
「すまなかった、朝潮」
「司令官!司令官!」
自分を呼ぶ朝潮の声が耳を刺す。その真っ直ぐさが、心揺さぶる。この少女の未来を、護り続けよう。いつまでも朝潮を、護り続けよう。ふたり、改めてここから踏み出そう―――
―――この愛おしき未来へと
了