書物を片付け終わった所で雨戸をトントン叩かれて、ソラは身構えた。しかし外からした声は、帰った筈のルウシェルだった。
「ソラ、起きてる?」
「ルウシェル!? ……窓は開けられませんよ。女の子が男性を訪ねて良い時間ではありません」
「うん、そのままでいいからちょっと聞いて」
「……何でしょう?」
「あのさ、小さい時から、シドは私に甘かったけれど、ソラは駄目な事は駄目ってキッパリ言ってくれただろ。そんなソラが好きだったんだ」
「えっ、は?」
「そんだけ、じゃあね」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
ソラは慌てて雨戸を開けた。
「あれぇ、開けないんじゃなかったの?」
普段と変わりないルウシェルが、去りかけの姿勢で振り向いた。
「急にそんな事言いに来たら、何処かへ行ってしまうかと心配になるでしょう?」
「ああそう? ごめん、違うよ。えっとね、一日一回、私がソラを好きになった理由を話す事にしたんだ。今のが第一回」
「はぁ? 何だっていきなり」
「何でもいいだろ、じゃあおやすみ」
「あ、ちょっ……」
ソラは窓枠に足を掛けて外へ飛び下りた。書物の山がまたバサリと崩れた。
「もう居住区も真っ暗だ、送ります」
二人は横に並んで坂を下った。
相変わらず指先も触れないけれど、夜の冷気のお陰で、すぐ横の体温を殊更に感じる事が出来た。
***
シドは困っていた。
建築中の新居。
あと一列煉瓦を積んでしまおうと材料を取りに行って帰って来たら、掛けたばかりの屋根の下でスヤスヤ眠っているキノコ頭があった。
砂の民の娘みたいだけれど、親と喧嘩でもして家出したクチだろうか?
「おぉい、お嬢ちゃん、起きなさい」
「ふにゃあ、主様、もうちょっと……」
肩を揺すられた娘は幼児のようにむずかる。
「風邪ひくぞ――!」
「うにゃ………… !! ろ、狼藉者――!」
「誰がだ」
シドは振り上げる女の子の拳を軽くいなした。
「そこ、僕んち。これから作業だからどいて」
「そ、そうか、すまない……」
女の子が立ち上がってシドはハッとした。
酷く疲れた様子でフラ付いて、身なりは良いのだが足は泥々で身体中擦り傷だらけなのだ。
「……ねえ君、何かあったのか? 大丈夫?」
「そこで転んで滑り落ちただけだ。ヒトを探しているのだが、わらわは夜目が利かない」
「…………」
「もうここには居ないのかもしれない」
去ろうとする女の子の手首をシドは掴んだ。
「家は何処? 送って行くから」
「家……」
「砂の民の街の方?」
女の子はコクリと頷(うなず)いた。
「西風へはどうやって来たの?」
「ダンナ様の馬を追い掛けて、暴れロバに掴まって……何処かへ行ってしまったが」
シドは手首を掴んだまま歩きかけた。
「僕の馬で砂の民の街まで送るから、おいで」
少し驚いた顔をして、女の子は首を振った。
「わらわの事は放って置けばよい」
「そうも行かないでしょ」
「何故だ?」
「だから、女の子をこんな寒空に放っておけないよ」
「女の子というのは放って置けない物なのか?」
「あああ、そうじゃなくって!」
普段子供を相手にしているシドだが、実は子供の「どしてどして?」が苦手だ。
「僕が嫌なの! このあと君が風邪ひいたり怪我したりしたら、僕が気分悪いのっ! だから君を安全な所へ送り届けてホッとしたいのっ! 分かった!?」
キノコみたいな頭を傾げて、娘は突っ立ったままだ。
「分からない」
「何がっ?」
「何故、この里の者は、わらわに構う? 色々してくれようとする? この里の跡取りを産む訳でもないのに」
***
「やはりここだったか」
里の外の砂の原。風紋の波に沈み掛けた太古の遺跡。
ひび割れた石の床に、仰向けに寝転んで足を組む漆黒の男性。
月を背景にそれを見下ろす、碧緑の髪豊かな女性。
「昔から、親父さんと喧嘩してはここへ来ていたな」
男性は寝返りを打って背を向けた。
「馬鹿野郎、こんな冷える夜に出歩くんじゃねぇよ。とっとと帰れ」
「お前は優しい」
「??」
「だから、部族内の女性達の状況に、ずっと心を痛めていた。ナーガの提案があっさり通ったのは、お前が陰でかなりな根回しをしていたからだろう?」
「…………」
「お前は立派な総領になる」
「当たり前だ」
「そのお前には、お前の意志を受け渡す立派な跡取りが必要だ」
「……!」
モエギは膝を付いて手を伸ばしたが、
ハトゥンは身を起こして、その手を払いのけた。
「それでお前は、俺が他に何人妻を娶っても平気なん……」
言い終わる前に胸ぐらをグイと引き寄せられた。
「・・平気な、訳が、ない・・」
月の逆光にオレンジの瞳がメラメラと燃えている。
「私があの娘に対してちゃんとしてやれと言ったのは、責任を持って面倒見てやれという意味だ。今更実家へ帰したってろくな事にならないのは分かっているだろう」
「あ……ああ」
「跡取りは……私に任せて欲しい」
「えっ、駄目だ、それは」
モエギは更に顔を近付けた。
瞳の奥のオレンジの炎が、閃光を持って瞬く。
「・・摂理、だ・・」
「せ……」
「お前の血を汲んだ子供が私以外の身体を経てこの世に来るなど有り得ない。それは水が高みより低きに流れる如く当然な摂理なのだ」
ハトゥンはただじっと彼女の炎を見つめる。
親父もソラも、娘のルウシェルでさえも、所詮分かりようがない。
この女性が身の内にどれだけの炎を宿しているのか。