夕闇に染まっていく平原を駆けながら
かつて、スラーシュという亜人種による侵攻を受けた事で起きた悲劇が要因となって周囲を400メートル以上近くを平原地帯に整備したうえで築かれたその城壁はいままで、その規模故に亜人種はわざわざ攻め入ることはなかった。
せいぜいが丘陵地帯での争いに敗れ行き場を失った亜人や口減らしで追放された亜人が数十程度で襲撃を仕掛ける程度であった。バザー自身、そういった背景などから決して今回の様な大攻勢を行う事はなかった。一度、数年前に若い戦士らを引き連れて襲撃を仕掛けて以来、バザーは沈黙を保ってきたがしかし
「ハ、ハハ、ハハハハハハハッッ!!!!」
まるで理性が白濁し蕩け切ってしまったか、それとも狂奔してしまったか、バザーは狂笑しながら駆ける。駆ける。駆ける。
既に彼の標的は、つい先ほど自分へと魔法の矢を放った、この目前にまで迫った城壁、その壁上にいる人間たちの戦士らそれらの長であろう男だ。
兵士長パベル・バラハへと狙いを定めた事を、当の本人はこの壁上とまだその直下ではない平原地帯にいるバザーの距離が数百メートルであるのにも関わらず視認できるその鷹の目故か、理解してしまっていた。
それでも闘争を選ばず部下たちに指示を飛ばして、他の亜人らに対処している辺り、彼は立派な兵士長なのだろう。
当然、バザーもそれを理解しているが故に、沸々と戦意を煮えたぎらせていた。
「聴こえる、聴こえる、聴こえるぞぉぉおおッ!!」
彼は山羊人たちの王である。
それは一族の中で最も強く、そして最も勇敢なる勇者であるからだ。
これまで、彼は強大な獲物を仕留める際に、誰よりも早くに先陣を切り、そして仲間たちを怪我無く帰還させてきた。そんな『豪王』という王号を肩に掛ける男がなぜ故に無謀とは言えぬがしかし決して少なくない被害を生み出しかねないこの大攻勢を行っているのか。
それはおよそ、数日前に遡る。
普段通り、彼は一族の長として振る舞っていた。彼ら山羊人の勇敢なる勇者、偉大なる豪王として、思慮深さを内包させた者として君臨していたのだ。だがしかし、それらは全てただ一夜を越えた先に容易く崩れ去っていった。
脳裏に響き渡る鐘の音、それは一種の天啓とも言えた。他の山羊人たちでは聴くことはできず、幻聴などではない。まるで王たる己を導くような荘厳たる鐘の音を聴きながら、バザーは英断を下した。
この己だけに聴こえている鐘の音こそ自らの、否この丘陵地帯の亜人種らのどれらも比べて後にも先にも成し遂げられぬ偉業。この城壁を打ち破り聖王国へと攻め入るのだ。
そんな理由。
まるで精神干渉の魔法でも受けたかのような突発的なソレであるがしかし、何も関係がない。彼ら山羊人の絶対的君主たる彼がそう決めたのならば、山羊人の勇者がそう決めたのならば、彼らは従う他ない。
それは豪王たる彼のカリスマ、その一端とも言えるものだ。いままで培ってきた信頼と実績に基づくソレによって彼ら山羊人の戦士たちはバザーに付き従い城壁を攻め落とさんと疾駆する。死を恐れぬ戦士として。
だが、そんなことは聖王国の兵士たちには知ったことではない。
彼らの誰も、バザーだけが聴いた鐘の音など耳にしているわけもなければ、宣戦布告の一言もない以上、今回の突発的な大攻勢の理由など理解できるわけがない。大攻勢の理由も分からなければ、どんな考えがあるのかもわからない、だがそんなまともに思考が回らない中であっても城壁にて防衛の任を命じられ亜人らと殺し合っている彼らが分かり切っているただ一つの事がある。
自分たちが敗北すれば?
自分たちが死んでしまえば?
この聖王国と丘陵地帯を分断する城壁を乗り越えられてしまっては?
そんなの、決まり切っているだろう─────
「絶対に、こいつらを、聖王国に入れてたまるか……ッ!!」
家族が、知人が、仲間が、守るべき民草が、守るべき街や村が、何もかもが奴らに奪われるかもしれない。
であれば、ここで山羊人とその他の亜人たちを押し留めねばならない。その為に彼らは気力を振り絞り、威勢を強く保ちながら目の前の亜人たちへとぶつかっていく。当然、素の膂力が人間よりも高い亜人、下手を打てば容易く殺されかねないが彼らは皆何度もこの城壁で亜人相手に戦ってきた兵士たち。仲間と協力しながら、亜人たちへと抗っていく。
そうする中で、視界の端より城壁目掛けて突貫していく狂戦士と化した豪王の姿が。止めねばならない、だが彼ら兵士らは目の前の亜人達で手一杯である以上豪王の撃侵を止めることは出来ない。出来ないが、しかし
「よお、豪王。ちょっとゆっくりしてけよ」
それを止める人がいるのを知っている。
まるで旧来の友人に声でもかけるかのような気安い言葉とは裏腹に恐ろしいほどの殺意の籠った一撃が撃侵する豪王へ目掛けて振り下ろされた。狂戦士と化していた豪王はその殺意に寸前で反応し、その手に握っていた剣を先ほどまでの狂戦士ぶりから一変した確かな技量を以て弾いたと思えば、軽い足取り数歩後ろへと後退しその足を止めた。
ゆらりと銀毛を揺らしながら、足を止めた豪王は自分へと一撃を放った男へとその緑の瞳を向ける。
彼の正面に立つのは一人の男。
太い眉、無精ヒゲ、そして特徴的な小さく丸い小動物じみた目。そんな戦士として滑稽的な特徴でありながら、そんなモノとは正反対な彼はその身体のどこもかしこも太く逞しい。
その身に纏う聖王国の強兵の装備がなければそれこそ破落戸か、荒くれ者な冒険者と見る者に思わせる風貌である彼の名はオルランド。
ローブル聖王国における九色、その一色を強さだけで手にした戦士。
オルランド・カンパーノ。
この城壁においてパベル・バラハに次ぐ強者であり、かつて目の前の豪王と戦い、味方の援軍が到着するまで持ち堪え退却させた男。
「……貴様、あの時の戦士か」
「ハッ、覚えてくれたのかよ。嬉しくて涙が出ちまうな、こりゃ」
人間でありながら、かつて己が殺すことのできなかった男。
無論、自身が本気で殺そうと思えば殺すことのできる人間である。だが、かつてそこまでの敵とは見做さなかった。故に殺せなかった。
言ってしまえば、見逃した相手。
その程度の敵である。豪王は自らの記憶を反芻していき、目の前の人間はそこまでの脅威とならない。そう、判断して────前回と同じである、と理解した。
「邪魔だ。殺す」
「────上等だッ!やってみろやッ!!豪王!!」
前回の様に時間を稼がれてしまえば、この後に差し支える。そう判断した豪王は牙を剥き出しにし唸るように目の前の人間へと殺意を示し、それに対してオルランドはかつてリスクを冒してでも殺すほどの相手ではないと豪王に思われていた事に敗北感を抱いていたが故に豪王の反応に狂喜とでも言えばいいのか、その長年雨風に晒され続けた巌の様な野性味あふれた顔を獰猛に歪め、小型の円形盾に片刃の剣を改めて強く握りしめる。
刹那、両者が激突した。
─────
「オルランドの奴……」
豪王と戦士の戦いが始まったのを城壁の高所から部下たちへ指示を飛ばしつつ自身も弓に矢を番えて亜人たちを射抜いていたパベルは視界の端に収めていた。
彼の放つ矢では周囲に目もくれず城壁へと撃侵していた豪王の足を止めるにはいささか役不足であったのを自覚していた彼はこの城壁きっての問題児であり信頼できる男がひとまず豪王の足を止めてくれたことに感謝の念を抱きながらも、かつてオルランド自身がまだ豪王に勝てないだろうと口にしていたことが脳裏に過り、歯噛みするような表情を一瞬見せた。
運がいいのか、この薄暗い中で弓兵として目の良い部下たちにその表情を見られることはなかったが、その代わりに視線で投げかけられた問いかけへと彼は返答する。
「豪王はいい。奴の剣は
「「「ハッ!!」」」
強者とぶつかる友軍の支援は当然であるが、下手な支援では逆に友軍の邪魔になりかねない。豪王の情報の一部を知っているが故の的確な判断を飛ばし、パベルはいざという時のことを考えながら、オルランドと豪王の戦いから視線を振興する亜人たちへと向けて
「火?」
その凶眼に収めた光景に彼は火を幻視した。
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