少女がカルデアに向かう前日の話
「……そうですか…明日、出発なのですね……」
……と、孤児院の先生であるおばあちゃんが悲しげに言う……いや。あの……
「何か凄い悲壮感出してくれてますがただ住み込みの短期バイト行くだけですからね!?」
私は必死に抗議する。おばあちゃん、孤児院にボランティアに来てる私にも優しい人だけどこういうときは本当に困る
「私にとっては貴女も娘の一人なのよ!?ましてや貴女は頑張り過ぎちゃうから余計に心配になるじゃないの!?」
「えー…」
嬉しいのは嬉しいんだけど……本当の親よりこうやって過保護だからなあ……あれ?良く考えたら仮にも外国行くのに二つ返事でOK出した私の親って……
「立香さん!?聞いてるんですか!?」
「…!はっ、ハイ!」
「良いですか!?貴女はこの前も無理して熱射病で倒れたのよ!?」
「…いやそれ一年前の話ですよね!?」
マジで今関係無くない!?確かに耐性低い方だと思うけど!大体私が行くのは……
「だ、大丈夫ですよ。私が行くの凄い寒いとこだし……」
「何言ってるの!?貴女そうでなくても身体弱いんだから風邪でもひいたらどうするの!?」
「えー…」
うわーい。今日は何か一段と過保護っぷりが暴走してるよー。
「…ハア……まあこれだけ言っても貴女はどうせ行くのは止めないんでしょうね……」
「…はい。もう決めましたから。」
「そうよね。貴女は一度決めた事は絶対曲げないものね。……寂しくなるわ……」
私は車椅子を押しておばあちゃんに近づき手を取る
「大丈夫ですよ。私はちゃんと帰ってきますって。別に今生の別れとかじゃないですから」
「……」
「それに、私はここが気に入ってるんです。子供たちは皆可愛いし、そして何よりおばあちゃんの事も大好きですから」
……と、必死にご機嫌取りをする。……いや。子供たちやおばあちゃんの事は本当に大好きだけどさ……
「…そんなヨイショしても誤魔化されませんよ。」
「へっ!?」
あっ、あれぇ?イケると思ったんだけどなあ……
「私が貴女のためを思って言っているというのに貴女という人は……!」
ヤッ、ヤバッ!
「おっ、おばあちゃん!?私明日の準備もあるしそろそろ帰らないと……!」
「…貴女が来る前に貴女の家に電話しました。貴女は今日はここに泊まることになっています。貴女のお母様が荷物も後で届けてくれるそうですよ」
「え゙っ……」
おっ、お母さん!?
「さっ、今夜はゆっくりお話ししましょうね」
「ひっ、ひえ~」
私の試練はまだ終わらないようだ……
少女の親友の話
「…立香~、カルデアってとこにバイト行くの何時だっけ?」
「一週間後だよ~」
「……そっか~」
「どうしたの?急に?前にも話したじゃん。」
「…!ううん。なんでもないよ」
「そう?」
彼女は間違いなく私の親友だ。でもこの暗い感情は止められない。
……私の家は魔術師の家柄だ。……元がつくが。
彼女に初めて会ったとき感じたものはその莫大な量の魔力とほぼ全身に走る魔術回路
……私は親と違い先祖帰りなのか魔術回路が存在するが家を再興出来る力は無い……
嫉妬に駆られて何をするか自分でも分からなくなりそうになる。
……でも……
「…今日は何処行く?」
「う~ん……あっ!あそこにしない?ほら新しく出来た……」
「そうだね、そうしよっか」
彼女の車椅子を押しつつ私が気付いてる事実を反芻して気持ちを圧し殺す
……彼女は遠くないうちにその身にかけられた呪いで死ぬ……
……そんな事を考えつつ私は今日も彼女の善き友人であろうとする
竜の魔女の憂鬱
「…この私がわざわざ来てあげたのに惰眠を貪るとは…このまま縊り殺してあげようかしら?」
ベッドで微かに胸を上下させる、痩せ細ったその身体を見ながら細い首に手を掛ける…
「…ほら、起きなさいよ…本当に殺すわよ?」
首にゆっくり力を込めて行く…元々悪かった顔色が更に悪くなり…「カヒュッ」 とカエルが潰れたような声が聞こえた所でビクッとして力を緩める…胸の上下が止まってないのを見て、安堵した自分にイラついた。
「起きなさいよ…!」
その身体を只管に揺さぶる…自分でもどうしてか分からないがこの女に感情を掻き乱される…せめて死なない程度に一発ぶん殴ってやりたいが、それは起きてる時じゃないと意味が無い…
「…もう良いわ、コレでさよならね…引き止めるなら…今の内よ?」
そう言ってソイツから背を向ける。引き止める声は…聞こえなかった…フン、コレでせいせいしたわ。
「…じゃあね、ダメマスター。私がいなくても…無様に最後の最期まで足掻きなさい。仮にどれだけ惨めでも生きている方が良いってこの私に言ったのは…他ならぬ、アンタなんだから…」
錬鉄の英雄の帰還
「…エミヤさん、本当に行ってしまわれるんですか……?」
悲しげにそう言う少女に胸を締め付けられるがすぐに前を向く……もう決めた事だ……
「私の言えた義理ではないが……マスターの事を頼んだぞ」
「…!はいっ!」
良き返事だ。彼女に任せれば心配はいらないだろう……
……私は眠るマスターに近づきその手を軽く握る
「……」
……何か声をかけようと思ったが考えてみれば私にその資格は無いな。私は彼女から逃げようとしているのだから……
私はその手を離し部屋を出…
「…エミヤさん!」
足を止める
「…何かね?」
「…お世話になりました!」
「…次のマスターが決まったら呼んでくれ。その時は今度こそ力になると誓おう」
今度こそ私は部屋を出る
「…で、何か用かね?ランサー」
部屋を出れば壁にもたれ掛かる青髪の男
「…ハッ、同僚の見送りに来たら悪いのかよ?」
……見送り?何を馬鹿な……
「…では、何故君は殺気を私に向けているのかね?」
「…そうだな、こいつは一種の余興だ。……アーチャー、俺と最後に一戦してけや。」
「…ふむ。良かろう。では、被害を出しても問題無い所に行こうか?」
私がそう言うと奴は心底驚いたと言った顔を向けてくる……何だ、その顔は……
「何か可笑しかったかね?私は君の希望に答えただけだが?」
「ん?いや。なんつーか……まあいいわ。行こうぜ」
「…今回は勝たせてもらおう。」
「抜かせ。勝つのは俺だ」
……赤と青のコンビが物騒な笑みを浮かべ無言で練り歩く中カルデアスタッフは戦々恐々としていたという……
優しい子供たち
「おかあさん!」
「しー。ダメよ、ジャック。マスターは病気で寝てるんだからいきなり大声出したら……」
「あっ、おかあさん、ごめんなさい」
「……」
「おかあさん起きないなあ……」
「仕方ないわ。せっかく持ってきたしこの絵本読んでいってあげましょう」
「…うん。」
「…特に心配無さそうですね……」
先輩の部屋から声が聞こえた気がしたので聞き耳を立ててみると中にはナーサリーさんとジャックさんがいるようでした。
……勝手に入ったことに関しては注意しないといけないのでしょうが……
「…気付かなかったことにしましょうか……」
私は先輩の部屋のドアから離れた。
侍の話
「最後の挨拶をと思って来たのだが…」
今の痩せ細った彼女を見ていると言葉が何も出て来ない。
私は彼女の横たわるベッドまで歩き、その頬に触れてみる……冷たい。
「もう体温はほぼ無いに等しいか…まるで死体に触れているかの様だ…」
このカルデアと言う場に呼び出されてしばらく…時折話す事こそ有ったものの…彼女に出会ってから特に印象深かった思い出の様な物はそれ程無かった様にも思う……いや…
『…へ?燕を斬る?何の為にですか?』
『何故と聞かれてもな…ただ思ってしまったんだ、あの空を舞う燕を斬ってみたいとな…』
『はぁ…そうですか。』
『そして私がただ一つ手にしたのがこの業という事だ……馬鹿だと思うか?』
今思えば…まだ会ったばかりの彼女にせがまれて訓練場までやって来て剣を振るって見せた…そこまでは分かるが、何故そんな質問をしてしまったのかは…私にも分からない…
『…馬鹿になんてしませんよ。私…人の努力を笑える程大層な生き方はしてませんし…』
確かに私は昼夜も問わず何年もただただ燕を斬る為だけに剣を振り続けた…そこに何かを思う気持ちは既に無い。…だが、ある意味で私以上に困難な道を歩いて来ただろう彼女にそう言われた時、私自身も不思議と感慨深い気持ちになったものだ。
「…さて、そろそろ行くとしよう…」
彼女がどの様な最期を迎えるのか見届けようかとも思っていたが、その役割に相応しい人物は他に居る。
槍使いの話
「…よう。嬢ちゃん、……また痩せたようだな……」
椅子を引っ張ってきて座る
「なあ、嬢ちゃん。俺さあ帰ることにしたんだわ。悪かったな、助けてやれなくてよ……」
サーヴァント連中の大半はさっさと帰っちまった。後は俺とガキどもと変態科学者と盾の嬢ちゃんくらいしかいねぇ。
「辛気臭ぇのは嫌いだしごちゃごちゃご託並べるのも好きじゃねぇ。だからこれだけ言いに来た。残りの時間精一杯生きな。最後のプレゼントをやるよ」
俺は嬢ちゃんにルーンをかける。……まじないレベルどころか気休めにもなんねぇだろうが苦痛は少し楽になるはずだ
「……じゃあな。マスター」
残った天才の話
静かな部屋にキーを叩く音が響く。
「……ふぅ。」
作業行程を保存しパソコンの電源を落とし席を立つとパソコンから伸びるコードの先へ向かう。
コードは既に乗る者の居ない車椅子に繋がれている。
……私はコードを抜いた。
「立香君?君が乗らないと私がこいつを調整しても何の意味も無いんだよ……?」
……届くはずの無い言葉を溜息と共に溢す……
「う~ん……少しここに長く居すぎたのかもしれないな……」
……そうだ。休暇を取ろう。……正直今のカルデアにはあまり居たくない。あの頃比較的肌の合わなかった人物はもう居ないけど残った面子も彼女がああなってから皆魂が抜けたようになってしまって張り合いが無い。
「…彼女とあの馬鹿には挨拶していこうかな……?……ああ、その前に……」
まずはごちゃごちゃしているこの部屋を片付けないとね……
所長代理の話
……この部屋に来るのは久しぶりだ。
……僕は部屋に入る
「……久しぶり、だね。立香君。」
……彼女の姿を視界に入れられたのは一瞬だけ。
直視するには彼女はすっかり変わり果ててしまった……
「いや。それではいけないな……」
僕はもう一度視線を彼女に向ける
「……」
彼女に対してかけたい言葉はたくさんあったはずなのに……改めて彼女を見据えたら全て消し飛んでしまった。
「本当に、ごめんよ。立香君。」
彼女の姿はあまりにも痛々しすぎる……僕が目を背け続けた結果がこれなのか……?これじゃあ僕はもう彼女に何も言う権利は無いじゃないか……
「……ごめん。帰るよ。」
……こうなったらもう僕に出来るのは人理修復を終えるまで歩みを止めない事しかない。勝手だとは思うけどそれが僕が彼女に出来る唯一の償いだ……
盾の少女と?
「貴方は誰なんですか!?今すぐに先輩から離れてください!」
先輩の様子を見に部屋に来たら見覚えの無い人物が居たので私はそう声をかけました……まさかこうもあっさり侵入されるなんて……!
「聞こえないんですか!?今すぐに離れてください!」
私はサーヴァント化しその人物に再び声をかけます。敵のサーヴァントでしょうか……?……今先輩を守れるのは私だけ……!絶対に先輩に手出しは……!
『……マシュ。大丈夫だよ。俺は彼女に危害は加えない』
私の名前を……!?いえ。今はそれはどうでも良いでしょう。とにかく彼の言葉を簡単に信じるわけにはいきません。彼は侵入者には違いないのですから……!
「…とりあえずこちらを向いて下さい。それから事情を話して貰います……!」
彼は振り向いた
『……久しぶり。マシュ……いや。ごめん。この世界の君に俺の事は分かるわけないよな……』
……彼に見覚えはありませんし言ってる意味も分かりません。でも……
「…貴方は一体誰なんですか……?」
今にも泣き出しそうな彼の顔……それと彼に手を握られる先輩はとても穏やかな顔をしていて……更に良く見れば彼はカルデアの戦闘服を身にまとっていました……
『…うん。今から俺の事について話すよ……それに、彼女についても大事な話がある……』
一瞬先輩に目をやった彼が再び私に視線を戻したとき、彼は先程とはうってかわって真剣な顔をしていました……私は警戒は解かないものの彼の話を聞いてみることにしたのです……
復讐者の話
俺が手を握ってやった女はそのまま身体から力を抜きそのまま倒れこみそうになり俺は思わずその身体を支えていた……
「……」
俺は何をやっているんだ……?この女に特別な感情は無い。だが、何となくこの女を放って置くことが出来なかった
「…クハ。俺もヤキが回ったものだな」
この女が人類最後のマスター……カルデアの切り札であることは把握している。……魔術王とやらは気に入らないがそちら側に俺が所属している以上俺にとってはこの女は本来敵なわけだ。
「……」
しかし俺はこの女に敵とは名乗らなかった。
「……フン」
俺は異様に軽いその女を背負った。
「…喜べ。貴様を外に出してやろう……」
俺は独房のドアを開けた
名もなき魔術使いの話1
魔術師の家の方針に嫌気が差し家を飛び出した俺は人理保証機関カルデアに招かれた。…ここの代表となる女、オルガマリー・アニムスフィアが当主となっているアニムスフィア家と俺の家はとにかく仲が悪いのだが既に出奔し、名も変えた俺の知った事ではない。
…にしてもあの高圧的な性格は何とかならないものか…?俺の魔術特性そのものはかなり特殊な部類には入るが魔術師としての実戦能力は低い…それは自覚している…。
だからと言ってまるで出来損ないを見るかのような目をするのは問題だろう。…出ていってやろうかとも思ったがここは南極のド真ん中。伝手が無ければ出ていくのも難しい…それにあの女がカルデアの技師レフ・ライノールに見せる弱々しい姿を偶然見てしまってからそういう選択肢は完全に消した。…昔から魔術師らしくなく、どうにも甘い気質の俺はああいう奴を放置出来ない。
…そこから目まぐるしく時は過ぎレイシフト当日…俺の意識は闇に沈んだ。目を覚ました後に聞いた話だと裏切り者のレフ・ライノールが仕掛けた爆弾の爆発に巻き込まれたらしい…しかもオルガマリーは死亡し現在は人類も滅亡しカルデアの外にも出られない。
そして当日になってやってきた一般人のマスター候補がずっと世界を救うため奔走していた…そんな彼女は今…
「…あんたが俺の前任か。…中々に幸薄そうな顔してやがんな。」
実際はそんな言葉で言い表せない程その女は衰弱しきっていた…辛うじてとは言え、息があるのが不思議な位だ。…ざっと解析するがかかってる呪いは俺にはどうすることも出来ずそもそも手遅れだった…。
「…ここの連中はよ、皆俺とあんたを比べやがんだ。…罪作りだよなぁ…俺にあんたみたいな事は出来ねぇよ…。」
どうやってこの女はこんな衰弱しきった身体で全てを背負ったんだろうな…現在目覚めたマスター候補が俺しかいないとは言え、はっきり言ってこいつと同じ事なんて出来ねぇ…自分の役目から逃げ出した俺にはな。
「…まぁ腐っててもしょうがねぇからよ、そこで見てな。俺は俺のやり方で人類を救ってみせるぜ。」
その一言で言い表すなら醜悪な見た目の少女にそう声をかける…不思議だ…こいつを見てると勇気が貰える気がするんだ…。
「また来るよ。元気になったらあんたと話でもしてみてぇな…死ぬなよ。」
名もなき魔術使いの話2
サーヴァント召喚をする…誰も立ち会わず、準備も当然一人でする羽目になるが、もう慣れたものだ……さて、何が出て来る?
「…フィオナ騎士団が一番槍「アンタ、もしかしてディルムッド・オディナか?」…私の事をご存知なのですか?」
「…魔術使いともなればサーヴァント召喚する可能性はあったからな…嗜み程度に英雄譚くらいは読むさ。二槍使いなんて珍しいし、加えてフィオナ騎士団と来れば…候補はアンタくらいしかいない。…あー…悪かったな…」
「?…何の事でしょうか?」
「いや…せっかくのアンタの自己紹介を遮っちまってな…」
「…構いません。」
「そうかい…んで、事態は把握して…いや。アンタ、ここに来るのは初めてか?」
「そう、ですが…」
「なら良かった…」
「それはどう言う意味でしょうか?」
「不快にさせたのなら謝る…ここではちょっとな…おいおい説明するから…ここでは勘弁して貰えないか?」
「…承知しました、主よ。」
そう呼ばれ、俺の心が軋むのを感じ、胃の方にズキリとした痛みが走る…
「…どうかされましたか、主?」
…一瞬意識が飛びかけた所で声が聞こえ、現実に戻って来る…物語の中で語られ、その時の想像よりもずっと美しいとしか表現のしようの無い顔が心配げに歪んでいた…なるほど、黒子がどうとかでなく改めて見ると元々相当に顔は良い…仮に呪いの黒子とやらが無くてもこの顔とこの声に落ちる女は多いだろうな…
「いや…何でも無い…それより改めての問いになるが、状況は把握してると言う事で良いんだよな?」
「ええ。」
「…そうかい。…まぁアンタには申し訳無いが、今しばらくは戦いには出られないだろうよ。」
「…何故ですか?人類が滅ぶかの瀬戸際なのでしょう?」
「その辺も後でまとめて話す…んじゃここの案内をする、ついて来てくれ。」
「承知しました、宜しく頼みます。」
時折今の俺以上に死んだ顔をした他の職員に遭遇し、二、三声をかけながら"そこ"に辿り着く。
「…主よ。」
「…それ、もし俺が堅苦しいから止めろって言ったら止めてくれるのか?」
「…仕える者としての礼儀のつもりであったのだが…」
「俺はそんなに敬われる価値の有る人間じゃねぇよ。」
「では何と呼べば?」
「俺の肩書きか?まぁ…マスター代理って所かね。」
「代理?」
「ああ。本来ならこのドアの向こうにいる奴がマスターだっただろうよ。」
俺はドアを開けた。
「……彼女は?」
「…さすがだな、一目見て女だと分かったか。」
そこは"藤丸立香"の部屋…今もベッドで眠り続けてるそいつは…既に性別の判断すら難しい程見た目が変質していた。
「骨格から判断した。」
「…なるほどな。…改めて挨拶でもしてくれ。アンタにとっては腹の立つ話かも知れないが…本来ならコイツがアンタのマスターだった筈なんだ。」
デミ・サーヴァントとなったマシュと言う女に、コイツがこうなる前の写真を見せて貰った事が有るが…正直今じゃ、辛うじて面影が有るかどうかって所だ…
「…原因は呪いの類いか?」
「ああ、そうだが…アンタ魔術の素養も有るのか?」
「ほぼ門外漢だが、多少の知識は有る…」
「そうかい。」
「…一つ聞きたい。」
「何だ?」
「もし彼女が目覚めたら…お前はマスターを降りるつもりなのか?」
「…仮にコイツの正体を知らなきゃ…そうしたかもな。」
「正体?」
「コイツは…元々は魔術の知識の欠片も無い一般人だったんだ…そんな奴が今まで一人で命張ってたのに俺は眠ってたんだ…この後コイツが目覚めたとしても俺もマスターとして戦う…そう決めた。」
「…改めて誓わせて頂きたい。」
「何を?」
俺の目の前でディルムッド・オディナが膝を立てて座る…
「私は…その尊き決意を持った貴方にこそ仕えたい…貴方に…忠誠を誓わせて頂けないだろうか…?」
「…そんな重い誓いは俺には背負えねぇよ。俺とアンタは目的を同じくする対等、人理を修復する為に邁進する者同士だ…俺に力を…貸してくれ…」
座り込むディルムッド・オディナに向けて手を差し出す…今カルデアにいるのはほぼ全員がコイツの信奉者だ…俺には信用は出来ても、心の死んでいるアイツらを信頼する事は出来無い…俺には味方が、いない…
ディルムッド・オディナが顔を上げた…俺の手を掴み、立ち上がる…
「…承知した。ならば私は…君の同士としてこの力を存分に振るうとしよう。」
「ああ、宜しく頼むぜ。」
名もなき魔術使いの話3
「…この私を呼び出したのが何処の誰かも分からない馬の骨とは…舐められたものですね…」
ディルムッドを脇に置いて、新たな召喚を試みる…礼装や正直何の役に立つかも分からんガラクタが大量に呼び出され、さすがにディルムッドが困惑して説明を求めて来たが「後にしてくれ…」とだけ答えれば、最初の印象通り気遣いの出来る奴ではあったらしくそれ以上何も聞いて来なかった。
……そして本日最後の召喚と決めて呼べたのが目の前の黒く禍々しさを感じる鎧を身に付けた病的に肌の白い女だった…呼び出されるなりあまりに剣呑な態度を取るものだからヤバいと思ったのか、俺の前に出ようとするディルムッドの前に腕を出して止める…
「マスター、何のつもり「悪い、取り敢えず俺に任せてくれ」だが…!「待てって。ここで対応間違えたら余計に面倒な事になるのは分かるだろ」…大丈夫なのか?」
「さてな、どうにかなるだろ「そっちが呼んでおいて無視するとは…命が要らないようね」…待ってくれ、悪かったよ…」
俺はとにかくその場で頭を下げる…どれだけ気難しい奴でも今は一人でもこっちは味方が欲しい…最もコイツの反応的に難しそうだけどな…
「……最低限の礼儀は有る様ね…良いわ、今は不問にしてあげる…」
「助かる…」
顔を上げて改めて女の顔を見る……どう考えても目の前の女は英霊として祀り上げられた様な奴には思えない…最もこうして召喚された事を考えれば、そう考える以外に無いんだが…まぁ今はそんな事は良いか。さて、アレを聞くかね…
「…いきなりで悪いが一つ質問が有る…聞いても良いか?」
「……良いでしょう、一つで良いなら答えましょう。」
「…『藤丸立香』と言う名に聞き覚えは有るか?」
「!……さぁ、知りませんとも。自分の役目を放棄して眠り惚けていた様な女なんて…ええ…私は知りませんとも。」
この反応、コイツは藤丸立香を間違い無く知っている…最も、今まで呼んだサーヴァントの中であの女にここまで悪感情を持っている奴は初めてだ…
「…俺は藤丸立香が女だなんて、一言も言ってないけどな。」
「っ!…人の揚げ足を取るのが好きとは、何とも悪趣味ですね…!」
「俺は指摘しただけだぜ?アンタが勝手に自分で言ったんだ、藤丸立香が…女である、と。知らないなら…何故分かった?」
「…細かい事をグチグチと、この場で燃やしてあげようかしら…!」
目の前の女の手が炎を帯びる…
「っ!マスター!」
「待てって。アイツの事を知ってるのに向けてるのがそれだけ強い憎悪なら、一つ頼みが有る…」
「…何かしら、最期に聞いてあげる…」
「俺に力を貸してくれ…」
その場でまた頭を下げる…
「……どういうつもり?」
「…何がだ?」
「…今自分を殺そうとしている相手に助力をお願いしている事よ。」
「簡単だ、俺とディルムッドだけじゃ今の状況をどうにかする事が出来無いからだ……いつになるかは分からんが藤丸立香が目覚める間までで良い…俺に、アンタの力を貸してくれ…」
「…解せませんね、何故私の様な奴に頼むのか…」
「今、俺の味方と呼べるのは…ここに居るディルムッドだけだからな。」
「…どういう事でしょう…少なくともここには、他にも何人かサーヴァントがいる様ですが?」
「後のサーヴァントは…皆「藤丸立香」の信奉者だ…人間の職員ですらそうだ…要は、俺をまともにマスターとして扱おうとする奴が他にいないのさ…」
「成程、つまりここには今腑抜けしかいない訳ね…そしてあの女の後釜になったアンタはこの場で明確な敵でしかない私に情けなくも頭を下げる始末、と。」
「返す言葉もねぇ…だが、俺にはこうする事しか出来ねぇ…」
「良いわ、顔を上げなさい…」
俺はゆっくり顔を上げる……既に手の炎は消えていた。
「一つだけ…条件が有るわ。」
「何だ?」
「今日からしばらく休暇を取りなさい。」
「あん?」
「…何度も言わせんじゃないわよ、そんな今にも倒れそうな顔見てるとムカつくのよ。だから休めって言ってんの。」
「そうだな、君は今相当に顔色が悪い…」
「アンタまでそう言うか…分かったよ、休みゃ良いんだろ?んじゃ詳しい話は明日する……ここの案内は要らねぇな?」
「ええ、必要無いわ。……私の部屋は残ってるんでしょうね?」
「…少なくとも俺は目覚めてから、自分の部屋とディルムッド用に当てがった部屋以外に入った事は無い…そして他に藤丸立香と契約した事の無いサーヴァントも呼べていない。」
そう…ディルムッド以外には藤丸立香をマスターに決めた古参のサーヴァントしか今ここにはいない……ちなみに例外で藤丸立香の部屋にはたまに出入りするが、それは別にこの場で言う事じゃねぇな。
「そう…じゃあ私は部屋に行くから。」
「ああ…いや…ちょっと待ってくれ、忘れてた。」
「今度は何ですか「アンタの名を聞いてなかった」…ああ、そうだったわね…」
そこで女は初めて笑った…邪悪さを感じさせる様な笑い方で。
「私はサーヴァント、アヴェンジャー…真名はジャンヌ・ダルク……満足かしら?」
「ああ。」
アヴェンジャー…復讐者のクラス、ね…
「……聞かないのかしら?それとも、知らないの?」
「何がだ?」
「何がって…私は…ジャンヌ・ダルクよ?聖女の「百年戦争時代の英雄だろ?知ってるさ」…じゃあ私を見て変だと思わないのかしら?」
「いや?別に思わねぇな。」
「何故?」
「…大層な高説述べる気はねぇが、故郷の為に戦っただけなのに異端視されて処刑なんてされたら…清廉潔白な聖女とやらからアンタみたいな性格に変化したって何ら不思議はねぇ。…他人を恨むのは、真っ当に人間であった証拠だろ?…取り敢えず今ここに居るアンタは気紛れかも知れんが、この俺に力を貸してくれようとしている…出自がどうであろうが、結局今の俺にとってはそれが全てなんだよ。」
「……気に入らないわ、その訳知り顔…目障りだからとっとと寝なさいよ。」
「そうするわ。んじゃ、ディル…悪ぃけど後頼むわ。」
「了解だ、ゆっくり休むと良い。」
「おう。」
名も無き魔術使いの話4
微睡みの中、光が入って来たのが分かる…赤く染まる目蓋……いや、変だ…俺は暗い部屋の中で寝ていた筈だ…何が起きた?
……違和感しか感じねぇが、このまま目を閉じていても恐らく状況は変わらねぇ…俺は目を開ける…
「……は?」
視界に飛び込んで来たのは鮮やかな緑の葉を付けた木々と、その隙間から見える青い空…いや、俺は確かに部屋で寝ていた筈……ここは何処だ?
「……取り敢えず、起きるか…」
釈然としない気持ちのまま、俺は硬い地面に手を着いて立ち上がった…っ!少しふらつきながらも俺は何とか近くの木に手を着いた。
「……ただの夢って訳じゃ、無さそうだな…」
木に触れた感触は確かに感じる…ただ、何処か酒を飲んで酔っ払った時の様な…頭の中に靄が掛かってるようにも感じる…マジで一体何が起きてるんだ…が、全く何も思い当たらない訳でも無い…
「……レイシフトか?」
俺のやって来た施設、カルデアで行われていた実験にして…今は世界を救う唯一の方法にもなっているレイシフト…要は魂をデータ化する事で異なる次元、時代に対象者を送り込む手段の事だ……最もこれには専用の機材が必要になる…ちなみに、俺は嘗てレイシフト直前に空っぽになる筈の肉体を収容しておくカプセル…コフィンを破壊された…幸い、木っ端微塵にはならなかったからこうして今も生きてはいるが…
「何故、コフィンに入らずレイシフト出来ている?」
疑問は尽きない…ま、とは言えだ…
「進むしかねぇか…」
ここでこうしていても仕方ねぇ…原因はともかく俺は今、こうして別の世界に飛ばされている…それは確かだ…サーヴァントも連れず何が起こるか分からない異世界をウロウロするなんて愚の骨頂だが、進んでみなきゃ状況は変わらねぇ…俺はふらつく身体に鞭打って森の中を歩き始めた…
しばらく歩くと森は途切れ、最低限舗装された道だけが続いている。
「……」
歩いている内に、不思議とさっきよりはマシに動く様になった足を前に進める…とにかく、人に会わねぇと…
そうして歩を進めた俺の前に、それなりの大きさの建物が見えて来た。
「……旅館、か?」
近付いて見てみるが、母国にある様なホテルとは明らかに違う和風建築の建物だ…一応、以前日本にも何度か訪れたから…見た事も有るし何なら泊まった事も有る…まぁパッと見和風の建物って事しか分からないから、実際旅館かどうかは単なる勘なんだが…
とは言え、さすがに入る気にもならず黙って建物を眺めていると…
「!…見られてんな。」
何処からかこちらを観察している奴が居る…敵意じゃない、警戒はされてるみてぇだが…
「考えてみれば、入り口近くでただ突っ立ってるだけの俺が一番怪しいか…」
こちらは今の所敵対するつもりも無い…変に誤解されたままなのも面倒だ、中に入ってみるか…
…と、歩き出した俺の視界に旅館の中から出て来る奴の姿が入って来る…小柄な影…いや、普通に子供か?……今も俺を見てる気配は消えないから、それとは別口だな。取り敢えず俺から話しかけてみるか…
「……ここの人間か?」
子供にする言葉使いじゃないが、今更変えられねぇんだよな…つか、咄嗟に日本語を使ったが…通じてんのか?
「はい、そうでち。出迎えが遅くなって申し訳無いでち…」
……出迎えだと?
「俺が来るのが分かってた、ってのか?」
「アチキはここに近付いて来る人の事は分かりまちゅから…お客ちゃまはここ、閻魔亭は初めてでちゅね?」
あからさまに舌足らずな話し方…ただ、小柄で幼いその顔に似合わない理知的なその目…コイツ何者だ?…気にはなるが、まぁ後にするか…
「閻魔亭?」
「ココは旅館、閻魔亭でち。」
閻魔、ね…改めて聞くと物騒な名だな…
「お前がここの女将って事か?」
「そうでち。アチキはここの女将、お紅でち。」
……分からない事は多い…が、今の俺に他に行く宛も無い。
「そうか、部屋は空いてるか?」
「大丈夫でちよ、閻魔亭にようこちょ。ささ、中に案内するでち。」
俺自身、ずっと根を詰めてた自覚も有る…少しは休みも必要だよな…
名も無き魔術使いの話5
「いらっしゃいませ!閻魔亭にようこそ!」
「……おう。」
受付と思わしき場所に居た、妙に元気の良い女に少し気後れしつつも返事を返す…しっかし…言葉こそ日本語だが、結構特徴的な見た目だな…髪色も明るい赤毛で、瞳もまさかの金色と来たもんだ…まぁ、今時髪染めてるのなんて珍しくもねぇし…瞳もカラコン入れてるのかも知れねぇ…何にしてもそこら辺気にしてもしゃあねぇ…と言うか今、もっと気になる物が俺の視界に入っている…
「あの…やっぱり、気になります?」
「ん?ああ、悪い…」
女の言葉に素直に謝罪する…車椅子に乗ってる従業員ってのは珍しくも思うが、仕事に支障は無いからここに居るんだろうし、何よりジロジロ見られて良い気はしねぇわな…
「ここに名前書けば良いのか?」
「ええ……ハイ、OKです。改めて、閻魔亭にようこそ!」
「ああ。」
それはもう聞いた、とか言うつもりは無い…まぁ、旅館と言う物に普段馴染みがねぇから何とも言えねぇが、接客マニュアルにそうしろって書かれてるのかも知れねえしな…
「じゃ、アチキが部屋まで案内するでち。」
「ああ、頼む。」
……相手が子供かどうかってのも有るが、そもそも旅館の主相手の言葉使いとしても宜しくないレベルなのは分かる…ただ、直せって言われてもどうも俺は敬語とかは苦手だ…良い歳して何言ってんだって話だとは思うが…変に畏まった言葉使いだと寧ろ、ナメられるような世界で生きてたからしゃあないんだよな…
言い訳にしかならないのは分かってるけどよ……ふぅ…休むつもりが、どうも逆に気が滅入って来てるな…やれやれ…来るならホテルが良かったな…そっちなら一々余計な気を使わんでも済むからな…俺の口調だと他の客と揉める事も有りそうだ…基本、部屋からはあまり出ねぇ方が良いか…
「着きまちたよ。」
「ん?ああ、分かった…」
グダグダ考えてる内に、いつの間にか部屋に着いていたらしい…やれやれ…
「では、ごゆるりと…」
風呂の使える時間と飯の出る時間を説明して、あの女将は帰った。ハァ…他の客の居る時間に風呂に行きたくはねぇ…と言うか、女将に説明するのを忘れたが…俺の場合身体に多少なりとも傷が有る…まぁ、風呂に入るなら閉まるギリギリの時間に行った方が良さそうだな…
「取り敢えず…寝るか。」
飯までそれなりに時間が有る…先程からどうも身体の調子も悪い…元々ここに来る前から限界ギリギリ、で…
「ん?」
どうも記憶に違和感が有る…さっき、俺はここに来る前に部屋で眠りに入った筈だと認識していた……本当にそうか?俺は、何か大事な事を忘れて…
「くっ…駄目だ、思い出せねぇ…」
記憶に齟齬が有るのは分かった…だが、それ以上は何も分からない…
「取り敢えず、しばらくは滞在させて貰うしかねぇか…」
幸い金は有る…もちろん日本の金だ。まぁ、普段ろくに行かない事も有って一般的な旅館の料金相場なんて知らねぇし…あんまり手持ちが有る訳じゃないが…
「ハァ…仕方ねぇな…女将か、いや…あの受付の女に確認しに行くか…」
車椅子だと言う事は通常の業務は多分無理だろう…となれば、受付からあいつは動かねぇ筈だ…
「全く、面倒臭ぇな…」
どうも当分、俺が休める事は無い様だ…
名も無き魔術使いの話6
「はぁ…身体に傷が…」
「おう…いやまぁ、俺は別に見られても気にしねぇが…他の客からしたら不快だろうしな…」
「…一応確認したいんですが、そんなに酷いんですか?」
俺はシャツの袖のボタンを外し、袖を捲った…
「っ!…それ…!」
「…すまねぇな…嫌なもん見せた。」
俺はすぐに袖を戻した…今、女の顔は酷く歪んでいる…まぁ、銃創は元より、刃物傷…加えてケロイド状の火傷とか有るしな…自分で改めて見てもあまり気分は良くない…この女、どう見ても荒事には無縁に見えるからトラウマになるかも知んねぇな。
「…いえ、大丈夫です…その、身体の方はもっと…?」
「?…おう。」
思ったより立ち直りが早い…実は見慣れてたりするのか?
「…分かりました。紅ちゃ…いえ、女将に確認「いや、俺は風呂の開いてる時間聞きてぇんだが…」え?」
「さすがに閉まるギリギリの時間なら客も少ねぇだろ?まぁ、それでも数人の客には見られるかも知れねぇし…結局駄目だって言うなら、バケツと濡れタオルでも貰えれば部屋で自分で拭くんだが…」
別にここの客と揉めたい訳じゃねぇし、この宿に迷惑掛けたい訳でも無い。駄目だって言うなら俺もさすがに従うつもりだ。
「…いえ、正直私も初めてのケースなんで聞いてみないと何とも言えないですし…それに…」
「?…それに?」
「…ウチの女将のモットーは"全てのお客様に満足して帰って頂く事"でして…多分、入るなとは言わないと思います。」
「…そうか。」
「なので、確認して来ます…あ、お部屋に戻って頂いて結構ですよ?多分、後で女将がそちらに向かうと思うので…」
「…分かった、すまねぇな…」
「いえ、気にしないでください…えっと……あ、ねぇ?」
女がちょうど通りがかった雀に声を掛ける。
「チュン?」
「ごめん…ちょっと女将さんに用が出来ちゃったから、ここお願い出来無い?」
「…申し訳無いでチュン。今、こっちも忙しいでチュン…」
「あー…そっか「代わりに手の空いてる人を呼んで来るでチュン!」…あ、行っちゃった……?…どうかしましたか?」
「!…いや、すまねぇ…とにかく、部屋に戻ってれば良いんだな?」
「ええ…」
しまった…どうしてもコイツに見覚えが有って仕方無かったせいか、無意識にコイツの顔を見詰めていた…やれやれ…取り敢えず部屋に戻るか。
「じゃあ…と、すまねぇな…仕事邪魔しちまってよ。」
「…あ、いえ…気にしないでください…幸い今、お客さん来てませんし手は空いてたんで…では、ごゆっくり。」
部屋に戻って大体三十分程経過しただろうか(手元は元より、部屋にも時計が見当たらないから正確な時間が分からない…)
「…お客ちゃま、今よろちいでちか?」
「おう…大丈夫だ、入ってくれ。」
襖が開く…入って良いと行ったのだが、女将は板敷きの廊下の床の上に正座し、頭を下げた…少しして上げてから、そのまま口を開いた…
「失礼ちまちゅ…どうでちか、何か不ぢゆうははありまちぇんか?」
「…ん?…いや、特には…」
いや、頼みたい事なら有ったか?
「…そうだな…この宿に何か、本でも置いてねぇか?何せ、何も持って来てなくてな…正直、暇でも仕方ねぇんだ…」
何せこの部屋には新聞一つ無く、せいぜい粉末茶やティーバッグとポットのセットが有るだけだからな…
「…分かりまちた、そう言う事なら後で誰かに届けさせまちゅ…ところで…」
女将が立ち上がり、部屋の中に入って来て襖を閉める…俺から人一人分スペース空けた辺りでまた正座した
「…先程従業員の一人からお聞きちたのでちが…お客ちゃまは身体に傷が有るとか?」
「…ああ、そうだ。」
「…申ち訳無いでちが、アチキにも見ちぇて頂けまちゅか?」
「…取り敢えず腕だけで良いか?」
「構いまちぇん。」
「分かった…」
さっきやった様にまた袖のボタンを外し、袖をまくる…
「!…これは、中々酷いでちね…身体の方もこんな感じでちか?」
「あー…正直、もっと酷いな…」
「つかぬ事をお聞きちまちゅが…」
「ん?」
「その…移る病気とかはございまちぇんよね…?」
……まぁ、そりゃ確認は必要か…
「ああ。無い…これは本当にただの傷だ…」
「…そうでちか、分かりまちた…それで入浴についてなのでちが…」
俺は女将の浮かべる表情を見て悟った。
「やっぱ難しいか?」
「…その、申ち訳ありまちぇん…その傷ではさちゅがに他のお客ちゃまといっちょには…」
「そうか、分か「なので提案がありまちゅ」ん?」
「ん?」
「他のお客ちゃまといっちょにはできまちぇんが、従業員用の入浴時間になら許可が出ちぇまちゅ。」
「…それは、ありがたいが…本当に良いのか…?」
「お客ちゃまだけ入らちぇないのは不公平でちから。」
「…分かった、そう言う事なら…それで何時頃なら…いや…」
この部屋に時計は無いし、俺も今は時計持ってないから言われても分からねぇな…
「…そうでちね、時間になったら従業員の一人に呼びに行かちぇまちゅ。」
「…何から何まで…本当にすまねぇな…」
俺はその場で頭を下げた…この女将は一応日本人寄りだ…なら謝意を示すなら、これが一番だろう…
「…頭を上げて欲しいでち…寧ろ、変に特べちゅ扱いちゅる事になってこっちが申ち訳無いでち…」
「…いや、それこそ気にするな…無理を言ってるのはこっちだからな。」
「いえ…お客ちゃまに不ぢゆうさせる訳には行きまちぇんから…さて、他に何かご用はあるでちか?」
「いや、後はねぇな…」
「分かりまちた…では、アチキはこれで失礼するでち…ごゆっくりおくつろぎくだちゃい。」
女将が部屋を出て行った…舌足らずな上、顔は元より小柄なあの姿は何処からどう見ても子供にしか見えねぇが…あの女将は確かに貫禄の様なものが有った…加えて言うと…
「とんでもないな…」
本当に何となくだが分かった…あの女将、多分戦ったら相当強い。
「間違っても怒らせねぇようにしねぇとな…」
少なくとも、アレは真っ向からは絶対にやり合いたくは無い相手だ…先ず勝てねぇと分かる…ふぅ…やっぱ、何が有ってもここで揉め事は起こす訳には行かねぇな…