アルベドになったモモンガさんの一人旅【完結】 作:三上テンセイ
「んん……」
パンドラズ・アクターはマジックアイテムを綺麗なクロスで拭いながら、看過できぬ違和感に喉を鳴らした。
今日も宝物殿は静寂に満ちている。
耳に痛いくらいの静謐さと、嫌でも背筋を伸ばしたくなる様な涼やかさが沈殿するこの空間がパンドラは好きだった。宝物殿の領域守護者の任を敬愛する造物主に与えられた誉れは何よりも尊く、何よりも誇らしく、何よりも彼のことを満たしてくれた。
パンドラは今日も今日とてマジックアイテムを磨き、整理しながら、
そんなパンドラは自分の領域守護者としての責務に、後ろめたい感情を滲ませ始めていた。それは守護者としては決して褒められぬ心のしこりだ。
心が逸る。
心が焦る。
感情と理性とが鬩ぎ合い、答えのでない自己問答にパンドラは苛まれていた。
──時間にして一週間前。このナザリックに天災が降りかかった。
空間の続かぬ宝物殿をすら大きく揺らす大地震。
その日もマジックアイテムを磨いていたパンドラは、まさかとその手を止めた。
ナザリックで語り草となっている、千五百人からなるプレイヤーの侵攻。その再来かと彼は思ったのだ。これが『カゲ』による例の現象だということは、宝物殿に身を寄せるパンドラにとっては知る由もない。彼は何も知らぬまま、ナザリックと共に次元の狭間へと閉じ込められていた。
プレイヤーの侵攻かと身を固くしていたパンドラは、その大地震が僅かな間で収まるや、深い息を零して椅子に腰掛けた。ナザリック──この宝物殿に影響がないのを鑑みて、プレイヤーの侵攻を撃退したか、これが単なる大きな地震であったのだと結論づけたからだ。仮にプレイヤーの侵攻であればこの激しい揺れが即座に収まることはないだろうし、プレイヤーが勝利をおさめてギルド武器を破壊したなら、この宝物殿もただでは済まないだろう。
だからこれは杞憂。
宝物殿領域守護者の自分はいつも通りに業務を続けていればよいのだと、パンドラは平静さを取り戻していた。見て見ぬふりとも言えよう。しかし彼にはそれしか選択肢がないのだ。宝物殿を守護せよと命を授かったその日から、パンドラにはそれ以外の思考を持つことは不要。宝物殿以外の領域の心配をするなど、甚だ不敬である。
……そしてあの揺れから一週間の時が過ぎた今。
パンドラは拭えぬ違和感をその胸に抱えていた。
「……何なんでしょうね。この静けさは」
呟いた声が虚空へ消えていく。
宝物殿は依然変わりなく静かである。それはいつも通りのことだ。しかしパンドラが感じた静けさというのは、そういう性質のものではない。静かな部屋に一人、というものではなく、世界にたった一人取り残された様な……そんな静けさを肌身に感じるのだ。
外が気になる。
パンドラは至極当然の興味と不安をその身に抱えた──が、彼はその思考を外へと追いやった。
「まぁ、外で何があったとて私はここを任される守護者の身。外が気になって守護者の立場を忘れては不敬極まりありませんね」
パンドラは再び手元のマジックアイテムに目を落とすと、小さく息を吐いて磨く手を動かした。自らに課せられた使命を遂行するのみ。それが守護者として果たすべき責務なのだから。
そしてその違和感を無視し、パンドラは宝物殿を守り続けた。
来る日も、明くる日も。
──何日も、何か月も。
時折、宝物殿を訪れていた主人はあの日を境に来なくなったが、パンドラはこの場を守護し続けた。律儀に。次の命令があるまでは。
──何年も、何十年も。
……そしてパンドラが、自身が抱いた違和感に目を逸らしてから、実に百年の時が過ぎた。
マジックアイテムを愛でる手が、ついに止まった。
「モモンガ様」
この世で最も敬愛する主人の名を、口に出す。
そうすることで、パンドラの何かが慰められる。彼はマジックアイテムを所定の位置に戻すと、軍靴の踵を返した。
百年の孤独を過ごしたパンドラは限界だった。
孤独を過ごすことがではない。あの日抱いた違和感が百年の時を経て、彼の中で怪物の様に大きくなってしまったことがだ。彼はモモンガにこの領域の守護を任された。なれば、何百年でもこの場に残る覚悟はできている。この場を離れるなど言語道断も甚だしい。しかし、今の彼の思考はそうではない。
「……」
パンドラはそれが不敬と知りながらも、ある場所へと歩んでいた。彼をそうさせる明確な切っ掛けがあったわけではない。塵と積もった孤独感がそうさせたのか、何が彼をこの時突き動かしたのかは彼自身にとっても分からなかった。
パンドラは宝物殿の一角にあるショーケースの中から小さな指輪を恭しく取り出した。それは他ならぬ『アインズ・ウール・ゴウン』を象徴する指輪だった。至高の四十一人にしか着用を許されぬ至宝の中の至宝。宝物殿とナザリックの階層を繋ぐ唯一の道標。手に取ったパンドラの手は震えていた。彼は全ての同胞と造物主達に
その行為に、パンドラの心が引き裂かれる。
しかし、彼に迷いはない。重罪を被る以上に、自らに罰を下す何者かが居てほしいという切実な願いがあったからだ。彼があの日感じた静けさは、日を、年を帯びていくごとに強固な違和感として心を苛んだ。年輪によって幹を太くさせる巨木の様に彼の腹の中で育まれていく違和感。それを払拭せねば、彼は……。
「申し訳ありません、モモンガ様」
自らの首を切り落とす程の激情で、パンドラは指輪の力を解放した。彼の姿が宝物殿から立ち消える。守護者として、それは決して許されぬ行為であった。
転移したパンドラは、即座に『リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』を指から外すと、アイテムボックスの中へと収めた。理由は語るまでもない。
「おお……」
パンドラは吐息を漏らした。
ここは第六階層──双子のダークエルフが管轄している大森林の領域。円形闘技場の中央に立ち尽くす彼は、闘技場の美しさに暫し見惚れていた。しかし彼を襲う違和感は即座にやってくる。
……静かだ。
余りにも、静か。
大森林とはあらゆる生物の楽園だ。円形闘技場内とはいえ、その周りに広大に広がる大森林からは何の生物の気配も感じない。この階層を仕立て上げた至高の御方がそういう設計をしたのなら納得ではあるが、パンドラの知識の中では第六階層とはそういう場所ではない。
……そして、ふと気が付いた。
視界の端にちらと映った、見過ごせぬもの。パンドラはゆるりと天を見上げて、絶句した。
「あれは、一体……」
パンドラにないはずの鳥肌が立った。
産まれて初めて恐怖を覚えたのだ。
そして星空に浮かぶあの黒き楕円が、ナザリックの異常事態を引き起こしているのだとも即座に感知した。
(何なんですか、あれは)
生きているのか、そもそも生物なのかも分からない。あれが後の『カゲ』であり、膨大なデータ量をその身に蓄えた所為で冷却期間に入ったキュアイーリムであることをパンドラは知る術もない。
ナザリックに新たに据えられた同胞とは考えられなかった。
圧倒的な異物感。吐き気を催す程のプレッシャー。あれがパンドラに何であるかは分からないが、あれが動いたなら即座に自分は殺されるだろうという自覚はあった。生物の卵なのか、エネルギーの塊なのか、それすらも分からない。
パンドラはようやくあれから視線を外すと、次に闘技場の隅に盛られた灰の山を発見した。その頂上に、一枚の紙切れが刺さっている。それはモモンガも後に目を通すことになる『深淵なる骸』の手記に他ならない。中を開いてみると、そこにはパンドラの知識にない言語がつらつらと書き綴られていた。たまたま手入れしていたアイテムボックスの中に、翻訳の片眼鏡を放り込んでいたのは僥倖であった。パンドラはそれを取り出すと、一呼吸を置いてそれに目を通した。
「……」
読み終えたパンドラの聡明な頭脳は、事のあらましの全てを理解した。
彼が抱いた感情は、絶望。心の中にぽっかりと風穴が空いたような空虚感。その場に膝を突きそうになるほどの嘆き。そして、怒り。
再度、パンドラは空に浮かぶあの巨大な黒い塊へと視線をやった。
あれは憎むべき怨敵であり、そしてそれと同時に愛すべき同胞の魂の塊である。
もしかすればあの中に、パンドラの造物主たるモモンガの魂も取り込まれているかもしれない。そう思うと、彼の心を烈火が焦がし尽くした。
(──嗚呼、モモンガ様)
パンドラは途方に暮れた。
彼の中に複雑に入り乱れる感情の捌け口が見つからない。この感情を、どう出力すればいいのか彼には分からなかった。
最後に残ったナザリックの存在として、玉砕覚悟でもあれに立ち向かうのが正しいのか。それすらも分からない。何が正解なのか、彼は誰かに教えて欲しかった。
しかしパンドラの頭にふと過ったのは、智謀の王たるモモンガの顔だ。自分の主人であればこの様な時、取り乱したりはしない。まずは冷静に頭を冷やし、情報収集に徹するだろう。主人の思考を辿ったパンドラの気持ちは幾らか明るくなったが、それも一瞬だけの気休めだ。彼は灰の山に手記を突き刺してアイテムボックスに手を突っ込むと、『リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン』の効果を再び発揮した。
「……まさにもぬけの殻、ですねぇ」
パンドラは指輪の効果を駆使して、ナザリック中を駆けずり回った。
もしかしたら自分と同じ様に生存している同胞がいるかもしれない。もしかしたら至高の御方々がこの様な状況を見通して何かを残してくださっているかもしれない。そういう考えからだ。
しかし成果は何も得られなかった。
平常時のナザリックから、そっくりそのまま配下達だけ抜き取られたかの様な有様だったのだ。どこへ行ってもそう。生存者はパンドラただ一人。その事実だけが、彼に重たくのしかかった。
第一階層から地上へ出ようとするも、その先は極彩色の奈落が広がるだけというものだった。次元の狭間、ねじれた空間。まさにそう形容するのに相応しい不可思議な光景が広がっている。試しにモモンガの姿を借り、低位アンデッドを出口の外へ放りだしたら即座に体がねじ切れて極彩色の一部となり果てた。
「完全に外部とは遮断されているということですか……」
あの手記にはいずれ次元の歪みが戻り、再び現世に返されるとあった。
それまではこの異次元空間に、彼とナザリックは囚われたままだということだろう。あの忌まわしき黒い球体と共に。
さて、どうしたものか。
パンドラはこれから何を行動すればよいのか。
規定通り、守護領域を守り続ければいいのか。
……主を失っているかもしれないのに?
この伽藍堂になったナザリックを、帰らぬ主人の帰りを永遠に待ち続けるのか。それならばナザリックに残った最後の剣として、あの黒き球体に挑み散るのが正しき行動なのではないか。
あらゆる思考がパンドラの頭脳を駆け巡る。
「……」
やがてパンドラが導き出した答えは──
「今日は一万枚は磨きたいところですねぇ」
──……主人の帰りを待つ。
それがパンドラの導き出した答えであった。
主人の生死が不明であるならば、死ぬと見做すことこそが不敬。何より、ナザリックの玉座におわす御方がそう易々と死ぬはずもない。パンドラはそう思い至ったのだ。
……無論、それはパンドラの願望が大いに含まれた結論であると彼は知っている。知っていて、待つことを望んだ。モモンガが生きていると思わなければ、その身その心が引き裂かれて狂いそうだったからだ。
パンドラはあの黒い球体に気取られぬ様に隠密し、ナザリック内の全ての防衛システムを切って回った。ギルドの維持コストを最も安く抑える為だ。ここは彼と停止したキュアイーリムしかいない、次元から切り離された空間。侵入者や同胞がいないのであれば、防衛システムを起動している意味などない。
パンドラは冷静であった。
親譲りとも言える、リアリスト。主人が帰還されるまで何としてもこのナザリックを守り抜くことが、彼の使命であった。
とはいえそれがいつになるのかは分からない。
暇を持て余したパンドラは、宝物殿で山と化している金貨の清掃と整理を始めた。どれだけの時間が掛かるか分からないが、時間はある。彼は金貨を拾うと、その一枚一枚を綺麗に手磨きで綺麗にし始めた。
……そう、時間はある。
現世とこの次元の狭間、果たして同じ時間の流れなのだろうか。
その日から、パンドラにとって最も苦痛で、屈辱的な時間が始まった。
──モモンガの帰りを待つと決めてから、千年の時が過ぎた。
事態は依然変わりない。
パンドラはあの黒い球体が目を覚まさぬ様、息を殺し続けて生きている。心休まる時は、宝物殿に引っ込んでいる時だけだ。しかし彼の孤独がそれを許さなかった。彼は時折、モモンガの私室に訪れていた。愛する、心臓を捧げるべき尊き神の残滓を追い求めるように。
ふとこう考えてしまう。
主人は既にあの球体に取り込まれており、誰かに救い出されるのを待っているのではないかと。もしくはあの球体に殺されていて、ご帰還などハナから望めなかったのではないかと。そう思うと、怒りが沸いてくる。自らと、あの球体に。途方もない怒りだ。今から宝物殿の世界級アイテムを持ち出して、突貫したいと狂いそうにすらなった。
そして、空虚感。
どれほど待っても、主人が文字通り帰らぬ人となっているなら、自分が大人しくここで待つ意味はなんなのだと思ってしまう。そもそもこの時の牢獄から解き放たれる瞬間など本当にやってくるのか。パンドラの心は蝕まれた。道化であれと命じられた設定を、粘性の高い毒がじわりじわりと蝕んでいく。
パンドラは、しかし待つ。
あのモモンガ様が死んでいると想像するなど、なんと不敬なことだと自分を叱責する。
我が造物主たるモモンガ様は必ずご帰還なさる。
パンドラは自身にそう言い聞かせた。
──……それから一億年の時が過ぎた。
「おかえりなさいませンモモンガ様! 茶の用意は既に済んでおります! どうぞまずはお寛ぎくださいませ!」
宝物殿に明るい声が木霊する。
それに返す者はいない。パンドラは独りだった。
テーブルの向かい──空席の前に、ティーカップが一つ置かれている。パンドラは意気揚々とそのカップに煎じた紅茶を注ぎ入れる。ほわ、と香り高い湯気が立った。
「え、何? 骨だから飲めない? くぉれは! 盲点でした! しかしモモンガ様! 紅茶は味は勿論ですが、香りを楽しむものであります! どうぞ香りだけでもご堪能くださいませ! 何せ私、紅茶を趣味にして五千年が経過しております故、腕に自信があるのです!」
気持ちのよい笑い声が宝物殿の応接間に弾けた。
しかしそれはすぐに、静寂に支配される。しん……とした空気が辺りに溜まり、パンドラの肩がビクリと震える。彼は顔を振ると、再び独り芝居を始めて笑みを零した。彼の姿は、どこまでも道化だった。
──それから十億年が過ぎ、更に百億年が過ぎた。
主人は帰らない。
次元の狭間は戻らない。
あの黒い球体は何も動かない。
幸い、異次元空間の影響故か、維持コストは結局ナザリックに対して何も影響を与えなかった。施設が劣化することもない。ナザリックが崩壊することがなかったのは僥倖といえよう。いや、終わりがあったほうが、パンドラにとっては寧ろ幸福だったのかもしれない。
彼は、独りだった。どこまでも。
──……更に兆年が過ぎ、不老不死のパンドラの意識さえ朦朧とし始める頃。
その身に電流が走った。
応接間のソファで、屍人の様に座っていたパンドラに、血液が急速に流れ始めた。靄掛った意識は晴れ、全身の細胞が覚醒を始める。
「あ……あ、ああ……っ!」
枯れた喉から、しわがれた声が掠れて出た。
声を出したのは、何千年ぶりだろうか。喉が酷く痛む。しかしそんなことはお構いなしだった。
パンドラは駆けだした。
(信じておりました)
ショーケースを開け放ち、指輪を着用する。
手は震えていた。しかし初めてそれを着用したときとは震えの性質は違う。
パンドラの肌身に感じる、至高の御方の波動。
それが、明確に彼に感じられているのだ。まやかしではない。自分の妄執が生んだ幻覚でもない。それは確かに、彼の細胞を突き刺して止まない。
パンドラは指輪の力を以て躊躇なく転移すると、その目を見開いた。
歓喜と緊張がパンドラの心を苛む。
夢にまで見た至高の御方の姿。その姿形こそ変わっているが、その魂の輝きだけは偽れない。
しかし彼の造物主は、死にかけていた。
黒く姿を変えた、偽物の守護者達の手によって。
思考が、瞬時に切り替わる。
パンドラは然るべき姿に形を変えると、稲妻の様な速度で主人の前へと飛んだ。
心が叫ぶ。
細胞が震える。
再び、御身のお役に立つことができる。
パンドラは恐るべき速度で悪しき守護者達を殲滅せしめると、主人の体を優しく包み込んだ。
その腕に抱いた美しき悪魔こそが、彼が生きる理由だった。