放課後になると昼休みの騒がしさが嘘のように静かなぼっちライフに戻る。そんなふうに考えていた時期が俺にもありました。
案の定と言えば案の定。部活から逃げて帰ろうとしたところを平塚先生に連行されて、俺はまたあの女の待つ特別棟の教室まで来た。なぜぼっちの平穏は往々にして奪われていくのだろうか。やっぱ奪いやすいからですかね……。
一度深呼吸を挟んで、扉に手を掛ける。正直嫌で嫌で仕方ないが、拳を食らうよりはマシだと割り切って扉を開く。願わくば、誰もいませんように!
「……」
淡く、触れれば消えてしまう泡沫のような儚さを纏って、雪ノ下雪乃は昨日と変わらずそこに居た。
……もしかしたら居ないんじゃないか、なんて考えは甘かったですねはい。
戸を引く音に気付いたのか、雪ノ下はこちらを一瞥すると、興味がないと言わんばかりにすぐまた文庫本へと視線を落とす。
……この距離、この空間でシカトかよ。
だが俺はめげないしょげない弱音は吐かない。絶対許さないノートには名前書くけど許してやろう。俺ってば優しい。あまりに寛大過ぎて仏になるレベル。八幡大菩薩として祀られる日も近いやもしれん。
「……挨拶もせずに黙って座るなんて、あなた言葉ってわかる?いえ、そもそも言葉を使えないから挨拶が出来ないのよね。ごめんなさい」
俺が席に着いたところでようやっと雪ノ下が口を開いたかと思うと、なぜか罵倒された挙句に謝られてしまった。
「俺はホモ・サピエンス・サピエンスかよ。もしくは類人猿」
「あら類人猿だってコミュニケーションくらいは取れるでしょう?」
雪ノ下のカテゴライズの中で俺は類人猿以下だった。
「……コンニチハ」
「はい、こんにちは」
引き攣った笑みでなんとか皮肉に応酬する俺に対して、にっこりと澄ました笑顔で雪ノ下は返す。なまじ美少女なだけに笑顔も良いのが腹立つわ。俺が上条さんならぶん殴ってるね。
「それにしても驚いたわ。昨日の今日でよく来れたわね。あなたってもしかしてマゾヒスト?」
「ちげぇよ……」
「ならストーカー?」
「それも違うっつーの!」
なんで俺が雪ノ下に好意があること前提なんだよ。今のところ俺の雪ノ下に対する好感度なんてマイナスだ、マイナス。
「なんだよ、お前のその自意識過剰ぶりは」
正直ひくわ。
「あら、自意識過剰なのはあなたでなくて?自称整った顔立ちで文系コース国語学年三位の妄想谷くん」
「それは事実だろうが」
「事実でもそれがイコール真実とは限らないのよ」
「お前はどこのコナンくんだよ」
そんな取り留めのない会話もほどほどに、雪ノ下は文庫本に栞を挟んで閉じると、改めて俺のほうへと向き直った。お、おう?なんだ、やるのか?こう見えて俺はCPU相手になら全勝できるほどスマブラが強いんだぞ。……それって関係なくね?
「ひとつ、聞きたいのだけれど」
「あ?」
どっからでもかかってこい!と心の中でコントローラを握って身構える俺に、雪ノ下は変わらぬ無愛想な顔で問いかけてきた。
「昼休み、誰かと会わなかったかしら?」
「はぁ?」
会ったか会わなかったかで言えば、一人あざとい後輩と不本意ながら邂逅してしまったが、それを彼女が知る由もない。ともすれば、それはぼっちの俺に対する嫌味にしか聞こえなかった。
「なんだそれ、嫌味かよ。つうか、お前だって友達いないだろうが」
「急に何を言い出すのかしらあなたは。……でもそうね、まずどこからどこまでが友達なのか定義してもらわないと」
はい出ましたー友達いない奴のセリフー。ソースは俺なので間違いない。
「……話を逸らさないでちょうだい」
きっ、と睨みつけるような視線が俺を射抜く。まぁ、回答として不正解だったなと反省して次は正直に答えてやる。決して雪ノ下の視線が怖かったわけじゃない。ホントダヨ、ハチマン、ウソツカナイ。
「たしかに会ったが……それがどうかしたのかよ」
よもや、俺の学校生活に探りを入れたところで彼女に何の利益があるわけでもないだろうに。
他人の行動を把握しようとするのは、それこそ先に言ったように好意がある場合か悪意がある場合のみだ。雪ノ下に限って言えば、俺に好意がある可能性など無いに等しい。というかマイナスになってるレベル。だが、かと言って悪意があるのかと聞かれたら、それは違う。雪ノ下雪乃はそんな少女ではないと、平塚先生の言葉と斜陽の中の少女の慟哭が頭の中で繰り返し否定する。
だから、俺には雪ノ下の質問の意図が理解できない。
訝しんで眉を顰める俺に、雪ノ下は短く息を吐いて答えた。
「実はここに来る前、私のところにも来たのよ。一色いろはさんが」
一色いろは、という固有名詞を聞いて再び浮かぶあざとい少女の姿。しかし、だからなんだという話だ。俺と雪ノ下。普段から人とは関わらないぼっちである二人に同じ人間が近づいたのなら何かしら策謀を疑ってしまうのも頷けるが、所詮は偶然の一言で片付けられる出来事。会話自体他愛もないものだったし、それを逐一報告する必要もないはずだ。
ならば、何があったのか。その答えを得るべく雪ノ下に視線で促した。
「そのとき、彼女に言われたの。……『次は負けません』って」
その言葉にん?と首を傾げる。
何、君たち拳で殴り合ったの?日が暮れるまで河川敷とかで。それってどこの少年漫画だよ。もしくは青春ドラマ。
まぁそんなわけないだろう。雪ノ下は素手の殴り合いよりも言葉の殴り合いのほうが得意そうだ。たぶん天下とか余裕で取れる。
「……何かくだらないことを考えてないかしら」
俺の思考を読んだかのような言葉に、思わず「ひぃっ!」と声を出した。
こっわ、こいつエスパーかよ。おかしいな、平塚先生に小悪党と言わしめたあくタイプの俺にエスパータイプの技は効かないはずなんだが。むしろこうかはばつぐん。はちまんはめのまえがまっくらになった。
「んんっ!……それで?その話と俺がどう関係すんのかいまいちわからないんだが……」
軽く咳払いをして、雪ノ下に問いかける。
そもそも、雪ノ下と出会ったのだって昨日だし、一色に至っては昼休みに初めて会ったのだ。初対面とほぼ初対面。そんな二人と俺の間に蟠りが生まれるような時間は過ごしていない。
「言いたいことだけ言って去ってしまうものだから、私自身あまり理解できてないのだけれど……彼女、他にも言ってたのよ」
「他にも?次は負けない以外にか?」
「ええ……『あの人にも、負けない』って。たしかにそう、言っていたわ」
その言葉に、少し腑に落ちた。腑に落ちてしまった。
「何の話をしているのか、あの人が誰を指していたのか。最初は理解できなかったのだけれど……」
「なるほど。それが俺だと仮定すれば辻褄が合うな」
「えぇ」
一色は雪ノ下に負けないと言った。あの人にも、と。
その宣誓は一見して意味不明なものであるが、もし彼女の言うあの人が俺を指して言った言葉ならば、そこには意味が生まれるのだ。
──勝ったほうが負けたほうになんでも命令できる。
子供じみた、少年漫画大好き大人の考えた勝負事。それ自体に深い意味はなくとも、俺と雪ノ下、二人の間でたしかに交わされた約束。
つまるところ一色は、その勝負の話をしているのではないのかと雪ノ下は思ったらしい。
「でも、ひとつだけ疑問が残るわ」
雪ノ下の言葉に首肯する。
それはつい昨日交わされたもので、そもそも他人が知る由もないのだ。え?俺か雪ノ下が誰かに喋ったんじゃないのかって?ばか、察しろ。
それに、問題は彼女がそれを知っていることではない。
「なぜ一色が俺とお前の勝負に『負けない』と言ったのか……」
まるで、この勝負に加わるかのような言い方だ。
二人して頭を捻る中、そういえば、と俺は少し一色との会話を遡ってみた。
『罰ゲームとかじゃなくて、その、先輩に会いに来まして……』
『知り合いというか、一方的に知ってるだけなんですけど』
『先輩にその気がなくても、わたしが勝手に関わるので大丈夫ですっ!』
思えば、彼女の言動すべてが仄めかしていた。
「……まさか、新入部員なんてオチじゃないだろうな」
逡巡の末、辿り着いた結論を否定しようにもそれ以外の見解に至らない。
俺と一色の会話を知らない雪ノ下は俺の呟きを聞いて更に首を捻っているが、あくまで俺の推測妄想の域を出ないのだから詳らかに説明するのもどうかと思い口を噤む。
二人の間に訪れた静寂を切り裂くように、下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。
「……これ以上悩んでも仕方ないわ。今日はもう帰りましょう」
「そうだな」
短く答えて素早く帰り支度をする。切り替えができる男、八幡。
立ち上がり扉に手をかけたところで、一応俺のほうが下ではあるのだし挨拶でもしておくべきかと振り返る。
「……じゃあな」
雪ノ下は一瞬フリーズしたあと、さも何事もなかったかのように鞄を手に取って俺を横切った。……また無視かよ。さっきまで普通に話してただろうが。
視線で早く出るよう促され、腑に落ちないままに教室を後にする。
結局、一色は来なかった。ならば俺の推測は間違いなのだろう。
それで終わりのはずだ。これ以上考えたって仕方がない。だが、どうにも彼女の言葉が気になってしまう。
『あの人にも、負けない』
前提条件であるそれを指す人物が俺ではないのなら。
ならば彼女は、誰と何の勝負をしているのか。
人の言動の裏を読むのが得意な俺だが、彼女の言葉に隠れた真意を未だ掴めずにいる。もっとも、前提条件が崩れているのなら俺には関係のないことだが。……なんでこんなに悩んでんの、俺。
深く、長いため息をついて下駄箱から靴を取り出す。
人が疎らに散らばる昇降口。ふと雪ノ下の姿が見えた。彼女も俺に気づいたのか、目が合った瞬間すぐに視線を逸らす。やっぱ可愛くねーな、あいつ。
所詮、青春なんて嘘っぱちだ。
だからきっと、胸の奥に燻るこの感情も、嘘なんだろう。