苦手な方はご注意くださいませ。
マムシボールを飲み下しながら俺は紅藤様を見た。小柄な女性であるとされているが、俺は彼女の存在感に圧倒されていた。とても大きなお方に見えたのだ。それは俺自身が小柄な子供だったからなのかもしれないし、彼女の大妖怪としての貫禄を本能的に感じ取ったからなのかもしれない。
いずれにせよ、物語的にも超重要妖物である事には変わりない。原作内で最強の妖怪の一人と呼ばれていた訳だし、何より源吾郎の指導を御自ら行っていた御仁なのだ。
「紅藤様。わざわざ私どもの許にご挨拶に来てくださったんですね。ありがとうございます」
「本来ならば私たちが紅藤様の所へ向かった方が良かったのですが……気が回らず申し訳ありません」
三國叔父さんも月華さんも、畏まった様子で紅藤様に挨拶をしていた。紅藤様は見た所三國叔父さんたちより少ぅし年上にしか見えない。そう思うと不思議な光景だった。
だが考えてみれば、実際の年齢差がえげつないのだ。三國叔父さんは百歳ちょっとの若妖怪なのだけど、紅藤様はもうすぐ六百歳と言った所なのだ。この世界の妖怪たちは、二百年も生きていれば立派な大人妖怪と見做される。六百歳近い紅藤様は大人も大人、経験豊富な大妖怪に分類されてしまう。
だからこそ、源吾郎に対しても指導者として保護者としてどっしりと構えた様子で教育を施すのだろう。
「うふふふふ……良いのよ三國君に月華さん。そんなに緊張しなくっても。今回はおめでたいお祝いの席なんですから、少しくらい砕けた感じでも大丈夫ですよ。
それにあなた達には、その子たちの監督という大切な仕事もある訳ですし」
その子たち。そう言った時には彼女の視線は俺たちに向けられていた。俺はともかくとして、雪羽も食べるのをやめて紅藤様を見上げている。
「こんばんは。久しぶりになるかしら」
「こ……べ、紅……」
こんばんは、紅藤様。俺はそう言おうとしているはずだった。しかし緊張で身体が打ち震え、舌も縮こまったみたいになって言葉が出てこない。なんてこった! そんな事を思っているうちに、俺は何故か雷園寺家の座敷牢で監禁されていた事を思い出した。俺が俺として自我を取り戻す前の事なのに。雷園寺疾風の記憶としてあるだけのシーンだったはずなのに。
そんな事を思っていると、頬を輝かせながら雪羽が口を開いていた。
「雉仙女様こんばんは。僕は雷園寺雪羽です。色々あって三國叔父さんの所で暮らしているけれど、いつか立派な妖怪になって、雷園寺家の跡継ぎになるんです」
子供らしい無邪気な物言いながらも、雪羽は臆せず礼儀正しく紅藤に挨拶を返していた。雷園寺家当主を目指すだけあって肝が据わっている、雉仙女様という呼び方もあったのか……そんな考えが俺の脳裏で駆け巡っていた。
「あ……えと……」
雪羽や三國叔父さんたち、そして紅藤様の視線が俺に集まる。雪羽の翠眼を見ているうちに、身体のこわばりが解けてきた。
「僕は雷園寺疾風です。色々あって弟と一緒に叔父に引き取られました。紅……雉仙女様。これからもよろしくお願いします」
よろしくね。俺たちを見つめながら紅藤様は微笑んでくれた。老齢な妖怪であるにもかかわらず、その笑顔は屈託がなく、さながら少女のようにさえ見えた。年齢にそぐわぬ愛らしい笑顔を見ながらも、俺は静かに安堵していた。
※
昼から夜までぶっ通しであった生誕祭も無事に終了した。俺も雪羽も生誕祭自体は初参加だったけれど、特に問題らしい問題を起こしはしなかった。身内びいきになるかもしれないが、雪羽はお行儀よく振舞っていたように思う。
もちろん俺もお行儀よく振舞えたと思う。テーブルマナーはちょっと怪しい所はあったかもしれない。しかしそもそもバイキング形式だったしとやかく言われたりしなかったのでまぁ良いだろう。というか俺はウェイターにいちゃもんを付けたりウェイトレスに絡んだりなんかはしていない。アニメで長じた雪羽がそんな事をしていたのを思うと、何もしなかった俺たちの態度は立派なものだと言えるだろう。
さて俺たちは直帰すべく駐車場に向かっていた。運転手はもちろん三國叔父さんなんだけど、三國叔父さんたちは他の幹部たちに話しかけられているため、俺と雪羽で駐車場の方に向かっていた。車の鍵は既に貰っているから、先に待っておく事もできる。
俺は駐車場へ続く仄暗い道の周囲をちらと見てから、雪羽に声をかけた。
「なぁ雪羽。さっきあすこに自販機があったのを見ただろう? 何でも良いから買ってきてくれないか? お前も好きなのを買えば良いから」
「自販機はここからちょっと遠いけど……行ってくるね」
一見すると兄による弟へのパシリ行為に見えたかもしれない。実際雪羽は少し怪訝そうな表情を浮かべていた。だけど俺が小銭を渡そうとする前にささっと俺から離れ駆け出して行ってくれた。本当に素直な子で助かるぜ……
俺は車の鍵をポケットにしまうと立ち止まった。方向転換をするときに、じゃり、と地面が鳴る。
別に俺は弟をパシリにしてジュースが欲しいわけではない。あくまでも雪羽をここから遠ざけるための方便に過ぎないのだ。
「――俺らを尾けていたのは解ってるんだ。コソコソしてないで出てこいや」
チンピラ風に関西弁も使ってみたのだがいまいちしっくりこない。やはり声変わり前の子供の声だからなのか。
しかしそれでも、影たちは俺の声を挑発と受け取ってくれた。物陰から妖怪たちが姿を見せる。その数は三匹だ。うち一匹には見覚えがある。藻介狐だ。萩尾丸の部下の一人で、玉藻御前の末裔を名乗っていた妖狐の少年。彼は今他の妖怪たちを従え、愉悦と昏い憎悪の眼差しを俺に向けていた。
「雷園寺のみそっかす野郎じゃないか。弟にパシリをさせていい身分だと思ったが……俺たちの事に気付いていたんだな」
一体何の用だ。高圧的に見えるように心がけながら俺は藻介に問いかけた。偉そうな態度は相手の怒りを買うだけに過ぎないが、今回ばかりは別である。何せ向こうが喧嘩を売ってきたのだから。
「何の用もあるかこのクソガキが! 俺はお前のせいで面子が丸潰れになったんだ。お前らが泣きわめく所を見ない限り腹の虫が治まらんな」
――玉藻御前の名を笠に着てはいるが所詮は三下か。
藻介を見ながら俺は静かにそう思った。とはいえ大人しく彼らにやられるつもりはない。
「泣きわめくって誰の事? 狐のお兄さん。俺の事を子供だって甘く見ていたらそれこそお兄さんの方が泣きを見るかもしれないよ?」
妖気を込めると両手のひらが放電を始めた。ある程度のデモンストレーション、威嚇の一種に過ぎない。それでも小さな稲妻は見ていて迫力がある。藻介とか、取り巻きの妖怪たちも青白い光に照らされて鼻白んだようだった。
それで終わるのならそれでもいい。
だが――怯んでいた藻介狐はすぐに気を取り直し、歪んだ笑みをその面に浮かべる。
「そんな火花くらいで怯むと思ったか! お前らやっちまえ」
「やっぱりそうなるのか……」
藻介の指示で二匹の妖怪が躍りかかる。俺は即座に雷撃を作り両方の妖怪めがけて放つ。妖怪の一匹、鈍重なムジナみたいな妖怪は顔面に雷撃を喰らってもんどりを打って倒れ込んだ。しかしもう一匹は間一髪の所で回避されてしまう。
「やっぱり野蛮な奴だなぁ、雷獣ってのは」
「子供相手に向かっていったのはそっちだろう」
雷撃を回避したもう一匹が見当たらない。俺は一瞬焦ったが、標的を藻介に切り替える事にした。何がどうなっているかは定かではない。だが雰囲気からして藻介が主犯であろうと察していた。彼を制圧すれば場をしのげるのではないか。そう思ったのだ。
だが、雷撃を準備する俺を見て藻介は嗤った。
「俺に向かって撃ちたければ撃てばいい。だが、伏兵がお前の可愛い弟に向かっているかもしれないなぁ?」
「――!」
しまった。藻介の言葉に一瞬俺は思考が止まってしまった。確かに俺は闘いに巻き込まれないように雪羽を遠ざけた。しかし藻介の従えている妖怪が二匹だけだとは限らないではないか。姿をくらました妖怪が弟を害しているのではないか。
弟が、雪羽が襲われたらひとたまりもない。確かにあいつも妖怪としては強い。しかし気弱で優しい雪羽の事だ。襲撃されてもただ怯えて反撃も叶わぬだろう。
あれこれ思案を巡らせていた丁度その時、斜め後ろから突風のように何かが向かってきた。
「っ……!」
身を翻して回避できたのは、やはり雷獣の感覚の鋭さと素早さのお陰だったのだ。身を隠していた妖怪の一匹が俺の背中めがけて向かってきたのだ。幸い身を翻したおかげで右手に何か衝撃が走っただけで済んだ。
「はっは。しょうもない話術に引っかかるとは所詮は子供。この藻介様にはかなわないなぁ」
「いやまぁ本当ですぜ兄貴」
隠れていた妖怪がカマイタチであった事に俺はようやく気付いた。そしてカマイタチの鎌状の前足が血で濡れている事にも――いや待て。何故血で濡れている? あの血は誰が流した血なのだ?
血を見たせいか急に眼がくらみ、俺はその場に膝をついた。右手で床に踏ん張ろうとしたが、激痛が走ってしようがない。
右手は半分に裂けていた。人差し指と中指の間でぱっくりと割れている。もちろん血は流れ続けているし、何かよく解らない白い物とか黄色い物とかが露わになっている。生誕祭で食べたチーズケーキに似ていると不意に思い、俺は思わず嘔吐していた。
「兄様、兄様? にいさまぁ――!」
重たいものがぶつかって転がる音と、聞きなれた誰かの絶叫が俺の鼓膜を震わせた。
主人公であろうが原作知識があろうが試練に遭う時は試練に遭う。
それが猫蔵ワールドの宿命です。