「……さん、兄さん」
柔らかなテノールが耳朶をくすぐる。目を覚ますと、澄んだ翠眼がこちらを見つめている事に気付いた。雪羽だ。いつかカマイタチに襲撃された時のように、俺の傍で俺を介抱していたらしい。
「雪羽……お前……」
「兄さん大丈夫! うなされていたけれど」
兄さん。雪羽の言葉に呼応するかのように心臓がうねる。違う。違うんだ。俺はお前の兄なんかじゃあない。お前の兄は俺の中にいて――俺が彼の中にいるのかもしれないが――とにかく俺はまがい物なんだ。
その俺が、こうして心配されるべきなのか?
「雪羽、俺の事を兄さんって呼んでくれるのか?」
思わず俺の口から言葉が漏れる。雪羽は首をかしげている。明らかに困り果てていた。
「兄さんは兄さんじゃないか。やっぱりうなされている間に怖い夢を見たんでしょ」
「確かに俺は俺だ。だけど雪羽。お前の知る兄は……雷園寺疾風と呼ばれていた子供とは違う存在なんだ」
自分の意識は雷園寺疾風に憑依したものである。直截的な事は言わなかったものの俺の発言はほぼほぼカミングアウトのような物だった。
話を聞いてくれるか? 俺の問いに雪羽は頷いた。多大なる当惑の色を滲ませながら。雪羽も戸惑い混乱しているのだ。でもそれでも兄の言葉にうなずいてくれる彼が、どうしようもなく愛らしかった。
※
俺たちの保護者である三國叔父さんは、数十匹の獣妖怪たちを配下として従えていた。重臣である春嵐さんや堀川さんなどはその筆頭格だろう。
三國叔父さんが多くの妖怪を部下に持っているのは、何も三國叔父さんが強いから、という単純な話だけではない。妖怪たちに「この妖ならついて行きたい」と思わしめるカリスマ性のなせる業なのだ。ついでに言えば三國叔父さんは、若い頃百鬼夜行を造り出したいと思ってさえいたそうだ。
組織や今の体制からはじき出された妖怪たちを救済したい。彼らと共に今ある体制を打倒し、より良い世界を作りたい……三國叔父さんはそう思っていたそうだ。まさしく反体制派の考えであるからびっくりだ。
俺の知る三國叔父さんは、雉鶏精一派の第八幹部として組織に仕えている。もしかしたら若い頃よりも丸くなっているのかもしれない。それでも従えている妖怪たちは数多くいるし(もしかしたら昔よりも増えているのかもしれない)、三國叔父さんが強い事には変わりはない。
そんな事を何故俺がつらつらと考えているのか。俺のカミングアウトのためだけに、家に妖怪たちが集まったからだった。全員集まった訳じゃあないみたいだけど、それでも三十以上の妖怪たちが揃っている。
何故だ。何故そこまで大げさな事になってしまっているんだ。
俺はただ、雪羽にこそっと耳打ちする事を考えていたというのに。まぁ、雪羽がどうしようかと思って三國叔父さんたちに相談したのだから、それはそれで致し方ないけれど。
「叔父さん……いくら何でも多すぎないかな」
「大切な話だと雪羽から聞いたんだ。疾風。お前は皆には俺の甥であり重臣であると見做されている。だから皆を集め皆が集まるのは当然の事だと思うが」
集まった妖怪たちに面食らっていると、三國叔父さんは涼しい顔でそう言った。確かに俺の秘密はずっと隠し通せるものじゃあないのかもしれない。それでも大勢の妖怪たちを前にカミングアウトできるかと言えば別問題だった。
結局、俺のカミングアウトを聞くのは叔父夫婦と雪羽、そして春嵐さんや堀川さんなどの数名の部下たちになった。直接俺の話を聞くのがその数名で、後の面々は後から話を聞かされる形になるみたいだ。
「俺は雷園寺疾風として育ちましたが……皆さんが知っている雷園寺疾風とは似ても似つかぬまがい物です」
三國叔父さんや月華さんと言った見知った妖物相手なら妙な事を口走らないだろう。俺は自分に対して高をくくっていた。しかし実際はどうだ。唇を震わせ妙な事を口走ってしまったではないか。しかも初手から。
「春嵐さんや他の妖怪たちは、俺には預言者のような能力があると思っておいでだと思います。ですが俺は別段預言が出来るわけじゃあないんです。ただ単に前世の記憶があるだけなんですよ。
そうです。俺は転生者……前世の記憶があるんです。前世はどうやら人間だったみたいなんです。それでこの世界の事を、未来に何が起こる事を知っていたんです」
転生者というか前世の記憶を持つ。この話を妖怪である三國さんたちはどのように受け止めるのだろうか。一応この世界にも輪廻転生の概念があるから、案外すんなり受け入れられるのだろうか。
「――それなら疾風。疾風は雷獣だけど、人間として生きてきた前世の記憶があるって事なんじゃないのか」
「それは少し違うんです」
柔らかな言葉で問いかける三國叔父さんに対して俺はかぶりを振っていた。本来の疾風とは別物であるという事を伝えねばならない。俺の中でそのような考えがはっきりと浮かんでいたのだ。
「俺の中には雷園寺疾風としての意識もありました。だけど……もうかれこれ十年ばかり俺が雷園寺疾風として活動しているんです。その、何と言うか……」
「要はお前は疾風に取り憑いて成り代わっているという事だろう」
三國叔父さんの鋭い声が鼓膜を震わせた。先程の笑みは消え失せ、獣じみた獰猛な憤怒を俺に示している。
「狐か蛇か怨霊か解らんが……お前は疾風じゃあないって事だな。疾風に成り代わり、疾風が行うべきだった事をお前が享受していたって事か。はっ、浅ましいにも程がある。
なぁ憑き物よ、どうすればお前は疾風から離れてくれるんだ?」
俺は雷園寺疾風として目覚めた時の事を思い出していた。三國叔父さんが途方もなく大きく、恐ろしい化け物に思えてならなかった。実際叔父さんは今放電を繰り返し、きっかけがあれば攻撃しかねない気配を見せている。
そんな三國さんの前に立ちはだかるように動いたのは、月華さんと春嵐さん、そして雪羽だった。
「叔父貴……兄さんは俺たちの知ってる兄さんじゃないかもしれない。だけど乱暴するのは止めて欲しいんだ。兄さんが誰なのかはさておき、兄さんには色々良くしてもらったもん。
それに俺、もう誰かが目の前で傷つくのは見たくないんだよ……」
思いのたけをぶつけたのは雪羽だった。月華さんたち大人妖怪は、まっすぐ三國叔父さんを見ているだけだった。
三國叔父さんは毒気を抜かれたような表情を見せ、それから静かに笑った。先程までの敵意や殺気は嘘のように消えている。
「ははは。さっきのは少し試しただけだよ。もしお前を庇いだてする奴がいなかったらお前をいぶりだそうと思っていたけれど……その必要は無かったみたいだな。それに考えてみれば、お前も疾風に違いない。だからお前の事を俺は受け入れよう」
この言葉に感動を覚えたのは何も俺だけではなかった。俺の裡に潜む幼い疾風も、面識が薄いはずの三國叔父さんの言葉に反応している。何となくだがその事が伝わってきた。
俺たちにとって、というよりも雉鶏精一派での大きな転換点があったのは平成二十二年の事だった。紅藤様の擁する研究センターに、玉藻御前の末裔の一人が就職し弟子入りを果たしてしまったのだ。
弟子入りしたのは主人公の島崎源吾郎ではない。兄の島崎庄三郎の方だ。まだ従八で、恐らくは高校を出てすぐに就職したのだろう。思いがけぬ動きに俺は大いに戸惑った。既に原作の流れからかなり変化してしまっている事には違いはない。しかしまさか、紅藤様に弟子入りするのが源吾郎ではなくて庄三郎だったとは。
しかも庄三郎が弟子入りしたという事は、源吾郎が弟子入りするチャンスは消え失せたという事をも意味していた。紅藤様が弟子に出来るのは、玉藻御前の末裔のうちたった一人だけなのだそうだ。その事は俺も知っていた。アニメでもその内容はかなり初期の段階で明かされていたし、何より紅藤様も事あるごとに言及していたのだから。
玉藻御前の末裔を弟子に引き入れた。そのお披露目会は当然のように行われた。
お披露目会は幹部である八頭衆とその重臣や側近たちが招集された。三國叔父さんの甥であり養子でもある俺と雪羽ももちろん招集された側に当たる。
「……兄さん。あいつが玉藻御前の末裔なんだよね」
招集された席で、雪羽がこっそり俺に耳打ちしてきた。あいつと言った時の声の尖り具合や、庄三郎に向ける雪羽の眼差しは思いがけぬほど厳しく、俺は密かに面食らってもいた。
「何かあいつ感じ悪そうなんだけど」
ややあってから雪羽はそんな事を言い捨てた。無論小声ではあるけれど。
そして俺は兄として「そんな事言うもんじゃない」と言いはしたものの、その声は何とも空々しい物でもあった。何せ俺も、雪羽と同じような事を考えていたのだから。
一見すると庄三郎はその見た目にふさわしい爽やかな好青年に見えなくもない。しかし俺と雪羽には解っていた。その笑みは単なる仮面であり、仮面の裏にドロドロとした情念を抱えてるという事に。
庄三郎が何事か言って挨拶を終えている。紅藤様は本当にこいつを弟子に引き入れたのだろうか。俺はぼんやりとそんな事を思っていた。
※
「紅藤様。何故島崎庄三郎を弟子に引き入れたんですか」
いつものように研究センターに呼ばれたあの日、俺は気付けば紅藤様に問いかけていた。紅藤様にはかつて源吾郎を弟子入りさせるのではないかと俺は言っていた気がするが、それを紅藤様が覚えておいでなのかまでは解らない。
「島崎君が私の許に弟子入りするのを望んでいたからよ。それ以上でも以下でもありません。それに彼も弟子入りを望んでいた訳ですから、白銀御前様の盟約にも抵触しませんし」
盟約。その言葉がぐっと俺に迫ってきた気がした。紅藤様は白銀御前との盟約を重んじている。その事も俺は知っていた。納得するか否かは別問題だけど。
「あいつは危険です。既によろしくないモノに半ば侵蝕されていますし……」
「侵蝕されているのは百も承知よ。むしろ私の手許に置いてコントロールする所存ですわ」
紅藤様の瞳はいつの間にか紫に輝いていた。彼女はパッと見た感じ年長のお姉さんにしか見えないが、実の所六百年近く生きた大妖怪なのだ。俺は原作とこの世界をめちゃくちゃにしようと画策していたカズキの存在を恐れていたが、紅藤様にとっては脅威でも何でもないという事なのだろうか?
去り際に紅藤様の側近である萩尾丸さんから声がかけられた。この人に話しかけられるのは本当に久しぶりの事だったけれど。
「本当は源吾郎君を紅藤様の弟子になったらよかったって思っているんだろう」
率直に思っている事を言い当てられてへどもどしていると、萩尾丸さんは笑ったまま言い添える。
「紅藤様は見ての通りもう玉藻御前の末裔からは弟子は取らないだろうね。だけど、紅藤様の縁者が玉藻御前の末裔の弟子を取らないようにという制限はないんだよ」
萩尾丸さんは意味深な笑みをたたえ、そんな事を言ったのだった。
※
この萩尾丸先輩の言葉を思い出したのは、それから更に四年後の事だった。
俺は遂に主人公たる島崎源吾郎と遭遇したからだ。三國叔父さんの事務所でのことだった。まだ高校生である彼は、親族らの目を盗んでわざわざここに訪れたのである。そうして彼は雪羽や三國叔父さんを見て、自分は玉藻御前の末裔であるから、配下に引き入れて欲しいと言ったのである。
「兄が妙な事を企んでいるのは薄々解っているのです。俺自身にはどうにもできません。なので、雷獣として名を馳せているあなた方の許で修行したいと思いまして……」
三國叔父さんは不思議そうな表情を浮かべるだけだったけど、俺と雪羽は源吾郎を部下に引き入れる事にした。原作の中でも源吾郎と雪羽は切っても切れない間柄だった。しかしまさかこんな形で接触を図るとは……
「成程な。君も兄さんの事が気になるのか」
雪羽が源吾郎にそんな事を言って、ついでに軽く微笑んでいた。兄である俺を慕う雪羽にしてみれば、兄の野望をくじこうと画策し、それでも兄の身を案じる源吾郎の事は好ましく思っているのだろう。
原作とは明らかに流れが違う。だけどこの分じゃあ大丈夫そうだ。そう思った時、俺は意識が揺らぐのを感じていた。