ACE COMBAT 04 short side story - サンサルバシオンの幽霊 - 作:びわ之樹
「――『サンサルバシオンの幽霊』、ですか?」
コンクリートを打ちっぱなした灰色造りの方形に、自らの声が幻影のように木霊する。
時に2003年7月、16時をわずかに回った頃。母国エルジア共和国が隣国サンサルバシオンへ侵攻を開始して既に2日近くが経過することになるが、北半球の夏ゆえに日長は相応に長く、窓から差し込む
現代戦の最前線という現状、真昼間の光に包まれた屋内にあっては、『幽霊』なる単語のイメージはどうにも脳裏に結び付き難い。眉を提げた怪訝な顔一つ、エルジア空軍の軍服に身を包んだ青年は、数多の勲章を提げた眼前の男へ思わず鸚鵡返しに応えてしまっていた。
「そう、幽霊だ。ケネス・エルドリッジ准尉。君には、『サンサルバシオンの幽霊』の討伐を下命したい」
「…それは……いえ、配属早々にお任せ頂くのは光栄ではありますが。その…大佐殿。順を追ってお話をお伺いしても?」
「勿論だとも准尉。何とも馬鹿馬鹿しい話ではあるが、古来より悪魔祓いの依頼には、清廉にして純粋な司祭によくよく事情を説くものだ。耳通りよく、しっかりと聞きたまえ」
肘をつき顎下で手を組んだまま、指揮官らしい男はふん、と口髭の奥から鼻息を漏らす。憮然たるその様子に、青年――ケネスは胸にざわりと不穏な予感が過ぎるのを感じた。幽霊狩りとは何かの比喩なのか、それなりの特務の暗号なのか。いや、そもそも『大佐』の反応からするに、どこまで本気なのか。士官学校を出て未だ半年に至らず、軍の慣例や語彙に精通していない青年の脳裏は、言い知れない会話の端緒で既に混乱の渦中に漂っている。
事態を咀嚼しきれていないケネスの様子に命令権者たる愉悦を覚えたのか、『大佐』は皮肉を嗤うように僅かに口端を歪めるも一瞬。あるいは説くように、あるいは嬲るように、事態を説明する言葉を紡ぎ始めた。
概観すれば、事態は怒涛のような速さで進行している。
小惑星『ユリシーズ』の落着によりエルジアを始めとしたユージア大陸各地に甚大な被害が生じ、数十万もの死者と大量の被災難民が発生したのは4年前のこと。元より歴史的背景からユージア諸国と緊張を保っていたエルジアではあったが、発生した難民の引き受けを押し付け、あまつさえ受け入れの遅れを批判さえする諸国の傲慢を前に、国内の不満はここ数年で急速に高まりつつあった。
不満と言う名の水を溜め込んだエルジアが、木桶の綻びを破るようにユージア諸国へと武力侵攻の路を選んだのは、事ここに至れば自明の理と言えるだろう。そして、その嚆矢としてエルジア軍がなだれ込んだのが、隣国サンサルバシオンだったという訳である。
無論、水が低い所へと流れるように、サンサルバシオンが最初の目標に選ばれたのはいくつかの理由がある。
一つには、単にサンサルバシオンがエルジアの隣国であったこと。古来から現代に至るまで、点から点へと補給線を繋いで近場から制圧地を広げ、徐々に面を確保してゆくのは戦争の基本である。
続く理由としては、サンサルバシオンがその領内に大型対空レールガン『ストーンヘンジ』を有していた点である。これはユージア大陸諸国によって建造された当時最新鋭の迎撃システムであり、本来であれば先述の小惑星『ユリシーズ』迎撃という人類全体の安全保障の為に開発された兵器であった。
しかし、大気圏へ突入する小惑星へ砲弾を直撃させうる精度と超長射程、運動エネルギーを有した岩塊すら破砕せしめる威力は、翻れば極めて優秀な対空兵器にもなりうる。対空迎撃用砲煩兵器として『ストーンヘンジ』の役割に早くから着目していたエルジアが、
そして、最後の――ある意味では最大の理由が、サンサルバシオンが永世中立国であったという点である。すなわち、中立国たるサンサルバシオンは他のユージア諸国との軍事的な同盟を締結しておらず、必然的にエルジアとサンサルバシオンとは互いに単独で交戦することとなる。無論、戦争が長期化すれば他の諸国が独自に介入してくることもあり得ただろうが、エルジアとサンサルバシオンでは軍の量、質ともに雲泥の差がある。空陸の戦力を電撃的に投入し主要軍事基地の戦力を速やかに無力化すれば、他国の介入を許す余地すらなく、エルジア軍がサンサルバシオン全土を制圧するのは十分に可能な話であった。
事実、開戦から2日足らずにしてエルジア軍はサンサルバシオンの西半分をほぼ占領。陸軍部隊は首都サンサルバシオンに数十㎞の地点まで迫っている一方で、ユージア諸国は状況の分析と傍観に終始しており、もはやサンサルバシオンの陥落は火を見るより明らかと言う他ない。
筈、であった。
「だが。この2日間の戦闘で、我が軍にも相応の被害が生じている。とりわけ首都サンサルバシオンの攻防戦では被害が大きく、最新鋭のSu-37を含む11機が撃墜された。…このうちの過半を単独で撃墜したのが、件の『サンサルバシオンの幽霊』という訳だ」
「過半…というと、わずか2日で6機超を…それも単独で、ですか!?」
「少なくともサンサルバシオン政府はそう喧伝している。見たまえ、これが『幽霊』と目される敵機の写真だ」
優勢と信じていた戦況の中、失われたというけして少なくない数の友軍。それも爆撃機や攻撃機に限らず、最新鋭戦闘機のSu-37『ターミネーター』まで既に被撃墜を生じているという事態は、おおよそ大規模な戦争を知らないケネスにとって衝撃的であった。あまつさえ、その損害の大半がたかだか一人のパイロット、1機の機体によってもたらされたのならば猶更である。
『大佐』のデスクから手元へと押し出された何枚かの写真を手に取れば、黒煙を背景に翼を翻す1機の機体の姿。全長の三分の二ほどを占める三角翼と、尾部の突起から覗く1基分のエンジンノズル。別の写真にはキャノピーの左右後端に半円形のエアインテークが映り込んでおり、機首に向けてすらりと細くなってゆく鋭角のシルエットと相まって、どこか繊細で華奢な印象を見る者へと抱かせる。形状から察するに、サンサルバシオン空軍の主力機種である『ミラージュ2000』の系統機と見て取れるが、ケネスの目はその機種ではなく、両翼に描かれた独特の塗装に釘付けとなっていた。
機体上面は、他のサンサルバシオン機と同様に薄灰色の単色塗装。単調なその印象を破るかのように、その機体は左翼の中ほどから先を白く、右翼を同様に黒く染めていたのである。
話に聞いたことがあるが、確かサンサルバシオンの民話に出てくる幽霊は白と黒を半々に染めた粗末な布切れを纏っているのだという。意図的か偶然か、白と黒に両翼を染め抜いたその姿は、さながら亡霊の装束に袖を通した幽鬼そのものであった。
「この手の話は、ほとんどがフェイクか誤認だ。だがこの『幽霊』の真偽に関わらず被害が生じているのは事実ではあるし、前線の将兵間で不安が漏れ聞こえ始めているのも確かである以上、敵戦闘機による迎撃はどの道捨て置けん」
「同感です。サンサルバシオンはあくまで初戦である以上、これ以上の損害は看過できないものになります」
「その通りだ。そこで、君は所属する『緑中隊』から隷下の僚機とともに一時的に離脱。特務分隊『オリーヴ分隊』としてサンサルバシオン攻撃部隊に同行し、制空任務を担当して貰う。やってくれるな、准尉」
「…!はっ!必ずや、ご期待に応えてみせます」
試すような『大佐』の言葉に、反射的に返したのは、決意を湛えたその言葉。
謎ばかりの奇妙な任務ではあるが、それでも自分とその分隊へ専従的に与えられた初めての任務であることには違いない。それも目下友軍が苦戦する敵エースパイロットの討伐ともなれば、自分の能力を見込まれて任されたということなのであろう。経緯や背景はどうあれ、これを断ってはエルジア空軍の一翼を担う『緑中隊』の一員たる名が泣くというものであった。
不安と疑念、そしてそれを上回る高揚に、熱を帯びる胸。
一礼して司令室を下がり、抱いた激情を余分な所で漏らさぬよう、ケネスは部下の元へと足を速めてゆく。中隊を離れて別行動を取るとなれば、情報共有は早ければ早いほど良い。しかし何より、重大な任務を任されたという感動を他の部下とも分かち合いたいという衝動こそが、ケネスの足をその元へと直行させた一番の理由であった。成果や技術を嘱望されての下命となれば、部下の喜びも
――それは、戦場の現実を知らない若人の逸りであったのか。
高揚とともに部下へ『特命』を説明したケネスに対し、返って来た言葉はにべもないものであった。
「『特命』ね…。准尉殿、多分それ、騙されてますよ」
「なあっ!?…そんな筈があるか!事実、『サンサルバシオンの幽霊』の情報は大佐殿から頂いている!前線の障害排除の為に制空部隊を配置するのは理に適っているではないか!」
「そこですよ、そこ。ただでさえ前線は状況が把握し難い。味方の戦果ならいざ知らず、敵機のスコアなんて誤認されるのが常です。おまけに今回は侵攻戦、対空陣地や迎撃機を戦域に配置できる敵の方が有利な状況を整えられる。そんな中に突っ込むんですから、当然友軍航空機は複数の砲火に晒される訳です。大佐に言われた被害がその幽霊殿によるものだと、誰が保証できるんです?」
「それは…」
「逆に、もし『幽霊』の戦果が本物だという確証があるのなら、より強力な部隊を充てる筈です。装備機は平凡、戦果も並み、ついでに小隊長は着任数か月目の上に実戦参加は初。常識的に考えて、そんな部隊を特命に充てますかね?」
「………」
一般的に着任直後の新任士官には、補佐役として軍務経験が豊富なベテラン下士官が付随される場合が多い。ケネスの部下――アーロン・ニューランズ軍曹はまさに典型的な指導役の下士官であるが、その立場ゆえにケネスへの反論は的確で、かつ容赦が無いものだった。
道理、である。
冷や水を浴びせられすっかり鎮火した胸の裡で、ケネスはそう省みる。確かに本気で『幽霊』を駆逐しようと言うのなら、主力機種『フランカー』の補完兵力に当たるMiG-29A『ファルクラム』しか装備していない緑中隊の、それも実戦経験に乏しい小隊に任せるというのは理に適っているとは言い難い。『幽霊』の戦果にしても、状況の混乱や敵機の脅威に怯えた友軍が過大に見積もったというのは十分にありえる話であった。何より、先ほど大佐も言っていたではないか。『サンサルバシオン政府はそう喧伝している』――言い換えれば、プロパガンダとして
「しかし、特務部隊として我々が編成されたのは事実だ。『幽霊』の情報の正確性が怪しいなら、なぜわざわざそんな事をしたと言うんだ?」
「…あくまで推測ですが、内部向けのアリバイ作りじゃないですかね」
「アリバイ作り?」
「ええ。真偽はどうあれ、『サンサルバシオンの幽霊』という存在が友軍にとって脅威に映っているのは事実。多分、陸軍からも対応の要請があったのでしょう。となれば、サンサルバシオン方面の空軍部隊を取り仕切る大佐としては、外部からの声を無視する訳にはいかない。かといって、そんな不確かなものにわざわざ部隊を貼り付けるのは惜しい。だから、緑中隊の中でも経験の浅い分隊を割いて特務に充てたのじゃあないですかね。『我々空軍は脅威に対して真摯に対応していますよ』と説明するために」
「……そう、か。そういうものか…。……いや、確かに。軍曹の言うことも尤もかもしれない」
つまりは、他部局への説明のためにダシにされただけの、誰でもいい役割。
『大佐』に持ち上げられた後であるだけに、説得力のある軍曹の解説は戦争の表と裏を垣間見せられたような衝撃であった。一痛棒を喰らわされたという表現ではまだ足りない、金属バットで振り抜かれたようなその感覚に、反射的に覚えたのは痺れを帯びた目の眩み。『現実を見ろ』と言わんばかりに突き付けられた言葉の数々は、垢抜けない新任士官に現実の厳しさを思い知らせるのに十分だった。
明らかに萎れかえったその姿に、アーロン軍曹も流石に気の毒になったのだろうか。ぽりぽりと後頭部を掻きながら向けられた言葉は、幾分棘を潜めた忠言と、わずかばかりの憐憫を帯びたものとなっていた。
「まあ、何が言いたいかと言いますと。あまり気負わず、自然体で取り組めばそれでいいっていう話です。言ってみれば前線指揮を学ぶいい機会なんですから、『幽霊』がガセならそれでよし、出たら出たで本来の任務を全うすればよし。どう転ぼうと、准尉殿にはいい機会じゃありませんか」
「………ありがとう、軍曹。いずれにしろ任務は下命されている以上、中隊長にも報告しなければならない。ひとまずそちらに行って来るよ…」
「…同行しましょうか?」
「いや、子供じゃないんだ、報告程度は一人でできる。…何より、一人で考えて判断する能力を身に付けないといけないからな…」
「あー…ええ、それではまあ、ご武運を」
アーロン軍曹の生暖かい視線を背に、ケネスは扉をくぐり中隊長の元へと足を踏み出してゆく。つい先ほどに熱に浮かされたような高揚を抱いてこの通路を歩いていたかと思えば我ながら気恥ずかしく、なるべく周囲を視界に収めないようにその脚は自ずと早まって行った。
飛散防止加工を施された窓ガラスから、廊下へ西日が差し込んでゆく。
赤色を帯びた陽光に照らされた廊下の壁掛け時計からは鳩が飛び出し、くるっほー、と間の抜けや5時の時報を響かせていた。
*********
地を嘗めるように、黒鉄の漣が押し寄せてゆく。
翌日、8時を半ばほど回った頃。両翼端と機体下面を濃い緑色に染めたMiG-29A『ファルクラム』を駆るケネスの姿を、サンサルバシオン近郊の上空に認めることができる。
眼下のサンサルバシオンへ伸びる街道上には、バリケードや車両の残骸を押しのけて東進してゆく友軍の戦車隊の姿。2日間の電撃戦でサンサルバシオンの地上部隊は壊滅状態に等しく、少なくとも地上において組織だった抵抗は、もはや見て取ることはできない。わずかに残った対戦車陣地も戦車の集中砲火やSu-25『フロッグフット』の近接支援で瞬く間に駆逐され、サンサルバシオンの落日がもはや目前に迫っていることは誰の目にも明らかだった。
《灰8より『ブレイブ・ブル1』、敵対戦車陣地を排除。街道上に障害は認められず》
《灰3より緑1!上空から敵戦闘機が降下して来るぞ!『ミラージュF1』、『ミラージュ2000』各2機!》
《緑1了解。緑5、小隊を率いて迎撃せよ》
《方位020、敵攻撃機だ!『ミラージュ5』2機と…T-6が4機!》
《連中も必死だな。『緑3』、『緑4』、引導を渡してやれ》
戦車隊の上空を護るMiG-29A『ファルクラム』の編隊から、右翼側の4機が機速を速めて上昇してゆく。
雲間を割いて降下してくる敵機に対して4機の『ファルクラム』は正面からの相対を避け、左右に分かれて迂回上昇。重力加速度を活かして急降下する2機の横合いから
片や頭を巡らせれば、北から接近する6機の攻撃機へは左翼側の『ファルクラム』2機が迎撃へと向かっている様も見て取れる。機数こそサンサルバシオン側が有利だが、旧式の『ミラージュ5』やジェット機ですらないT-6『テキサンⅡ』と、運動性に優れた『ファルクラム』では、その勝敗は自ずと明らかだった。
無人の野を行くがごとく、とはまさにこの光景であろう。
先述の通り陸にさしたる脅威は無く、敵攻撃機も練習機を軽攻撃機に仕立てて向かってくるようではたかが知れている。街道は戦車部隊や自走式対空砲に装甲車、後方には輸送部隊が延々と連なるという好餌ともいうべき姿となってこそいるものの、その無防備な横腹を狙う余力のある敵などもはや皆無であった。
空中の脅威にしても皆無といってよく、友軍のSu-25は悠々とサンサルバシオン上空へと向かって、地上へと機銃掃射を見舞っている。頼みの綱の制空戦闘機たる『ミラージュF1』も続けざまに墜ちてゆき、残る『ミラージュ2000』2機が辛うじて射撃を躱し旋回を重ねるものの、サンサルバシオンの空を舞うのはエルジア軍機が圧倒的な優勢という有り様だった。市街地に黒煙が昇り、敵攻撃機編隊が残らず撃墜されてもなお、『サンサルバシオンの幽霊』の姿は空のどこにも捉えることはできない。
「遅い!何故だ、どうして『サンサルバシオンの幽霊』は出てこない!」
《やはりプロパガンダのガセ情報ですかね。あるいは既に撃墜されたか》
「…冗談じゃない。ここまで来て本当に偽情報なのだとしたら、我々は本当に体のいい道化じゃないか…!」
《サンサルバシオン側の迎撃がここまで散発的な以上、防空網が機能不全に陥っていることは十分に考えられます。仮に実在したとしても、この状況では脅威性の高い空域に『幽霊』が回されていない可能性もある。…まあ、幸か不幸か、眼下の戦況は『緑中隊』で十分に事足りている。今日のところは前線の空気を感じるだけでも十分な成果ですよ、准尉殿》
アーロン軍曹の慰めの言葉も、通信を隔てて空しく消えてゆく。
眼下で敵機を駆逐してゆく緑中隊の『ファルクラム』、サンサルバシオン制圧までの道程を着実に縮めてゆく戦車隊と『フロッグフット』部隊。それに対し、2機の制空戦闘機を預かりながら、上空を無意味に漂う自らの意味はいったい何なのか。軍曹は先の通り言ったが、これでは前線を散歩しているのと何ら変わりないではないか。
眼下でMiG-29の曳光弾が『ミラージュ2000』の機体を捉え、鈍色の大地へ磔にするかのように1つ、2つと弾痕を刻んでゆく。視線をさらに遠くへと向ければ、サンサルバシオン市街の通信用アンテナが『フロッグフット』の射撃で粉々になってゆく様も見て取れた。この様子では、サンサルバシオンは一両日も持たないに違いない。
――この翼も、役目も、無為に終わってしまうのか。
憤懣は無念へ、やがて諦念へ。
胸中に溜まった鬱憤を喉奥から吐き出して、バイザーを上げて目頭を揉んだ、まさにその刹那。
待っていたその時は、唐突に訪れた。
《こちら『ルーク3』!敵戦闘機にやられた!…前線を離脱、郊外に不時着する!》
《『ルーク1』より各機、散開!サンサルバシオン上空を離脱しろ!…『ルーク3』を墜としたのは誰だ!?》
《…あいつだ!上空から急降下してきた『ミラージュ』…!奴だ、『サンサルバシオンの幽霊』だ!》
通信を揺らす雑音、次いで爆発音と、叫ぶような『フロッグフット』のパイロットの声。その口から『幽霊』の名が飛び出したその瞬間、ケネスは思わず息を呑んだ。
どこだ。慌ててバイザーを下ろし、探った目は瞬く間に一つの機影へと縫い付けられる。
大きく旋回し、サンサルバシオンの街並みへ背を向ける3機のSu-25。それらと同高度には、確かに機体を白と黒に塗り分けた『ミラージュ』が1機、鋭角を描いて別の1機を狙う様が見て取れる。
旧式とはいえ、制空戦闘機である『ミラージュ2000』と攻撃機に過ぎない『フロッグフット』では運動性に雲泥の差がある。大きく弧を描いた『幽霊』の矛先に捉えられた『フロッグフット』は、一瞬後にはそのコクピットを曳光弾で貫かれ、わずかに煙を噴いて郊外の原野へと墜ちていった。
「――とうとう出てきたか、『幽霊』!」
《『オリーブ1』!》
「分かっている!『オリーブ1』より『緑1』、サンサルバシオン市上空の制空戦を開始します!」
《頼む!『緑3』以下、弾薬を消費した機体は退け!第1分隊、オリーブ小隊に続き制空戦に入るぞ!》
まるで水を打ったように、さっと冷えてゆく血潮。そして入れ違いに、胸が熱を帯びる感覚。
鬱屈は瞬時に消し飛び、鼓動が一際跳ねる。射撃装置の安全装置を解除し、兵装として主翼下のAAMを選択してから、ケネスは弾かれたように乗機『ファルクラム』を疾駆させた。絶えず通信を揺らす『幽霊だ』『本当に存在したんだ』という怯えた声を引き裂くように、緑の翼は高度3000ほどを緩降下し、右ロールした下方に目指す翼の姿を捉えてゆく。
こちらに気づいていない訳でもあるまいに、死装束の『ミラージュ2000』は上空を気にする素振りもなく、高度1000ほどの低空域でSu-25を追尾し続けている。残存していた2機の『ミラージュ2000』もまた市の上空で反転し、左右両翼から迂回上昇しつつある様が見て取れた。エースたる『幽霊』の存在ゆえか、心なしかその機動は先ほどまでよりも鋭い。
敵機は3機に対し、こちらは『緑中隊』の第1分隊と未だ制空中の『緑5』の小隊を含めて8機。おまけに機体性能はこちらが圧倒的に優っている上、高度優位という強みもある。おおよそ近現代の有視界戦闘においても、これほど有利な構図はそうそう見られないと言ってよい。
「敵の後続は『緑5』の小隊に任せる!『オリーブ2』は本機に続け!」
《『オリーブ2』より『オリーブ1』、具体的にはどうする積りで?》
「高度差はこちらが優位だ。急降下し一撃離脱、仕留め損ねた場合は運動エネルギーを活かした格闘戦に入る。位置エネルギーを失った『ミラージュ2000』程度なら、低空の格闘戦でねじ伏せられる!」
《了解。とはいえ、深追いはしないでください。後方には第1分隊もいる。いざという時には友軍を当てにすることも勘定に…》
「説教は後にしろ、軍曹!」
抗議を交えた気合の声一つ、ケネスは『ファルクラム』を右ロールさせ、背面飛行から急降下へと入るべく操縦桿を手前へと引いた。
高度の低下に比例した強烈なGに、下腹部が全周から締め付けられるような感覚。位置エネルギーが重力加速度と自重を帯び、速度へと変換されて『ファルクラム』をさながら流星のように疾駆させてゆく。操縦桿を引いて降下角度を緩め、フットペダルで機首方位を調整し、照準の中心に捉えるは『幽霊』の斜め後方、『ミラージュ』シリーズらしい三角翼を大きく広げたその後背。
「FOX2!」
操縦桿のボタンを押し込むと同時に、主翼下から投下されたAAMが2筋、焔を灯して『ミラージュ』の背へと殺到してゆく。右斜め後方のアーロン軍曹もほぼ同時にAAMを発射したのだろう、『幽霊』の背を狙う槍先は合して4本。眼下では今なお死装束の『ミラージュ2000』がSu-25を追尾し続け、頑丈なその翼へ執拗に機銃掃射を浴びせかけている。一つ、二つと弾痕を刻み込むことに専心しているようなその様は、傍目にはこちらを脅威と見なしているとは言い難い。
噂に聞く『幽霊』の技量が本物というのなら、この程度で墜ちる筈はない。必ずや背後のこちらへと狙いを変え、横への格闘戦を挑んでくるに違いない。
続く敵の機動に備え、ケネスは左旋回から機首を切り返して、敵機の背へと視線を注ぎ続ける。
――結果として、その読みは半ば当たり、半ばは外れた。
眼前のSu-25がもはや満身創痍と見るや、『幽霊』の『ミラージュ2000』は横ではなく、下方へと機首を向けて急降下。地を掠めるほどに高度を下げるや、降下で稼いだエネルギーを用いて機首を上げ、Su-25の脇を掠めて急速上昇に入ったのである。
衝撃波で弾け飛ぶSu-25のキャノピー。
地に吸い込まれ、立て続けに爆炎を上げるAAM。
墜ち行く『フロッグフット』の亡骸と黒煙を背景に、『幽霊』は瞬く間にこちらと同高度にまで上昇してくる。横合いの旋回に備えていたケネスとアーロンが慌ててその鼻先へと機銃掃射を撃ち込むも、速度の乗った『ミラージュ』と捉えること叶わず、曳光弾は蒼穹に虚しく空を切った。
ただでさえ低い高度から更に急降下するという度胸。
こちらの攻撃を回避すると同時に、Su-25をマニューバキルで瞬時に屠った技量。
そしてこちらの思考の裏を突き、高度劣位から瞬く間に対等へと持ち込んだ咄嗟の判断力。
予想を遥かに上回る機動、そしておおよそエースとして求められる要素を兼備したその姿を前に、その瞳が『幽霊』へ釘付けになるのをケネスは拒むことができなかった。
《『オリーヴ1』、ぼさっとしない!11時下方!》
「ッ…!左右から挟み込む!右へ回れ!」
《了解!》
現実へと引き戻すアーロンの声が、瞳に滲む幻惑を破る。
落ち着け、しっかりしろ。いくら凄まじい技量であれ、あれは墜とすべき敵だ。――多数の味方を墜とした敵機に見惚れるなんて、何事だ。
反射的に喉元の汗を拭い、紡ぐは仕切り直しの下命。速度を増して迫る『幽霊』の矛先を躱すように、ふっとペダルを踏むと同時に操縦桿を左手前へと引いて、ケネスは機体を左方向へ旋回。すぐさまエルロンロールで右へと傾け直し、操縦桿を引いて『ファルクラム』の機首を切り返した。果せるかな、速度を増したが故に横方向への機動がわずかに鈍った『幽霊』は、射撃を諦めこちらとアーロン機との間を通過。間髪入れず左旋回へと入り、アーロンの『ファルクラム』の後方を狙って翼を翻してゆく。
《狙いは俺か…!『オリーヴ1』!》
「分かっている!サッチウィーヴで仕留めるぞ!」
教導するようにこちらを見やり通信を送るアーロンの様子に、脳裏に浮かぶ教練の記憶を頼りに戦術命令を下す。アーロンはキャノピーの向こうで『正解だ』と語るように頷き、速度を増して蛇行旋回へと入っていった。眼前のアーロン機を目標と見定めたらしく、『幽霊』もまたその背を追って増速してゆく。
サッチウィーヴとは、2機一組で行われる編隊空戦機動の一種である。
すなわち、敵機に追尾される機体と僚機が交差するように互いにシザース機動を行い、追撃する敵機を僚機が死角から牽制。こうして旋回を繰り返すことで僚機が敵機の側方または後方に就き、敵機へ攻撃を行うというものである。必然的に仕掛ける側にはある程度の横方向への運動性が求められるが、この点軽量で運動性に優れた『ファルクラム』はうってつけの機種と言ってよい。
眼前でアーロンの『ファルクラム』が左へと急旋回し、その背を追う『ミラージュ』が間髪入れず追随する。こちらがAAMの射界に収めるには、まだ遠い。やや速度を落とし、ケネスは右ロールから操縦桿を引き、小半径旋回でアーロン機の航跡と交差するように機体を切り返してゆく。どうやらアーロンは大半径の旋回で時間を稼いでいるらしく、2度目の切り返しをする頃には、ケネスの『ファルクラム』と『幽霊』の距離は幾分狭まっていた。隙が大きくなる大半径旋回の代償でアーロン機の主翼には弾痕が刻まれているが、幸いにしてまだ燃料や火は吹いていない。この様子なら、あと2回――いや、次の切り返しにでも敵機を射程に捉えることができると見ていい。
《『オリーヴ1』!準備を!》
「言われなくてもできている!…来い!」
深く息を吸い、裂帛一口。
操縦桿を握る手に力を籠め、下腹と両足で踏ん張りながら、ケネスは機体を再度左へと翻す。
眼前に左傾する地平、横合いのGを受けて流れてゆく汗。
HMDと重なったガンレティクルの央、果せるかなその中心を過ぎるのは、被弾したアーロンの『ファルクラム』と――否、その機影、一つのみ。
「な…!?消えた!?」
《…違う!野郎、俺を盾に!》
「何!?……なんだと!?」
通信を揺らす、焦燥と困惑の声。
目標を捉えること叶わず、交差し過ぎってゆく『ファルクラム』の尾部。
馬鹿な、どこへ。
探るように見渡す視線が空を切り、通過していったアーロン機の後方へと至ったその時。遅ればせながら、ケネスは『幽霊』の機動と、その類まれなる技量を改めて察することができた。
『幽霊』は、アーロンの『ファルクラム』の腹側――すなわち真下、それもアーロン機を追い越さない絶妙な位置に張り付いていたのである。確かにアーロン機の腹側であればアーロンからは勿論のこと、交差するタイミングではケネスの方からも『幽霊』はアーロン機に重なるため、捉えることはできない。肉眼はおろか対空レーダー上でさえ、その瞬間に『幽霊』の位置を見失ったのも道理といえば道理であった。
それにしても、こちらの戦術がサッチウィーヴであることを追撃のさなかに見切り、追撃戦で禁忌とされる
虚を突かれ、大振りの旋回となったケネスの『ファルクラム』がアーロン機と『幽霊』から引き離されてゆく。
胸に込み上げるのは、恐れと畏れの感情。
唇を噛みしめ、懸命に速度を増すそのさなかにも、眼前の戦況は目まぐるしく頽勢へと陥ってゆく。
《『緑1』より『オリーヴ2』、無事か!そいつは引き受ける、ダイブで離脱しろ!》
《…了解!》
迂回上昇で頭上を押さえた2機の『ファルクラム』が、背面降下から『幽霊』目掛け急降下に入る。同時にアーロン機も右ロールから下方へと降下に入り、攻守転換の隙を付いて低高度域へと逃れる挙動を取った。
『幽霊』が翼を翻す。
上空、ミサイル4筋、次いで機銃掃射。殺到する穂先の一つが近接信管を作動させ、『幽霊』の腹側へと破片の雨を浴びせかける。
だが、浅い。エンジンやコクピット等、『ミラージュ』の重要区画へのダメージとはなりえない。
一撃離脱のセオリーに従い、2機の『ファルクラム』は下方へと抜けてゆく。
死をもたらす幽鬼の袖のような『幽霊』の主翼が、ロールから下方へと翻る。
螺旋のようなその機動から、爆ぜた焔は主翼下2筋。
急降下の最中で横への機動を封じられた『ファルクラム』に、至近から撃ち込まれたそれらを回避する術は与えられず、それらは過たず『ファルクラム』の尾部へと命中。黒と赤の焔は濃緑色の翼を引き千切り、サンサルバシオンの空に新たな魂を散らしていった。
爆炎を割いて急降下する『幽霊』。
生者を貪り尽くすかのようにその機影は瞬く間に速度を増し、機首を上げて中高度から下方を睥睨する。陽光を反射したその翼が翻り、死装束の腕が向いたその先にあるのは――煙を吹き速度を落とす、アーロンの『ファルクラム』の姿。
《み…『緑1』撃墜!…くそ!緑中隊各機、退避!現空域から退避だ、急げ!》
「馬鹿な…!…く!『オリーヴ2』、大丈夫か!?敵機が向かっているぞ!」
《…『オリーヴ2』より『オリーヴ1』!こちらはエンジンに被弾、出力が落ちてます。俺のことはいい、『緑2』とともに離脱してください。……こいつは異常だ。悪いですが准尉殿の手に負える相手じゃない》
「………っ!そんなもの!!」
お仕着せがましい任務を宛がわれた失望。
自らの未熟さへの悲嘆。
次々と友軍機を墜とされる光景を見ているしかない憤懣。
そして、一人で戦場をひっくり返す『サンサルバシオンの幽霊』への激情と、一抹の敬意。
あらゆるものがないまぜとなった感情を吐き出しながら、ケネスは自らの『ファルクラム』の機体を翻し、眼下のアーロン機へ襲い掛かる『幽霊』の背を猛追し始めた。
敵わない。そんなものは今更言われずとも分かっている。
しかし、お仕着せとはいえ『幽霊』の撃墜は与えられた任務である。
未熟とはいえ、自分は栄光のエルジア空軍の一員である。
そして、アーロンは口うるさく辛辣で慇懃無礼だが、それでも自分の唯一の僚機なのである。
そんな名誉を、誇りを、意地を。
あんなたった1機の敵に奪わせるものか。
《…!来るな、来るんじゃない、准尉!あなたが敵う相手じゃない…結果は見えているでしょう!》
「それがどうした!今見えているのなら、それは結果じゃない!ただの悲観的な予測だ!」
《ち…!これだから新米士官のお守りって奴は嫌だったんだ!………『オリーヴ1』!こいつと本気でやりあうなら、
「何…!?」
《そうすれば…ッ!?ちぃっ!!》
千切れた言の葉が轟音に混ざり、意味を成さない雑音へと変わってゆく。
思わずヘルメットの上から耳に掌を当て、顔を上げた、その刹那。こちらの射程が『幽霊』を捉える一歩外で、後方からAAMの直撃を受けたアーロンの『ファルクラム』が炎に包まれる様が目に入った。直後に弾け飛んだキャノピーからアーロンが脱出する姿は確認できたものの、高度2000に満たないこの低高度では果たして無事着地できるかどうか。
言葉にならない、聞く相手すらいない声が喉の奥から迸る。罵倒か、気合か、はたまた怯えた獣の遠吠えか。声の意味は、発したケネス本人ですら伺い知れない。
今この時、理解していることはただ一つ。『あの敵機は墜とさなければならない』という命題だけが、自らの使命であるという自覚だけだった。
無論、これまで見てきた通り、単純な技量では勝負にならない。しかし、低高度というこの状況と『幽霊』の操縦の癖を省みれば、勝算はけしてゼロではない――少なくともケネスはそう踏んでいた。
「追い落としてやる…!食らえ!」
AAM、1発、間を置いてさらに1発。背後から迫るそれらに呼応するように、『幽霊』の反応は早い。先ほどSu-25を襲った際と同様、ただでさえ低い現高度からさらに高度を下げ、速度を増す挙動に出たのである。
まずは、読み通りである。
これまでの交戦から、『幽霊』は位置エネルギーと運動エネルギーを意識した機動戦を得意とするパイロットと見てよかった。低高度の現状ではいくら『ミラージュ』とはいえ加速の出は遅く、『ファルクラム』を振り切るまでの間ミサイルの脅威に晒されることになる。横への格闘戦も、『ミラージュ』では分が悪いことは言うまでもない。すなわち彼我の位置からすれば、『幽霊』が取りうるのは地表すれすれまで降下して速度を稼ぎ、そのまま急上昇して高度優位を取るという一手以外にないのである。
そして、その針路さえ分かっているのならば。
弾道が正確な『ファルクラム』の30㎜機関砲で、上昇中で機動が鈍った『ミラージュ』の背を撃ち抜くのは不可能ではない。
相対距離、800。空戦においてはほぼ零距離と言っていい至近の間合い。
敵が上昇に転じるその一瞬を確実に捉えるべく、ケネスは薄緑色に投影されたガンレティクルを覗き込む。
慣性に捕われたミサイルが地表へ突き刺さる。
『ミラージュ』の翼が樹冠を掠める。
乾いた喉がひりつく。
汗が頬を伝う。
『幽霊』の主翼後端が僅かに蠢く。
――来た。
瞬間、『ミラージュ』は尾部に焔を灯すとともに機首を上げ、鋭角に急上昇。すなわち後方斜め上に陣取るこちらに対し、眼前を縦に抜ける針路へと鼻先を向けた。過たず、ここまではケネスの読み通りの機動と言ってよい。
だが、ケネスの見え見えの戦術を前に凡庸な機動を取る『幽霊』ではなかった。
ケネスの『ファルクラム』が無防備な三角翼を捉えるまさにその刹那、『ミラージュ』は機首を返して『ファルクラム』の方向へと反転。急上昇に見せかけたインメルマンターンの要領で、背面飛行のままケネスの方へ真正面から挑戦して来たのである。
機首はやや下方、相対するケネス機に対し下方を掠めて抜けるような、ヘッドオンとなる針路。
「な…!?…その気なら!!」
驚愕、一瞬。覚悟を決めて歯を食いしばり、ケネスは正面に迫る敵機の姿をガンレティクルに収め、一拍後に引き金を引いた。
この時点で、ケネスは致命的なミスを犯していた。
『ファルクラム』が装備する30㎜機関砲は、機体左側の主翼前縁付け根に1門が装備されており、当然ながら放った砲弾は機体とほぼ同軸へ向けて飛んでいくことになる。これに対し、『ミラージュ2000』の機銃は同じ30㎜機関砲であるが、これを2門、それも胴体下面に搭載しているのである。すなわち射線は、機体軸のやや下方から放たれる形になる。
翻って、直進するケネスの『ファルクラム』に対し、『幽霊』の『ミラージュ』は背面飛行でケネス機の下方を掠める針路を取った。すなわち、機体同軸を撃つ『ファルクラム』は目標を捉えられないが、『ミラージュ』は機体軸下方の目標――すなわち『ファルクラム』へ射線を重ねることができるのである。
わずか一瞬の交錯で生じた、技量と知識の差。その咎は、擦過の轟音とともに訪れた衝撃となって顕れた。
「ぐうっ!!…くそ、エンジンが…!」
金属が爆ぜたような音が機体下部に生じた一拍後、衝撃が爆ぜたのは機体後方。
振動する機体を懸命に抑えながら振り返ると、そこには機体後部のエンジンの片方が火を噴き、機体が見る間に速度を落としてゆく様が目に入った。灼けた空の向こうでは死装束の『ミラージュ』が旋回し、こちらに止めを刺すべく反転する姿も見て取れる。
エアインテークへの被弾、そして破片の吸引によるエンジンの破損。遅ればせに自らの損傷と過ちを理解した頃には、全てはもう遅すぎた。
がくん、と機体が揺れ、速度と高度がみるみる落ちてゆく。エンジン回転数異常と推進系温度上昇の警報が鼓膜を苛み、『ファルクラム』が有する電子の目はレーダーアラートとなって後背の脅威を叫び続けている。双発の『ファルクラム』ならば墜落とまではいかないものの、片肺の状態での運動性はたかが知れている。まして、対戦闘機戦など絶望的であった。
殺される。
想像しこそすれ、現実的に想定していなかった死の足音を感じ、ケネスは臓腑の奥底から震えあがった。
たとえ機体からの脱出に成功しようとも、現位置はサンサルバシオン市の勢力圏内である。一両日あれば陥落は確実とはいえ、その一両日を逃げ延びなければ、サンサルバシオンの地上軍に捕縛されるか、最悪の場合市民に嬲り殺しにされるだろう。何せつい先ほどまで友軍のSu-25が市街を攻撃していたのだ、自分は対地攻撃に参加していないなどという言い訳が通用するとは到底思えない。
八つ裂きにされ、サンサルバシオンの市街に横たわる自らの死体が脳裏に過ぎったその時。込み上げる吐き気のような恐怖に耐えかねたケネスは、無意識に母国エルジアの方向――すなわち西へと針路を取り、なけなしの推力を費やして全速で遁走に奔っていた。
「くそ!くそ!…くそ!どうしてこんな…!あんな化物相手にどうしろと言うんだ!」
伸びない。パイロットの意思と裏腹に、片肺を失った『ファルクラム』の速度は徐々に失われ墜ちてゆく。
悔恨を帯びた涙声で計器類を殴りつけても機体が応えることはなく、レーダー上の相対距離は徐々に狭まってゆく。
くそ、くそ、くそ、くそくそくそ。
常軌を逸した『幽霊』の技量に、そして僚機を失い無様に逃走する自らへの絶望に、ケネスは罵倒を口にしながら必死にスロットルを操作する。
仕方がない。どうしようもないではないか、あんな化物相手に。アーロン軍曹も言っていたではないか、逃げろと。西へ向けて逃げるのだと。――逃げる他に無いではないかと。
振り返る。
目算、距離おおよそ700。既に短距離AAMの射程距離内ではあるが、それを撃たないのは機銃で十分と判断しているのか、それとも単にAAMを使い果たしたがゆえなのか。いずれにせよ、速度、高度ともに優位を取られたこの状況は覆しようがない。
正面、眼下。サンサルバシオンから延びる街道。地表が近づき、地面からのエンジンの反響が傷ついた主翼をびりびりと揺らしている。
再度、頭を返す。
500。近づいている。
正面。計器類、高度低下。速度伸びず。
後方。450、…400。
外しようのない、致命の距離。
ここまで、なのか。
事ここに至り、浮かぶのは恐怖と諦念、一抹の敬意が入り混じった実感一つ。
まるで子供が注射針の刺さる瞬間をじっと注視してしまうように、ケネスの目は『ミラージュ2000』の機関砲の位置へとぴたりと吸い寄せられていた。
――ああ、そういえば。
なぜアーロン軍曹は、西へ――
死の間際、脳裏に浮かんだのはあまりにも些細なそんな疑問符。
その答えは、『幽霊』の30㎜機関砲が唸りを上げる、まさにその瞬間に顕れた。
地表から『幽霊』の胴体を貫いた、幾筋もの曳光弾によって。
「…な!?」
《こちら『マッド・ブル3』!上空の戦闘機!無事か!?》
《うまく低空に誘い込んでくれて助かったぜ!止めを刺せ、『緑色』!》
爆発、黒煙。
驚くほどに鮮やかな紅と黒に包まれて、白と黒の死装束を纏った『幽霊』は破片を散らし大きく揺らぐ。火線を避けるように増速するも、その翼が風を纏うことは叶わず、右旋回からふらふらと高度を落としていった。
低空、地上――そうか、友軍の対空車両。
今更ながらそう思い当たったケネスの視界の端に映ったのは、空を睨む砲身から煙をたなびかせた数台の車両――機甲部隊に随行していた2-K22『ツングースカ』の姿であった。
すなわち、アーロン軍曹が低空での離脱を推奨したのは、空中の戦力では『幽霊』に抗しがたいと見積もり、地上の対空車両に援護をさせるという判断によるものだったのであろう。高速での格闘戦中ならばいざ知らず、低空の追撃戦の最中ならば地上からの砲火でも超音速戦闘機を捉えることは不可能ではない。
好機。
恥も外聞も、意地も嘆きも捨てて、ケネスは必死に操縦桿を倒し、『ファルクラム』を旋回させてよろめく『幽霊』の後方へと位置どった。既に機体へは致命傷を受けたのだろう、眼前の『ミラージュ2000』の機動は明らかに精彩を欠き、単純な横方向への機動すら取れないほどに損傷している。
HMD上を薄緑のロックオンシーカーが泳ぐ。
捕捉。電子音とともに方形は赤色に染まり、電子の目が致命を告げる。
照準の中央、空に縫い付けられたように捉えられたのは、片翼に白、片翼に黒を染め抜いた、伝承に謳われる亡霊を模した『サンサルバシオンの幽霊』の姿。
「う――お、あ、あ、あああぁ!!」
悼辞ではなく、怒りでもなく。
自分自身も理由が分からぬまま、ケネスはボタンを押し、AAMを撃ち放つ。
閃光、二つ。
白煙を曳いたそれらは過たず『幽霊』の両袖を貫き、轟音の中にその躯体を破砕して、死装束の残滓を散らして消えていった。ついぞそのキャノピーからパラシュートが飛ぶことは無く、その命もまた焔の中に消えていったであろうことは確実に違いない。
《やった…やった!『オリーヴ1』が『サンサルバシオンの幽霊』を墜としたぞ!》
《これでサンサルバシオンは落ちたも同然だ…!やったな『オリーヴ1』!》
《こちら『マッド・ブル3』!おい、幽霊狩りの半分は俺たちの手柄だからな、皆!聞いてるか!?》
頭上を飛び交う歓喜の声を聞き流し、ケネスは呆然と地上を見やる。地表に転がったサンサルバシオンの識別マークと白い翼端の破片を見下ろして、心に浮かぶのは達成感と、それ以上に安堵、畏れ――何より敬意だった。
幽霊。恐るべき敵。そして紛れもない、単機で戦場を覆したエース。
荒れた息を整えて、顔面の汗を掌で拭ってから、ケネスは『幽霊』の墓標の上を旋回する。
『幽霊』は死なない。
単純にして明利たるその原則を、ケネスが思い知る事になるのは、この時からさして間もない時の事だった。