糞喰いは傀儡として待ち続ける。
既に意識はおぼろ、精神は漂白され、身体は弛緩しきっている。
狂える呪詛も、穢れた血も、褪せ人の心変わりによって消え失せた。
普通の体と忌み子の心を持った稀代の邪悪は、今や憐憫を誘うほどの無価値に落ちていた。
彼がどうしてこうなったのか。
それは少々時間を遡る。
* * *
始まりは円卓でとある褪せ人と出会ったことにある。
娑婆と違って狂騒のない静寂の空間に一人の褪せ人が入り込んできたのだ。
蠅が飛び交い、腐肉が転がる空間を興味もなさげに通ってきた褪せ人に糞喰いは開口一番に褪せ人に問うた。
「お前は呪いを感じたことがあるか?
怖れ、忌み嫌われる生命の宿痾。その醜い祝福を」
その時の自分はなぜ褪せ人に尋ねたかは分からなかった。
どう見ても健全なイキモノであり、ゆえにすぐに「こいつは違う」と認識した。
そして事実、褪せ人は呪いを知らなかった。
「お前は孺子だ。穢れを知らず、知らぬことも知らぬ。そんな者に用はない」
なぜそんな未熟児に質問したのか。
死体の山は円卓では珍しいが狭間の地では日常の光景だ。そんな場所を歩いてきたからといって糞喰いの興味の対象になるはずがない。
目の前の褪せ人よりも火山館の背律者や血の指、狂い火の狂人どもの方がまだ穢れを知っているだろう。
「円卓の非戦に感謝することだ。ただそれ故に、お前は殺されず、穢されぬのだ」
下水の牢獄から離れ、静寂へと戻ったことで心境の変化でも起こしたのだろう。
そう判じて糞喰いは一方的に会話を打ち切り、褪せ人も去っていった。
そうして長かったような、短かったような静寂の時間が流れた後、同じ褪せ人が再び目の前に現れた。
静寂を乱すなと糞喰いは怒気を露わにしたところで
「…いや、待て…お前、呪いを感じているな。ぷんぷんと臭っているぞ。生乾きの宿痾が」
かぐわしい悪臭、湿った生乾きの宿痾。
それはかつて己が人に施した忌み角の
来世に忌み角を得ることを約束するものである。
「…どうやら、我が苗床は十分に熟したようだ」
一日千秋の想いで待ち続けたが、どうやら実を結んだらしい。
死体を苗床に育てた祝福は黄金樹の軛から解放し、呪われた来世を与えるだろう。
それは「糞喰い」にならずに済むということである。
これほど喜ばしいものがあるか?
あるはずがない。
呪いが結実したのであれば今すぐ全ての人々に与えねばならん。
これから始まる多忙な日々は今までの比ではない。
だが糞喰いには踏破する覚悟と揺るがぬ決意があった。
「思えば短い静寂であったわ」
糞喰いはそう言い放つと鍵を褪せ人へ渡し己の身体を解放しろと命じた。
鍵はかつて呪いを作れず、無為な殺戮を犯した己の肉体を閉じ込めた牢の鍵である。
糞喰いの溢れる呪詛は心で抑えつけられるものではない。言うなれば魂の呪いだ。
放っておけばどこまでも膨れ上がる飢餓感であり、ゆえに縛めるならば自ら閉じ込めて鍵をするのは自明の理。
薬物中毒者のように禁断症状が出るだろうが、大義のためには厭わなかった。
そして今、その忍耐は報われた。
呪いが確かに存在するのであれば己の殺人は無為ではなく、ゆえに「糞喰い」を始めねばならん。
健全な肉体、忌み子の心。
そんなズレた生涯を送らず忌み鬼として生まれることができる。
それは限りない幸福だと糞喰いは断ずる。なぜなら実体験だから。
だから糞喰いは一〇〇パーセントの善意で褪せ人に告げた。
「お前を殺し、穢してやる。その宿痾を、本当にお前のものにしてやるぞ」
そして短い時間が流れ、己の肉体が解放されたのを感じた。
約束通り褪せ人を呪うためにメッセージを残し、糞喰いは円卓から離れ、肉体へと戻った。
全人類を、未来永劫、末代まで
* * *
己の愛剣、呪われた生を与えられたミエロスの剣を来世のあるかわいそうな者に叩き込んだ。
呪いを身体に植え付け、生を、魂を別の色に染め上げる。
傷口から小さな角が生えるのを認めると糞喰いは去った。
糞喰いが脱獄早々に殺したのは褪せ人ではなかった。
穢しの試運転だった。
己を解放した褪せ人に報いるのだ。
万が一にも呪いに不備があってはならない。
とはいえ殺したのはあまりも脆い弱卒だった。
褪せ人の屈強な肉体に叩き込む以上、もう少し歯ごたえのある者がいればよかったがこの際仕方ないだろう。
待ち合わせの王都外郭に行くと、かぐわしい磯の香りがしてきた。
何者かがカニを茹でている。
褪せ人かと思ったが、身なりからすると囚人のようだった。
相手はこちらを見て驚き、椅子から立ち上がった。
「く、糞喰い……!」
どこかで聞いたような声であったがどうでもいい。
それよりも囚人の体格はさきほど救ってやった者に比べると屈強に見えた。
なんという僥倖か。褪せ人前の試運転にこれ以上ないほど相応しい。
これこそ運命である。
「お前を殺し、穢してやる」
友の仇とか、あいつを守るなどと皆目さっぱり分からぬ言葉を吐く囚人は鉄球拳を構えた。
そして糞喰いもまた大剣を抜き放った。
* * *
そうして試運転が終わり、外郭の城壁で褪せ人を待てば、先ほどの囚人のところにいるのを見かけた。
城壁から飛び降りて水辺へ着地すると褪せ人がこちらを向いた。
「お前を殺し、穢してやる。その宿痾を、本当にお前のものにしてやるぞ」
ミエロスの大剣が叫ぶ。
背骨にしみ込んだ呪いの咆哮。全て、全て呪われてしまえという太古の怨念が轟いた。
まとわりつく怨霊たちが呪詛に応じて踊り狂い、糞喰いから逃げるように──あるいはもっと清らかな住処を求めるように──褪せ人へと迫る。
しかし褪せ人はそれら怨霊を悉く避けた。
間髪入れずに大剣を叩き込む糞喰い。
この攻撃を凌げた者はおらず故に我が祝福を拒めた者はいない。
そのはずだった。
「!?」
怨霊の弾幕の先、褪せ人の姿はどこにもなかった。
そして背後から衝撃を受けて糞喰いは派手に吹き飛んだ。
いつの間にか背後を取られたらしい。
「…お前は」
褪せ人は呪いを感じていたはずだ。
ゆえに宿痾を欲し、我が肉体を解放した。
にも拘わらず、なぜ我が祝福を拒むのか。
お前は祝福を受けたくないのかと問おうとし、水辺から立ち上がる。
そして全てを理解した。
「…そうか」
褪せ人の顔は指痕で爛れ、瞳からは黄色い炎が火花のように散っていた。
右手には黒炎を纏う、嘆きの半島の復讐者が作った「剣接ぎの大剣」。
左手には血炎を纏う、ゲルミアの邪神を象った「生贄の斧」。
褪せ人は壊れていた。
狂い火の薪であり、神狩りの使徒であり、復讐者であり、純血騎士であり、背律者であった。
この世全てに喧嘩を売っているとしか思えぬ有り様であり、そして装備以上に褪せ人の在り方に糞喰いは感嘆した。
身を焼く
この時、初めて糞喰いは自分に匹敵する存在に出会ったのだ。
「ッ!」
「────!」
続く応酬は糞喰いの見立てが誤りでないことを証明した。
特大武器の二刀流というゲテモノを扱っているにも拘わらず、その動きは流麗で無駄がない。
人を殺した数は糞喰いに及ばずとも、その相手が百戦錬磨の褪せ人や大ルーンを持つデミゴッドとなれば経験は濃密になるのは当然だ。
ゆえに糞喰いは当たり前に褪せ人に届かない。
見切られ、斬られ、致命傷を叩き込まれる。
だが、それでも糞喰いは血を吐きながら歓喜の声で告げる。
「お前は──俺だ」
糞喰いが先天的な「糞喰い」ならば、褪せ人は後天的な「糞喰い」だった。
健全な肉体、呪わしい所業。
何度も挫折し、裏切られ、思い知らされ、それでも血の足跡を残して進む終わりなき救世主。
そんな奴が糞喰いじゃないはずあるか。