第三十話 意情 異常
荒い息を吐きながら二人は元の空間に倒れこんでいた。
「いや、や。みんといて。うちを」
「いや、ぶたないで、蹴らんといて」
二人ははっきりとしない意識でうわごとをつぶやき続けていた。過去のトラウマを刺激されたのと、今まで目をそらし続けていたことを認識させられ、心が耐えられなかった。お互いがお互いに負い目を持ってしまい、逃げるようにその場を後にする。
「どうした!? 刹那!」
寮の自室に帰った刹那だったがその様子に龍宮は驚き、話しかける。
しかし、今の刹那には答えるほどの余裕はない。幽鬼のような表情でぶつぶつと何かをつぶやき続けるだけだ。
「おい!!」
あまりの様子に龍宮が刹那の肩をつかんだ瞬間、その手が強くがはじかれ、
「こ、来ないで!」
怯えた表情で龍宮から放れ部屋の隅でうずくまり震えだした。あまりにも普段と違う刹那の様子に龍宮は動けなくなる。
「いやや、殴られるのも蹴られるのも。鞭で叩かれるのも。石を投げつけれるのも」
延々とありもしない幻覚にとらわれて、うずくまり身を守ろうとしようとする刹那。龍宮ですらこの状態の刹那をどうすればいいかわからない。一番近い症状は戦場で何度か見たPTSDだが、どこか違うように見える。
フラッシュバックした記憶に苦しまれているという点では確かにPTSDと同じだが、これはもっと根深いものが原因だと龍宮は思った。
「私が何かしようとしても無駄か」
龍宮は自身では何もできないと判断してとある人物に連絡する。かつて会った事により何度か世話になっている変人だが、その人物が行う医療というものに龍宮は全幅の信頼を置いている。
「ああ、私だ。久しぶりだな、ドクター。……いや、そこまで卑屈になられてもこちらが困る。急患のようなものだ。貴方のてを借りたい。そうか、受けてくれるか」
真心に任せても良かったが龍宮は真心と彼女なら彼女の方が信用でき、人格的にもまだ好ましいと思っている。そのために龍宮は彼女を呼んだのだ。絵本園樹を。
青白い顔で木乃香は、大量の脂汗を流しながらなんとか自室まで戻ることができた。
「おかえり。木乃香って!! どうしたの一体!!」
アスナは木乃香の様子に何が起きたかさっぱりと分からずに混乱して叫んでしまう。
「アスナ? 悪いんやけど、少し静かにしてくれへんか?」
「い、いいけど。大丈夫なの、木乃香?」
親友である木乃香の様子に並々ならない何かを感じ取り、アスナは木乃香に問いかける。しかし、木乃香はアスナに心配されたくないのと自身の血が巻き起こし続けてきた惨劇を知られたくなくごまかす。
「大丈夫。アスナはうちのことを心配する暇があったら、勉強せんとあかんよ」
今ある気力でごまかそうとして、周りから見ればバレバレな嘘をつく。
「だめ、木乃香。今の木乃香が嘘をついているのは私でもわかる。いったい何があったの?」
「いやや、教えたくない」
今までの木乃香は無理していつものように明るい声でしゃべっていたが、この言葉を言った瞬間は何の温かみもなくどこまでも冷淡な声だった。
「っ!!」
「アスナ、離してくれへんか?」
木乃香の言葉が棘のように刺さり、怯んだアスナは思わず従ってしまう。
そのまま木乃香はシャワーを浴び食事をとらずにすぐに就寝したがそれまでは一度もアスナと会話もせず、何もいないかのようにふるまった。
「木乃香。どうしたっていうのよ」
なぜ木乃香がこうなったのか。それが分からずにどうすればいいかわからないアスナだったがとにかく木乃香の祖父である近衛門に知らせるべきだと考え、連絡する。
「もしもし、学園長ですか? 私です。アスナです」
「おお、アスナ君か。一体どうしたんじゃね?」
「今木乃香が帰ってきたんですけど、様子がおかしくて」
「様子が?」
「はい。いつもの木乃香と違って冷たいというか、何というか」
しばらく受話器からは何も聞こえなかったが学園長はアスナに答える。
「木乃香は寮の部屋にいるんじゃな? 今日はそのままでいいじゃろう。しかし、明日になったらわしが呼んでいたと木乃香に伝えてくれんか?」
「分かりました」
「うむ。それではお休み」
そのまま、受話器が降ろされてアスナも電話を切る。
「木乃香。本当にどうしたの? 私にも聞かせられない内容なの?」
木乃香は見失い続けている。本当に大切な存在が何かを。それを知っていたのならここまで不安定になることもないというのに。
彼女たちはまだ気づけない。答えはすでにそこにあるというのに。