第四十一話 最終の理論 最終の限界
人類最終とはすべてを終えた存在といえるだろうか。確かにありとあらゆる分野で、人類最終を越える成果が出ていない。では、人類最終の行う活動は本当に限界なのだろうか。それを知るためには、人類最終がどういった意図で行動をするか知らなければならないだろう。
莫大な力には、大きな枷が付く。今日、核兵器は世界的に規制され、制限される。それは核兵器の圧倒的な殲滅力を恐れるが故の措置だ。アメリカの大統領ですら、核兵器発射のボタンなど見たくはないと考えている事だろう。つまり、人類は無意識に大量殺戮、或いは大規模な破壊活動を控えようとする精神構造を持つことになる。
では、人類最終の精神においてはどうなる。人類最終は人類において最も優れた人間だ。本能的な精神構造が人間である人類最終は、やはり破壊活動や大量殺戮を忌避する性質を所持している推測できる。しかしそうなると、人類最終はその力の大部分を封印する必要が出来てしまう。何故なら人類最終は、個として原子爆弾を越える損害を発生させる事が出来るからだ。
たとえば、人類最終の眼力をもってすれば、地中の弱い岩盤を探し当てる事が出来るだろう。元々人類最終はそこらの電波すら可視化することも可能だ。地中の岩盤の動きや、そこから発生する様々な反応を見逃すことはないだろう。そして、その岩盤に人類最終の力を加えたらどうなる事か。人類最終の怪力ならば、たとえ地中深くの岩盤であろうと破壊することなど朝飯前だろう。その結果、地震という一つの災害を発生させることもできる。
しかし、それは先に挙げた精神構造から考えるに、不可能な行動だ。つまり人類最終は無自覚にせよ、自覚せよその力を抑えている。では、そうなると人類最終は一体、内から湧き出る衝動をどのように消費しているのだろうか。人間には自己顕示欲がある。あるいは、そんなものでなくとも、抑圧から心を守るために様々な衝動を作り出す。その中には、特に思春期に強く表れる衝動の中で、破壊衝動がある。ではそれはいつ消費されたというのだろうか。
少なくとも、私が知っている限り、
そうなると、問題が生まれる。溜まった衝動はいつしか、器を壊してでも溢れるだす事だろう。許容量を越えたダムが決壊するように、ごく自然と。そうなった場合、どれだけに被害が出る事だろうか。例え、七賢人であっても想定することは不可能だろう。何せ人類の限界など、人類最終以外わからないのだから。
それでもその被害が少なかったと仮定しよう。それはあり得ない事象ではあるが、それでも奇跡的にそういった過程へと進んだ場合、
だが、現実はいまだ世界は存続し、命の営みを続けている。人類最終はまだ壊れていないという事だ。だがそれは安心できるという事ではない。いつ人類最終が限界を迎えるかは誰にもわからないのだ。目隠しをさせたまま、綱渡りをしている最中でしかない。それは一体どれだけ精神を摩耗させることなのだろうか。少なくとも私はしたいとは思わない。おそらくは、人類最終という精神でなければ、耐えられない事だろう。
即ち人類最終の行動とは、つまるところその負担を最低限にするという意図の下行われているのではないだろうか。そうであるならば、納得する。幼馴染を必要以上に助けようとするのは、心配や怒りというストレスを無くすためであると考えられる。
故に、人類最終とはすべてを終えた存在でありながら、すべてから束縛を受ける存在であり、すべてにおいて最終的に負けなければならない存在ではないだろうか。
となると、人類最終は人類最終たりえない。その前に作られた人類最強こそ、人類最終を凌駕する、人類の終わりではないだろうか。
ER3 特別講師 想影心視『人類の限界』より引用。