走り出したら止まれない/Runaway Baby 作:Avigale
Paragraph 14
「ワガハイの動く音で不快な思いをしたくなければ起きろ」
彼女、ロードオブウォーはコーヒーを注いでいた。朝5時である。早起きだなぁと思って僕も起きる。
「今日は模擬レースの日なんだ、約束を果たしてもらうからな」
僕はすっかり忘れていて、昨日の模試の結果がどうなるかだけを心配していた。
「……サード、勉強の事は忘れて、今日は走ることにだけ集中してもらえないか?」
彼女は僕の名前を呼んだ。彼女が僕の名前を呼ぶときは、本当にお願いしたいときだけだと気づいたのは、共同生活をしていて3週間が経った頃からだった。
「僕は走りたくありません」
「……約束しただろ」
彼女が不機嫌そうにしているので、僕は見かねてしょうがなく、了承する。
「分かってます、走ればいいんでしょ走れば」
「気に入らん」
「元はと言えば、あなたが僕の事を変に気に入ったからこうなったんですよ」
「うるさいな」
「うるさくないです」
彼女は意外と感情を隠そうとするタイプのウマ娘だけど、反発するように見えて、意外と素直だ。うるさいと言っているくせに、肯定してもらえたことが嬉しいようで、尻尾にそれが現れている。
「模擬レースは16時からだ、それまでに体を温めておけ」
彼女はコーヒーに口を付けた。熱かったのか、舌を火傷したみたいだ。
「ぷっ」と笑うと、彼女はちょっと怒った。
「猫舌なんだ。笑うなよ」
「笑いませんよ、ぷぷぷ」
「おい、笑うな!」
彼女は僕の頭を叩こうとしたが、腕が上手く届かない。
そういうところが、彼女の可愛さだと僕は思う。
「……まぁいい。走る際の疑問点があれば答えてやろう」
じゃあ、と僕は彼女に聞いた。
「ゴールラインを超えた後はどうしたらいいんですか?」
「そんなの、好きなようにすればいいだろ」
そう述べた後、彼女は付け足すように言った。
「ああ、だが、急に止まるなよ。足に悪いらしいからな」
「分かりました」
僕は彼女からコーヒーを貰って、一日を始めることにした。
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4時からの模擬レースは盛況で、新入生の調子を確かめたいトレーナーでいっぱいだった。
残念だけど、僕はそんな期待には答えられない。
「ねぇ、アンタ」
「何ですか?」と振り返ると、背の小さいウマ娘がいた。
「知ってた? 背の高い人って筋肉が緩んでるから、足が遅いんだって」
「アンタは背が高いよね? のどの調子は大丈夫?」
「のど?」
僕は嫌な予感がしたし、そしてその先に僕が覚える感情を理解していた。
「終わったら、ウロに並びなさいよね、あれは順番だから」
ウロというのは、トレセンにある負の名所だ。あそこに感情を吐き出すと楽になるらしい。
僕は思った。「ドチビが」もちろん声には出さなかった。
僕は怒っているのかもしれない。
なんだか、僕を見ている連中全員が、僕をバカにしているように思えた。
靴ひもを結び終えたロードさんが、僕の方を見上げて、少し心配そうにしていた。
「……何かあったのか?」
「何も」
「そうは思えん、目が怖いぞ」
僕はわざとらしく、指で口角を上げて笑った。
「これで怖くないでしょう?」
「……そういうところが怖い」
彼女はそう言って、ゲートへと向かっていった。
残念だったが、彼女の思惑通りにはいかず、僕と彼女は同時に走ることができなかった。
僕は彼女の次に走る。
彼女の走法は差しと呼ばれるものらしく、先頭のウマ娘を最後に追い抜く戦法らしい。
僕は彼女に教えてもらうまで、差しや追込という戦法を知らなかった。
最終直線で、彼女はまるで再起動するかのように加速し、ゴールの向こう側へと走り去っていった。
僕はなんだか、雲の上の人を見るような感じでそれを見ていた。
「次走の方準備お願いしまーす!」
次は僕の番だ。彼女は僕の走りを見られないだろう。
少しだけ、僕はそれを残念に思っていた。
僕はゲートに入り、出走を待った。
隣から声がする。どこかで聞いた声だ。
「また会ったわね、ナナフシさん」
その声の主は、さっきのドチビだった。
僕の中に何か、黒いものが沸き上がってくる。
「退学届は書いた?」
僕は思った。こいつにだけは負けたくない。
ゲートは開いた。
ドチビはどうやら逃げと呼ばれる戦法を取るようで、先頭に立ち、そのまま逃げ切るようだった。
僕は思った。最後尾から、彼女を抜かしたら、皆度肝を抜くだろうか。
というわけなので僕は最後尾に陣取っている。
まぁ抜けなくてもいい。僕は走るためにここにきているわけではない。
でも第3コーナーを抜けたところで考えてみると、僕の足は結構残っていた。
あれ、もしかして、行けちゃう?
僕は地元の坂を上る時みたいに全力疾走してみた。
もちろん、全員がスパートをかけるので相対的には位置は変わらない。
けど、皆のスパートは続かない。さっきのドチビはスタミナを失って順位を落とした。
僕は彼女を抜く程度までスパートを続け、彼女の前に出た瞬間で足を緩めた。
結果は5着だった。
5着まではいることを入着というらしい。僕は知らなかった。
なんだか、僕はもうちょっと本気を出しても良かったのかなと思っている。
ドチビが息を切らして、へたり込んでいる。
僕はその子を見下ろして、手を伸ばした。
その瞬間、ドチビは泣き出してしまって、どこかに行ってしまった。
ちょっと可哀そうに思えた。
嘘である。僕は生意気な奴に対して可哀そうと思うほど優しくない。
ロードさんが近づいて声をかけてきた。
「入着か、よくやったな」
「結果としては良いのですか?」
「いい方だ、そこに至れない娘だって沢山いるんだ」
「僕はそんな子たちを可哀そうに思います」
彼女はふっと笑って言った。
「嘘をつくな。息も切れてない奴が、何を言うか」
僕は気づいた。走り終えた皆は息を切らしていた。
僕は忘れていた。普通のウマ娘は3000mも走れば息を切らしてしまう。
僕は慌ててゼーハーし始めた。
「……バカモノ、ワガハイはトレーナーを見てくる。貴様も早めにトレーナーを見つけることだな」
「僕は走るために来たわけじゃないです」
「貴様、入着できない者だっているんだぞ、手を抜いて走って、何だその態度は!」
そのとき、僕の頭に向かって空のアルミ缶が飛んできた。
「喧嘩ぁ~? それなら大きい子に賭けよっかな~」
僕とロードさんはその声の先を見た。
そこに居たのは大人のウマ娘だった。
投げられたアルミ缶を見てみると、それはビールの缶だった。
彼女は僕より背が低く、170cmくらいだろうか、青い髪で、髪を後ろで結んでいて、目がトロンとしていた。顔が赤くなっていて、一目で酔っ払っているとわかった。
「ひっく、君たち良いセンスしてるからさぁ~。ウチ来なよウチ」
「貴様、トレーナ―の癖に、勤務時間中に飲酒か。情けない」
ロードさんは叱責するように告げる。
「いぇー。めっそーもねーってかーんじ?」
駄目だこの人。完全に酔っぱらっている。
彼女は向こうから近づいてきて、僕たちに名刺を渡した。
名刺にはなにか液体がこぼれたシミがついている。
名刺を読んでみると、彼女の名前は水橋 晶(みずはし あきら)というらしくて、トレーナーであることは間違いなかった。
彼女は、トレーナーバッジを首から下げたプラスチックの名札の穴に差していた。
「明日、授業終わったらウチのトレーナー室で待ってっから」
彼女の息にはアルコールの香りが混ざっていた。ビールの香りだ。僕の祖父を思い出す。
僕はロードさんに耳打ちした。
「どうします? この人」
「……ワガハイは行ってみる。この名刺、他の者にも配っているのを見た。もしかすると、トレーナーとしての腕は一流だったりするやもしれん」
「仕事中に酒飲む人が一流なわけないじゃないですか」
「ワガハイが昔見た映画だと、一流の金融マンが仕事中にメタルを聞いていたぞ」
「音楽と酒は違いますよ」
「いいや、どちらも中毒になる点においては変わらん」
「そういうもんですかね」
「そういうものだ」
ロードさんがそう言うものだから、僕もそういうものなのだと思ってしまう。
「あとさ、そっちのでっかい子」
僕の事だろう。ニコニコしながら晶さんは近づいてくる。
首に腕を回して、彼女は僕の耳に囁いた。
「あんな舐めた走り方すンなら、次はマジで容赦しないから」
僕は彼女の声にゾクッとした。彼女はその瞬間、まるで熊か何かになったかのように僕の心を恐怖で満たした。僕は殴られるかと思った。
「トレーナー室は14号。忘れないでね~」
そういってまたニコニコしながら晶さんは帰っていってしまった。
スウェットにジーンズのトレーナー。そんなのがいていいのだろうか?
「お前の思っていることは分かる。しかし、トレセンは自由な校風で通っているからな。ああいうのが居てもいいのやもしれない」
「……僕は早く寮に戻りたいです」
彼女の言った言葉がなんだか心に引っかき傷を残している。
僕は、本当に間違ったことをしてしまったのかもしれない。
メモ帳を取り出して、明日トレーナー室14号に行くことを書き残した。
寮に帰る途中、中庭を通った。ドチビがウロに向かって叫んでいた。
僕はそんな彼女を可哀そうに思った。今度は本当だ。