シルヴァーハートと魂の咆哮 ~Heart's Cry~ 作:軽石らいと
スタート同時に真っ先に前へ躍り出たのはコスモバルクだった。このレース一番の人気とホッカイドウの期待を背に、意気揚々と走り抜けていく。
「おお!やはり逃げたか!あの逃げ馬が逃げる展開は予想していたが、まさかここまで大胆だとは……!これでは差し馬は追えないぞ!」
観客達からは歓声が上がる。ハーツもバルクの大胆な逃げに唖然とした。それと同時にダイワメジャーの出方も目が離せない。彼女の脚質は先行策であり、スパートの届く好位集団に控えている。一方自分は追込。最後に残しておいている力までじわじわと削られている。
序盤からハイペースで飛ばしていった結果、早くも1000mを通過。バルクとメジャーの先行組からは中団の群れに隔てられていた。
「これじゃあバルクとメジャーに負ける……だがまだだ!」
ハーツはメジャーが隙をついて前に躍りだす瞬間を見逃さなかった。最終コーナーに入った所でスパートをかける。
ターゲットはただ1つに絞られた。
(そうだ、こんなに緊張する必要は無い。いつも通り、いつも通りに……)
そして、コーナーを抜けた瞬間ハーツは思いっきりタメを作って飛び出す……はずだった。
彼女の身体は思うように動いてくれなかった。
脚がまるで他人の物かのように重く、いつものような切れが無い。完全にバルクのペースに載せられて消耗し切っていたのである。「しまった!追い切れない!」と叫んでいる内に先頭との差はみるみると開いていく。そして追い打ちをかけるように、すぐ後ろから凄まじいオーラが迫ってきた。
(なんだ…この圧は!)
それはカメハと会った時に感じた物に似た、圧倒されるような空気。まるで大嵐で時化た海のような物が来ている。ハーツは恐る恐る振り返ると、そこにいたのは……
「……!?タイド!!」
黒い髪を靡かせながらこちらに迫るのは紛れもなくブラックタイド。圧倒的なスピードと豪快な末脚を駆使して、あっという間に後続の追込組を蹴散らして背後まで来ていた。
「さすがだ。」とタイドは小さく笑う。
ハーツは少し油断していた。このバ群をどう乗り越えて、どうメジャーを打ち負かすか。ただそれだけを考えていた。
「私を忘れたわけじゃなかろうな?お前の相手はこの私だ!」
ブラックタイドは更にギアを上げて加速していく。その走りはまさに荒波。彼女のオーラはすぐ近くまで達していた。
しかし、タイドの猛威に晒されながらもハーツはまだ諦めてはいなかった。
「俺には『世界』が待っているんだ!ここで遅れるわけにはいかない!」
「私だってここで負けるわけにはいかないんだッ!」
観客の歓声は聞こえなくなり、両者の意地がぶつかり合う。それはハーツが最後の力を振り絞り、ブラックタイドが限界を超えてなおも追い上げるデッドヒート。
しかし、そんな拮抗は長くは続かなかった。
「うっ…!」
瞬間、タイドは顔を歪めた。それと同時に彼女のスピードが目に見えて衰えていく。
「タイド! どうした?!」
失速したライバルがバ群に埋もれていくのと同時に、スタンドの歓声がハーツを現実に引き戻した。我に返った視線のはるか先には、誰よりも早くゴール板を踏んだメジャーの姿があった。
「え……負けたのか?」
結局中団の群れを追い越す事は出来なかった。掲示板に載る事すら出来なかった。ハーツはただ呆然と立ち尽くしながら、スタンドからの歓声を聞き入れられずにいた。
レース後、彼女はすぐに控え室へ向かった。だがカメハやタイドの姿は見当たらない。
「やぁハーツ、お疲れ様。」
「ありがと、優勝おめでとう。」
ハーツに声をかけたのはダイワメジャーだった。
「メジャー、2人はどこに行ったか知ってるか?」
「別の場所でクールダウンでもしてるんじゃない? あの子達は特待生みたいな感じだから、きっと色々忙しいんだよ。」
そう言ってメジャーは肩をすくめる。
「まあ確かにな。それより、お前に勝てると思ったんだけど……ダメだったよ。」
「……。」
「俺はただの劣等生じゃない。もっと強いと思っていた。なのにこんなザマだよ。メジャー、お前も見ただろ?カッコつけておきながらボロ負けした俺の姿が……」
「ねえ、君は何か勘違いしていないかい?」
ハーツの言葉を遮るように、メジャーは口を開いた。
「私だってハーツに勝ちたくってトレーニングして来たんだ。『君の追い込みには届かないペースで先行しなきゃ』ってね。でも実際戦いで頭に思い浮かんだのはハーツでもバルクでもなくって、応援に来てくれた妹の顔だった。」
「妹さん……?」
「うん。私が勝てなかったらあの子は悲しんでしまう。それを考えると急に怖くなって……私は……私はもう、こんな所で立ち止まっちゃいけない。まだまだ上を目指して進まなきゃいけない。」
メジャーの瞳はいつになく真っ直ぐにハーツを見つめていた。彼女の意思の強さは、ハーツにもひしひしと伝わってくる。
「メジャー……分かった。お互い頑張ろうぜ。」
「ああ。」
2人は握手を交わした。そこには友情の証として。
するとメジャーは何かに気付いたかのような顔をした。
「……私そろそろ行かなきゃ。今日は本当にありがとう。」と足早に部屋を後にする。勢いよくドアが閉まると「ケホッ、ケホッ」と咳き込む声が聞こえた。
「風邪でも引いたのか?メジャー……大丈夫だろうか。」
ハーツは心配になったが、これ以上他の選手の事情を詮索するのはタブーである。今はとにかくレース後のケアに集中しなければ。
それに、今日の敗北の原因について分析しなければならない。ここで立ち止まってられないのはアイツだけではない。
「次こそは勝ってやる。絶対に。」
ハーツは拳を握りしめながらそう誓った。
一方、ブラックタイドは自室で脚の痛みに悶えていた。既にトレセンの制服に着替え終わっていたが、右脚のふくらはぎが軽く腫れあがっている。応援に来ていたカメハはその痛々しい姿に驚いていた。
「ちゃんと応急手当しないとダメよ。そして病院で診てもらわないと。」
「ケガなんてしてない。ちょっと無理をしただけだ。」
「ウソ、あんな無茶なペース配分をするから。タイドはいつも『もっと速く』って言い過ぎ。もう少し抑えないと。」
「抑えずに走ってこれだったんだ。それに手加減なんて妹に見せられるわけないだろう。」「だからってレース中に自分の身体を壊すような走り方していい理由にはならないわ。私、そんなの絶対許さないから。」
カメハはタイドを叱りつける。だがそれは彼女の身を案じての事。普段あまり怒らない彼女が珍しく真剣に怒りを露にしているのを見て、タイドは何も言えなくなってしまった。
「……すまなかった。次は気をつけるよ。」
「分かればいいのよ。ほら、立てる?」
カメハはしゃがみ込んで右手を差し伸べる。タイドがその手を掴んで立ち上がったその時、ノックと共に1人のウマ娘が入室してきた。
「失礼しま……もうカメハは来てたか。」
現れたのはハーツ。タイドにとっては見たくない顔だ。
「君か。さっきは失礼な事を言ってすまなかった。」
タイドは物憂げな表情でそう言うと、静かに頭を下げた。
「別に気にしていない。それより……お前、そのケガ大丈夫かよ?」
ハーツはタイドを気遣うも、彼女は視線を合わせようとせず、おもむろに鞄から小瓶を取り出す。
「私は平気だ。この程度の痛みならすぐ治まるさ。ドイツの親戚からもらった軟膏がここで役立つとはな……よし、塗れたぞ。」
そう言ってタイドは立ち上がり、ハーツに背中を向ける。
「君に負けたのも仕方がない事だ。元々勝てる相手ではなかったのかもしれない。ただ、それでも負けるのは悔しいものだな。」
タイドは振り返って小さく笑った。しかしその表情にはどこか陰があるように思えた。
「おまけにケガまでしてしまった。全く、私はノーザン校の恥だ……」
タイドは自嘲気味にそう笑った。そこにはレース前の戦意に満ちた屈強なオーラは無く、脆く崩れ去りそうな、弱々しい雰囲気が漂っていた。
「君は私のことをバカだと笑うだろうな。」
「笑ったりしない。それに、結果が出ないなら出るまで走り続ければいいじゃねぇか。」
その言葉を聞いた瞬間、うなだれたタイドの耳が立ち上がる。
「簡単に言わないでくれ。もう2度とあんな無様な姿を見せたりはしたくないんだ。私のせいで妹の夢が潰えたらと思うと……」
「……まあ、あんまり考えすぎるのも良くないぜ。それにお前のオーラ、強かった。」
『励ましの言葉』などという大層な物ではない。ただ思ったままを口にしただけの事。タイドは少し驚いた様子を見せ「そうか」と小さく返事をしたが、その声のトーンは少し上がっている様に聞こえた。
「ところで君は、次のレースで勝ったら何がしたい?どんな未来を思い描いているんだ?」
「俺の目標は高いぜ。まずはG1を獲る事。そしていつか必ず世界の称号を手に入れる。」
「世界へ羽ばたく……分かった。その時は私の妹にもよろしく言っといてくれ。」
タイドはそういうと右手を差し出す。ハーツはその手をしっかりと握り「もちろんだ」と答えた。
そこへ扉をノックする音が聞こえる。入ってきたのはカメハであった。どうやらトレーナーを連れてきたらしい。
そしてカメハに案内されながら、そのトレーナーが姿を現した瞬間、ハーツは目を見開いた。
「お疲れ様、タイド。所でそこにいるのはハーツクライ君だよね? 君もお疲れ様。」
かっちりとしたスーツが似合う、まるで凛々しい青年のような女性。彼女はハーツだけでなく全てのウマ娘にとって恐れ多いトレーナーである。
「直接会うのは初めてだったよね。私は奈瀬文乃。よろしく。」
かつて何人もの先輩達を一流に育て上げたその人は、かつて先輩達にそうしてきたようにハーツへ右手を差し出した。