七海やちよは焦っていた。
もちろん、アリナのことだ。
何かやるだろうと思っていた。
妥協するのか。
いろはを説得するのか。
何らかの強硬手段に出るのか。
とにかく何らかの行動を起こすものだと思っていた。
なのに、アリナは三日間、何もしなかった。
落ち着き払っていた。
朝起きると朝食を食べ。
すこし院内を散歩して。
正午になると昼食を食べ。
昼寝をしたあと散歩して。
夕食を摂って湯につけたタオルで体を拭いて。
日付が変わる前に寝る。
という規則正しい生活に終始していた。
健康的で、実に結構だ。
こちらは二つの意見の間で苦労しているというのに。
「ほんっとにアリナは……って、何かしら……?」
携帯が鳴っていた。
みふゆと表示されている。
出てみると、挨拶もなく、勢い込んだ声が聞こえてきた。
「あの! わたし実は黙ってたことがあるんです!」
いつぞやの東西抗争の最終局面。
あの争いを収めるための会談が行われたファミリーレストラン。
そこに、あのときと同じ三人がいた。
「なぜ黙っていた!」
あのとき以上の剣幕で声を荒げるのは、和泉十七夜。
それに同調するような険しい顔を残りの一人に向けるのは、七海やちよ。
「……御園さんの魔女の行方をアリナは知っている……しかも貴方がそれを思い出せないように暗示をかけた……本当にどうして黙ってたのよ」
二人に詰め寄られ、縮こまっているのは、梓みふゆ。
彼女はおずおずと言った。
「あの……言い訳になりますけど、本当はすぐに言おうと思っていたんです……」
そうして語り出した内容は、以下のようなものだった。
御園かりんが魔女になった、あの日の、かりんが魔女になった後。
そして、かりんが魔女になったという情報が広がる前。
偶然だった。
みふゆは家に帰る途中、突然、覚えのある魔力を感じた。
(……この反応は、アリナでしょうか?)
別に珍しいことではない。
魔女の結界から戻ってきたとき、魔力反応は決まってこのように“突然”現れる。
とくにアリナの場合は多かった。
彼女自身が結界を張ったり、解除したりできるからだ。
普段なら次の瞬間には忘れるような、日常的な反応に過ぎない。
しかし、虫の報せというやつなのか。
妙に気になった。
それでアリナの魔力反応の方に近づいていった。
「ア、アリナ!?」
その結果、見つけたのが放心状態のアリナだった。
路地裏で、制服が汚れるのも構わず地べたに座り込み、ぼーっと魂が抜けたしまったような顔で虚空を見つめていた。
そしてソウルジェムが凄まじい勢いで濁っていた。
「アリナ!? アリナ、何があったんですかっ!?」
もし、この場に誰も来なかったら。
または梓みふゆ以外の誰かであったなら。
ここでアリナは魔女になっていたかもしれない。
しかし、みふゆはこういう事態の経験も多く積んでいた。
マギウスの翼にいたころ。
精神的にも未熟な黒羽根たちは、ふとした瞬間に不安定になる。
ドッペルを出せば一般人にも被害がおよぶ状況でも、ソウルジェムが濁り切ってしまいそうになることがあった。
こういうとき、最も効果的な対処は、みふゆの能力である『暗示』を使うことだ。
『暗示』によって、直近の記憶を思い出せないようにする。
ソウルジェムが濁る原因となった記憶を封じることで、一時的にでもソウルジェムの穢れを防ぐ。
記憶を戻すのは安全な状況を整えてからでいい。
この時もそうした。
能力を使い、直近一時間ほどの記憶を思い出せなくして、眠らせた。
思った通りにソウルジェムの穢れは止まってくれた。
(でも、アリナがこんな状態になるなんて、いったい何が……)
嫌な予感を感じつつも、みふゆはとりあえず、アリナを自宅に運ぶことにした。
みふゆの携帯に
「御園かりんが魔女になった」
その情報が入ってきたのは、それからすぐのことだった。
「……」
「……」
話が一区切りつくと、みふゆは顔を上げた。
彼女の前にあったのは、さっきまでの険しい二人の顔ではなかった。
全面的にわかった、とは言わないまでも
『気持ちはわかる』
といった、すこし同情を含んだ顔に変わっていた。
しかし、まだ怒りが残ってはいたようだ。
すこしトーンダウンした詰問口調で十七夜が言った。
「……どうしてその後、アリナの記憶を戻さなかったんだ?」
みふゆは答える。
「その後もアリナが不安定だったからです。目を覚ましてから、かりんさんのことを伝えたんですけど、もうその後から大変で……」
今度はやちよが言った。
「その後も言わなかったのは?」
「マジカルかりんを書く前までは、それを伝えたら今度こそ魔女になってしまうと思ったからです。やっちゃんも知ってますよね? あのときのアリナの様子」
その危惧は、やちよも理解できた。
たしかに、あのときのアリナを下手に刺激しようとは思わなかっただろう。
そして、マジかりを描いた後のことについては……
「わたしがマジカルかりんを読んだ後は、やっぱりかりんさんのことはアリナが決着を付けた方がいいと思ってしまって……」
そうでしょうね、とやちよは頷いた。
あの作品を読めば、誰だってそう思ってしまう。
「ユニオンに報告しなかったのは?」
「これも同じです。ユニオンに報告すれば、かりんさんの魔女を倒すことになったかもしれないでしょう? それよりはやっぱりアリナに任せた方がいいと思って、それに……」
そう言って、みふゆは十七夜を見る。
記憶を戻してしまえば、十七夜が記憶を読める。
読めば、やはり十七夜はユニオンに報告しただろう。
その視線を受けた十七夜は、もう怒りを収めたようだ。
口調から荒さが取れていた。
「画伯の魔女の居場所をアリナが知っていると言っていたな? なぜそう思う? さっきの話では断言できる根拠はなかったように思うが?」
それに少し安心したのか、みふゆの答えも落ち着きを取り戻している。
すこし長い回答だったが答えには淀みがなかった。
「アリナがあんな状態になるのは、かりんさんの魔女を見たからだと思うんです」
「私が見つけたとき、アリナのソウルジェムは十分も放置したら、魔女化してしまうようなペースで穢れていました」
「だから私がアリナを見つける十分前には、かりんさんの魔女を見ているはずなんです」
「なのに、近くに魔女の気配はありませんでした。もし逃がしていたら魔女の魔力反応があるはずですよね?」
十七夜も納得したのだろう。
うなずいた。
「だから魔女はアリナが倒したか、アリナが自分の結界に閉じ込めて持っているか以外に考えられない、か」
まあ、その通りだろう。
100%ではなくとも99%くらいの確率で、みふゆの言った通り、アリナはかりんの魔女を見たのだろう。
そして倒したのか、捕らえたのかはわからないが、どちらかをした。
「……はぁーっ」
やちよは一つため息を吐いた。
ここまでわかれば、みふゆが今になってようやく行動を起こした理由も、何となくわかってくる。
つまりは自分と同じだったのだろう。
アリナは何かをする。
かりんの記憶を大人しく消されるわけがない。
そう期待していたのだ。
だから、わざわざソウルジェムを濁らせるような記憶を戻す必要もない。
アリナが魔女になってしまうかもしれない。
けれど、もう明日にはかりんの記憶を消してしまうとなれば、黙っていられなかった。
やはり、かりんの記憶を全て消してしまうのは、可哀想だ。
アリナにとっても。
かりんにとっても。
これはたぶん、仲間との別れを多く経験してきたベテランほど強い感情だ。
この点、おそらくは、いろはも心の底から納得できる話ではない。
いや、いろはは優しい。
もういない死者の心情とか。
残された者の、死者を弔いたいという想いとか。
そういう不合理な感情に対して、人の百倍は共感できる子だ。
けれど
『当人や周りを危険にさらしてでも想いを遂げさせてあげたい』
というような、言っている側すら「自分は馬鹿だ」と思うような感情論に傾いてしまうほどの経験値は、まだない。
きっと、いろはは反対する。
いま考えていることを実行するのは、裏切りだ。
悩みに悩んで今の結論を出したいろはに対する明確な裏切りだ。
けれど、でも、やっぱり……
「十七夜」
やちよの声に十七夜は反応する。
「なんだ?」
「このことを今のアリナに伝えたら、どうなると思う?」
十七夜も同じことを考えていたのだろう。
返答は早かった。
「アリナの心理状態は不可解なほど安定している。グリーフシードさえ用意していれば、最悪の事態にはならないだろう」
やちよは次にみふゆを呼んだ。
「もし急激にソウルジェムが濁るようなことがあったら、そのときは同じ暗示をかけることはできる?」
これに対する返答も早かった。
「はい。暗示は一度かかると、二度目以降はかかりやすくなりますから。間違っても最悪の事態にはならないかと」
それから少し間を開けて、やちよは言った。
「……わかったわ。アリナに話してみましょう。あとのことは、もうアリナと成り行きに任せる」