それから数日後のことだ。
『アリナ先輩!』
アリナ・グレイは自分を呼ぶ声を聞いた。
幾度となく聞いた、懐かしい声だ。
けれど、決して聞こえるはずのない声だった。
声の方を見た。
死人がニコニコ笑いながらアリナを覗き込んでいた。
またか。
最近は起きているのに夢を見る。
『アリナ先輩! 無視するなんてヒドいの!』
こういうときはグリーフシードだ。
ソウルジェムに穢れが溜まっているから、こんな幻覚を見る。
アリナは机の上のグリーフシード置き場に手を伸ばし、ソウルジェムを浄化する。
「……あの、アリナ先生」
声の方を見た。
アシスタントが心配そうにアリナを覗き込んでいた。
またか、と再び思った。
この新しいアシスタントには魔法少女のことも教えてある。
泊まり込みで働いているから実物を見せる機会もあった。
たかだか二徹くらいは問題ないのは知っているはずだが。
「そろそろ休んだ方が……目の隈も凄いですし、顔色も……」
アリナはペンを置いた。
そして改めて自分が「ノイジーガール」と呼んでいるアシスタントに向き直った。
「人の心配より、アナタは自分の漫画を心配した方がいいヨネ。アナタの漫画はキャラクターデザインがワンパターン過ぎ。設定に沿った統一感を出したいのはわかるケド、あれだと読む方はキャラの見分けがつかないワケ」
「あっ、えと……はい」
「キャラはシルエットだけでも見分けられるようにしろってよく言われるけど、そこを意識して描き直してみてヨネ」
「……はい」
アシスタントの少女は沈んだ様子を見せた。
それを見たからなのか、アリナは言葉を付け加えた。
「『わたしの手を離れた後はみんなのもの』」
「あっ、それって、かりんちゃんの……」
「アリナも同じ意見なワケ。良いものを作っても伝わらないなら、単なるひとりよがりだヨネ」
「はいっ……!」
「わかったら、アナタはもう寝ていいワケ。アリナも少しだけ描いたら休むカラ」
「わかりました……あっ、お夜食だけお持ちしますねっ」
そう言って、少女は部屋を出て行った。
軽い足取りだった。
チラッと見えた横顔には笑みさえ浮かんでいた。
アリナは溜め息をついて、机に向き直る。
ほんの少し口の端を緩めながら。
1ページ分、原稿が完成した。
それから、また数日後のこと。
ああ、これは夢だ。
アリナは自分の脳髄が再生する映像を、そう断定した。
根拠はいくらでもあった。
『ああっ! アリナ先輩! いちご牛乳勝手に飲んじゃダメなの!!』
第一に、死人が生きて動いている。
御園かりんは死んでいるのだ。
死人が動かないのは、現実世界では絶対のルールだ。
「教えてあげてるんだカラ、これくらいの対価は当然だヨネ?」
第二に、鏡に映っているわけでもないのに自分の姿が見える。
頭のてっぺんから、つま先まで見える。
ここにいるアリナが動かしているわけでもないのに、目の前のアリナは手足を、口を、自由に動かしている。
『むぅ……きりんちゃんなら、もっと優しく丁寧に教えてくれるの!』
第三に、マジかりと現実が混同されている。
きりんが絵を教えるのはマジかりの設定であって、現実ではない。
さらに教室のあちこちで、現実の光景と、マジかり執筆にあたって背景に書き込んだ品々が混在していた。
「ハァ……じゃあ、ちょっとペン貸してヨネ。手本を見せてあげるカラ」
第四に、現実のアリナは、かりんに指導したことはない。
現実は悪いと思った部分を悪いと言い、良いと思った部分を良いと言うだけだった。
つまり作品を見て、感じたことを言っていただけだ。
言うなれば、単なる反応であって、決して指導ではなかった。
なのに、目の前のアリナは文字通り、手取り足取り指導している。
時折、二人の間で軽口も交わされていた。
夢でしかありえない。
そう、夢だ。
こんなものを見ていても、原稿が進むわけではない。
時間の無駄だ。
だから早く目覚めるべきだった。
感覚でわかる。
目覚めるのは簡単だ。
ただ強く目覚めようとすればいい。
なのに、アリナは目を覚まそうとしなかった。
夢が続く。
「漫画の絵は線を減らしてシンプルに描けるように進化してきたんだヨネ。そうすると情報量は減るけど分かり易いし、何よりたくさん描けるワケ。速さが求められる週刊漫画は、このポイントが大事なんだヨネ」
『言われてみたらそうなの。アリナ先輩の絵に比べたら、マジきりの絵はすごく単純なの』
「なのに、アナタの絵は線が多すぎ。月刊連載なら絵画的なタッチで魅せるのもアリだと思うケド、アナタはマジきりと同じ週刊を目指してるんだヨネ? 第一、アナタの線は大半が無駄。これで絵画的なタッチを目指したって言われても、笑われるだけだヨネ」
『うう……耳が痛いの』
目の前の二人は、実に理想的な先輩後輩に見えた。
先輩が教え、後輩は学ぶ。
後輩には学びたいという熱意があり、その熱意に先輩は十分に応えている。
『アリナ先輩! 描けたの! 見て欲しいの!』
「ハイハイ……」
しばらく後、アリナ・グレイの目の前で、アリナ・グレイが原稿を受け取った。
チラリと原稿が見えた。
下手な絵だ。
漫画的だとか、絵画的だとか、そういう次元ではない。
シンプルに下手だった。
その上、さっきの「線を少なく」というアドバイスを気にしすぎたのか、今度は線が足りない。
総合的に評価すればアドバイスされる前の方がまともだった。
絵としてはゴミだ。
しかし受け取ったアリナは一瞬、小さく顔を顰めた後、何やら言葉を探している様子になった。
そして、こう言った。
「……まぁ、さっきよりはマシ」
嘘だ。
自分自身のことだから確信が持てた。
このアリナも、決してこの絵が「さっきよりはマシ」になったとは思っていない。
では、なんで嘘をつくのか。
『本当なの!?』
「but……今度はシンプルにしすぎ。例えばここ……たぶん、ステッキだと思うケド、何なのかわからなくなってるヨネ? シンプルにするのは大事だけど、あくまでも読者がわかる範囲で。アンダスタン?」
『……はいなの』
「まっ、線をシンプルにってポイントは抑えられてたし、フールガールにしては早い飲み込みだったと思うワケ」
『えへへ、褒められたの』
しばらく時間が経った。
教室に差し込む日の光が少しずつ赤みを帯びてきた。
そんなとき、かりんが声を上げた。
『あっ! もうこんな時間なの!』
つられて二人のアリナが時計を確認する。
午後5時30分。
まだ下校時間にはなっていなかった。
じゃあ、なんでいきなり素っ頓狂な声を上げたのか。
疑問に思っていると、もう一人のアリナが言った。
「そういえばマジきりの再放送がどうのって言ってたっけ?」
それにかりんが反応する。
『そうなの! 今日は第42話『マジカルきりんと吸血鬼』の放送日なの! マジきりの中でも五本の指に入る感動回を見逃すわけにはいかないの!』
「ふーん、じゃあ先に帰ってヨネ。アリナはもう少し描いていくから……」
『ダメなの! この話は生きとし生けるものは全員見る義務があるの! まして私の先輩が見ないなんて許されないの!』
「ちょっと意味がわからないんですケド?」
『いいから今日は帰るの! 明日には感想も聞かせてもらうの!』
「shit……」
あれよあれよという間に、もう一人のアリナは教室の外に引っ張られていった。
その表情には台風が過ぎるのを待つ人間のような諦観と、どこかまんざらでもなさそうな色が浮かんでいた。
目を覚ます。
真っ先にアシスタントの少女の顔が目に飛び込んできた。
「あ、起きましたか、アリナ先生」
机に突っ伏していた体を起こして、時計を確認する。
指していたのは、10時。
しかし、さて、午後の方なのか、午前の方なのか。
午前なら少しまずい。
すでに学校がはじまっている時間だからだ。
別に遅刻するくらいは今さらだし、真面目に授業を受ける気もない。
しかし“良い漫画家”として一応、登校だけはするようにしているのだ。
いつも時間通り学校に通っているアシスタントがいるのだから午後な気はする。
けれど、何かの事情で彼女が学校を休んだだけということもありえる。
「午後の方です、アリナ先生」
言葉が漏れていたのか、アシスタントが答えた。
「……どのくらい寝てたワケ?」
その言葉にも、すぐに答えが返ってくる。
「1時間くらいでしょうか」
1時間。
決して短い時間ではない。
ペンを取ろうとした。
しかし、いつもペンが置いてある場所に、それがない。
別の場所を探してみても、ない。
寝ている間に落としたのかと床を探してみても、やはりない。
「……?」
どこだ。
さらに探していると、後ろから声。
「アリナ先生、あの、そこに」
アシスタントの指さす方向。
つまり最初に目をやった、いつもの場所を見る。
いつもとは数センチ違う場所にペンが転がっている。
かりんが使っていた、普通のペン。
マジかりは、これ一本で描こうと決めているペン。
「サンクス」
ペンを持って、原稿に向かう。
すると、また後ろから声。
「アリナ先生、もう少しやすん……あ、いえ、ちょっと甘い物でも用意してきます」
それを見送って、原稿にペンを当てる。
インクが紙の上に線を刻み、キャラクターに命を吹き込んでいく。
描いているのは、きりんだ。
御園かりんが崇拝していた、怪盗少女マジカルきりんの主人公。
盗作・魔法少女マジカルかりんの物語では、第三章でかりんと道を違えて、敵になっている少女。
いま、かりんは憧れと戦っている。
憧れを越えようとしている。
「……うっ」
眠い。
頭が痛む。
吐き気がしてきた。
「あっ、アリナ先生、いちごミルクでよかったですか?」
アシスタントが持ってきたそれを引ったくる。
体を襲う不快感を、それごと「チューズゾゾゾ……」と胃に流し込む。
「……」
アシスタントは何か言いたげな目で、その様子を見ている。
また1ページ、原稿が完成した。
それから、さらに数日後。
「あの、アリナ先生……アリナ先生?」
作画が一区切りついて、体を伸ばしていたとき、後ろから声をかけられた。
アリナは振り返る。
「フールガール……?」
呼びかけられた少女は、それを否定した。
「ノイジーの方です、アリナ先生」
言われて、アリナは怪訝そうに瞬きした。
ああ、たしかにそうだ。
よく見ると、髪色も、髪型も、背丈も、顔立ちも、まったく違う。
「で、なに?」
アリナが聞くと、少女は机の上の端の方を指さした。
そこにはいつの間にか、サンドイッチとイチゴミルクが置かれている。
「朝食です」
言われて時計を見る。
なるほど、7時を指している。
朝食の時間だ。
アリナはイチゴミルクに手を伸ばして、それを一気に飲み干した。
「アリナ先生、もしかして徹夜してたんですか?」
そうだっただろうか、とアリナは考えた。
どうも記憶が定かではない。
しかし描き上げた原稿が、結構な数になっていた。
どうやら、そうらしい。
「アリナ先生、あまり徹夜は……」
「それより、アナタは学校だヨネ? 行かなくていいワケ?」
「いえ、行きますけど……アリナ先生は学校、行かないんですか?」
「別にアリナは遅刻とかどうでもいいカラ。もう少しだけ描いてから行くワケ」
少女は視線を泳がせる。
それから何かを決心したように「よし」と呟いて言った。
「あの、今日は休んだらどうですか?」
「休む?」
「ですから、学校。というか、原稿も」
アリナの目がスッと鋭さを増す。
「あっ、いえ……でも、アリナ先生、いま本当にすごい顔してますよ? 魔力? っていうのでも限界があるんですよね? 完結の目処も立ったことですし、今日くらいはお休みになられたらいかがかなぁ、と……」
すこしの沈黙を挟んで、アリナは手を動かした。
「ご、ごめんなさいっ!」
少女が悲鳴に似た謝罪を叫ぶ。
アリナの手は机の上のサンドイッチを掴み、それを口に入れた。
「あ、あれ?」
困惑している少女に、アリナは言った。
「フールガールなら、完結間際は夢中になって描いてると思うんだヨネ」
「……?」
「早く描けたら、残った時間は推敲に使ってるだろうし、本来なら推敲に終わりなんてないワケ」
「……はい」
「クオリティを上げるチャンスがあるのに、休んでそれを不意にするなんて、良い漫画家とは言えないヨネ?」
「……まあ、はい」
「分かれば良いカラ……ほら、アナタの学校って宝崎だったヨネ? 早く行かないと遅刻するんじゃない?」
時計を見る。
7時15分。
すでに走って行かないと間に合わない時間だ。
「そ、それでは放課後!」
「ハイハイ」
背中を見送ると、アリナは机に向き直る。
ほどなくして、声が聞こえてきた。
『アリナ先輩!』
声の方を見る。
今度は間違いなかった。
髪色も、髪型も、背丈も、顔立ちも。
すべてあの時の姿で、御園かりんが立っていた。
「フールガール……」
いつの間にか、場所が変わっている。
慣れ親しんだ栄総合学園の美術室にいた。
窓から差し込む陽光が、教室をオレンジ色に染め上げていた。
『アリナ先輩! 漫画読んで欲しいの!』
差し出された漫画を受け取り、開いてみる。
厚さからして30ページほど。
「……」
ページをめくる音だけが美術室に響く。
アリナは漫画を読み、かりんはその様子を固唾を呑んで見守っている。
「……」
ページをめくる度、教室のオレンジ色が濃くなっていく。
下校時間が近づいてくる。
「……」
相変わらず下手な絵の、相変わらずマジきりのパクりが目立つ漫画だった。
読んでいて、懐かしい気分になれた。
『か、感想を聞かせて欲しいの……!』
読み終えて、閉じたタイミングで、かりんが言った。
期待と不安の混在した、相変わらずの表情。
いつも通りなら、アリナはこの顔に正直な感想をぶつける。
しかし、今回は違った。
「フールガール……アナタ、なんで死んだワケ?」
今回、アリナがぶつけたのは、そんな言葉だった。
「……」
かりんの表情が消える。
似合わない、能面のような表情がアリナを見返した。
その能面に、さらに言った。
「まだまだだケド、昔に比べたら絵も上手くなってきた」
「マジきりのパクりは相変わらず多いけど、オリジナリティも出てきた」
「話の作り方だって、どんどん上手くなってた」
「アナタなら、いつか『マジきり』より面白い漫画だって描けた」
日が暮れていた。
外は真っ暗で、美術室の青白い電灯が二人を照らしていた。
「なのに、なんで死んでるワケ?」
かりんは何も答えない。
能面のような表情も変わらない。
当然だ。
死人は答えない。
表情を変えるわけもない。
「……はぁ」
溜息を一つ。
アリナは椅子から立ちあがった。
そして自立している死体を、お姫様でも扱うような丁重さで抱き上げた。
美術室の椅子を並べて、簡易の寝台を作り、その上に寝かせてやった。
終わると、アリナは元の椅子に座り直す。
彼女には描かなければいけない作品がある。
ハッと気付いたとき、時計は12を指していた。
外に出て見ると、まだ明るい。
正午の12時だ。
これからまた描き始めたら、学校が終わってしまいそうだ。
かりんと通っていた学校が。
アリナは雑にスクールバックを掴むと自宅を出た。
また1ページ、原稿が描き上がっている。