「先生!」
世界史の授業が終わった後のことだ。
美術部兼漫画研究部の顧問である彼は、教室を出たところで呼び止められた。
振り返ると、そこにいたのは先ほどまで授業を受けていた生徒だった。
真面目な性格で学業優秀な生徒だ。
そして運悪く、アリナ・グレイと同じクラスになってしまった生徒だった。
「どうした?」
実のところ、要件はわかっていた。
それでも自分から触れる気にはなれず、そう聞き返した。
「アリナさんのことです」
「ああ、グレイか……」
言われて気づいた、という口調でとぼける。
だが、そんな彼の胸中は生徒もわかっているようだった。
口調を強くして詰問した。
「とぼけないでください! アリナさんのことです! 天才芸術家だか漫画家だか知りませんけど、学校は勉強をする場所です! なのに授業中に漫画なんて描いていて良いんですか!? 先生も先生です! どうしてアリナさんのことを注意しないんですか!」
生徒の言う通りだと、彼も思った。
学校は勉強をする場所だ。
とくに授業中は勉強をするための時間だ。
漫画を描いている時間ではない。
漫画を描きたいなら、休み時間か放課後にでも描くべきだ。
まったくの正論だ。
返す言葉がない。
だから彼は適当な理屈を作って、彼女の前に突き出した。
「学校は大人になってから生活していくための力を付ける場所だ。その点、グレイは芸術の道でそれだけの力を持ってる。なら、あとは自主性に任せるべき、というのが俺の考えだ」
苦しい理屈だ。
彼自身、これを立場が上の人間、例えば校長とか、教育委員会で言ってみせるような度胸は持ち合わせていない。
今のように、たった一人の生徒から批判的な目を向けられただけで怯まなくてはならない暴論だ。
「……わかりました」
生徒は明らかに不満そうな顔で教室に戻っていった。
これは信頼を失ったな、と思った。
あの生徒が今後、自分に心を開くことはないだろう。
彼は百パーセントの確信をもって思った。
「……」
だが、それでも彼はアリナに
「漫画を描くのをやめろ」
と言う気にはなれないのだった。
彼は教室に入っていく生徒の後ろ姿を見送りつつ、かりんが失踪した日のことを思い出していた。
(今日はグレイも来てないのか?)
かりん失踪の翌日のこと。
漫画研究部の部室に入った彼は、まずそう思った。
その後、相反する二つの感情が彼の胸中に浮いてきた。
一つは焦燥だ。
学校内でかりんと最も親しいのはアリナだ。
美術部兼漫画研究部の顧問として、失踪した生徒と最も親しかったアリナには話を聞かなくてはならない。
もしかしたら家に泊まるかしていて、滞在先を知っている可能性もある。
その生徒から話を聞けない焦燥。
もう一つは安堵だ。
長く教員をやってきた彼の目をもってしても、アリナはわかり難かった。
唐突に怒りを爆発させたかと思えば、急に虚無僧のような表情になったり、幼い子供のように高い声で笑ったりする。
アリナ・グレイは何をするかわからない。
そんな評判に彼は一万回でも頷いて見せるだろう。
だが一点だけ、アリナの感情を読み取れる部分があった。
かりんを気に入っている、という点だ。
アリナは周りに集中を妨げる存在があるのを好まない。
集中しているときに携帯が鳴りでもすれば、音が出なくなるまで木っ端みじんに破壊してみせる。
誰かが話しかけようものなら、命の危険を感じるような眼で睨み付けてくる。
そんなアリナが、かりんには甘いのだ。
たしかに、かりんに対しても刺々しくはあるが、他の者に向けるほど激しくはない。
自分が絵を描いていても、かりんが絵を教えてくれと言えば、面倒くさそうな顔をしつつも、ちゃんと教えている。
これが他の生徒だったら
「何でアリナが教えないといけないワケ?」
とでも言って追い払っているだろう。
要するに、気に入っているのだ。
そんなお気に入りのかりんが失踪したと伝えたら、あの激情家が何をするか。
とりあえずその危険が去った、という安堵。
アリナに連絡を取ろうとは思わなかった。
携帯に電話しても無視されるのは目に見えていたし、何より気が進まない。
「ふぅ……」
安堵と焦燥、そして疲れの混じり合ったため息を一つ漏らして、部室の適当な椅子に腰を下ろす。
ここでアリナを待とう。
用事で遅れているだけかも知れないし、来なかったときは来なかったときだ。
別段、他に急ぐ用事もない。
「さて……」
待っている間、明日の授業の準備でもしていようか。
そう考えた時だった。
フッと窓から風が入ってきた。
ん?
と、彼は思った。
風が入ってきたとき、視界の隅でエメラルドグリーンの見覚えのある物が動いた気がした。
そちらに視線をやった。
瞬間、彼の体はビクッと跳ねた。
視線を向けた先に、彼の探していた人物がいたからだ。
栄総合学園の生徒にして、天才の名を欲しいままにする芸術家。
奇矯な行動と言動で恐れられる、学校一の問題児。
そして常に圧倒的な存在感を放つ、学校一の有名人。
そんなアリナが、いた。
いや、彼の実感を言葉にするには、少し言い方を変えなくてはならない。
そんな“はず”の人物が、教室の隅に腰を下ろしていた。
「グレイ、か?」
思わず、そう問いかけた。
問いかける必要があるほど、アリナの姿が普段と違った。
この教室では常に作業に没頭していた手は、何も成すことなく垂れ下がっていた。
固く引き結ばれている口元は、白痴のようにだらしなく開いていた。
鬼気迫る表情でキャンパスと対峙していた瞳は、無気力に虚空を眺めていた。
死体。
そんな言葉が脳裏を過った。
それほど、この時のアリナからは命というものを感じ取れなかった。
「おい、グレイ!」
さっきより強めに呼びかけた。
すると、エメラルドグリーンの瞳がゆっくりと動いて、目が合った。
どうやら生きていたらしい。
安堵を覚えた彼に、アリナが短く問いを投げた。
「何の用なワケ?」
何の抑揚もない声だった。
美術部員アリナ・グレイの顧問になって数年、彼女が唐突に叫び声を上げるのにも慣れた彼ですら恐ろしくなる、本当に何もない声。
彼は思わずたじろいだ。
それでも言葉を振り絞った彼の教師としての責任感は称賛に値するだろう。
「あ、いや、実は昨日から御園が家に帰っていないらしくてな。何か知らないかと思ったんだが……」
だが、そう聞いても、やはりアリナの表情には何も浮かんでこない。
相変わらず抑揚のない答えが返ってくるだけだった。
「さあ? アリナは知らないカラ」
感情が死んでしまったような声。
目を離したら窓から飛び降りそうな眼。
それ以上、食い下がる気にはなれなかった。
「用がないなら早くどこか行ってヨネ。アナタなんかと話してるほど、アリナは暇じゃないカラ」
その日から、アリナが作品を作らなくなった。
ただ部室に来て、椅子に座って虚空を見つめ、下校時間になると帰る。
そんな日が続いた。
冬が終わり、春が過ぎても続いた。
(あの時期は一体どうなるかと思ったが……)
真面目な生徒を見送ったあと、彼はアリナたちの部室に来ていた。
部室の整理をするためだ。
アリナに片付けを任せていると、三日もすれば人前に晒せる状況ではなくなる。
整理しろと言い聞かせても、教師の言葉に従う性格ではない。
だから以前は、かりんが率先してやっていたのだが、今はもういない。
とすると、顧問である自分がやるしかない。
まずは床の掃除だ。
以前、かりんが先に机の上の整理から始めようとして、床に散乱していた画鋲を踏みつけて悲鳴を上げていた。
その二の舞を避けるためである。
それが終わると壁の掃除だ。
アリナは絵の具やらインクやらが飛び散るのを全く気にしない。
そのため、部活が終わると必ずどこかが汚れている。
日によっては何をどうしたらそうなるのか、天井にまで付着している。
一昨日などは漫画家の使うペン、いわゆるGペンが天井に突き刺さっていた。
最後に机の上の整理だ。
ここが一番気を使う。
アリナにとって必要な物と、不必要な物を見極める必要があるからだ。
もし必要な物を捨てでもしたら睨まれるくらいでは済まない。
かといって、机の上の9割を占める不要な物を放置しておけば、彼が教頭から指導される。
しかし、以前と比べたら楽だった。
前と比べて必要不必要の判別が簡単だからだ。
漫画を書く前はありとあらゆる物があり、必要不必要の判断に苦しむ物ばかりだった。
だが、漫画に集中している現在、必要なのは作画資料と定規とペンくらいだ。
(それに作画資料以外は、ペンも定規も御園が使っていた物だしな……)
かりんは物を大切にする方だった。
使っていた道具も入部時から変わっていない。
だからアリナがそれを使っているのにも、すぐに気づくことが出来た。
(どうしてわざわざかりんの道具を使っているのかは知らないが……まあ、何か意味があるんだろうな)
机の上の整理も終わった。
そろそろ次の授業の時間になる。
彼は部室を出て、再び鍵をかけようとした。
そのとき、机の上のマジかりの原稿が目に入った。
「……」
マジかりのストーリーは第三部に入っている。
第一部、かりんの周囲との交流と成長を描く「第一部・かりん編」
第二部、他の街の魔法少女との抗争を描いた「第二部・成長編」
これらの後に描かれているのが、成長編の終盤で敵対関係になってしまった先輩 魔法少女きりんとの対決が描かれる「第三部・きりん編」だ。
連載当初に載った、アリナへのインタビュー記事にある
「だいたい10巻くらいの作品になるから」
という言葉を信じるなら、この第三部こそ最終章ということになる。
ファンの間、というより日本全国、この作品がどんな最後を迎えるのかで大いに盛り上がっている。
売り上げは記録を更新した時よりもさらに伸び、止まるところを知らない。
ただ、彼はアリナの精神状態が、そんな世間の熱狂とは正反対の方向に行っていることに気づいていた。
「……」
きりん編に入った頃からアリナの様子が目に見えておかしくなっているのだ。
以前のような、エキセントリックで激しい、一種の明るさをもった方向にではない。
ただひたすら暗く、虚無的な方向に。
「……御園のためにも、どうにか完結させてくれるといいが」
彼はマジかりの原稿から視線を外すと、今度こそ部室を後にした。