じゅじゅあくたあじゅ 作:しゃんぷ〜
「まだまだ尻は青い」
「尻?!」
いったいいつ観察されたというのかしら。おそろしくなってお尻を押さえる。
対面している男の人は私を無遠慮に見下ろしていた。もしかして今この瞬間にも観察されているのかしら。
怖くて身を縮めるほかなかった。
「でも、だいじょうぶ。巌さんだっているんだ。共演するの、楽しみにしているよ。うん、いい日だなあ。おもしろい、おもしろい……」
ぶつくさぶつくさと言葉をこぼしながら、背を向け幽鬼を思わせるふらふらとした動作でどこかに消えていってしまった。あまりに不気味。まるで台風だった。
「あの人、なんなの」
ぼそりとこぼした私の声は、稽古部屋の中にみるみる萎んでいった。私はお尻を押さえた格好のままで呆然としていた。台風の通り過ぎたあとの、残り風のような心地がした。
臭くないよだいじょうぶだからねと真っ先に慰めてくれたのは七生さんだった。阿良也っていう人は独自言語を使う人なので、字面通りに臭いって意味じゃない、と。
七生さんの優しさに触れた後、亀太郎さんによる、なぁおまえってほんとに臭いのかよというセクハラ発言。もしかしてここってセクハラ人間しかいないんじゃないかしら。別の恐怖との戦いが勃発する前に、七生さんが
「亀!!こんの変態がっ!」
いったいいつの間に手に持っていたというのか、ハリセンで容赦なく頭をぶん叩いた。
怒ってくれた七生さんが頼もしくて、お姉さんってこういう感じなのかな、なんてふわふわした心地がした。七生さんはきっと、この劇団の良心。
余談だけれど、セクハラ人間の名前は阿良也というらしい。
「十三夜、っていうお話?に、私が出るの?」
「いいや、じきに公演だ。あと1ヶ月ってところか。キャストももう発表されちまってるし、そもそも発声とか基礎の基礎を積む時期だ。新米にいきなり出ろって言うのもな」
「じゃあいつ私って出られるの?」
「お前次第だ。まずはこいつらの演じるのを見てろ。準備体操には加われ。脚本も渡す。今やれるのはそれくらいだ」
巌さんから手渡された冊子をじいっと見下ろすと、薄い脚本だなとまず初めに印象抱いた。めくってみると。登場人物も五人と、とっても少なかった。
「もともとは樋口一葉の短編だ。久保田万太郎っていう一葉ファンの作家が脚本にしてからよく演じられるようになった。そいつを見ればわかるだろうが規模の小さな作品だ。美術の出来もそうだが、俳優の地力も如実に出る。怖い舞台だよ。ささいな違和感が全体を一気に陳腐にしちまう」
巌さんが持っている方の、既に書き込みが表紙にもなされた脚本が、とんとんと指で小突かれた。
簡単だけれど、それがかえって難しい。なんだかオムレツみたいだななんて思いつつ、私はそれを言わなかった。英断だわ、と内心で自画自賛してみる。なぜなら、こういう感じで話すと花子さんに少しだけ困惑されるという経験があったから。
一応言っておくと、花子さんの言動にもときおり困惑ものが潜んでいる。なるほど、他人からはこういう風に見えているんだなって俯瞰的に己を見つめ直すきっかけにもなった。
「それで私はどうすればいいの?」
「向こうで亀たちが稽古してる。今なら、そうだな体操でもしてるだろう。それに混じってこい」
はい!と返事をしようと思っていたのに、ある引っかかりが私の中に渦巻いて、別の形に口をかたどらせてしまった。もちろん、彼についてだった。
「えーっと、阿良也っていう人は、そっちにいるの?」
「安心しろ、別のやつやってるから。稽古場ももちろん別だ」
ほっと一安心。ほんとうによかった。入ってさっそくのことだけどあの人のこと、私、苦手だわ。臭いという言葉がフラッシュバックしてきて、身体をガタガタ震わせた。
「ふっ……」
え、今この人鼻で笑わなかった?巌さん、あなたいったい?まさかそっち側の人間なの?
疑心暗鬼に駆られた私は、巌さんを警戒して注意深く観察したつもりだったというのに、どこからともなく摘み上げた2つをひょいと巌さんが放ってきた。認識の外からの闖入者を受け止めるのに必死になって、疑心暗鬼を中断した。
「なにこれ?」
いま、私が胸に抱えたものは、下駄だった。
「体操が終わったら、基本的には今日は見学だ。盗めるもんを勝手に盗め。……っていうんじゃあ親切じゃないよな。今日に関しては雰囲気だけでいい。こういう練習してるんだななんて多少なりとも理解できれば万々歳。しかし見てるだけじゃあ暇だろう。そこでそいつだ」
ニヤリと笑った。蓄えられた口ヒゲがかすかに揺れていた。
「どういうこと?下駄をどうすればいいの?」
「おいおい、夜凪。下駄は履くものだ。当たり前だろう?」
茶化すような声色に、私も負けじと声を張る。
「そんなことくらい知ってるわよ!でも、下駄を履いてどうすればいいの?」
「下駄の裏、見てみろ」
「へ?」
嘘でしょう?と驚愕してしまった私は悪くないと思う。カラカラと渇いたような笑い声が響いた。石のように私は固まった。
いつだったか、ものを支えるには3つの支点を探せば可能だ、みたいなことを言いながら、河原で石を積み上げているおじさんを見たことがある。結局その人はある程度積んだあたりで石を崩してしまい、バカなとおののいていた。テレビではこう言って、次々に積み上げていたというのにと項垂れていた。
帰宅後、花子さんにそのことを話したら、じゃあ今度石でも積みにいきましょうか。なんて話になって、私もいいじゃないいいじゃないと乗り気になって、最終的に5段まで積み上げた。花子さんはもっと積み上げていて、確か9段くらい。おじさんは泣いていた。それ以降河原でおじさんの姿を見かけることはなかったけれど、元気にしてるのかしら。
なんて益体ないことを考えつつ、体操を教えてもらいながら一通りを終えて、靴を履き替えた。シューズから、一本歯下駄へと履き替える。足裏を支えるのは横一直線のみ。細く、そして高さもある。
亀太郎さんは、ときおり私をちらりと見て
「がんばれよ〜、サーカス団員!」
なんて声をかけてくる。
つらい。
私自身、バランス感覚は悪くないどころかいいくらいなのだけど、いざ一本歯の下駄を履いて立つということになると、常に襲いくる浮遊感が集中力を掻き乱した。
「んーーー!!」
喚き声でも上げてしまうくらい。
ふらふらとしては、なんとか体勢を元通りにし、またふらふらを繰り返すその様は、まさにサーカスで見られるらしいロープ渡りに似ているんじゃないかしら。
サーカス団員!なんて亀太郎さんにからかわれたところの意味合いについてようやく理解した私にとってみれば、その怒りは風船を膨らます空気のようにむむむむと頬を膨らませる。
ほんのり涙目になりつ、きっと亀太郎さんの方を睨む。睨んだ先は稽古の風景。
「私はこれで御免を願います。代はいりませんからどうかお降りなさってください」
「そんなことを言われたら困るではないですか、少し急ぎの用があるのです。お代はたんと渡しますからどうか骨を折っておくれませんか」
そんな様子を見て、たまらず私はずっこけてしまった。危ないからと前方後方に敷いてもらったマットが受け皿となって私の膝を守ってくれた。膝立ちをしたまま私は稽古の風景を見続けていた。
「おい、サボるんじゃねえ。さっさと立たねえか」
しゃがれた声が背後から聞こえた。
「あ、そうだったわ」
立ち上がるときは難儀する。生まれたての子鹿みたいにひょろひょろとして重心の安定をなぞっていくと1分ほどしてようやくだった。
「で、どうだ夜凪。うちの役者は」
壁に立てかけてあった入り口付近のパイプ椅子を引っ張ってきながらどかりと巌さんは腰を落ち着けた。
「亀太郎さん、亀太郎さんじゃないみたい」
私の言葉に頷くでもなく、巌さんは言葉を継ぐように続けた。
「アイツはダセェ役が似合うんだ」
ほうっと、ため息をついたのは私だった。口を開けばセクハラのお調子者。演じているのは見窄らしい男の姿。たったひとつの恋とも言えぬ恋を忘れることもできず、妻にも実家にも見限られ、人力車夫としてうだつの上がらぬ生活を続ける録之助。恋の相手でもあった幼馴染であり主人公でもあるお関は、いまや人妻。録之助の生き方は侘びしく、そしてあまりにもダサい。
「忘れられないことが自暴自棄にさせる。いつしか目元には卑屈な皺が寄っちまって、人相さえ覆い尽くす。声もきっと窺うようなそれだろうよ。……妻には見限られ、周囲からの非難もそれなりに浴びただろうよ。それでも、どうしようもできず後悔が消えてくれない」
横目で巌さんを見る。稽古ではなくてさらにその先を見ているような瞳をしていると思えた。それも一瞬のこと、その目が元の焦点を取り戻した。
「多少でもわかったか?」
「……うん」
足元はぐらついたままでも、ここが立つ場所なのだと、まさにこの足の裏でもって確かに理解し始めていた。
「もうこんな時間だ、帰れ」
「わわっ、ちょっと!」
追い出されるように劇場の扉から、ゴミでも投げるみたいに放り投げられた。
「台本、覚えてこいよ」
ついでに捨て台詞も一緒に投げつけられつつ、キイっと扉が閉め切られた。
「いきなりすぎない!?」
未成年だからさっさと帰れって。それはわかる。それにしても乱暴に投げられて、いったいなんなの?いい感じで巌さんと話していたと思ったのだけど。腑に落ちない。
外に出ると、風通りのいい清涼な空気が流れていた。街路樹があれば自然と虫が集まる。ざわざわざわと、羽を揺らしながら耳鳴りのような音階を暗い道路に撒き散らしている。空を見上げると、かろうじて目につく粒のように瞬く星々。
通り過ぎる電車が、虫や星々の営みを遮るように光と雑音を夜の中に沈ませつつ、それも一瞬限りのこと、次第に星や虫は勢いを再び取り戻していた。
あーあ、なんて声を、この闇の中に溶かしてみたくなる。何事かへの不満があるというわけではなかった。ただ未熟を知ったのだ。
「みんな、すごかったわ……」
体を大きく使い、観客と一つになる感覚。もちろん、練習中に観客なんていない。見学をしていた私のお話だ。
包みこむような感情の奔流に、なすすべなく流されていくような感覚が、なんだか心地よさを伴って、不思議な感覚だった。
「あんなこと、できないわ」
諦念ではない、ただ、知らなかった事実を知らされたという、ある種の感心。目を見開く。瞳にもまた、星のような光。
青田さん、もとい亀太郎さん。おもしろいだけの変、もとい変態な人だって、どこか思っていた気がする。けれど、あんな侘しさを湛えたようなお芝居をするんだ。ギャップってやつかもしれない。でも、記憶にこびりついて離れなかった。