じゅじゅあくたあじゅ   作:しゃんぷ〜

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 阿佐ヶ谷から高円寺までの距離、およそ2km。徒歩なら25分くらい、走れば15分だろうか。劇団天球は高円寺の駅からほど近く、自分の家からこんなに近くに舞台演出の巨匠が根を張っていたなんて全然知らなかった。

 

 巌裕次郎。正直、聞いたこともない人。けれどなんだかワクワクする。

 

 馬橋公園を脇目に、子どもたちのはしゃぐ声が少しずつ遠のくのを惜しみながら、通りに乱立するコンビニを無視して高円寺、さらに進んで環七通りのあたり。左手に、立派な建物がみるみる聳えてきた。

 

「ここが……!」

 

 黒々とした外観は決して威圧感を与えるようなものではなく、丸みを持たせて設計されていて、入口あたりにはザワザワと多種多様な人間の模様。巨匠というくらいだから勝手に劇場も年季の入ったものなんだろうと解釈していたけれどいい意味で裏切られた気分だった。そういえば、劇団天球自体、比較的新しく設立されたとか花子さんがくれた資料には書いてあったんだっけ。ということは劇団をたてるに際して一緒に劇場を設立したってこと。

 つまり財力。なるほど巌裕次郎、ただものではないかもしれないわね。

 

 10人くらいの列の最後尾に合流すると、財布を開けながら花子さんのことを思い返して頭が下がらないような、でもなんだかうれしいような。花子さんのあまり感情の読み取れなさそうな顔から繰り出される忌憚のない思いやりは、そう、ギャップ、というやつのせいで妙にむず痒くて、頬を緩めてしまう。

私だって花子さんに……!

 勝ち負けの問題じゃないことは承知の上でも、思いやりに関して負けたくない。

 

 列が消化されていくのを漫然と眺めつつ、スペースが空いたら詰め、空いたら詰めを繰り返して、ようやく受付にたどり着くと歳のころ18ほどの青田というネームプレートを付けた男の人が元気そうに集金していた。

 

「本日はワークショップにご参加いただきありがとうございまーす。こちらでお名前の確認と参加費を受け取らせていただいております」

「えと、夜凪景です」

 

 なんというか、少し軽薄そう?いやいや、人を見た目で判断してはいけないとお母さんにしっかり教わったはずでしょう?

 

「はい、夜凪景さんですね。ん?んーっと?夜凪さん……。あれ、名簿にないな」

 

口元にあるホクロのあたりを「青田さん」はポリポリと掻きながら、うーん?と唸る。

 

「え?!そんなはずないわ!」

「申し込まずに来ちゃったなんてことは」

「ちゃんと申し込んだはずよ!……花子さんが。ちょっと名簿見せて!」

「わわっ、ちょっ!この子すごいアグレッシブだな!」

 

 むんずと奪い取って、名簿を精査していく。

 

「夜凪、夜凪、夜凪……。あっ、あった!……申し込み者名と保護者氏名が入れ替わってるわ!」

 

 嘘でしょう花子さん。なんていう初歩的なドジ。というか、この通りなら私が花子さんの保護者だったってこと?……まぁ、それはそれで悪くないんじゃないかしら。

 いつか花子さんとルイとレイとで外食に行って食後もう出ようかってときに、伝票を私がすっとスリ取り、「今日は私が払うわ」「景さんありがとうございます」ニコリと笑う花子さん。

 早くこれになるためにも、ワークショップがんばらないと!

 

「どうしたんだ、なんか知らないけど突然燃えてきた?!」

「あ、その。参加者と保護者が逆転してるわ。12行目の保護者の欄にある夜凪景が今回の参加です」

「ああ、なるほどね。確認は……まぁ、いいか。じゃあ、お金を」

「はい、どうぞ」

「確かに。名簿の記載間違えに関しては俺の方から言っておくから。じゃあ、そのまま奥に進んでもらえれば稽古場って書いてある木札が掛かった部屋があるから、そこに」

「わかったわ」

 

 用紙にチェックを入れながら、お次の方〜、なんていう青田さんの元気な声を背中ごしに聞きつつ、まっすぐ進むと見えた稽古場。15人ほどがまばらに配置されている。

 ある人は誰かと示し合わせるでもなくおもむろに発声の練習をし始めていた。その人をチラチラと時折目で追いかけつつ乗じる人、またはそんな彼らに対して幽霊でも見たかのような引き攣った顔でおどおどと目を行き来させて萎縮する人、殻に閉じこもるみたいに持ち込んだ資料に集中する人。さまざまだった。

 なんだろう、この感じ。見覚えがあるんだけどなと頭を捻ると、そうかテスト前の教室みたいなイメージだ。花子さんも言ってたみたいに、ワークショップ内で目をかけてもらえたら入団に近づくとかそういうものも含まれているのかしら?

 

 発声とかよくわからないし、私はいいか。カバンの中から水筒を取り出して麦茶を喉に通すと、20分くらい外気に晒されて渇いた喉が潤いを取り戻していく。一つ咳払いをすれば肺から送り返された生温かく湿った空気が、洗うように口の中を元通りに流していく。

 

 腕時計を見ると、開始予定時刻2分前。前方には関係者が集まり始めて、発声の練習も止んでいく。参加者の数は20人ほどになっていた。有名な先生に師事できるなら、100人くらい集まるもんじゃないのって首を捻りつつ、こんなものなのかなとも思う。

 

 杉並、もとい杉波の白Tシャツを下に引っ張ると皺が伸びてピンとする。気合は十分。はてさて、巌裕次郎さんはいったいどの人なんだろう。前方に集う数人の、なんか関係者みたいな雰囲気を出してる人たちをじいっと見ていると、若い人、せいぜい高くて30代くらいの人しか見当たらない。

 こ、この中に巌裕次郎さんがいるの?

 巨匠という言葉に踊らされていた?悔しい。おじいちゃんだなんて誰も言ってなかったのに、勘違いしちゃったわ。とするとさっきの青田さんが巌さんだっていう可能性もあるってことかしら。いやいや、青田さんは青田さんよね。なにをおかしなこと考えてるんだ。そもそもまだ来ていないという可能性だってある。

 

 時計を見ると予定時刻に差し掛かる。部屋の入り口からさっきの受付の青田さんが戻ってきて、一瞬身構えつつ、ちょうどよく私の横を通り過ぎようとしたので

 

「ねえ、青田さん」

「ん。ああ、さっきの山野上さん」

「保護者の夜凪よ。それで、巌さんってどんな人?」

「巌さん?お、怖いか?そうだよなあ、あの人もうひどいんだぜ。平気で叩いてくるのなんの」

「えっ。体罰?」

「そ、体罰」

 

 にんまりと青田さんが笑う。

 平気で体罰してくる人ってかなりの危険人物じゃないかしら。私の中でオールバック、サングラスをかけたチンピラの姿がモクモクと煙みたいな不定形から形作られていく。タバコを吸いながら、舐めてんのか?と睨みを効かせるまでがセット。なるほど、巨匠。並一通りではいかないみたいね。

 

「ま、そんなに怖がんないでよ。それに……」

「それに?」

「お、もう始まるみたいだぜ」

 

 前を向くと、しかし関係の人の数は増えていなかった。やっぱり巌さんはあの中にいるってことかしら?

 

「えー、時折勘違いされたまま来る方がお見えになりますので、ワークショップを始める前に言っておきますが」

 

 

「申し込みページに書いてあったとおり、巌はおりませんことをご留意ください」

 

 なんですって?!

 

 周囲を見渡すと頷いてる人しかいない。そんな、花子さん。ミスが多いわよ。記名ミスに伝達ミス。……実際のところ花子さんは巌さんって人が来るかとか来ないかとか、そのあたりは言及してなくて、私が早合点しただけなんだけど。

 私の背後にいまだ立っていた青田さんは、

 

「なあ、君、巌さん来ると思ってただろ?申し込むときにちゃんと要項読んだ?」

 

 なんてイタズラな表情で見てくる。

 

「私の保護者が詳しく言ってくれなかったの」

「ああ、夜凪さんって人か。しかし山野上さん。保護者の人が申し込んでくれたのか知らないけど、要項はちゃんと読んでから来るもんだぜ?」

「ええ、ええ。青田さん。あなたが言ってることは全部正しいわ。私の注意不足ね。ちなみに、私の名前は夜凪景。挨拶代わりに今からちょっと平手打ちしてもいいかしら」

「巌さんもびっくりする暴力性だな、君。巌さんになれるんじゃないか」

「巌さんは女の人だったの?」

 

 衝撃の事実。私でも巌さんになれるってことは、つまりそういうことなんだろう。確かに裕次郎っていう芸名なだけってこともあるのか。作り上げた虚像は形を変えて、竹刀を持ったスケバンに変わった。

 

「いやなんでそうなる。発想が突飛すぎるでしょ」

「ちょっと、亀!うるさい!」

 

 前で話してた女の人、青田さんと同じくらいの歳だろうか、が青田さんに向かって大声を張り上げる。

 

「ごめんって!」

 

 まなじりを少し吊り上げて青田さんを睨んでいた女の人は、コホンと一つ咳払いをすると、ではそうですね、自己紹介から始めましょうか、と穏やかな口調に整えた。メガネの奥に見える目はキリッとしていてカッコいい。

 

「三坂七生です。では、さっそくですが、自己紹介から。一度円をつくってもらってから、順番にいきましょう」

 

 三坂さんを含めた20人ほどの人間でつくった大きな円が生まれた。私は三坂さんの対面あたり。10人目に自己紹介をする。『夜凪景です。弟のルイと妹のレイが大好きです。よろしくお願いします!』どうだろう、完璧でしょう?なんて考えていると、三坂さんは付け足すようにこう言った。

 

「自己紹介は、本当の自分の自己紹介をしてもいいですし、別の誰か、知り合いやそれこそ即興で考え出した誰かになってくれても構いません。ただし、今日のワークショップの初めから終わりまで、名乗った人間として受けていってくださいね。というわけで、仕切り直しで、私から最初からやってみましょうか」

 

「巌裕次郎だ。ここの舞台演出をしている。以上だ」

 

 三坂さんの低く抑えられた声色は、巌さんという人物の印象を幾分か私に伝えてくれた。目つきも切長だったものが老成して威厳に満ちたものになっている。おおよそ自己紹介とは言えないくらいの短さなのは本人の人柄を反映してか、参加者なら説明せずともわかるだろうということなのか、その両方か。

 女の人が老いた男性を装うということ自体、難しいと思うのに、今私の目の前には顔もわからない巌裕次郎という人間の雰囲気や質感がぼやぼやとはしつつも手の届きそうな場所に提供されていた。

 

「じゃあ、右隣から」

 

 “巌裕次郎”が顎で促しながら、両肩をぐるりと回し、あぐらをかいてその場に座り込んだ。右肘を腿に乗せて、顎をぽりぽりとかいた。私の頭の中にはひげの生えたおじさんの姿が浮かび上がってくる。

 巌さんに続いて自己紹介することになった最初の人が、おどおどと自己紹介をし出した。その人が教えてくれた名前が、本当の名前なのかどうかもわからない。幻想の巌裕次郎に萎縮して声を震わせてみせた、という演技をしたのか、実際に戸惑っているのか。それもわからない。だけど、臨場感がある。

 ゴクリと唾を飲み込む。これが、演劇……!私、今日ここに来てみてよかったかもしれない。私の自己紹介の番が来る。

 

「私は……」

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