じゅじゅあくたあじゅ 作:しゃんぷ〜
「で、全然うまくいかなかったと」
次の日の、夕餉の終わった頃。
「そうなの花子さん!」
いきなり自己紹介させられて、しかも別の誰かになりきってワークショップを受けるってとっても難しい!しかも、最後のグループワークまでそれでやり通さなくちゃいけなかくて、とても大変だった。
「自己紹介ではなんて名乗ったんです?」
「えーっとそれは……」
咄嗟に出た名前が、これだった。
「や、山野上花子ですって」
「あ。そうですか。なんで私なんでしょう」
どうしてか、素直に言うのが恥ずかしい気持ちがして、口がむにゃむにゃと柔らかくなって動かしにくくなる。
「そうだ、花子さん!保護者氏名と参加者氏名が入れ替わってたの!大変だったんだから」
「あ。参加者名が私になっていたので、私だって言ったってことですか。でも滞りなく参加できたみたいですね。何よりです」
「滞りはあったわ。青田さんって人に山野上さんってずっと揶揄われ続けたんだもの。……それはさておきね、私ワークショップに参加して気づいたの。半年も経つのにあんまり花子さんのこと知らないんだなって。だから全然うまくなりきれなくて」
映画を見ているとき、それをもとにして私の中の感情を掘り起こして、映画の中の人と同化する。言葉にしてしまえばいささか陳腐にも感じるけれど、それさえできればきっと役者になれるんだって心のどこかで思っていたような気がする。映画の先なんて簡単に手が届くんだって思い込んでいた。けれど、誰かになるってことをいざしてみようと思ったらどう動けば私は誰かに、花子さんに、なれるんだろうってわからなくなってしまった。
悲しい演技、楽しい演技、怒っている演技、喜んでいる演技。
どうして気づかなかったんだろう。
「誰かになるっていう抽象的な指示じゃ、なにも動けなかったってことですかね。ふふ、夜凪景ですって自己紹介できれば、きっとワークショップでもインパクト残せたでしょうね」
「あんまりにも動けないから青田さんにすっごく笑われちゃったわ!」
“巌さん”にも呆れられて、棒を投げられた。私に届くちょっと前くらいで失速して足元に落ちたのを見て、横から青田さんが
「本物は思いっきりぶつけてくるからな」
と、裏情報を送ってきて、やっぱり怖い人なんだと震え上がった。
結局のところ、私って演技向いてないの?!っていう衝撃の事実を目の当たりにしてワークショップは終わってしまった。涙目になっていたら青田さんに慰められたのが一番のショックだったかもしれない。
それで終わるには悔しすぎるから、次があるかはさておき対策を講じておきたい。
それに、半年くらい延ばし延ばしにしてきたし、聞いてみるなら今しかないと思った。
「ねぇ、花子さんって、どんな人?」
「……」
「ほら、前にも。無職じゃないかと思ってたら、花子さんがそんなことないから心配しないでって。歳は教えてもらったことがある。趣味は?どんなことが好き?どうしてこんなに私たちによくしてくれるの?」
「それは景さんたちのお母さんに頼まれたからで」
ううん、と首を横に振る。
「だったらお金だけ置いて、時折見に来てくれるだけでもいいじゃない?でも花子さん2日に1回は絶対に来てくれる。私はそれでうれしい、けど。花子さんはだいじょうぶなのかってことはいつも考えてるし。私は、ちゃんと、その、花子さんのことが理解したいもの……」
水面の映し出された像に、手を伸ばす。水面に触れた瞬間に像が、波に揺らいでぼやけて消えてしまう。感覚的なことだけれど、花子さんのことを知ろうと迫れば迫るほど花子さんの実体は掴めなくなってしまうんじゃないかって、恐ろしかった。
私にでさえ、花子さんが敢えて自身の情報を渡さないように努めていることくらいわかっていて、それでも花子さんのことが好きなのは、勝手に花子さんと私が鏡合わせだって思ってるから。全然知らないのに私とよく似ている、気がする人。
「花子さんは、私に教えるの、いや?」
私は花子さんのことを知りたい。花子さんは私ときっと似ているし、花子さんはやさしい人だから、教えてくれるはずだ。花子さんは、少し口元を緩めた。よかったと私は思った。これで話してくれるのだと、そう思ったから。
「イヤです」
「え」
「イヤです、話しません」
「ど、どうして?!」
「別に、私に話したくないことの一つや二つあったところでなんの支障もないでしょう。これまでだってそうやってきたじゃないですか。それで問題ないんです。だからこの話はここまでにしませんか」
「私はっ、花子さんと、もっと」
「分かり合いたい、ですか?違いますよ。あなたのお母さんに頼まれていたから来てるだけです。それ以上でもそれ以下でもありません。結局演劇で使うから私のことを知りたいだけですよね。話を聞く限り、私である必要もないと思いますけどね」
おかしい。違う、ちがうちがう。こういうふうになりたかったわけじゃなくて。
焦る気持ちをよそに、いつもぼやーっとしている花子さんの眉間に、今までみたことがないくらいにに皺が刻まれていることに気づけば、背中に冷たい汗が伝う。
「それは、そう……だけど!」
「私が氏名欄を間違えたことが根本の原因だって考えれば、ま、私を演じる対象に選ぶのはわからないでもない……か。身から出た錆ってところですか。次があるならお互いに気をつけましょうね?」
「……」
呆気にとられたまま、なにが起きたのか全然わからなくて息が詰まりそうだった。冷や汗が背筋を伝って、いったいどこを間違えたのか。踏み出すことが、そんなにいけないことだったっていうの?喉がきゅっと締め付けられるようで、目頭が熱くなった。
「今日は、もう帰りますね」
いつもよりも、2、3時間は帰るのが早い。いつもなら、もっと。遅いときはルイとレイが寝付くまで一緒にいてくれて、それで。
待って。
という声を出すことができなかった。扉が開いて、閉まって、静かになった。玄関からさっきまであった一足が消えている。トントントンと、上の階でルイとレイが跳ねる音が聞こえた。ずるりと崩れ落ちるように、私はお尻を床に下ろすといつもよりも幾分かひんやりとした冷たさに襲われた。冷や汗をかいていた背中まで床と地続きになってしまった感覚がする。上から聞こえるトントントンという音が脳に染み渡って、幻覚作用のように頭をゆさぶる。悪い夢を見ている。いっそそうあれたらいいのに。
ふっと力が抜けて、突然糸の切れてしまった人形のように仰向けに倒れてしまった。痛いっていう感情さえ浮かばない。薄暗い電灯がちかちかとどこかへ信号を送るように明滅している。二階から響く音も手伝って、世界全体が狂ってしまったと思えた。
気づけば私は、うまく呼吸ができなくなっていた。
その日の私はいつ眠ったのか思い出せなかった。起きると雨の音がしていた。午前5時。外は暗くて、街灯の明かりも普段と違って滲むようにしか届かない。手で目の下を擦ると、涙の跡が残っていて、これだけで昨日のことを確かなことだったと伝える証拠だった。もう一度眠れば完全に夢のことにしてくれる気がして、私はまた眠りについた。トントントン。断続して屋根を叩く雨音がうるさくて、涙が止まらなかった。