じゅじゅあくたあじゅ 作:しゃんぷ〜
社会人としてやっていけているのか不安なくらい、私たち家族の面倒を見てくれていた花子さんが来なくなって5日が経っていた。レイやルイに心配はかけられないから、私は朝の5時から起きて、ご飯をつくっている。
……ううん。ほんとうはあまり眠れなくて、やることもないからってだけ。こんなに早くつくっても冷めちゃうのになにをやっているんだろう。私は気づくと爪をガリガリと噛んでいた。噛み跡が残ってしまった爪を流しの水できれいにしつつ、倦怠感を覚える。
ひとまず今日の夜までの分のお味噌汁はできてしまったので、ご飯が炊けるのを待つだけになった。
棚に収納されているビデオテープ群の中から、お気に入りの作品を引っ張り出してきてデッキの中に挿入する。
この作品の、この人物に入り込もう。
それだけで簡単に気持ちを切り替えられた。
どれほどつらくたって私には映画があった。大切な人がいなくなって立ち直れそうになくても、映画は私を曖昧に溶かしてくれた。一つの感情だけを際立たせてそれ一色にしてしまえばもういつも通りだった。
Tomorrow is another day
そうして、奥底にある感情を引っ張り上げるのではなく、潜ったままその場所でとどまる。
「ふふ、もうだいじょうぶ!」
誰にともなくピースをしてみる。
スカーレット・オハラはどんなときだってたくましく立っていた。スカーレットは最後に夕焼けを背景に家を目指したけれど、私の家はこの場所にある。この世で唯一の頼りになるもの。もう朝焼けって時間じゃあなさそうだし、明日はもう今日になっている。
カーテンを引っ張ってみると、やさしく光が部屋に立ち込めてきた。ルイとレイの寝顔がくっきりと今なら目に映る。あいにく私は失っていないし、失いかけているもののことだって、家の中で考えればいい。
鏡を見てみれば、笑顔はこの前みんなに笑われたときよりもずっと自然だった。これならどこに出しても平気な笑顔だ。
目のあたりにはまだ涙の跡が残っていたけれど。
そんなときインターホンが鳴った。
「えっ?!」
鍵の開く音がして、かちゃりと、花子さんが入ってきた。急いで階段を下りると、目があった。
「……?起きてたんですか」
「あっ、花子さんおはよう!」
「……朝ご飯、つくってますね」
私を一瞥すると、さっさとご飯をつくりはじめてしまった。なんだかそれがひどくうれしくて胸の奥がじんわりと火照った。
「私も手伝う!」
夜通し映画を見て霞んでいた視界も少しずつ開けてきた。雨の音は幾分が和らいでいる。
フライパンの上に油を引きながら、背中を向けて、ぼそりと溢すように花子さん。
「目。先に顔洗ってきた方が、いいと思います」
「あ、うん。……そうね」
さっき映画を見終わったあたりでなんとなく窓から差す光に乗じて目に入ってきた、鏡の中の私を思い出す。少しだけ恥ずかしくなって、洗面台で顔を洗う。水滴は顔を撫でるようにつーっと落ちて、おとがいにつららに似た塊をつくると、しばらくして耐えきれず洗面台に落ちた。鏡に映る目の下には隈が引かれていた。
タオルで顔を拭いてから、台所に戻ると花子さんは長方形のフライパンに、ボウルでとかした卵を流すところだった。フライパンの面と接する下の方から薄黄色に固まり、固まったのを端に避け、残りの卵液を流し込む花子さんの横で、私が鍋に味噌を溶かしていると、
「そういえば、お米って……」
「お米?あっ!」
そうだ、昨晩は研ぐのを忘れちゃったから、炊飯器の予約してないん、だった。
「ごめんなさい、研ぐの忘れてて」
言い淀むと、だいじょうぶ、佐東のご飯をいくつか置いてたはずなので……と花子さんが床下収納から救世主を釣り上げた。
「じゃあこれをレンジで温めればご飯はだいじょうぶですね。早炊き設定にしてもいいかもしれませんけど、今日は、これ使っちゃいましょうか」
電子レンジにしまって、ピピっと設定。温めスタート。電子レンジの底響くような唸り声が部屋を揺らしているようだった。けれど5秒も経たないうちに花子さんは取り消しボタンを押してしまった。どうしたの?って、顔を窺い見ると、
「……景さん、あの。寝てないんでしょう?休んできていいですよ。7時45分くらいに起こします。なんでか気づきませんでしたが、いつもより随分時間が早い。まぁ、卵焼きはちょっと冷めちゃうかもしれませんけど」
時刻は7時10分だった。
「ううん。今私元気なのよ」
むん!と腕に力こぶをつくってみせて、
「ちょっと早いかもしれないけど、もうルイもレイも起きてもいい時間だもの。せっかくなら出来立てで、一緒に食べたいわよね。起こしてくる!」
階段を上った。卵焼きの甘い匂いが鼻をくすぐって、心地いい。再び電子レンジの稼働する音が聞こえ始めてくる。よたよた寝室に戻って、ビデオデッキからビデオを取り出して元の場所にしまいつつ、ルイとレイの肩を優しく揺すると、やわらかそうなまぶたがゆったりと見開かれた。
「おはよう、ルイ、レイ」
笑顔はきっと自然だった。
「じゃあ、行きましょうか」
「うん!」「はぁい!」「ええ!」
三者三様の返事。ルイは花子さんと手を繋いで、レイは私と手を繋いで、一路、馬橋公園の方向を目指した。
馬橋公園の近くに幼稚園も小学校も中学校も揃っている。
いつもは学校帰りに迎えに行ったり、時折学校の行事でどうしても迎えに行けないときには、ここ半年は、花子さんに迎えに行ってもらったりしてる。前より気を楽にできるからか、授業が終わったらいかに早く幼稚園まで走るかに命をかける必要もなくなってきた。わずかに同級生と話す時間が生まれたのはちょっと心が躍った。
でも、高校に行くと阿佐ヶ谷駅を越えて南まで大移動しなきゃいけなくて、そうなるとこれまでみたいに迎えに行ってあげられなくなっちゃうなって少しだけ心配だ。
ルイとレイは、それぞれ青色とピンク色のスモックに花の形をしたワッペンを胸につけて、私たちの腕をぶんぶんと振り回す。
「「ぶらんこ!!」」
と言ってこちらに笑いかけてくるので私も負けてられないわ!と思って
「特大ぶらんこ!」
そう叫んで、レイと繋いだままの腕の振幅を大きくした。
負けじとルイもぶんぶん腕を振り回すので、慌てる花子さん。あまりに腕が高く上がりすぎてルイの黄色の安全帽、そのつばに腕が引っかかって帽子が後ろに落ちてしまった。
それを、
「もう!しっかりしないとダメ!」
レイがさっと拾い上げて、ルイの頭に被せる。
レイはしっかりものさんだから、高校に入ってからも心配いらないかもしれない。私と同じように、口元を綻ばせている花子さん。
「ふふ」
その笑みはどうしてか、私の言えたことではないにしても、浮世離れしてみえて、この前よりも少しだけ遠くに感じた。