じゅじゅあくたあじゅ 作:しゃんぷ〜
「じゃあ、ここで」
花子さんが両の手それぞれで2人を繋ぎながら、十字路の右側を歩いていった。私は左側を選んでまっすぐに進んで、中学校の校門をくぐった。
入ってすぐに目の中に入ってくる、緑色の背の高いフェンスと野球部の朝練の掛け声。もっと遠くには陸上部が走っていて、テニス部がラケットでボールを打ったときの気の抜けたような衝撃音が混じっていた。カンと金属のバットが球を捉えた音がして、耳が引き摺り込ませるようにその音を吸収した。
眠れなかったときは、こういうことが多い。やけに音が頭の中に響いてしまう。
「ふぅ」
ようやく校舎の中に入ると安心して、というか一息つけて、途端に疲れがどっと身体中をぐるぐると駆け巡った。胸を撫で下ろすどころじゃない。そのまま地面に落ちちゃいそうだった。
頭だって真ん中あたりが地面の方まで引っ張られているような感じで、ぼんやりした思考。ちょっとフラフラするかも?
追い越していく人だかりと話し声たちが遠くに聞こえる。
靴箱で学校指定のシューズに履き替えて、3階まで上がろうと6段目に足がかかる。背後から
「あっ夜凪さんおはよう」
声をかけられた。ええっと、この声は誰だったかしら。聞き覚えがあるのに名前が出てこない。もやもやとした気持ちを発散させんと振り返ると急にガクンと膝が落ちた。
「わわっ。夜凪さん?!」
そのまま地面に吸い込まれていくようで、全身を打撲してしまった。
「わわっ、先生呼ばなきゃ!」
「だ、だいじょうぶ!立てるわ」
ちょっと右半身に違和感があるものの、歩行に支障は来さない。
「じゃあ、一応保健室行こうよ。私ついてくよ」
声をかけてくれた子は隣のクラスの今井さんって人で、以前体育のときにペアを組んだことがあるらしい。全然覚えてなくて、肩身の狭いような、居心地の悪いような気持ちになってしまう。
今井さんは、保健室まで身体を支えてくれた上に、心配の言葉とかをかけてくれたり、ごめんねって謝ってくれたりした。
なんで謝るの?今井さんは何も悪くないじゃない。ううん、私が声をかけなかったら。そんなことないわ、私声かけてもらえてうれしかったもの。でも。今井さん、もう授業始まっちゃうから早く教室に戻った方がいいわ、私はだいじょうぶ、これでも結構頑丈なの。
惜しむように保健室を去っていく今井さんに手を振りながら、保健室の先生に診てもらう。
「いい子ね」
「今井さん、あんなに心配してくれなくてもいいのにね」
「それもそうだけど、夜凪さんも。いい対応の仕方だった」
「そ、そうかしら?」
「うんうん。気遣いのできる子はいい子だよ」
褒めてもらうとなんだか照れる。
「気を遣おうとは思ってなかったんだけど」
「じゃあ根からいい子ってことかな?そういえば、夜凪さん。目の下に隈が少しあるけど、どうしたの?昨日寝られなかった?」
「……夜更かしして映画を」
「あら、悪い子だこと」
また肩の狭くなる思いがした。
「何の映画見たの?」
「えーっと。風と共に去りぬ、です」
「しっぶいねえ!明日は明日の風が吹く、だったっけ。子どもの頃に一回見たことあるなあ。昨日の夜再放送やってたんだっけ」
「家のDVDで見たんです。スカーレットがかっこいいの!」
「へえ。私もまた見てみようかしら。主人公の名前がスカーレットだったんだっけか、メモしとこう。なにぶん10年以上前だから記憶がね」
やれやれといったふうに首を振りつつ、世間話をしていたときの顔から保健室の先生の顔にキリッと切り替わった。
「……うん、それでね?足が少し腫れてるから冷やそうっていうのと、今日はここで昼まで寝ていきなさいってこと。3年の何組だったっけ?」
「C組です」
「じゃあ担任の先生には言っておくから、ほら、ここのベッドね?1人でベッドに上がれる?」
「授業休むなんて。だいじょうぶ、椅子に座ってるくらい何の問題もないわ」
「3年C組って」
先生がパラパラと引き出しから出してきた資料をめくり出した。カーテンのように伸ばされた長い髪が白衣の上でさわさわと緩く揺れていた。先生はいったい何をしているのかしらと少し不安になる。
「ほら、2限に体育入ってるじゃない?養護教諭って、体育のとき生徒が怪我するかもしれないからどの時間にどのクラスが体育やってるかの資料は手元にちゃんと置いてあるの。というわけで、休んできなさい。それに、夜凪さんさ。今井さんが運んでくれた夜凪さんの荷物の中に体操服なさそうじゃない。忘れ物でどうせ参加できないんだったら、ね?」
「は、はい……」
ニコニコとした笑顔に妙な圧を感じて背筋がすーっと冷たくなった。なんて意地悪な人なの。大元は私の不注意が原因なのはさておき。
ベッドの中に入って少し硬い枕カバーとシーツの中に身を委ねても寒気は改善されなかった。先生を覗き見るとコンロでやかんを温めていた。
「何してるの?」
「ん。なんでしょうね。そうだ、ココアって好き?」
「好き!」
「よし」
棚の中からモンドセレクション金賞をとったらしいココアを出してコップの中に粉を入れて、お湯を注ぎこむ。スプーンでこちょこちょかき混ぜられたら、ベッドに沿うように置かれてあった小さな木製の机の上に、白く湯気が立つココアが置かれた。
「ほら、ココアだよ」
「わぁ!」
先生のメガネは湯気で白く曇っていて、拭くためにメガネを外したときに見えた素顔はきれいだった。もう一度メガネをかけ直した先生が、棚の中からまた何かを取り出してきて、私にそれを渡してくれた。
「ん?体温計?」
「夜凪さん夜ふかししたんでしょ?そういうときって自律神経が乱れて熱が出るとかなんとか。どう?熱っぽいとか、寒気がするとか。覚えがあったりする?」
「そういえば……」
「それじゃ、測ってごらんなさい」
手渡された体温計をわきに挟むと、1分くらいして音が鳴って、37.6と文字が出ていたので、
「よし、夜凪さん。今日は休みだ」
学校を早退することになった。
「で、どう?保護者の人は迎えに来れる?」
「無理」
「うーん、一人で帰すのは。熱だけじゃなくて怪我もしてるからなぁ。夜凪さん、今日は保健室でずっと寝てる?」
「うん」
早退はなかったことになった。
「よし、じゃあお昼になったら起こすからね?給食はここまで持ってきてもらうから、ココアを置いた机で食べること。それじゃ、おやすみなさい」
ずずずっと、ココアを飲む、温かくて意識がとろんと溶けちゃいそうになった。
飲み終わったココアを机に置いて布団を下あごにかかるまで引き上げる。しばらくすると、まぶたが重たくて、意識も重たくて。先生がベッドの近くまで来た気配の後、流しで蛇口をひねる音がした。水がシンクを叩く音。うるさくはない。多分、コップを洗ってるんだろうなと思う。
なんだか私は泣いてしまいそうになった。微睡みの中で面影に触れ合えたような気がした。お母さんがまだ元気だった頃、ルイとレイにいないいないばあをしつつ、お母さんが流しでお皿を洗っていた。そのときに聞こえた音にそっくりだった。
やさしくカーテンが引かれる音がして、まぶた越しに感じる光が少し抑えら始める。最後に、ポンポンと頭を撫でられてから、完全にベッドは周囲からカーテンで切り離されてしまった。
家に帰ったら、もう一度「風と共に去りぬ」を見ようと思った。いいや、今度は「ローマの休日」にしよう。まなじりに溜まった涙がつーっと滑り落ちて耳を掠めるようにして枕に落ちた。