──まず始めに、これは私立
まだ日がオレンジの時間に起きた俺はパパっと支度をして焼いた食パンを食べてから家を出ていく。この時に忘れると一番ヤバいのが制服だ。ウチの高校は朝練に限ってジャージ登校可だが、故にうっかりすると制服を家に忘れる。流石に置き勉のノリで学校に制服置いてくわけにもいかないしな。
「いってきまーす……っと」
静かに玄関を開けて、駅までの十分足らずを歩く。
五月、GWも終わって一年生も部活に慣れてきた頃だ。春と夏の間の空気が俺を、そしていつもの家から駅までの十分、三駅分乗って、またそこから学校までの十分を取り囲んでいた。
「おはようございます先輩」
「うーっす」
「あ、先輩おはようございます」
「おう」
一緒の電車だったのだろう後輩女子たちの挨拶を流して歩いていく。決して人望があるわけではなく、先輩に会ったら必ず挨拶をしなければならないという部活のルールのためだ。もう一度言うが決して人望があるわけでもない。
そのまま学校前の坂を登りきり、どの学校もだいたい最上階角部屋と相場が決まっている音楽室へと階段を一段とばしで上がっていく。
「あ、お、おはようございます!」
「おはようございます!」
「おはよう、ああ準備、半までにゆっくりでいいよ」
「はい!」
扉は開いておりそこでは一年生たちが雑談をしながら準備していた。一年が早く来て準備してるのは俺らの代から変わらないことではあるけど、今はなんか騒音だなんだってご近所トラブルで厳しくなって、音出しができるのは七時半からと決まってしまった。それなのにあと一時間以上あるのにまだ準備してないのか、とか怒る気にはならん。
「わぁ、やさしーなぁセンパイ」
「先に言うことがあるだろ
「おはよーございます」
「おう」
時間まで準備室に籠もって楽器、俺の担当楽器であるチューバのメンテをしようとすると、先客がいた。基本的にはおはようございますと後輩は言ってくれるが、一人は生意気なヤツがいる。茶髪のボブのクセッ毛に丸くて大きい小動物系の瞳、低音パート二年、ユーフォニアム担当の
「他のセンパイたちは自主トレしてますよ〜?」
「他の二年もな」
「あは、めんどくさいんだ?」
「全部お前に返ってきてるからな」
小動物っぽさに小悪魔っぽい仕草、美弥はサボり常習犯でもある。去年から音出しの時間が短くなったこともあり、早めに着いたら音楽室じゃなくて第一理科室なんかで腹筋とか腹式呼吸とかの楽器を使わない基礎練、自主トレしてるんだけど、まぁめんどくさいので俺もよくサボってる。
「センパイセンパイ」
「なに」
「二人っきりだね」
「黙れ」
「えぇ〜、ひどい! 乗ってくれてもいいじゃないですか」
「黙れクソビッチ」
「更にひどーい!」
ヒトを暇つぶしに使うんじゃありません。そんなことを言ってる間に六時半を過ぎたので俺と美弥はしれっと音楽室に戻る。一年生たちは既に準備を終えており、普段授業で使うために机と椅子が教室のように並んでいたところが、机は端に置かれ、椅子が人数分ずらりと中心に向かうように並べられていた。
「白鳥、清水?」
「おはようございます部長!」
「おっす、部長」
「──また自主トレをサボったな?」
「自主トレは自主的にやるもんだろ」
「……まぁいい」
モデルのようにスラリとしたスタイルに長いポニーテールにまとめられた黒、いや日に当たる部分は茶色だから多分濃い茶髪、そして勝ち気な性格そのままのツリ目、厳しく他者を寄せ付けない言葉遣いをするは部長兼サックスパートリーダーの
「では校門前集合! ダッシュだ!」
「はい!」
声が響き渡る。朝練のメニューはとりあえず三十分程走るところから始まる。肺活量と持久力をつけるためだが、それだけなら脚を動かす必要なんてホントはないんだけど、まぁ理不尽に走らされる。グラウンドは野球部やサッカー部が使ってるからしかも外周だ。
ウチの高校は外周約800メートル。下り坂あり上り坂ありの舗装の甘いアスファルトの道路を三十分は結構な負担だ。
「しょーへー、お前、また……鬼頭さん怒らせただろ……」
「悪い、とばっちりだな」
「マジで……先輩、やってるって」
特に男子は必ず女子より二周差をつけなくてはならないという理不尽さに苦しめられる。だが鬼部長の怒りにより現在は四周差である。いつもの倍きついため終わった後は既に男子は全員バテバテだ。
吹奏楽部は文化部であり音楽系の部活なので基本的に男女差は1:9あればマシくらいの感覚だ。今年は一年に男子が入らなかったので二年に一人と三年に二人の合計三人だ。
「だ、大丈夫ですか……えっとお水いります?」
「わり、カバン中あさっていいから、取ってきて」
「はい」
三十分走ると十五分休憩、の間に楽器の準備をしてから基礎練習だ。走った後にすぐ基礎練ってマジで頭が悪いと思う。というかフツーに慣れてないと酸欠なるから。上級生はまだしも下級生なんて、未経験の子だっているから大変だ。一ヶ月とかそこらで慣れるようなメニューでもないし。
「さんきゅ……つか、
「はい」
「そっか、やっぱ中学陸上は伊達じゃねぇな」
水をパシってしまったのは一年でチューバ担当、つまり俺の直属の新入生、
中学の時は陸上の長距離選手だったものの、当時の吹奏楽部に憧れて高校生から吹部に入ってきたという子だ。そのせいかたっぷり走らされても軽やかに階段を駆け上がっていく元気がある。
「花澤さん、かわいいっすよね〜」
「お前んとこのパートリーダーもかわいいよ」
「いやっ、いやいや先輩、それはシュミ悪いって」
ちなみに二年唯一の男子、
浜崎はげんなりした顔で首を横に振る。鬼頭に苦手意識持ちすぎだろ。
「次、呼吸練習!」
「はい!」
そんな雑談をしているウチに体力が多少回復したのでそれをまた次の基礎練習で消化する。七時半からは音が出せるようになるのでスネアドラムのリズムに合わせて、決められた秒数吸って吐いてを繰り返す。慣れない状態で新入生が真面目にやりすぎるとこれでだいたいグロッキーになる。そこからもロングトーンやらの基礎練、それが終わるとだいたい八時くらい、そっから三十分までパート練習、要するにサボり放題──とはいかない。特に今年は。
「運指どんくらい覚えた?」
「あ、はい。使うって言われたやつはほとんど」
「一ヶ月でだいぶものになったね〜茜ちゃん」
「美弥、お前はあっちでサボるか教えてろ」
「は〜い」
去年の新入生は美弥もコンバス担当の二人も中学からのバリバリの経験者だったからな。先輩もいたし俺もバリバリにサボってたんだけど、今年は未経験の茜がいる上に三年で低音の金管楽器は俺しかいないときたらこうなるよな。元々真面目な男じゃないのにさらに教えている茜がストレートボブの黒髪を揺らしながら一生懸命にうなずき真面目に練習してるのを見ると余計に、罪悪感みたいなのがある。美弥くらい何も考えずに猫みてーに日向ぼっこしながら雑談してぇよ俺だって。
「ここもうちょっと滑らかに息吐いた方が──ほら」
「かなちゃん上手〜さすが全国常連〜」
「褒めすぎですよ〜」
あっちは楽しそうですね。しかも一年がめちゃくそうまいんだから楽そうだ。
ただ、茜もスポンジみたいに吸収していってくれてるから、楽しいっちゃ楽しいけど。元々体育会系で鍛えられたガッツと肺活量と体力が下地になっているから、一ヶ月で重い、きつい、音が出ないの三拍子揃ったチューバからキレイな音が出るんだからもう、天才クラスだ。
「運指ももう覚えたなら、次はリップスラーとかかな」
「え、は、はい?」
「んー基礎練の楽譜どこ行ったかな……ちょいまち」
「リップスラーって早くないですか?」
「り、りっぷすらー……?」
「ごめん、準備室だ。取ってくるから美弥……はもういねぇか。じゃあ悪いけど
「は、はい!」
美弥は既に飽きたらしくもういなくなっていた。即行サボりやめろ。ただあれで先輩ウケがよく、また無駄に上手なため怒られない。怒られるのを回避するのがうまいからタチが悪い。
同じユーフォ担当で美弥と違って真面目な
「それでね、指じゃなくてこう、息を吐きながらそれを上下させる感じで」
「な、なるほど」
「キレイにできないと音がカクカクしちゃうんだよ」
「ん──本当だ」
戻って来た時に漏れ出た会話に俺は戦慄する。あいつ──俺より教えるのうまくね? 奏はさっき美弥もチラっと言っていたけど去年まで中学夏のコンクールで全国大会常連だった強豪中学の部長として金賞を取ったらしく、無駄に上下関係重視するウチの部活の雰囲気に合わせて下級生然とはしているがマジで実力としては既に部内でも有数だと思う。
「ありがとな奏」
「いえ」
「楽譜はこんな感じ、ってもう一通り教えてもらってるか」
「はい、後は」
「これを、最初二つからちょっとずつ難しくしていくから」
「なるほど」
美弥が羨ましい部分はある。元々真面目に基礎練やら朝のパー練ガチガチにやるタイプじゃないから、サボれるもんならサボりたい。なんなら茜が覚えてくれたら俺も美弥と一緒にサボり倒そうかと思ってるレベルだ。
だけど、基礎練の楽譜にかぶりついてしかめっ面をする後輩を見ると、自分の中学時代、初心者だった頃のことを思い出して、ついつい一緒に練習してしまうのは、やっぱり俺も吹奏楽が好きなんだなと思ってしまうな。