──今日も今日とて朝練のために早起きをし、始発に近い電車に乗る。朝練でいいことと言ったら電車にほとんど人が乗ってないことくらいか。六時台でもそこそこサラリーマンが乗ってるのは、なんだか微妙な顔で見てしまいたくなる。
朝練は月を経るごとにキツさを増していく。五月なんてまだマシな方だ。ここから六月、七月とキツさは体感倍々だ。
「よっ」
「せ、先輩? あ、お、おはようございますっ!」
「うーっす、偶にこうやって早く来る先輩いるから気ぃつけろよ〜」
「は、はい!」
今日は一年が朝練準備のため理不尽に向かわされてる時間に家を出ていた。普段だったら絶対に嫌だと布団に潜るところだが、これでも三年生でパートリーダーだ。幾らだるいと思っても自主トレしたいですって言った後輩の意欲に応えるのもまた、先輩の努めだろう。
「お腹って言っても、前じゃなくて後ろ、この腰に手当てたところが膨らむの意識して」
「はい!」
「おっけ、じゃあまた4A4B──えっと四拍吸って四拍吐くのから、きつかったらすぐ止めていいよ」
「おねがいします!」
そんな頑張る後輩は茜だった。初心者で腹式呼吸がうまくできないことを指摘されていた彼女は俺に指導を求めてきたのだった。テンポは一秒間と同じ長さである60で、四拍ずつ、つまりは四秒間限界まで吸って、限界まで吐き切るという練習を繰り返す。これを十六秒、四小節を一セットとして繰り返していく。
「はぁ……はぁ……あの、先輩」
「ん?」
「まだ、私肩上がってますよね」
「今上がってるね、なんなら」
「う……」
腹式呼吸がしっかりと身につくと普段の呼吸も腹式呼吸になる。息が上がってる時に肩で息をしてる時点でダメってことだ。もちろんたった一ヶ月でなんとかなるようなものじゃないけど。
「あんまり、こうお腹の後ろが膨らむ……という感覚が、わからなくて」
「あー、んー……」
「先輩?」
「いや、これは美弥とか奏にやってもらった方がいいなぁと思って」
「なにがですか?」
単純な話、触った方がわかりやすいんだけどここで俺がかわいらしい後輩にブヘヘ、ボクのお腹触ってよなんて言ったら殴られても文句は言えない。
ちょうど一年も集まり始めてるから奏もいるだろうと思って音楽室の前に立つ。
──ただしすぐに開けることはない。
「マジで朝だるくない?」
「ホント、しかも一年で準備しろって言って、この時間練習できませんって意味わかんないし」
「上級生だからって何様?」
「体育会系のつもりかよ」
なんて愚痴が聞こえてくる。それに俺は怒ったり他の同学年に言いつけたりはしない。なにせ二年前は俺がそっち側だったんだから。その気持ちはよくわかる。わかるが俺が手伝うとなんで上級生がやってんだと怒られて顧問の機嫌によっては下手すると罰走の可能性までありえる。だから手伝いはしない。
「あ、ごめん電話、白鳥先輩からだ」
「なんだろ」
「白鳥先輩なら朝見かけたよ」
「マジ? いるってこと? はぁ、だる……」
悪いな、だるいことにいるんだわ。俺は音楽室の入り口からは死角になってる階段前まで移動した。電話に出ると話をするのに適切な距離と場所はこの階段前になる。最上階で、屋上の入り口はもう一つの階段である少しスペースが取れた場所で待っていると奏が電話に出ながら俺を見つけてびっくりした表情をした。
「も、もしもし……?」
「ふっ、はは……もしもし」
「おはようございます……」
「おう」
錯乱したせいか電話の時のやり取りをしてくる奏に少し笑ってしまう。目をパチクリとさせてからようやく状況を理解したようで、笑顔に変わった。茜がかわいい系ならば奏はちょっと美人系だ。おっとり気味だけど、身長はちょっと高めで、美弥と並ぶと美弥が後輩なのではと疑ってしまうくらい纏う空気もちょっと前まで中学生だったとは思えない。
「──というわけで、手伝ってくれ」
「はい」
「あーさんきゅ、マジ助かる」
「気にしすぎだと思いますけどね」
「まぁでも、まだ始めて一ヶ月だし」
奏は肩を竦めて音楽室に事情を説明しに戻ってから一緒に廊下を歩く。
まだたった一ヶ月だけどもうこんなにも不満噴出してるのなんとか先輩側からアプローチをかけた方がいいんだろうな。そんな愚痴をついこぼしてしまうと、奏は苦笑いで応対してくれる。
「そうですね、ケアは必要かなって思います」
「だよなぁ、うち中途半端にこれで成功してきてるから変えらんないんだよな、顧問が変わんないと絶対無理」
「そういう時のための部長なんですけどね」
「……まぁ、でも保険はいるからな」
「副部長さんですね」
「そそ」
頭でっかちでストイックすぎる鬼部長殿の補佐というかフォロー役に近いのが副部長兼クラリネットパートリーダーの
「ここ、脇腹の後ろ触ってて」
「う、うん」
「これが、普通の状態──でこれが」
「わ、すご……!」
「ふー……ってさっき
「ありがとう!」
なんとなく伝わったようだ。後は更にそれを逆に触ってもらいながら確認するのが一番いい。別にこれは本心からサボりたいわけじゃない。いやサボっていいならサボるけど、流石に一年に指導任せて先輩サボりまーすってのはな。
現状は俺がメトロノーム動かして指示するだけだからいらないっちゃいらないんだけど。そんなことを考えながら、二年三年がやってくるまでトレーニングは続けられた。
朝練が終わり、眠さ半分で授業を受け終わると、まぁ当然ながら部活動がある。といっても五月は全体練習ほとんどなくて一年の指導とか自主練に当てられる。その分五月半ばにいきなり合奏あるからそこまでにちゃんと吹けるようになってないと地獄を見ることになるんだが。
「おう、祥平」
「……先生?」
「先生な、今から帰るから、部長に鍵かけだけちゃんと言っといてくれ」
「……はい」
いや帰るからじゃなくて。何を言ってんだこのハゲ。
部活の管理って顧問がちゃんとやることじゃないのかとか思ったりするが、そういう時は副顧問に任せてるらしいので大丈夫だそうだ。その副顧問であるはずの古典の山本先生、俺らの練習見に来たこと一度たりともねーけどな。なんなら一年の教科担当じゃないから下手すると顔知らん子もいると思う。
「はぁ、だる……」
顧問がいなきゃパート練習の雰囲気なんていいわけがない。みんな高校生だもの、プロ意識なんて持って自主的に練習できる人なんて多くはない。ましてや三年は何故か他パートの見回りやらされるからな。俺はサボってるの見てもスルーするため任命されはしないのはラッキーだ。
「先輩、おつかれ様です!」
「うん、ユーフォは別で練習?」
「はい……あ、先輩! あの──朝はありがとうございました!」
「いやいや、途中俺なーんもしてなかったし」
「そんな」
「お礼なら奏にな」
ちょっと遅くなってパート練習の割当部屋に行くと、茜に頭を下げられて手を横に振る。今の茜からすれば真面目に練習を見てくれるいい先輩なのかもしれないけど、実態はサボり魔だからな。それに五十人超える部活の中でたった三人の男子なんて肩は狭くて当たり前だし、顧問にもいいように扱われるし。あのクソハゲが。
「それじゃあ、まずは基礎練のテストからかな」
「はい!」
一年は基礎練を覚えるところから始める。ロングトーン、スケール、リップスラー、タンギング、オーバートーン、名前を聞いて即座に何かを認識しなきゃいけない。先輩たちは待ってくれないし、もたついているのはほぼ確実にバレてるので後で怒られる。ちなみにパートリーダーも連帯で怒られる。
「またボヤけてる。タンギングは楽器がデカくて難しいと思うけど、だからこそ音がボヤけないように早く息を入れる」
「はい!」
タンギング、とは息を舌で切って短く鋭い音を出す練習だ。木管は相当簡単で金管は管そのものが長くなればなるほど難しくなると聞いたことがある。俺もユーフォとチューバしか知らないから詳しい話はわからないけど。まぁ一番でかいチューバなんだから最初はタンギングどころかロングトーンするだけで頭がふわふわするからな。
「ロングトーンは問題なし、スケールは完璧で、残り三つは初心者だとムズいからなぁ」
「すみません……毎日指導してもらってるのに」
「いやいや、リップスラーとかタンギングって小手先の技だし」
向上心が高いのはいいことだけど、焦っても良い結果は生まれない。まぁこの部活の雰囲気そのものが焦ってるといえばそうなんだけどさ。
「失礼します!」
「はいはい、なに?」
「準備室集合だそうです!」
「……はぁ、ごめん茜」
「い、いえ」
「五分待たせろ」
「は、はい……」
ちょっと狼狽えていたけどすぐに戻っていく。すまんな一年。ぶっちゃけ今年の何が最悪かって各パートリーダーの仲が悪いことだ。
──仲が悪いというか、なんだろうな。個々人の能力は高いんだよ。顧問曰く「当たり年」だったし、二年前は。
個々人の能力が高いが故に我が強い。我が強いが故に部の方針である全体主義に傾かないんだよ。
「奏と美弥呼び戻してくるわ」
「そ、それなら私が」
「いやいや、引き継ぎお願いする立場だから、待ってて」
「……はい」
ギスギスしてるのは一年にも二年にも波及しかねない。現に一年は愚痴が多発してるし二年は俺らのことを団体行動のできない問題児って認識してるし、これは顧問が再三言うせいで、だけど。その中で俺はなるべくこの低音パートの雰囲気を良くする方に力を注いでる。
「つーわけで、小手先の技術がまだでさ、頼むわ」
「それ拒否権ないじゃないですか〜」
「ねーよ、最悪奏に押し付けてもいいから」
「え? 美弥先輩そんなことしないですよね?」
「……しません」
「よかったぁ〜、美弥先輩、一緒に、頑張りましょうね」
「はい」
まぁユーフォパートは仲が良さそうで安心したよ。ちゃんと奏も一ヶ月で美弥の扱いに慣れたみたいだし、俺の中でのサブリーダーは奏で間違いない。
「さて……行きますか」
なんの説教か、それともまた別の要件か、俺はまるで魔王城に挑むレベリングの甘い勇者のような気分で音楽準備室の扉をノックし、失礼しますと口にした。