ヨルムンガンドに愛されて   作:賃現地

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第7話『異邦人は南アフリカより来たる』

『兄さんが死ぬその日まで、私は世界が大好きだったんだよ?』

 

 

 

――――数週間前

 

 

 

 大西洋を移動する一つの貨物タンカーがあった。

 船の船首には四脚の椅子が存在し、二脚には先客がいる。

 そして船には行き先があった。

 

 

 『南アフリカ』

 

 

 船は人を乗せて、ただ船体が軋む音を立てながら、大西洋を横断している。

 大西洋のど真ん中、人が存在しない国境なき世界にて、鎮魂の言葉が放たれた。

 

 

 

「「「「「エコーに」」」」」

「ココを護った偉大なエコー君に乾杯」

「……」

 

 

 女達の周りには私兵達がいた。

 しかし、彼女達の表情は晴れ晴れとした快晴の青空とは違い、雲がかかったような薄暗い顔と哀愁漂う雰囲気が蔓延る。主役の女は決して笑わず、残りの席に置いてある空のワイングラスを見つめ続けていた。主人の気持ちを察してか、私兵達は配置へと戻った。後に残ったのは、ワイングラスを見つめ続ける無言の女と眼鏡を掛けて空を見上げる一人の女。二人は少しの間、黙祷を捧げる。そして海風が吹いた時、言葉は動き出した。感情の(せき)を切ったのは、ワイングラスを見ていた女であった。

 

 

「ねぇ、ミナミ」

「んん? どうした。ココ」

眼鏡を掛けた女は幼い顔に似合わず、煙草に火をつけながら返答する。

 

 

「大切な人が死んだ時って、どんな表情をすればいいのかな」

「『ココ・ヘクマティアルは笑った方が良い』それが彼の遺言だったんでしょ?」

「まあ、そうだね……」

空のワイングラスから女は目を離し、快晴の空を仰いだ。

 

 

「ミナミ、私ね。本当に”世界が嫌いになっちゃった”」

「ププププ。やっと分かってくれた? 世界は増えすぎた人類が蔓延るクソのような世界だってこと」

眼鏡を掛けた女の表情は笑っていない。ただ言葉だけが悲しげに笑っていた。

 

 

「ねえ、世界を壊しちゃおっか」

「最初から壊すつもりで、私を世界中に連れ回したんでしょ?」

「フフーフ、その通り」

女達は言葉の上だけで笑った。

 

 

 表情が笑わないのは大事なモノを落として、未来に絶望したからか。

 答えは二人にしか理解できず、また他の者も近づこうとしない。

 

 

 沈黙は続く。

 静寂の中、潮風に続いて塩が混じった水が霧となり女達に吹きつけた。身体を拭くべき状況でも、二人は言葉を交わさなかった。言葉を交わすことが有意義で無い時もある。そう言いたげな様子の二人を、私兵達は心配して遠目から観察していた。

 

 

「そういえばね」

「ん~?」

 

「私の所は一人居なくなったのに、キャスパー姉さんのところには増えたらしい」

「そっか」

銀色の艶やかな髪をロングにした女は面白くなさそうに愚痴を吐露する。

 

 

 眼鏡の女は、昔に無くした物を天に探すが如く、興味がなさそうに空返事をし、煙草を吹かしていた。

 

 

 

「ちょっと、ミナミ聞いてる?」

「聞いてる、聞いてるよ~。お姉さんのとこに一人増えたんでしょ?」

「なんか同時期なのが腹立つんだよね……」

女は先程の哀しみを忘れたかのように、姉の愚痴を零し始めた。

 

 

「キャスパー姉さんムカつくんだよね、最近は一段と綺麗になったし」

「なんで?」

「男が出来たからだって。あの姉さんにだよ!? 信じられない!!」

女は冗談めかして怒っていた。だが、ココは本当に面白そうに笑った。

 

 

「ココはお姉さんのことになると面白そうに笑うよね~」

「ないなーい、ただムカつくだけ! ほら見て」

女は一枚の写真を取り出す。

 

 

 ココが取り出した写真には、アジア系の”男”が写し出されていた。

 男は誰かに感謝されているのだろうか、右手を頭の後ろに持っていき、笑いながら困っている表情を浮かべている。自然な笑顔が写真の人物をより一層引き立てるように、好印象を与えていた。

 

 

「ねぇ、見てよ。この男、トージョっていうらしいんだけ・・・」

「それ見せて」

眼鏡の女は咥えていた煙草を口から落とし、喰い気味に写真を強奪した。

 

 

「ちょっと、ミナミ!」

「……似てる」

 

 

 ミナミと呼ばれる女は、空を見つめていた時とも、彼女が大好きな蝶を追い掛ける時の表情でもない、何か得体の知れない闇に見惚れる信者の様相を呈していた。その表情は瞳に希望を溢れさせ、ほんの一筋の光が灯ったようにココを見つめた。

 

 

「ココ、この人は誰なの?」

「『東條秋彦』、キャスパー姉さんの所に入った新人だよ。SR班って秘密組織の出身者らしいけど、詳細は興味が無いからあんまり調べてない」

「へぇ・・・」

ミナミは眼鏡の奥で考えている様子であり、珍しい反応にココは興味津々だった。

 

 

「ねぇ、その男のこと知ってるの?」

「ココ」

 

 

 ミナミの目は笑っていない。

 しかし、口だけは半月を描いて笑っていた。

 

 

「へ?」

「もし、”エコー”が生きてるって言われたらどう思う?」

その質問にココは怒りを覚えたのか、冗談めかした表情を止めた。

 

 

「ミナミでも、彼への冗談だけは許さない」

「ねえ、ココ。冗談じゃないよ、私は今、サイコーで最低な気分なんだ」

 

「どういうこと?」

「私がココと初めて出会った日のことを覚えてる?」

ミナミは口から落ちた煙草を勢いよく踏みつけると、新しい煙草に火をつけた。

 

 

「覚えてる、『誰か』のお葬式だったような」

「……その人なんだけどさ、同じ名前なんだよね」

ココは驚いたようにミナミに顔を向けた。

 

 

 その顔は瞳を開いて、そんなまさかと言わんばかりの表情で彼女を見る。

 ミナミはというと「ププププ」と小刻みにリズム良く笑い続けた。

 

 

「前に話したよね? ココと友達になる前に大切な人がいたって話」

「でも、彼は死んだ。そして私達は同じ道を目指し・・・」

ココが全てを言い終わる前に、大きな笑い声が彼女の声を掻き消した。

 

 

 

「ププププ。アハッ、アハハハハハ!!!」

「ミナミ。友人として言うのは間違っているが、君の幼馴染みは死・・・」

「死んでなんかない! 私の大好きな兄さんが訓練如きで死ぬはずないんだ!!」

 

 

 ココ・ヘクマティアルは、天田 南という女の狂気を知っている。

 彼女は今の自分と同じで、大切な何かを過去に落とした。それは自分のエコーという人物と同じく、自らに深く刻まれた傷なのだと理解する。傷は古いほど、人を容易に傷つけることも、彼女は理解していた。だからこそ『世界が大嫌い』という思想が彼女達を強く結束させるのだろうと感じていた。

 

 

「兄さん、必ず会いに行くからね」

「……参った。私よりも酷い重傷者が船にいたなんて」

正気を失った友人を見てココは冷静になった。

 

 

 対面のワイングラスをココ・ヘクマティアルは見た。

 

 

 

 エコー、貴方が生きていたらなんて私は思わない。

 私は貴方の死を、より(とうと)い世界のために活用する。

 だから、あの世で会いましょう。

 笑顔が素敵な兵隊さん。

 

 

 ココは空のワイングラスにキスをした。

 女の瞳から一筋の涙が頬から滑り落ちる。

 流れ出る涙は全てを受け止める大西洋の海へと混ざって消えた。

 

 

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

 

 

――――現在

 

 

 

 キャスパー・ヘクマティアルの部下になり、『約束の夜』から早一ヶ月は過ぎようとしていた。

 

 

 

 私の名前は東條秋彦。

 キャスパーの私兵兼恋人? だと思う。

 

 

 なぜ疑問形かと問うならば、私は重い束縛を受けていたからだ。

 首には、電子ロック式のチョーカーが付けられている。

 私はこれを『首輪』と呼んだ。自らでは外せない皮肉を込めて。

 

 

「首輪……外せないんだよな」

「フフーフ♡ 当たり前だトージョ。君は僕が管理するべきだ」

突然、背中に柔らかな球体と小さな突起物が当たる感触がした。

 

 

「キャスパー、シャワーは別で入りましょうと言いましたよね?」

「でも今日は君の非番の日だし、朝からほら……イチャイチャしたいと思ったんだよ」

キャスパーが体を私に押し付け誘惑してくる。

 

 

 この程度は日常茶飯事になっている。

 全てはあの夜に身を許してしまった、私の落ち度であった。

 過去の私は今の状況を嬉しがるだろうが、今の私には贅沢過ぎた。

 

 

 今いる世界の女性は肉体的にとても依存しやすい傾向にある。

 元の私が居たであろう世界と全く違うことに最初は驚くばかりだった。

 女性達は感情や会話を好むのではなく、情欲を(この)んでいた。

 

 

「ダメです、今日は私以外のメンバーを連れて、商談に行く手筈(てはず)でしょう」

「トージョは付いてきてくれないのか?」

「非番だと言いましたよね。部下の休日を邪魔するのはよくないことですよ」

私は非情な言葉ばかりを選ぶ、なぜこのように厳しくするのか。

 

 

 それは単純な話で、一度体を許してしまうと一日の大半が行為にあてられるからだ。

 女性の性欲が強過ぎると思うかも知れないが、今の世界の女性に上限は無い。

 アンストッパブル・ガールは私の予想を超えた。だから、危険なのだ。

 

 

 特に今日みたいな商談が行われる状況においては非常に不味い。

 最悪、商談をキャンセルせざるをえない状況になることは目に見えていた。ある程度の年月を経れば、性欲を抑えることが出来るとチェキータさんから話を聞いている。しかし、愛が深いほどに女性達は自らをコントロールするのが難しくなるのだという。

 

 

「トージョー、一回だけでいいから。ほら♡ しようよ」

「ダメです」

彼女は私に自らの足を絡ませてくる。

 

 

 本当に危険だ、このままでは商談が破談する……。

 だが、ヒーローは遅れて登場するものだ。

 浴室の扉を突然、開けて入ってきたのは『我らが母』チェキータさんだった。

 

 

「ほら、キャスパー。お婿さんに迷惑を掛けちゃダメでしょ」

「チェキータさん! 離してください! 僕は今からトージョとイチャイチャするんです!!!」

「こんな嫁でごめんね、トージョ。この馬鹿、借りていくから」

「ありがとうございます、チェキータさん」

私は胸を撫で下ろした、自分のモノが半分以上勃起している。

 

 

 私も我慢の限界にあった。

 今の下半身の生理現象も私がキャスパーによく襲われる理由の一つであり、こちらの世界では当たり前ではない体の反応だった。男性は基本的に感情や言葉による性的興奮を求める。だが、私の勃起は肉体的な快楽に依存していたのである。早い話が過去の私と同じ性的反応を催すということだ。これにキャスパー(と一部の女性陣)は歓喜していた。過去の私の言葉を引用するならば『オタクに優しいギャル』というものだろう。いや、その例えは間違いか。なんにせよ私はチェキータさんの登場により助かった。

 

 

 改めて休日を幸せに過ごすため、冷たいシャワーを浴びて気持ちを切り替える。

 旅行者のような私服に茶色のロングトレンチコートを身に纏い、宿泊しているホテルを出て『いつもの場所』を目指すため、トゥクトゥク(三輪タクシー)に乗り込んだ。電話で業者を呼び、慣れ親しんだ道を行ってもらう。その当たり前が私にとって何よりの馳走だった。

 

 

 

 

 私はジャカルタのダウンタウンにあるモスク(イスラム教の礼拝所)周辺を歩いている。

 ダウンタウンは憑依後の生活において、キャスパー達以外の交流が生まれた、初めての場所であった。

 

 私はジャカルタに帰ってくる度にモスクへザカート(イスラム教における施し)をする。

 自身は熱心な宗教家ではないし、無宗教であるとも言いがたい。

 だが、そんな私でも快く受け入れてくれたのはモスク周辺の住民だった。

 

 

 インドネシアでの休日は、ほとんどをダウンタウンで過ごし、地元の人々と交流を図った。モスク周辺は人種のメッカであり、私はここで子供達とサッカーをしたり、大人達とバックギャモン(双六ゲーム)をしたりして一日を潰すことを好んでいる。そして今日も子供達と遊ぶ予定だった。

 

 

「アルス、今日も来てくれたんだね!」

「ああ、混ざってもいいかな?」

「わぁ……これがアルス? 本当に飼い犬みたい!」

「首輪すっげえだろ! この兄ちゃん飼われてるんだぜ!」

私は子供達に囲まれ、彼らの笑顔に癒やされた。

 

 

 「酷い言われようだ」私は苦笑しながら子供達の輪に入る。

 

 

 私が最初にダウンタウンを訪れた際、首輪をしていることから子供達に今のあだ名を付けられた。

 『犬』という代案もあったそうだが、犬はイスラム教において、あまり良い意味が無いため『狼』を意味する”アルス”が私のあだ名になった。私はあだ名をつけてくれた子供達に感謝した。モスクに訪れる大人達も私を最初(いぶか)しんだが、子供と打ち解ける姿を見ると自然と受け入れてくれた。今では『アルス』といえば、私と言われるほどだ。

 

 

「アルス!! 今回は何処に行ってきたの!」

「ああ、主人に連れられてネパールに行ってきたよ」

「ネパールってどこ!!!」

「山が一杯だって聞いたことある!」

「ははは、君は賢いな。それじゃあ山に住む人達の話をしようか」

私は子供達に旅のことを語るのが好きだった。

 

 

 そして、時間が経った頃。

 ふと街が騒がしいことに気づいた。

 語りを止めて、そちらに意識を向けると奥から老人が向かって歩いてくる。

 

 

「あ、アルス。異邦人の君に頼るのはなんじゃが助けてくれんか」

「なにかあったのかい、マータ。揉め事?」

マータは慌てながら私の方に縋り付いた。

 

 

 マータは私に良くしてくれるモスクを管理するお爺さんで、私とはバックギャモンを愛好する者同士であった。

 

 

「そうじゃ、娘達が変な異邦人に食って掛かっておる。このままじゃ娘が犯罪者に……」

「任せてくれ、マータ。君への恩は計り知れない」

私は子供達にお別れをした後、老人を背負ってダウンタウンを駆け走った。

 

 

「そこじゃ!」

「あぁ」

 

 

 私のような異邦人が現地の老人を背負っているなんて、ダウンタウンでは誘拐以外考えられなかったが、私は顔を知られていたので「頑張れよ!」「あっちだよ!」「うちの娘も行ってやがる! 助けてやってくれ!」と応援が街から溢れた。

 

 

 私はダウンタウンが好きだ。非日常とは違う、人々の息遣いが私へ日々の活力を与えてくれた。

 

 

 現場に辿り着くと娘達が、桃を頭に乗せたかのような色をした髪の女に絡んでいるではないか。変な女の後ろには、アフリカ系アメリカ人の男女二人がしどろもどろになっていた。ああ、不味い。観光客が何か迷惑を仕出(しで)かしたのだろうか。私は危険を予想して、安全な場所へ老人を降ろし喧騒に入った。

 

 

「アルスがあんたの恋人!? そんなわけ無いでしょ! この異邦人が!」

「私達のアルスに手を出したってこと!? 信じられない!」

「アバズレ、体で償わせてやる!」

「ププププ。途中から何を言っているのか理解出来ないんだよね~ 私、インドネシア語は知らないからさ。モコエナ君、マリーンちゃん。言葉分かるぅ?」

「ドクター・マイアミ! だからキャスパーさんにアポイントメントを取ろうって言ったんです! 貴女の予定を聞いた時、嫌な予感がすると思った!」

「どうしましょう・・・どうしましょう・・・」

私は現実から目を背けたくなった。

 

 

 目の前に居たのは、原作にもいた『ヨルムンガンド計画』の筆頭研究者。間違いなく『天田 南(ドクター・マイアミ)』であり、お連れ様は、モコエナさんとマリーンさんだった。

 それだけならまだ納得できたが、喧騒の様子が明らかにおかしい。私が恋人だの、アルスは私達のモノだの訳が分からない。一体どのような会話が行われ現在に至るのか。議論したいレベルに発展していたが、当事者が介入する以外に解決方法は無いと思ったので、私は気が進まないまま、その会話に交ざることにした。

 

 

「ええと、私が『アルス』ですが・・・?」

「おお! アルス君! 私の恋人君じゃないか! さあ、一緒に家に帰ろう!」

「アルス!? コイツと恋人なのは本当なの!? 私を裏切ったの?」

「ねぇ、アルス。やっぱり結婚相手は日本人がいいの? どうして?」

「私の踊りは素敵だって貴方言ってくれたよね? なのになんで!?」

「あわわ……」

「Mr.トージョ、突然の訪問について誠に申し訳ありません」

とりあえず話が進まないので現地住民を説得しよう。

 

 

 こうして私と娘達の会話が始まった。

 そもそも私は彼女達とそんな会話を繰り広げたことがない。

 一体何が彼女達を(たか)ぶらせたのか。

 

 

 話を聞いてみると、Dr.マイアミはどうやら彼女達に私との存在しない生活をこれでもかというほど、吹き込んだらしい。そして、最近仲良くなった彼女達が話に嫉妬して攻撃的になったのだという。私はマイアミの妄言について彼女達に弁解した。「この人とは初めて会ったし、そもそも私は君達にアプローチをした気も無かった」と述べる。娘達は最初の言葉に安心したようだが、後半の言葉にショックを受けていた。まあ、誤解は無事解消されたようでなによりだ。

 

 

 次はDr.マイアミになぜ嘘を言ったのか、聞こうとした瞬間。私の視界は”知らない過去”を一瞬だけ映しだした。幻視の光景は青年期の私と中学生頃のDr.マイアミが一緒に話しているシーンだった。

 

 

「ねぇ、兄さんはさ。将来の夢ってある?」

「特には無いけど、子供が幸せになる世界を作れる人になりたいな」

 

「っププププ。本当に単純な夢。でもその夢は果てしなく難しいよ?」

「だよな、とりあえずは人を護る職業に就くところから始めるよ」

 

 

 知らない記憶だ。

 過去の私は彼女に会ったことがあるのだろうか、頭痛は軽く継続していた。

 

 

「大丈夫、アルス?」

「えぇ、大丈夫です。ありがとうございます。ええと、マイアミさん?」

「”ミナミ”でいいよ。ア・ル・ス君」

 

 

 マイアミは私の本名を知っているはずなのに、アルスと呼んだ。

 私は万が一の可能性を考慮して、本名を名乗った。

 

 

「ミナミさん、私は東條秋――」

「知ってる」

自己紹介は食い気味に返された、それはまるで私を捉えた獣のように。

 

 

「ええと、それなら良かったです」

「っふーん。やっぱり忘れちゃったんだ、私のこと」

ミナミは不満そうに私を見つめる。彼女の瞳には希望と絶望が交差していた。

 

 

「ミナミさん、実は私、記憶喪失に近い状態でして」

「へぇ、じゃあ私のことは思い出せるのかな――兄さん?」

 

 

 

 

『兄さん』

ミナミの言葉を聞いた時、頭痛が走る。

 

 

 

 

 視野に映るのは……。

 何処だろうか、警備員が立っている門。いや、軍人だ。何処かの軍学校だろうか。

 

 

「ねえ、兄さん。本当に行ってしまうの?」

「君はもう一人で大丈夫だ。推薦した大学の人達とも上手くやっていけるさ」

「ねぇ、やっぱり怖い。私の手伝いをしてくれるだけでいいから、ずっと一緒にいて」

「ミナミ、俺も自分の道を歩まなきゃいけないんだ。すまない」

「・・・」

 

 

 私は青色の礼服を着ていた。

 時代が違えば、出兵する新兵にも見えた。

 当時のミナミは今と同じで白衣を羽織った姿だったが、眼鏡を掛けていなかった。

 彼女の顔は世界に汚されていない純粋な子供のようで、悲しげにしている姿を見ると胸が締め付けられる思いだった。

 

 

「兄さん約束して」

「何をだい?」

「必ず週一回は連絡すること。そして休暇の日は私と蝶を捕りに来て」

何とも子供らしい願いだった。

 

 当時の私は「ああ、約束する。君を一人にはしない」と答えた後に抱擁をした。彼女は飼い主に抱擁される犬のように、ただ無邪気に笑って抱きしめられていた。桜が舞い散る春の日。記憶の日に私は『何者か』になることを決めたのだ。

 

 

 

 

 頭痛と幻視に目がちらつき、頭を手で押さえる。

 幻視の状態をミナミはただ静視していた。彼女の表情に光はない。ただ私をモルモットのように観察する、一人の科学者がそこにいた。

 

 

「君に私は約束をしたのか・・・? そして私達は互いに親しい人物だった?」

「ぷ、ププププ。そっか、思い出したんだね。『兄さん』」

彼女は闇に染まった瞳を開いて嬉しそうに笑顔を見せた。

 

 

「ねえ、兄さん。なんで私を置いていったの?」

「・・・すまない。私は君を置いていったんだな」

「置いていった理由は知らないよ。けどさ、どうして私から”死んで”隠れようとしたの!!!」

ああ、痛い。また幻視が始まる。

 

 

 私は何とか体勢を崩さずに頭痛と格闘しながら、過去をまた思い出し始めた。

 

 

 

 

「……東條、君は今の段階で透明な人物になる」

「想像していたよりも遙かに辛い現実ですね」

「君もいずれ理解するだろう。人の死でさえ虚構だということがね」

私は喪服を着用していた。誰かと一緒に隠れながら葬儀を観察している。

 

 

【東條秋彦様 葬儀会場】

 

 

 そうか、自分の葬儀なんだ。

 幻視の中、私は何とも不思議な体験をしていた。私はまだ生きているというのに、見ている先の私は既に死んでいた。

 

 横で私に話しかけている人物は、日野木一佐……。では、ない!?

 

 一体誰だ、この人物は。私はヨルムンガンドという原作ですら登場していない人物を幻視した。馬鹿な、顔がボヤけている? これまで全ての人間の顔は背景の人物ですら、鮮明に視覚化されていた。私は男を直視する。だが、男がスーツを纏い、杖を突いていることぐらいしか分からない。そして、彼のことを考えるだけで身の毛がよだつ恐怖が私を襲った。

 

 

「東條、君は・・・なぜ私を置いて死んだ? どうして私にあんな約束なんかをして先に死んでしまうんだ!!!」

葬儀会場の奥から声が聞こえた。

 

 

 その声は『天田 南(ミナミ)』であった。

 

 

「トージョー!!!」

 

 

 会場の中からミナミの声が木霊(こだま)する。

 叫びは、神に裏切られた救世主のように。無慈悲なこの世界に復讐を果たすべく大蛇が動くかのように、叫びは世界を襲った。私は葬儀の日に一匹の怪物が生まれてしまったことを知った。いや、全ては私に責任があった。忘れられた記憶をようやく思い出すことが出来た。

 

 

「ハァ・・・ハァ・・・」

彼女に謝るために頭痛で困難になっていた呼吸を整えていた。

 

 

「その様子だと思い出したんだ? 兄さんは私を捨てたんだよ」

「違う、私は君と家族を巻き込まない為に一度”死ぬ”必要があった」

「SR班――だっけ。そんなどうでもいいことの為に私を捨てたんだ?」

 

 

『(違うんだ!)』

 

 

 私は二度目の否定を飲み込んだ。

 本当は真っ向から否定し、真相を話すべきだ。

 だが、弁解を述べるにしても肝心な部分が分からなかった。

 

 

 そうだ、真実が思い出せない。

 私。いや、過去の東條は一体どのような理由で自らの戸籍を偽装した?

 理由はSR班に入るためか? 本当にそれだけだとは思えなかった。

 そして、私と一緒にいた人物が不明な以上、迂闊に全てを話すことは出来なかった。

 

 

 

「ああ、SR班に入るために私は自分を捨てた」

「……。へぇ、でも今は抜けちゃったんでしょ」

「ああ、そして今はキャスパーの所で雇われている」

「(ギリッ!)」

彼女はいつの間にか咥えていた煙草を歯で噛み切った。

 

 

 ミナミは獲物を横取りされた怪物のように、残忍で執着深い瞳をしていた。

 私はミナミが、過去にいた純粋な人物とは違うことを知った。私が純粋な人物を知らぬ間に壊したのだ。そして、彼女の怒りは”私の飼い主”に向けられていることは明らかだ。ミナミは『首輪』を睨みつけていた。

 

 

「ねぇ、兄さん」

「すまない、ミナミ。私は君を欺い――」

「兄さんを狂わせた世界を私は許さない」

 

 

 ミナミは私へ徐々に近づいてくる。

 それは獲物を狙い澄ました蛇のように。

 

 

 ミナミは私より小さな体で、私を抱擁して小声で呟いた。

「だからね、一度全部壊しちゃうの。そして世界から本当の兄さんを取り戻す」

 

 

 

 彼女の一言は『私を独占するという意思表示』。

 言葉は首輪の主に対しての宣戦布告でもあった。

 

 

 

「モコー、マリーンちゃん。南アフリカに帰るよー」

彼女はいつも通りの冷静なDr.マイアミになり、従者の方へ振り返った。

 

 

「ミスター・トージョ。この度はマイアミが申し訳ありません。またいずれお会いましょう」

「すみません・・・すみません・・・Dr.マイアミにはよく言っておきますので」

従者二人組は私に一礼して、マイアミの後ろに付き添い歩いて行った。

 

 

 Dr.マイアミはジャカルタを去った。

 

 

 南アフリカから来た異邦人は、全てを伝え終えると消えた。

 私にさらなる謎と狂愛の残り香を漂わせて。

 

 

 

 南アフリカから訪問があった日は、どのようにホテルへ帰ったか覚えていない。

 私はキャスパーの部屋の前で彼女が帰ってくるのを待った。

 何処に出かけたか分からない飼い主を待つ、悲しい犬のように姿勢を低くしながら。

 

 

 キャスパーは数時間後に帰ってきた。

 彼女は(かが)んで(ちぢ)こまった私を見て抱きしめた。

 

 

 彼女の身体は血と鉛、火薬の匂いがした。

 そして「女豹に惑わされたんだね。ああ、可哀想な『喂狼(シー・ラン)』」と私に優しく語りかけた。

 

 

 その夜は出会った亡霊を忘れるように、キャスパーと激しく交わった。

 罪悪感と過去の亡霊へ犯した罪から逃れるように。

 

 

「ああ、僕のトージョ。傷ついた姿もまた綺麗だ」

窓から見える月に照らされた怪物は私に跨がる。

 

 

 罪を自覚した夜はキャスパーの求める激しい愛でさえ、女神との睦言(むつごと)のように思えた。

 

 

 

 ああ、神よ。罪深き我が身をお許しください。

 

 

 




次回予告:『チャイナタウンで朝食を』
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