白毛のミークと俺   作:BT

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第10話 物語の幕が開く

 

 ついに、この日がやってきた。

 

 競走ウマ娘たちの最初の一歩となる、メイクデビュー戦。

 場所は東京レース場、距離は芝1800メートル。

 

 今回のレースの選定は、ミークやチームメンバーの意見を聞き、決定した。

 

 正直ミークであればどの距離、バ場適性でも問題ない。

 このレースを選んだ大きな理由、それは最も開催日が早いレースだったからだ。

 

 送迎の車から降り、レース場に入る。

 

 このレース場には何度も足を運んだことはあるが、担当を持つトレーナーとしてこの場に立つのは初めてだ。

 かつてゲーム画面の向こう側で何度も見守ってきたその景色は、実際に足を踏み入れてみると、芝の香りと観客の期待が混ざり合った、ひどく重厚な熱気を含んでいた。

 

 まあ、そんなことよりも……。

 

「改めて聞きますがミーク。調子はどうかな」

 

「……ん。すごく、いい。身体が軽い、よ」

 

 私の問いかけに、ミークはいつもの淡々とした調子で答える。

 だが、その瞳には静かな闘志の火が確かに灯っている。

 

 調子が良いのは当然ともいえる。

 そうなるように調()()したからだ。

 

 脳内で『精察』を走らせるまでもない。

 今のミークは、この一ヶ月半の地獄のような……いや、彼女にとっては「夢への階段」であったトレーニングを経て、完璧に仕上がっている。

 

 そんなミークに万が一もないよう、私たちの周囲には、チーフのウラカワさんをはじめとしたサポートメンバーたちが付き添っていた。

 新人と変わらないトレーナーのデビュー戦に、何人ものスタッフが隊列を組んで歩く姿は、控えめに言っても異常だ。

 知らない者たちからすれば、重賞レースに挑む強豪チームか、あるいはどこかの名家の行進のように見えていることだろう。

 

 すれ違う他のトレーナーや関係者たちが、怪訝な、あるいは畏怖の混じった視線をこちらに投げかけてくる。

 

「……なんだ、あの集団は」「水野……例の“謹慎明け”か」「どの面下げて出てきたんだか……」「白毛のウマ娘ねぇ……ちゃんと走れるのか?」「芦毛よりも走らなさそうだな」

 

 ひそひそと囁かれる悪評や疑問の声。

 まあ、いまは好きに言わせておこう……()()()

 

 この身は罪人、再び聖域に足を踏み入れる代償としては安いものだ。

 もっとも、ミークがそれに巻き込まれてしまったことについては申し訳ないが……。

 

「……トレーナーさん」

 

 控え室へと続く廊下、ミークが視線で促した先に、彼女たちは立っていた。

 

 一人は、清楚な雰囲気を纏いながらも、その瞳に強い意志を宿した黒髪の女性。

 もう一人は、レース用の体操服に身を包み、穏やかな笑みを湛えた黒毛のウマ娘。

 

 桐生院葵。

 そして、彼女の担当ウマ娘、スウィートパルフェ。

 

 本来なら私の隣にいるはずだった『ハッピーミーク』のトレーナーと、数多のウマ娘のなかに埋もれるはずだったミークの代わりに選ばれた存在。

 私の出現というバグが生み出した、この世界の歪みの象徴。

 

 出走表に彼女たちの名を見つけたときは神を呪ったものだが……。

 あの()()()()()()()()とデビュー時期が重なるのであれば、どのみちいつかはぶつかっただろう。

 

 そう、遅いか……早いかだけ。

 

 周囲の人間やウマ娘が私たちの異様な威圧感に気圧されて道を空ける中、彼女たちだけは微塵も揺らがなかった。

 それどころか、桐生院は真っ直ぐにこちらを見据え、迷いのない足取りで歩み寄ってくる

 

 一種異様とも言える私たちの集団を前にしても、桐生院は怖気づく様子もない。

 彼女は私の目の前で止まると、初々しくも淀みのない動作で深く一礼した。

 

「はじめまして、水野トレーナー。中央トレセン学園のトレーナー、桐生院葵と申します。そしてこちらが、私の担当ウマ娘、スウィートパルフェです」

 

 丁寧な自己紹介。続けて彼女は「今日のレース、お互い全力を尽くし、頑張りましょうね」と、真っ直ぐな言葉を投げかけてきた。

 

 中央トレセン学園のトレーナーであれば、私の悪評を知らないはずがない。

 それでも一切それを表に出さず、対等な相手として接してくる。

 その振る舞いには、隠しきれない育ちの良さと、誠実さが溢れていた。

 

「……丁寧なご挨拶、痛み入ります。水野です。こちらこそ、お手柔らかにお願いしますよ……まあ、今日頑張るのも全力を尽くすのも、私たちではありませんが」

 

 私は、どこか微笑ましいものを見るような心地で、穏やかに言葉を返した。

 

「あ……そ、そうですね……」

 

 わずかに頬を赤らめる桐生院。

 彼女のような人間が「正しい世界」でミークを導くはずだったのだと思うと、改めて己の罪の重さを感じずにはいられない。

 

 一方、私たちの隣では、ミークとスウィートパルフェが無言で見つめ合っていた。

 視線が交差する。

 私はさりげなく『精察』のスイッチを入れた。

 

 スウィートパルフェ。

 

 悪くない。いや、素晴らしい仕上がりだ。

 他の出走ウマ娘たちと比べても、全体的にステータスが高い。

 

 内部の数値だけではない、桐生院がいかに情熱を持って彼女を仕上げてきたか、その努力の跡が筋肉の張り、毛艶の一本一本から伝わってくる。

 

 だが……。

 

 残念ながら、それでもミークの仕上がりには、遠く及ばない。

 

 私がこの一ヶ月半、実際に身を削りながら施してきた『調律』と、ミーク自身の血を吐くような努力。そしてサポートメンバーによる過保護なまでの管理。

 それらが積み上げた仕上がりは、この段階で一流のトレーナーが辿り着ける領域すら、遥かに超越していた。

 

「それでは、失礼いたします」

 

 挨拶を終え、桐生院はスウィートパルフェを連れて、他の参加者のもとに向かっていく。

 私たちだけではなく、全員に挨拶をしてまわっているのだろう。

 

 その背中を、ミークはただぼんやりと見送っている。

 

 ……何の興味も、抱いていない。

 

 前世で目にした「ゲーム(せかい)」で、あるいは私が壊してしまった「正しい物語」で、魂を分かち合うはずだった運命のパートナー。

 だが今のミークにとって、彼女は「すれ違った他人」と何ら変わりない存在でしかない。

 

 ミークが桐生院に向けるべきだったはずの絆を、信頼を、私は奪い、己のものにしてしまった。

 その事実が、鋭いナイフのように私の心臓を抉った。

 

「……トレーナーさん?」

 

 不意に、ミークが私の袖を引いた。

 彼女の視線は、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。

 

「ああ……すまない、なんでもないよ。さあ、行こうか。君が『伝説』になるための、最初の舞台へ」

 

 私は胸の痛みを押し込め、ミークの手を引いて歩き出した。

 この痛みさえも、私が背負い続けるべき罰なのだから。

 

 

 

 

 

 トレーナー、及び関係者専用の観戦席。

 

 コースからもっと近い最前列で眺める東京レース場は、抜けるような青空と、鮮やかに整備された芝の緑が美しいコントラストを描いていた。

 

「絶好のメイクデビュー日和ね、銀次さん」

 

 隣に立つウラカワさんが、日差しを避けるように手をかざしながら話しかけてくる。

 その表情は余裕に満ちているが、視線は鋭く、出走するウマ娘たちをチェックするため、ゲートの方に向けられていた。

 

「ええ。これ以上ないくらいですね」

 

 私は短く応え、視線をウラカワさんが見つめる方へと移した。

 

 十人のウマ娘たちが、順にゲートへと収まっていく。

 初めてのレース、その独特の緊張感に呑まれ、落ち着きなく足踏みをしたり、耳や尻尾を激しく動かしたりする娘も少なくない。

 

 だが、その中にあってハッピーミークだけは、まるで深い森の湖面のように静まり返っていた。

 

 感情の起伏が少ないという特性は、日常だけでなく勝負所での爆発力を削ぐデメリットになることもある。

 だが、この「戦いの幕開け」において、環境に左右されない冷静さは何物にも代えがたいメリットだ。

 

 彼女は今、周りの緊張に飲まれることなく、前だけを見つめている。

 

「……水野さん。あちらに」

 

 チームのスタッフの一人が、少し離れた場所に立っていた桐生院に気がついた。

 今回のレースで最も強いであろう相手の情報は、チームのメンバーには共有されている。

 

 彼女もこちらの視線に気づき、控えめに会釈を返してくる。

 

 私はスタッフを呼び寄せ、耳元で静かに告げた。

 

「よかったら一緒に観戦しないか、と聞いてきてください」

 

 スタッフは心得たように頷くと、桐生院の方へと向かう。

 その誘い方は鮮やかだった。押し付けがましさを感じさせない明るい雰囲気を作りつつも、自然な流れでこちらの席へと促していく。

 断る隙を与えない、それでいて相手に警戒心を抱かせない絶妙な距離感。

 スタッフの優秀さに軽く驚きながら見守っていると、やがて桐生院が戸惑いつつも、彼女に連れられて私の隣までやってきた。

 

「あ……お誘いいただき、ありがとうございます、水野トレーナー」

 

「いえ。今日という日を、同じ立場の者同士で見守りたいと思いましてね」

 

 ウマ娘たちがゲートに吸い込まれていく光景を眺めながら、私たちは静かに言葉を交わした。

 

「四番のあの子、パドックでの気配を見る限り、序盤から前を狙いそうですね」

 

「ええ。スタミナには不安がありそうですが、マイルであればそこそこのペースで逃げ粘ることもできるかもしれません」

 

 桐生院は手元の出走表に細かく書き込まれたメモに視線を落としながら、熱心に分析を口にする。

 彼女の予想は的確だった。おそらく、過去の選抜試験の記録などを徹底的に洗い出したのだろう。そのひたむきな姿勢は、かつての私がゲームのデータと睨めっこしていた姿にどこか重なり、胸の奥がチクリと痛む。

 

「……水野トレーナー。今だからお教えしますが、実はパルフェは、今回『追い込み』で作戦を組んでいるんです」

 

 ふとした沈黙の間、桐生院が意を決したようにそう切り出した。

 1800mという距離は、追い込みが全能力を発揮するにはやや短い。コーナーの出口で後方に沈んでいれば、そのまま直線で届かずに終わるリスクも高い、博打に近い選択だ。

 

「1800mで追い込み……なかなか勇気のある決断をされましたね」

 

「はい、パルフェの性格と希望もあって……ですが、あの子の末脚なら、どんな絶望的な位置からでもすべてを抜き去ることができる。そう信じているんです」

 

 彼女の声には、迷いがなかった。

 

 担当ウマ娘の可能性を、一片の疑いもなく肯定する強さ。

 それは、かつて私がトレセン学園の門をくぐるときに抱いていたものと、同じ類いのものだ。

 

「……そうですか」

 

 私は眩しいものを見るように目を細める。

 実際眩しかった。

 私のような、ことわり(システム)を弄り、肉体を書き換え、無理やり勝利を掴み取らせる道を歩み始めた男には、もう二度と手に入らない輝きがそこにはあった。

 

「ところで、ミークさんの作戦は……?」

 

 桐生院が、探るような、けれど純粋な興味を込めて私に問いかけてくる。

 私がその問いに答えようと唇を開いた、その瞬間。

 

『――各ウマ娘、ゲートイン完了しました』

 

 場内に厳かなアナウンスが響き渡った。

 観客のざわめきがピタリと止み、数万人の視線が一点へと集中する。

 

「答えは、すぐにわかりますよ」

 

 私は答える代わりに、視線をゲートへと向けた。

 十人のウマ娘たちが、鋼鉄の檻の中で、今か今かと解放の時を待っている。

 

 心の中で、ゲートを真剣に見つめる隣に立つ女性(登場人物)に遅すぎた助言を送る。

 

 桐生院トレーナー。

 

 あなたは担当ウマ娘を勝たせたいのなら、今日、このレースに出すべきではなかった、と。

 

 ――やがて、その時が訪れる。

 

 それまでざわめいていた大観衆が、一瞬にして静まり返る。

 重苦しいほどの沈黙、ウマ娘たちが地面を掻く微かな音さえ聞こえてきそうな、濃密な静寂。

 

 私は、周囲にいる何千、何万という観客たちを思う。

 彼らはまだ、知らない。

 

 今から始まるこの数分間のレースが、どれほど特別な意味を持つのかを。

 

 今日この場所で、一つの物語(シナリオ)が幕を開ける。

 

 その最初の目撃者になれることが、後年になってどれほど幸運なことだったと語り継がれるのか、今の彼らには想像すらできないだろう。

 

 ガシャン、と心臓を貫くような金属音が響いた。

 

 一斉にゲートが開き、芝を踏みしめ、ウマ娘たちが飛び出す。

 

「……ッ!」

 

 隣で桐生院が、そして会場全体が息を呑んだのを感じる。

 

 ゲートから飛び出したウマ娘たちの先頭を、弾丸のような加速で奪う存在。

 太陽の光を全身に浴びて、誰よりも白く、誰よりも鋭く輝く閃光が走る。

 

 白毛のウマ娘、ハッピーミーク。

 

 彼女の伝説が、今、始まった。

 

 

 

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