身に覚えのない「妻」と「娘」を名乗る不審バの狭間に 作:しゃちくらげ
気持ちが悪い。
どうしようもなく気持ちが悪くて、寒くて。
薄暗い。
水の中にいるようだ。
体は死体にでもなったように動かないし、ただ漠然と気持ちが悪いということだけが分かる。
何かがぬるりと引き抜かれたような気がした。
それでさえ呆然と受け入れるがまま。
何が起きたのかも分からない。頭がまるで働かない。
体も動かないし、一体何がどうなっているのか、さっぱり理解が追いつかない。
深い眠りから覚めたような、寝ているところを起こされたような。不思議で不快な感覚だけがそこにあった。
からから、という軽い音が遠くで響いている。
幾分か遠くではあるが、随分とまあ騒がしい。
一体何が起きたのだろうか、と起きあがろうとして、体が動かないことを思い出し、諦めて力を抜く。
「……が戻……た」
人の声も聞こえる。
窓でも開けたまま眠ってしまっただろうか。
窓を閉めなければ、と思うものの、とにかく、眠い。
軽い揺れが、まるで電車の振動のように眠りを誘ってくるように思えて仕方がない。
こういう時は、抗わずに眠ってしまうほうが良いのだろうと思うが、異常なまでの眠気にむしろ恐怖心さえ覚える。
ああ、困った。起きなければ。
着替えて、朝ご飯を作って……。
きっと、腹を……空かせ……
起きなければ、とは思いつつも、もう一度ゆっくりと沈むように。
私は眠りに落ちていく。
幸福な二度寝に落ちていくように。
微睡んでいたような気がした。
急速に意識が浮上したような、何かに急かされるように、ぱちりと目が覚めた。
目に真っ白な光が飛び込んできて、あまりの眩しさに顔を顰める。
「う……」
ぼんやりと暈けた世界に酷く光が反射したように、真っ白に飛んでしまったそれから逃れるように目を強く閉じる。
眩しさ、というよりは痛みさえを感じてしまう。
強いストロボを間近に直視してしまったように、ぼんやりと赤みがかった残光が瞼に焼き付いて離れない。
まるで目を焼かれてすごすごと地中に戻る鼴だ。
慌てて目を擦ろうとして、何故だかうまく動かないことに気がついた。
そういえばこんな事が過去にもあった。
確か、去年か一昨年ぐらいに、高熱を出して動けなくなった時がそうだった。
まともに身動きもできず、高熱と脱水症状で死にかけているところを、遊びに来た同期が不審がって見に来てくれたおかげで事なきを得た事があった。
その時も、確か目が覚めた時はこんなふうに……。
おや?
何か慣れない感触が手に伝わってきた。
ふに、と。柔らかく、暖かい感触。
それでいて細いそれが、絡みつくように。
「かひゅっ」
驚いて声を上げようとして、掠れたような無様な声が喉から発せられた。
これはいよいよもって不味いかもしれない。
寒気はないし、体調自体も違和感が強かったりを除けば痛いところもだるいところもないのが不思議だ。
「お目覚めは如何かね、君」
横合いから掛けられた声。
恐る恐る目を開いていく。
先程まであれほど劇物じみた痛みを齎していた光は、いつの間にか柔らかくなっている。
ぼんやりと、ゆっくりと目の焦点が合っていく。
ゆっくりと描き出されていくのは、特徴的な輪郭。
ぴょこんと飛び出した菱形が二つ、上に乗っかったその姿。
時間を掛けて、ようやく目が機能を取り戻していく。
それにつれて、徐々に輪郭が、細部が鮮明に像を結んでいく。
やや濃い色をした癖のある栗毛の、ウマ娘だった。
どうもやや不敵にと言えばいいのか、にやにやと口の端を歪め、しかしどこか心配そうにこちらを覗き込む姿は、ウマ娘に他ならない。
しかし、何故?
思わず、ある程度自由を取り戻した目を酷使して周辺を見渡すが、どれもこれも、見慣れないものばかり。
体調不良を拗らせて病院にでも運ばれたのだろうか。
その割に、体調自体は良好というか、どこにも痛みはない。
身じろぎしようとして、妙に体が重いことに気がついたぐらいだろうか。
だが、それでも暈けた視界といまいち言うことを聞いてくれない体は、明確に異常を訴えているように思えた。
焦っていた、と言ってもいいだろう。
だからこうやって、考えなしに言葉を発するのだ。
「……え? どなたですか?」と。
細められていた深い赤色の瞳が大きく開かれたのを見て、私は何かしらの失敗を悟った。
ぱたり、と水滴が手の甲に落ちる。
それと同時に、よほど驚いたのか胸元まで上げられたその手。細く白魚のような指に、細い指輪が嵌っているが目に留まった。
どこかぼんやりと「ウマ娘はいくつになっても若々しくていいなあ」と思った。
そして。
「えーっ!?」
大きな声が、私の鼓膜を酷く殴打したのだった。
『身に覚えのない「妻」と「娘」を名乗る不審バの狭間に』
第一話:「お目覚めは如何かね」
息抜きシリーズ。