身に覚えのない「妻」と「娘」を名乗る不審バの狭間に   作:しゃちくらげ

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「美味しいねぇ」

 

 

 

 

「そういえば先ほどきみは、一体いくら稼いでいるのか、と言っていたね」

 

アグネスデジタルさんの勢いに押されて、というかあの奇行を前情報なしに直視してしまったがために、現実を理解することを一旦諦めて紅茶を啜っていたところで、タキオンが口を開いた。

 

「ん……ああ、そういえば」

 

記憶がないという状態、というのは自分が知る限りでは極めて珍しいケースにあたる。

もちろん、フィクションの類を除けば、という但し書きは付くが。

 

頭部の外傷はまだ残っているが、幸いにして身体的には日常生活を送る上で何の問題もない状態ではある。

しかし、致命的なまでに「私」として生活を続けていくことは難しい。

脳に外傷も無ければ、日常動作が困難になるような機能障害もなく、ただ記憶が吹き飛んでいると言う状態だ。

どうやって生計を立てていたのかすら知らない状態というのは、正直恐ろしい。

 

その場しのぎに保険金などは使えるのだろうか、とも考えたが、生命保険というのはそこまでをカバーしてくれるものだっただろうか。

……確か高次脳機能障害で保険が下りるかどうかについてはよく裁判になっていたと思うのだが。

 

「ま、安心してくれたまえ。我が家は圧倒的に黒字財政だよ。私が仕事をしているだけでも相当余裕があるからねぇ」

 

ふんす、と得意げな顔をしてタキオンが言う。

思わず周囲を見渡すが、見るからに高い家だ。

大きな高級マンション、その最上階にあるペントハウスともなれば、数千万どころか億に届いていてもおかしくはない。

そんな家をキャッシュで買ったとでも言うのだろうか。

 

「こんなところに住んでるのに? ここ相当高いよね?」

「君は妙なところを気にするねえ……まあ、そうもなるか。ふぅン……どこから話したものかな」

 

ティーカップをソーサーに戻して、言葉を選ぶように考える彼女。

 

「そうだね、ではまず君の現状……いや、少し前の話からしよーーー」

 

物憂げな横顔。

それでいて、どこか楽しそうに口の端を歪めて。

 

思わず目が奪われて。

 

瞬間、机の上に彼女が置いていた携帯が震え、どこかで聴いたメロディが流れ出す。

十年以上の時が経っているが、携帯の外観にはあまり変化がないことには安心したところだが、穏やかな空気の中突然響いたその音に、少しばかり心臓が跳ねた。

 

「……おや」

 

携帯を手に、ちらりとこちらに視線が向けられた。

流石に誰からかまでは見ていないし、見るつもりもないが、許可を求めるように視線を向けられたので頷いて促す。

 

「どうぞ」

「ふぅン、無粋な職場だねぇ……。少し待っていてくれたまえ」

 

するりと携帯を手に取って、タキオンはリビングを出て行こうとして。

ふと何かを思い出したように、リビングのドアを開いたまま振り返る。

 

「ああ、すまないが少し長くなりそうだ。暫く席を外すから、寛いでいると良い。小腹が空いたなら冷蔵庫に……あー、少なくとも食べられるものは入っている」

 

「分かった。こちらのことは気にしないで」

「それじゃあ、良い子で待っていたまえ」

 

そんなことを言って、彼女はリビングを出て行った。

少なくとも、という言葉が妙に引っかかるが。

 

ぱたん、とドアを閉じる音を境に、途端に静まり返るリビングに一人。

残された私の心臓は、少しばかり緊張したように存在を主張する。

きっと、携帯の音に驚いただけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「戻ったよ。話の途中ですまなかったね」

 

しばらくして。

やれやれ、と疲れた様子で戻ってきたタキオンは、少しばかり申し訳なさそうにそんなことを言った。

 

しばらく、と言うには随分と長い時間が経過していたが、わざわざそのことに文句を言うつもりもない。

彼女に時間を割かせてしまっているのは重々承知しているのだから。

こちらとしても、微妙なこの空き時間に頭と気持ちの整理に費やせたことは助かったことだし。

携帯がなかったし、テレビを付ける気にもならなかったので、情報収集に関しては全く捗らなかったが。

 

「いや、職場からなんでしょ?私のことで迷惑もかけてしまったんだろうし、構わないよ」

 

実際、平日であるにも関わらず朝から私の退院に付き合っていたり、先日も私を探しに来てくれていたことを考えると、仕事の面でも相当に迷惑を掛けてしまっている事は想像に難しくない。

 

自分の在籍していた、ないし在籍している職場も含め、方々に迷惑を掛け通しなんだろうな、と胃が痛む。

私の主観ではまだ就職前だった筈なのだが、どうしてこんなことになってしまったのか。

深い溜息を吐きそうになり、慌てて口元を抑える。

 

その様子に気づいたのか、若干苦笑しながらタキオンが再び、隣にぽすんと腰掛けた。

また、しゅるりと背中に尻尾が回される感触がした。

 

「それは助かるよ。……しかし、君はそろそろ他に心配すべきところがあるだろう?」

「え?」

 

心配すべきところが、と言われても。

何もかも全てがその対象に入っていて、そんなことを言われてもぱっと思いつかないのだが。

 

「何を不思議そうにしているんだい。君の妻の食事を用意する義務が君にはあるんだよ?」

「……えぇと、食事?」

「ああ。そろそろ夕飯の時間だろう?」

「……私が?」

「他に誰がいるんだい?よもや君、私が料理出来るなどと思っていないだろうね?」

「……えーと、そうなの?」

「では、あれを見たまえよ、君」

 

ふんす、とドヤ顔をして、何やらアイランドキッチンの方を差すタキオン。

べちべち、と栗色の尻尾が私の背中を叩いていた。

 

「……何?」

「あそこにミキサーがあるだろう」

「あるね」

 

 

 

 

 

 

 

「あれが私の調理器具だ。いいかい。野菜も果物も穀物も全部あそこに入れて」

「作らさせていただきます」

 

 

 

 

 

 

「お待たせ……冷蔵庫の中の物適当に使っちゃったけど良いの?」

「君が選んで買った食材だからねぇ。何も気にすることはないさ」

 

結局。

またしても「はーやーくー」と手をぺちぺちと叩いて催促された結果、夕飯を作らされた私だが、何故だか悪い気はしなかった。

 

何故か。

流し台に、ちょっとこれはご家庭の食卓に乗ってはいけないのではないか、と思われる色をしたペースト状の何かの残骸が、グラスにへばりつくようにして若干見えていたからである。

 

あれは本気だったらしい。

 

いくら彼女が作ってくれると言ったとしても、あんなものを出されては流石に精神衛生上大変宜しくない。

生ごみを入れる密閉型のゴミ箱を開いた時、ゴミ出しだけはしていたらしいが、おそらく今朝か昨晩の分であろう何か見てはならないパッケージを見つけてしまいそっと閉じた。

 

刺身のパックが入っていたんだが。

よもやそれもミキサーに掛けていないだろうな。

 

そう信じたいが、残念なことに醤油を入れた小皿もなければパッケージに醤油が付いているわけでもなく。

もしかすると、彼女は生活能力が皆無なのではないか、と疑念が鎌首を擡げ始めている。

 

一方、冷蔵庫にはまだ辛うじて消費期限の残された食材類が入っていた。

明らかにタキオンが使ったと思しき雑に突っ込まれた半分になった野菜…特に、にんじんや大根が乱雑に半分ほどでへし折られている姿は哀愁を誘う。せめて刃物を使ってほしい。

 

……これらを見ていると、もしかして彼女は相当に生活能力が低く、私が普段から食事を用意していたのでは、と疑念が確信に変わりつつあった。

幸いにして学生時分というか、つい最近まで一人暮らしで自炊していたため、料理はできた。

これで料理などの生活関連の記憶まで吹き飛んでいたらと思うとゾッとする。

あのミキサーの出番が増えていたことだろう。勘弁して欲しい。

 

そんなわけで。

どうにかありあわせの食材で夕飯を拵え、今に至ったと言うわけである。

 

「ふぅン……いやはや、病み上がりで随分とまあ手の込んだものを作るんだねえ君は」

「手の……込んだ……?」

 

にこにこ、と嬉しそうにしてもらえるのは大変に有難いことだが、精々が焼き魚と味噌汁に、タキオンの様子から炊飯器で悠長に炊いている時間はなさそうだったのでレトルトご飯を添えた程度である。

 

欠食児童か。

いや、そうさせたのは私なのだろうな。

 

「それでは頂こうじゃないか。君の料理の腕がどうなっているか……」

 

にこにこ、がいつの間にか試すようなにまにまとした笑みに変わっている。

若干恐ろしく感じながら、自分で作った味噌汁に口を付ける。

 

……美味しい。

一人暮らしをしていた頃はスーパーで一番安い味噌に、安い豆腐で作っていたものだが。

冷蔵庫においてあったのが結構良い味噌だったらしい。出汁は小分けに詰められたパックのものを放り込んだだけだったが、案外よく出来ていた。

 

しかし問題はタキオンのお眼鏡に叶うかどうか、だ。

キッチンが異様なまでに使いやすかったので、恐らくは私が作っていたのだろうと言う予想は付くが……そうであれば余計に、味が変わってしまっていることだろう。

 

がっかりさせないと良いが、と思い。

伺うように視線を上げた先で。

 

 

 

箸を咥えたタキオンがぽろぽろと涙を零していた。

 

「……美味しいねぇ、君のご飯は」

 

嬉しそうに涙を零す彼女の表情は、とても複雑なそれで。

頬を伝う雫は、どこか美しく見えた。

私に出来ることは、そっと視線を外すことだけだった。

 

 

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