身に覚えのない「妻」と「娘」を名乗る不審バの狭間に 作:しゃちくらげ
目が覚めた、と認識する瞬間というのはいつだって名残惜しい。
暖かい湯の中を揺蕩うように、いつまでも微睡んでいたかった。
閉じた瞼の向こう側が明るい、と感じて目を開けば、飛び込んでくるのは眩い光。
思わず、布団を引き上げてこの邪魔者を追い払いたくなってしまう。
滲む光に目を細め、ぼんやりと眺めていれば、ゆったりと意識の焦点が定まってくる。
薄く薄く、陽の光が差し込み、何のつもりかちょうど私の目元を照らすようにカーテンの隙間をするりと抜けてきたそれを有り難くも鬱陶しいなどと、
頭が無事に働き始めたようで何より、と他人事のように考えを巡らせながら、ふと思い出した。
今、何時だろうか。
身体をぐいと持ち上げ、枕元の時計を確認しようと手を彷徨わせ、そしてそれがそこにないことに気がついた。
おや。
おかしいな、落としたかなと未だ重たい瞼を瞬かせて、何気なく動かした手にふわりと触れるものがあった。
「んう……」
思わずびくりと手が止まる。
同時に、覚醒していたつもりになっていた思考が一気にクリアに動き出すのを感じた。
「………………ああ」
そうか。
そうだった。
差し込み、そして散乱していく光りが緩やかに、緩やかにその像を結んでゆく。
栗色のふわふわとした髪。
ちょっとばかり癖のあるそれ。
思わず固まってしまった。
見惚れていたと言い換えても、まぁこの際構うまい。
カーテンの隙間から差し込んだ、眠りを妨げる忌まわしい光の帯がゆっくりと動いていくのを、どれほどの時間、見つめていたのだろうか。
栗色のそれが陽光に透かされ、ゆっくりと時間を掛けて動いていく。
こんな男が隣に居るというのに、完全に信頼しきったかのような無防備な寝顔。
どうしよう、というような間抜けな感想さえ紡ぐことができない。
止まった時間の中を、ただ穏やかで、優しい陽光だけがゆっくりと動いていく。
ごそ、と彼女が胸の前で抱え込むようにしていたその腕が伸びてきて、意図せずして触れてしまった私の指を絡めとった。
細く嫋やかで、少し力を入れれば簡単に折れてしまいそうだとさえ思った。
「ん……」
私の手を取って、顔の前まで持っていく。
すり、と頬を寄せて満足げに微笑んだ。
皮肉げで、不敵な表情は形を潜め、ただ安心した子供のように、穏やかに。
きっと私は幸せだったのだろう。
それからどれほどの時間が経ったのだろうか。
ぴくり、と睫毛が震えて、そしてゆっくりと瞼が開かれていく瞬間は、まるで睡眠から覚醒を迎える瞬間のように名残惜しくて、もう少しだけこのままで、と手を伸ばしたくなってしまうほどには魅惑的な誘いだった。
ベッドの中で、お互いに指を絡ませて、目を合わせて。
ただそれだけのことが、なぜだろうか。酷く安心感を私に与えてくれていた。
しかしこういうものは往々にして、一度覚めてしまえば後はどんどん鮮明になってしまうものだ。
「おはよう、トレーナーくん」
何故だろう。
ただそれだけの朝の挨拶が、どこか不思議で。
「……おはよう、タキオン」
それでも。私たちは、なんとなく笑ってしまったのだった。
しばらくして。
朝のルーティーンだよと言うタキオンの軽いストレッチを手伝って、お互いに寝巻きから着替えると私は朝食を作る羽目になった。
仕方なしに冷蔵庫や冷凍庫を開き、中身を改めて物色する。
昨日も感じたが、随分と良い食材を買っている。
上京してきた一人暮らしの学生……だった頃の感覚からすると、肉などのパックに付いているラベルはそもそも手に取る以前に近寄る事さえない類のものだった。
肉や魚の類はどうやらタキオンが冷凍庫に放り込んだらしく、随分とまあ雑然とした様相ではあったが。
結局、どうやらホームベーカリーで焼き過ぎて冷凍に放り込んでいたらしいパンを引っ張り出し、なんとか(おそらく甘党であると言うことは判明しているため)フレンチトーストやスクランブルエッグなどをこさえていく。
卵が消費期限を迎える前で助かった。
料理を進めていると、着替えて洗顔などを済ませたらしいタキオンが戻ってきて、キッチンカウンターに凭れ掛かる。
顔を洗って目が覚めたのか、寝起きの柔らかい表情はすっかりとなりを潜めていたが、機嫌よさそうに尻尾が揺れるのが見えた。
「いい香りだねぇ。食欲が刺激されるよ」
「もう少し待ってね」
「ああ、食事には必ず紅茶を添えてくれたまえよ」
「紅茶ねえ……」
昨日は自分で淹れていたが、どうやら彼女は紅茶がお好みらしい。
「それで、今日はどうするんだ?」
昨日に引き続き、またも同じソファーに並んで腰掛けて。
食後の紅茶を楽しんでいるところで、少々焦れたように聞いてしまう。
よく考えるもなにも、私の現状は「右も左も分からない状態」に近い。
呑気に食後の紅茶を楽しむことができるだけの状態ではあるが、記憶がないならないなりに早めに社会復帰をしておきたいし、未だに娘の存在は謎のままだ。
「そうだねえ。言った通り、一度職場に顔を出しておきたいところだね。君の記憶喪失も含め、説明しなければならないことが多すぎる」
「……それもそうだね」
それはそうだろう。夫が事故で記憶が吹っ飛びました、などと職場に伝えれば、普通は頭がおかしくなったのではと疑う程にはとんでもない事態なのだから。
記憶喪失が発覚した、というか私が意識を取り戻したのが数日前の事だから、家族はともかく職場への連絡などは難儀することだろう。
などと。
自分の事であるのは重々承知しているものの、なんとなしにどこか他人事のような気でぼんやりしていたが、タキオンの言葉で急激に現実に引き戻された。
「だからまあ、君も同行してもらうよ」
「え?」
「職場が同じなんだ。ついでに方々と挨拶なりしておいた方がいいだろう?」
「それはまあ、確かにそうなんだけど……」
それはそうだ。
それはそうなのだが。
「新入社員感覚なんだけど、どうしたらいいんだろうか、私は」
「何、いきなり職場復帰して最高のパフォーマンスを叩き出せとは言わないさ。君はただ無事である様子を見せて、今後についてちょっと相談するだけでいい」
そう言うものなのだろうか。
正直なところ、社会人経験を送ってきた記憶が丁度まるまるすべて飛んでいる状態なので、どこへ行っても緊張感で吐きかねない。
入社式に向けて日々高まっていく緊張感を思い出し、胃がきりきりと締め付けられるような感覚に、思わず顔に出ていたのだろう。
タキオンは軽い調子で口を開く。
「そのあたりはまあ、理事長の反応次第だが……まぁ彼女が君を見捨てるようなことはあるまいよ。安心していい。……ごちそうさまでした。さて、そろそろ家を出る支度を始めようか」
車のハンドルを握るのは久しぶりだった。
だがそれ以上に何が恐ろしいって、世間一般的に言っても明らかな高級車が出てきてしまったことである。
一応四人乗りであるあたりに子供の存在を感じるが、しかし随分といい車をまぁ……。
手渡されたキーを見た時点で色々と察してはいたが。
ぶつけた場合に果たして私の知る経済規模での請求書になるのだろうかと、考えるだに恐ろしく、教習所でもここまでやるまいとばかりの安全運転に徹していると、タキオンが笑う。
「随分と安全運転になったねえ」
「あいにく、免許証はともかく心情的には教習所出たてなんだ」
「それはそれは。ぶつけようが構わないが、人を轢くのだけは勘弁してくれよ?」
「轢かないよ。こんなに緊張して運転するのも初めてだし、しばらくこの車を運転しなきゃいけないと思うと胃が痛い……」
「しかしまさかカーナビに頼る羽目になるとはねえ」
「仕方ないでしょ、家からトレセン学園への道がわからないんだから」
「あっはっはっは、それにきみ、手が震えているぞ?」
からからと愉し気に笑うタキオンに揶揄われながら、カーナビの指示する通りに車を転がしていく。
遠目に、トレセン学園の関係車両出入口が見えてきていた。
もう目の前に見えてきているそこにたどり着く前に、加速度的に痛む胃が取れてしまいやしないかと、明後日の心配をしながら右足を踏み込んだ。