身に覚えのない「妻」と「娘」を名乗る不審バの狭間に 作:しゃちくらげ
そろりそろりと。
身の丈に合っていないとしか思えない車を職員用と書かれたエリアに滑り込ませたはいいが、バック駐車にしばしの時間を要した。
しばし、所の騒ぎではない。
仮にこつんといっただけでどうなるか分からないのだ。
なにせ、タキオンの車だけならまだしも、周囲に駐車されている車も軒並み高級車ばかりである。
何故か時折、スペース一台分を使って使い込まれた原付バイクが停まっているところもあるにはあるが、むしろこんなところに停まっている原付バイクなど逆に恐ろしくて近寄りたくもない。
私がそろりそろりとハンドルを切り、教習所でもここまで安全運転するまいとばかりの神経質な運転を余儀なくされている間、タキオンは実に楽しそうに、にやにやと人の悪い笑みを浮かべていた。
無事に駐車が完了し車から息も絶え絶えで降りたところ、「軽くぶつけたぐらいなら私の小遣いでもどうにでも直せるからねえ」などと笑っている。
小遣い。
……小遣い?
「……お小遣いの額を聞きたくないな」
「おやおや、しかしきみも私と同じくお小遣い制だぞ? 少し落ち着いたあたりで渡すから、覚悟はしておきたまえよ」
「五千円ぐらいでいいよもう……」
「それはいけないよ、きみ。娘のお小遣いよりも低くては大黒柱としての沽券に関わるだろう?」
そんなことを真顔で言われても。
彼女の意外な一面を垣間見たような気がした。
「……娘のお小遣いは?」
「5万円程度かねえ」
……5万円?
娘の年齢はわからないが、それは随分と渡しすぎなのではないだろうか。
自分の時は高校生の頃に5千円程度だったし、つい最近……もとい、その後は就職するまでアルバイトで賄っていたものだった。
それでも5万円も自由に使えるお金はなかったように思う。
「小市民には遠い世界だ」
「あっはっは、ウマ娘にかかる食費から考えれば普通程度だとも」
思わず遠い目をして呟く私に、タキオンは楽しそうに笑う。
そしてここに来て、ようやくまた娘に関する情報が出てきていた。
どうやらウマ娘であることに間違いはないらしい。
「なるほど、蹄鉄とか案外するんだよね、消耗品だし」
「現役の頃は擦り減ったかも分からないうちに取り換えていたきみが言うと、なんだか不思議なものがあるけれどねえ」
どうやら私は、案外過保護なトレーナーだったのかもしれない。
「さて、じゃあちょっと遠回りして行こうか」
ばたん、と車のドアを案外勢いよく閉めながら、タキオンが言った。
高級車だというのに容赦がない。
「遠回り?」
「ここからだと少し遠いけれど、見ておきたいだろう?」
「……?」
「察しが微妙に悪いところは変わらないねえ……ここは職員用の駐車場だよ、トレセン学園の。でもきみ、こっちなんかよりも見たいものがあるだろう?」
「……あ、正門のこと?」
「そうとも。私にとっては久々だけれど、きみにとっては正式な職員として、初めて門をくぐるのだからねえ」
そうか。
そういえば、そうだ。
私の職場はトレセン学園で、トレーナーとして活動していたという。
しかし私は入社式にさえ出る前……からの記憶を失っている状態で、今の私からすれば初出勤に近しい状態。
「………ありがとう」
彼女の仕事も知らない状態だというのに、わざわざ私の職場まで事情を説明しに付いてきてくれる彼女には頭が上がらない。
「どういたしまして。それじゃあ、行くとしよう」
少し歩くよ、とタキオンは言った。
確かに道のりにして15分ほどだったか。
遠いというほどでもないが、さりとて近いとも言えない微妙な距離。
職員用の出入り口から伸びている遊歩道を、二人で歩いて行く。
整備された遊歩道の両脇には桜が植えられていて、ちらほらと舞う花びらは美しい。
いわゆる学校案内のようなパンフレットは穴が開くほど見ていたし、やたらと充実していた学園制作のVTRなども延々と見たものだ。それに、実習としてここに短期間だが通っていたこともあったが、その頃は周りを見ている余裕など一切無かった。
だから、学園内にこんなスポットがあるとは思わなかった。
ふわり、ふわりと舞い落ちてきた花びらが、タキオンの頭に軟着陸をした。
「タキオン、ちょっと」
「うん?なんだい?」
「頭に、花びらがついてるよ」
それがなんだかとても可愛らしくて、美しくて。
「おや……ふぅン。きみが取ってくれるかい?」
「……うん」
その花びらをつまみ上げるのに、随分と躊躇してしまったりしてしまう。
なんとなく、ちょっと緊張したように目を閉じたタキオンに少し何かどぎまぎとしたものを感じたりもしながら、指先で薄桃色の花弁を摘み上げる。
「取れたよ」
「うん」
ぱちり、と目が合って。
なんとなく視線が彷徨って、桜の木を見上げる。
はらり、はらりと、時折緩く吹き抜ける風に誘われるように落ちてくるそれらを、ぼんやりと。
幻想的というには些か大袈裟だけれど、どこまでもゆったりと時間が引き伸ばされていくような気がして。
手のひらに載せた薄い花弁は重さを感じさせない。
まるで自分のようだ。
まだ彼女が用意してくれた穏やかな時間の中にあって、モラトリアムを与えられている。
どのみち逃げることなど叶わないはずの「現実」に向き合うまで。
他愛のないやりとりを交わしながら、ゆっくりと歩いていく。
時折私の足元を見たり、ちらちらとタキオンの視線が向いているのは知っている。
死にかけたぐらいなので、心配してくれていたのだろう。
そうして、いつの間にかトレセン学園の正門に辿り着いていた。
これまで、通ったことが無いわけではない。
あくまで受験というか、ライセンス試験の受験と、精々が内定者研修が時折あった程度。
故に、こうして正職員といての立場で正門を潜る、ということは、初めての経験のような気がして、どうにも心が弾む。
どきどきと、少しばかり鼓動が激しくなって、頬が緊張で熱くなってくる。
タキオンは、そんな私の姿を見ても笑わないでくれていた。
一歩、踏み出して。
「……どうだい、トレセン学園のトレーナーとしてここを潜った感想は」
「……感慨深い、と言えばいいのかな」
敷居を跨いで、トレセン学園へ足を踏み入れて。
きっとこれまで、十年以上の月日をここで過ごしてきたのだろうけれど。
それでも、この一歩だけは、なんだか特別なことのように思えた。
それでも、私たちはそれを振り返ることはしなかった。