身に覚えのない「妻」と「娘」を名乗る不審バの狭間に   作:しゃちくらげ

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「また顔を見にくるよ」

 

 

奥様。奥様?

突然告げられた単語に思わず動揺してしまったが、そもそも私は結婚はおろかこれから就職しようと言うところなのだが。

 

「あはは嫌だな看護師さん、私は独身で――」

 

「……何を言っているんだい、君は?」

 

ぱたぱた、と腕を振って否定しようとしたところ、先ほどから誰かさっぱりわからないウマ娘がぬるりと顔を近づけてきた。

私の方がまだ若干背は高いものの、それでもえぐりこむように下から見上げられると心臓に悪い。

 

「何を、言っているんだい、君は?よもや看護師に発情してコナを掛けようなどと随分と元気じゃないかい」

 

「あはは、それでは私は失礼しますね」

 

そんな事を言って看護師の方は部屋から出て行ってしまった。

それ自体は構わないが、このどこの誰かもわからないウマ娘をそのままにするのは何とかしてほしいと思うのだが。

 

「私を前にいい度胸じゃないか。記憶が混濁しているからといって、よくもまあ……」

 

しかも、先程から胸ぐらを掴まれているし、耳も後ろへ引き絞られている。

正直、ウマ娘は誰も彼も概ね顔立ちが整っていると聞いていたが、こうして間近で見るとそれを痛感してしまう。

 

「いいかい、記憶がまだ混乱しているとは聞いている……が……待て」

 

激昂していたウマ娘が、突然耳の位置を元に戻し、徐々に垂れてきている。

何かに思い当たった様子ではあるが、一体何事なのだろうか。

 

「………君、今日が何月何日かわかるか?」

 

「4月16日って聞いたけど」

 

「何年だ」

 

「ええと……………年、だよね?」

 

そう答えた。

そして、その言葉への反応は実に劇的としか言いようのないものだった。

瞳が大きく開いていく。

泰然とした態度から、余裕の色が消えた。

 

「……君、落ち着いて聞くといい」

 

 

 

 

 

 

―――()()()()1()0()()()()()だ。カレンダーを見てみたまえ。

 

 

 

 

 

 

 

「……は?」

 

彼女に言われて見た、壁掛けのカレンダーには確かに、「知っている日」から10年以上が裕に過ぎ去ったような日付を示していた。

 

「え……何で……」

 

「記憶の混濁……いや、一時的な物で済めば良いが、これは……ある種の記憶喪失か?」

 

彼女の呟いた声が、妙に耳に突き刺さった。

 

「ど、どういうことですか!? 10年後……一体、何が起きたんですか?」

 

「わからない。だがしかし、君は今記憶が混乱していると言うことだけは解った」

 

取り乱す私を他所に、彼女はツカツカとベッドへ歩み寄ると、ナースコールを押し込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

錯乱した私を看護師たちが取り押さえ、ベッドに押し込んでいく。

その後いくつかの検査を経て、一つの事実が判明した。

 

結論から言おう。

私の記憶は、10年以上の期間が欠落しているようだった。

 

そして同時に発覚した、とても大変な事項があった。

それが最も私の平静を奪い去っていた。

 

「私はアグネスタキオン。君と結婚している……いわゆる妻というやつだね」

 

そう言って、左薬指に嵌った指輪を見せてくるアグネスタキオンさん。

 

呆然としてしまう。

妙に甲斐甲斐しく接してくると思っていた見知らぬウマ娘が、私の妻なのだと言う。

まず、どうやってこの美人で若いウマ娘を奥さんにしたのか。記憶のない10年で一体何が起きていたのか、それがさっぱりわからない。

 

「……ま、それだけ「そういうものだ」と理解してくれればいい。君にとっては寝耳に水かもしれないが、私にとってもそれは同じだ」

 

口の端が少し上がった、どこか猫を彷彿とするような表情で彼女はあっけらかんと言う。

それがどこか寂しそうにも見えて、いよいよ自分自身が何者なのか、良くわからなくなってきてしまう。

 

「明日はMRI検査だそうだ。脳に異常があってはいけないからね、改めて一度しっかり検査してもらってくるといい」

 

「あ、はい……」

 

関係性が知らされたところで、こちらからすれば「妻を名乗る不審バ」に近い。

彼女と私……私だった者が積み上げてきたその信頼関係を、思い出を私は思い出すこともできないでいた。

 

「そう申し訳なさそうな顔をしなくてもいいよ、君」

 

「いや、しかし……」

 

「再検査で脳に損傷が見つからなければ、ショック性による一時的な記憶の混乱ということだろう。そうなれば、いずれ記憶は戻るさ。ともかく、私はそろそろ行くが……また顔を見にくるよ」

 

彼女はそう言って、後ろ手にヒラヒラと手を振って病室を後にした。

 

 

 

 

 

啜り泣くような声が、壁越しに聞こえたような気がした。

 

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