身に覚えのない「妻」と「娘」を名乗る不審バの狭間に 作:しゃちくらげ
病院へ連れ戻されてから、数日が経った。
頭に外傷を負って昏睡し、入院した人間が目を覚ました翌日に病院を脱走し、ずぶ濡れになって連れ戻される。
そんな奇行に走っておいて何だが、幸いにして頭の傷が悪化することもなく、精々が「記憶障害で錯乱したかわいそうな人」と言う目で見られる程度であった。
実際、相当錯乱していた事は間違いない。
結果として病室からの出入りを厳重に管理されるようになってしまったが、何日か大人しくしているうちに、ようやく退院が許される運びとなった。
退院が決まると、そこからは早いものだった。
翌朝。
私は、一人にしては広い個室の中をうろうろと歩き回っていた。
退院。退院か。
荷物を取りまとめ始めようとして、はたと気づいた。
荷物を取りまとめるも何も、患者衣で外に出るしかなかった程度には室内に何もなかった、と。
つまり、着替えすらない。
実家に連絡しようかと考え、フロアに備え付けられているロビーの電話ブースへ向かう。
実家の番号を入力して―――
―――もし、実家の両親が亡くなっていたら?
と、そう考えてしまった。
十年、というのは要するに、そう言う事でさえ起きていてもおかしくないほどの時間……だと思っている。
受話器を上げることが出来ないまま、動きが止まる。
またしても思考の迷宮に陥ろうとしていたまさにその時、背後から声を掛けられた。
「おや? こんなところで何をやっているんだい、君」
振り返れば、ここ数日でよく見かけるウマ娘がそこにいた。
「アグネスタキオン……さん」
「タキオン、で構わないよ。ウマ娘の名前は呼びづらいだろう?」
やれやれ、と肩を竦められてしまう。
どうにもウマ娘の名前は呼び慣れないな、と思っていたのでありがたい話だった。
「今日はどうしたんですか?」
「どうしたというのは心外だねえ。君、着替えすら持っていないだろう。だからこうして早朝から届けに来た、というわけだよ」
「ありがとうございます」
はい、と手渡されたのは、妙に可愛らしい柄の紙袋。
意外な趣味を垣間見たような気がした。
着替えたのは清潔な白いシャツに、黒いスラックス。
ビジネスカジュアル、というやつだろうか。
わざわざ靴まで入れてくれているあたり、本当に助かるところだ。
サイズは……ぴったり。
とんとん、とつま先で床を叩き、靴の調子を確かめていると、遠慮なくドアが開かれた。
「着替えは終わっているね?」
全くもって迷いが見られない行動だった。
ウマ娘は耳がいいと聞く。
着替えが終わったことも、物音で判断したのかもしれない。
「ええ、まあ」
「不具合はあるかい?」
サイズは完璧に合っているし、特段おかしな点もない。
恐らくは、というか確実に私の私物なのだろう。
サイズも着心地も何もかもが丁度いいが、見覚えもない服が妙に馴染むと言うのは奇妙な感覚だった。
「特にありません。……ああ、ベルトがないぐらいですが」
「ああ、それはうっかりしていたな……公衆の面前でズボンがいきなり落ちる、とかそう言った可能性があるのであれば、流石に私も少し考えるが」
ニヤニヤと口の端を上げながらそんなことを言われるが、そんな支障があってたまるか。
「それは大丈夫です」
「それは結構。さあ、凱旋と行こうじゃないか」
病室から荷物を引き上げて、病院の玄関へ向かう。
向かいがてら、タキオンさんがあちこちに挨拶しているのをぼんやりと眺めながら、彼女に従うようにゆっくりと。
車寄せでタクシーを待っている間、ふと気がついた。
「あれ、そういえばアパート……」
「うん?」
そうだ。あのアパートはもう無くなっていた。
そうなると、あれ。
私はどこへ帰るんだ?
「いや、私はどこへ帰ればいいんだろうって」
「何をバ鹿なことを言っているんだい……とは流石に言えないか」
やれやれ、と彼女は首を左右にゆるゆると振った。
「ほら、君のおうちはあそこだよ」
子供を相手にするかのように、指を差した先。
いくらなんでも教えるにしてはざっくりとしすぎている。
この病院は多少高台にあるので見晴らしはいいのだが、目を凝らしても流石に距離が遠すぎる。
この距離から家などわかるはずもない。
ウマ娘は視力自体はそこまで人と隔絶していなかったと思うのだが、彼女は軽い調子で続ける。
「見えるだろう?」
「え、どこですか?流石にここからじゃ見えないんですが」
「それなら、お楽しみということにしておくといいさ。大体あの辺りだから」
どうやら、教えるのは早々に諦められてしまったらしい。
そうこうしているうちに、タクシーがやってきた。
「ほら、乗ってくれ」
ぐいぐい、と私の背を押してタクシーに押し込もうとする彼女は、どことなく楽しそうに見えた。
「さあ、帰ろうか」
そして。
何故だろうか。
気がつくと私は、ホテルの車寄せのような場所でタクシーから降ろされていた。
きょろきょろと周囲を見渡すも、何も情報がない。
私は何故こんなところにいるのだろうか。
「さて、それでは行くよ」
「……どこへ?」
「当然、家に帰るに決まっているだろう?」
「……?」
ちゃんと付いて来るように、と言いながら、どんどん建物に入って来る彼女の後をおっかなびっくりついていく。
「ここは?」
「ラウンジだよ」
「こっちは?」
「……君は意外と好奇心旺盛だねえ……」
エレベーターに放り込まれた。
申し訳ないと思う。
そして。
「ただいま。ほら、入ってくれ。私たちの愛の巣だよ」
そう冗談めかして声をかけながら、彼女が玄関のドアを開く。
あまりにも自分には不相応な場所……これはタワーマンションという奴では?に通されてしまったこともそうだが、最上階というのも驚いた。
そして。
冗談めかして口にしたその言葉で、現実に引き戻された。
結婚している、と聞いた。
彼女はアグネスタキオンと言う名前で、栗毛の綺麗なウマ娘で、私の妻なのだと言うことも聞いた。
ただ、それ以外、私は知らない。
何も、知らない。
「どうしたんだい?」
「……いや、その」
じっと目を見つめられて、なんと言えばいいのか分からなくなる。
本当に入っていいのか、とか。
そういったことよりも先に、はっきりさせておかなければならないことがあった。
―――「私たちの」。
その言葉に、現在の私は含まれてはいないのだから。