身に覚えのない「妻」と「娘」を名乗る不審バの狭間に 作:しゃちくらげ
今の彼を招き入れることは、私のエゴに過ぎない。
わかっているさ。
勢いでそのまま家に連れ帰ってしまえ、と思っていなかったと言えば嘘になる。
まるで飲み会が終わった後の話のようだ。自分で決めておいて笑えてくる。
彼が冷静になり、疑問を覚え始める前にせめて住処だけでも確定させないとならない。
きっとあの石頭は生来のものだ。
何故か?
「いいんですか、私を上げてしまって」
こうなるからに決まっている。
何故よりによって玄関前になって、と思わなくもないが、土壇場でこう言うところに気づいてしまうのが、トレーナー君という生き物だった。
「わかっていると思います。現在の私は、あなたの知っている私じゃない」
分かっているさ。
そんなことは、分かっている。
雨の中で見た、きみの目の色は、私の知るそれではなかったのだから。
同一人物でありながら、別人。
もはやそれは明らかだというのに、目を逸らしてきたのは私の弱さだ。
「おや、これはおかしなことを言うじゃないか」
私は君の妻だ。だから、君を自宅に引き取ることのどこに異常性があるだろうか?
そう、社会通念上、それは明らかだ。
だけれど、私はそれを十分に説明しなかった。
意図的に。こうなると分かっていながら。
「少なくとも、私の知っている君と、君の知っている君は同一個体であるはずだよ」
声は震えていないだろうか。
覚悟は決めたつもりだった。
記憶を失い、私と出会う前の状態ということは、今の彼にとって私は赤の他人に等しい。
「そうでしょうね。それでも、違うんです」
分かっているんだ。
私と過ごした日々は、きみを愛した私は、もう君の中にはいないのだと。
「……私の知るきみは、もうどこにもいないのかな」
思わず口から溢れた言葉。
どうしようもなく、悲しくて。
「私は、あなたのことを知ら―――」
破滅的な事実が告げられる、その瞬間に。
「どっせえええええええい!」
何故か、凄まじい雄叫びが響き渡った。
えーっ!?
何故だろう。
私の隣を、何か飛んでいった。
私は一体何を見たと言うのだろうか。
振り返ると、リビングのソファに着弾したのか、ひっくり返って目を回す彼の姿。
人間がああまで飛ぶところを見るのは、2週間ぶりぐらいだ。
1度目はトレーナー君が事故に遭った時なので、ごく最近に二度も目にしていることになる。
恐る恐る振り返る。
そこには、髪を逆立てて青筋を立てた、元ルームメイトにして、遠縁の親戚の姿があった。
「ふしゅー……」
どてらを羽織って、額には冷却シートを貼った、見慣れた姿。
手に付けた指抜きグローブの下にも冷却シートを貼っている辺り、また修羅場を迎えている、ということだろう。
「……デ、デジタル君……?」
彼女が何故ここに、とも思ったが、そういえばここ何日か時間があるときに食事を差し入れてくれていた。
どうやら彼女がトレーナー君を渾身の力で投げ飛ばしたらしい。
「……それは、解釈違いです……」
地の底から響いて来るような低音。
どろどろと言葉の中に何か暗い感情が渦巻いているような、背筋が冷えるような声。
「デ……デジタル君?」
「タキオンしゃん……」
まるで幽鬼のように、ゆらりゆらりと身体を揺らすデジタル君。
「私は、大抵のカプを許容してきました。解釈違いだとしても、それもウマカツだねと笑って流してきました……でも、今回ばかりは……」
そして彼女は、息を大きく吸って、そして。
「公式がッ!! 解釈違いッ!! ですっっ!! なんですかメインヒロインのその体たらくは!!」
「えーっ!? いやきみ、うちのモルモット君は怪我人なんだけ……」
「そこに正座してください!!」
「はい……」
何故私は突然叱られているのだろうか。
それより、飛んでいったモルモット君は無事なのだろうか。
しかし勢いに押されるまま、廊下に正座する。
何故か正座させた本人も、玄関の硬い床で折り目正しく正座していた。
「いいですかタキオンしゃん! 今日という今日はお説教させてもらいますっっ!」
普段から妙な挙動をしているし、温厚なので忘れがちなのだが。
何かに本気になったデジタル君は、ものすごく怖いのだ。
頭が痛い……。
あれ……私は一体……。
暗闇に閉ざされていた意識が、ゆっくりと覚醒する。
そして―――。
「―――おや。目が覚めたかい」
「アグネスタキオン……?」
ここ最近知り合った、私の妻だと名乗るウマ娘。
あれ、おかしいな。先程まで……どこにいたっけ?
「多少の混乱状態にあるようだね。意識を取り戻したばかりなんだ、あまり無理をしない方がいい」
身を起こそうとしたところで、腕を掴んでぐいと引き起こされる。
「ほら、椅子に座って。リラックスすべきだ」
促されるまま、見慣れない部屋のソファに腰かけた。
「さて……自分が何故ここにいるかは? 思い出せるかな?」
優しく、確かめるように彼女は訊く。
癖がありながらも、穏やかな口調。
胡散臭いものがあるが、しかし耳障りの案外良い、そんな声色で。
「ちなみに、気を失った君をここまで運搬したのは私だよ。故にきみが思い出すべきは、『何故』『いかにして』ここにいるかだ」
ずきずきと鈍痛がする頭をどうにか回して、考えを巡らせる。
確か私は、病院から退院して……。
「……あ」
「ふぅン、ことの経緯までどうにか思い出せたようだね」
思い出せはしたがその結果、何故自分がこうして『部屋の中』で倒れていたのか分からないということも判明した……。
「どうして、部屋の中に?」
我ながら阿呆のような言葉を捻り出したものだと思う。
「奇妙なことを訪ねるね君は」
それはそうだろう。本当に聞きたかったのは、何が起きてここで気絶していたのか、だ。
いや、それよりも問いたい事があった。
問わねばならないことが―――
「そんなモノ、『きみの家』だから以外にどんな解答が存在するんだ?」
『きみの家』―――そう言い放ったアグネスタキオンの瞳が、ぎらりと妖しく光る。
思考に言葉を直接差し込まれたかのような衝撃に、硬直してしまう。
これでは蛇に睨まれた蛙のようだ。
妖しく光る瞳は、ちょっと不気味な感じがする。
これまで―――たった数日顔を合わせた程度ではあったが―――見せなかったその瞳の色。
今の彼女とはあまり関わり合いにならないほうがいいのではないか、と本能が警鐘を鳴らす。もしかすると、何か思いつめているのかもしれない。
これまでの表情から、何か……そう、憑き物の落ちたような、そういう顔だ。
吹っ切れた、というか。ヤケクソになったような。
その場合、追い詰めたのは他ならぬ私自身なのだろうが、一旦冷静になる時間を―――。
そう思い、ソファから立ち上がろうとしたが……。
ぎしっ。
「は?……あれ!? 動けない!?」
いつの間にか、ソファに縛り付けられている……!
いつこんなことを? いや、何故?
「きみ、考えごとに没頭すると、他に意識が向かなくなるタイプなのは変わらないな? いや私もそこに関しては同類だ、気持ちも分からなくはないがね」
確かに考え事をし始めると周りが見えなくなる、とはよく言われたが、流石にこれは無い。
気絶していた時から? いや、起きた時は何事もなかった。自らの意思でソファに腰掛けたのは覚えている。
「とはいえ親切心から忠告しておくけれど、自分の状態ぐらいは、常に気を配ることをお勧めするよ」
縛られて身動きの取れない私の頬に、細い指が、手が当てられる。
ぞわり、と背筋が総毛立つような感触。
不思議と、嫌な気配は無い。
ただ何故か、そう―――
「”最愛の夫”を求めてやまないウマ娘と、いつどこで巡り合ってしまうかわからないだろう?」
ぬるり、と。
滑り込むように、差し込むように顔が近付けられる。
何を考えているのかいまいち分かりづらい、濁った瞳が覗き込んでくる。
「分かっているさ。きみが言いたいことは」
頬を撫でるようにしながら、口元を歪に吊り上げて続ける。
分かっているなら、と声を上げようとして、唇に人差し指が当てられた。
「だけれど、それはきみの主観でしかないのさ」
身体をそっと離した彼女は、指折り数えていく。
落ち着こうとする時のルーティーン。
こうと決めたら揺らがない、狂った芯の強さ。
気絶から起きた後の、反応。
「これまでに気付いたのはそのぐらいだがね。しかしそれら全てが、きみがきみであることを証明している」
どういうことだ?
それは、元から持っていた癖や性格の話では……
ぐい、と胸元を掴み上げられ、また顔を寄せられる。
吐息が触れるような距離。
ウマ娘の力は強い。感情が昂っているのか、身体が浮きかけている。
ちらと上を見れば、彼女の耳は後ろへ引き絞られている。
「言い換えようか。きみは、やがて私が愛することになったきみでしかない」
そのストレートな言葉に、がつん、と頭を殴られたような気がした。
私を覗き込む、随分と狂った目の色に、落ち着かなくなってしまう。
「現在のきみが、きみではない他の何かだ、などとつまらないことは言ってくれるなよ。私としたことが、一度失いかけたことでナーバスになりすぎていたようだ」
ぱっと掴んだ手を放され、ソファに再び沈む。
思考が、回らない。
「っげほ」
締め上げられた肺が酸素を求めて噎せ返っているところに、言い聞かせるように、耳元へそっと言葉が落とされる。
「……忘れていようが、きみはきみだ。別個体ではなく、同一個体なのだからねぇ」
だから。
「いずれまた、きみがきみでいる限り、きみにとっての未来でも、私のことを好きになる」
その時まで私は、きみのことを勝手に好きでいるさ、と彼女は笑う。
言葉がない。
その覚悟にか、その迫力にか。
どう答えていいのか、私には分からなかった。
それでも。
でも、だとか。だって、だとか。
アグネスタキオンという女性の覚悟を否定するための言葉は、持ち合わせていなかった。
「……た、いした自信、ですね」
何か言わなければ、と思って口にしたのは、なんというかとても捨て台詞のようで。
「今はそれでいい。今愛してくれとは言わないよ。そばにいてくれれば、それでいい」
そっと頬を撫でられる。
その指先に込められた思いの程は、分からないけれど。
正直、自分が今後どうなるのかは分からない。
記憶障害であれば、記憶が戻っていく可能性もあるし、戻り切らない、あるいは全く回復しない可能性だってある。
それでも。
「わかり……いや、わかった。あなたのことをもう一度好きになれるよう、努力するよ、タキオンさん」
「タキオン、でいい。さんは不要だよ。それと、言うことがあるだろう、きみ」
「……え?」
突然、呆れたように言われて、またしても思考が止まる。
突発的な出来事に弱いのだ、私は。
「帰ってきたら言うことだよ。子供だって知っているだろう?」
何だろうか、と考え込んでいると、案外答えは簡単で、そして大切なものだった。
「あー……」
「ほら早く。はーやーくー。言ってくれよぉー」
ぺちぺち、と手を叩き、駄々をこねるように彼女は言う。
なんだかイメージと合わなくて、でも彼女に似合っている気がして。
澄ました顔をして、物分かりの良さそうな顔をして。
寂しそうにしているよりも、ずっと素敵だと、そう思った。
あの病院のベッドで目覚めてから、私は初めて笑って、
「
「
―――ただいま、と言えた。
存外、私の未来は。
そう悪いものではないんじゃないか、と。
そう思えたから。
「そういえばきみ、私の説得が通じなかったらどうしていたんだい?」
縛り付けられた紐をほどきながら、タキオンが不思議そうに訊いてきた。
「どこかで日雇いのバイトでもしながらひっそり暮らそうと思ってたけど……」
しかしよく考えれば結婚しているので、一旦冷静になるまで距離を……というレベルに留まったのではないか、とぼんやり考えていると。
「ふぅン……今更逃げられると思っていたのかい? きみにはちゃんと責任を取ってもらわなければならないからねえ」
「え?」
何やら不穏な言葉が飛び出した。
責任?
いや、記憶に一切ないものの、結婚までしておいて逃げると言うのは確かに最低だが。
タキオンは続ける。
楽しそうに。にやにやと。
「私の夢を諦めさせなかった、その責任を。……ま、これは今度話そうか」
それより、と。
今日一番楽しそうな顔をして、彼女は言った。
「―――娘まで産ませておいて、今更私から逃げられるとは思わないことだよ」
―――は?
私、娘いたの?
完(ぷろろーぐ)
掛かり気味かつ酷い設定で突っ走りましたが如何でしたでしょうか。
楽しんでいただけていたなら、幸い。