身に覚えのない「妻」と「娘」を名乗る不審バの狭間に 作:しゃちくらげ
退院祝いに、私が紅茶でも淹れてあげようかねえ、と。
そう言ったタキオンがキッチンへ消えて行き、数分。
水の音。
ポットがお湯を沸かす音。
茶器などを用意するかちゃかちゃという音。
そういった、生活の音がリビングに微かに響いていた。
……今更ながらに緊張してきた。
きみの家だ、と彼女は言った。
そこには妙な意味は何もなく、確かに私はここに住んでいたのだろう。
しかし緊張するものは緊張する。
友人の家に遊びに行った時。
久しぶりに実家に帰った時。
そういう時、感じるのはまず「匂い」だ。
家庭ごとに、それぞれなんとなく「匂い」が違う。
ここには、私の知らない過去があって、私の知らない匂いがあった。
それを考えた時、正直に白状すれば。
知らない女性の匂いがするここは、妙な緊張を私に強いていた。
そしてそれが自分の「妻」だということが、今更ながらにおかしな方向での緊張感を私に押し付けてくるのである。
所在なく、ソファに座ったままきょろきょろとリビングの中を見渡す。
全体的に品のよい、落ち着いたインテリアで纏まった部屋だ。
目が覚めるとすぐにリビングにいたおかげで、他の部屋や玄関周り、廊下など分からないことだらけではあるが、いい部屋だなあと他人事のような感想が先に出る。
そして、かなり広い。
大きく取られた窓からの眺望は驚くほど美しい。
ペントハウス、とでも言えばいいのか。
最上階ならではの構造なのかは知らないが、ダイニングに階段が設置されていて、マンションなのに二階があるらしい。
そのおかげで吹き抜けになっており、広さを余計に助長しているように思える。
「……一体どれだけ稼いでいるんだ……」
思わず、頭を抱えてしまう。
これだけの物件に住んでいる、ということは、それだけ稼げているということだろう。
実際、入院していた病院も一人部屋だったし、間違いなく稼いでいる。
そして。それはつまり、今後私がどうにか支えなければならない、ということになるのではないか?
想像するだけで胃がキリキリと痛む。
「ふぅン? もう仕事の心配かな?」
そんなことを言いながら、トレイを手にしたタキオンがキッチンから戻ってきた。
ソファの前に置かれたガラステーブルへ、意外と手際よくティーカップやティーポットを机に並べていく彼女は、どこか楽しそうで。
シュガーポット、ミルクポット、ティースタンド……。
家庭でこんなセットが出てくるのを見るのは人生でも初めての経験だった。
「えぇ……?」
困惑する私を他所に、楽しそうな顔で並べていくタキオン。
そして最後にどんと角砂糖の袋(未開封)を机に置いた。
いや待て。
なんでこの装備から角砂糖が袋で出てくるのか。
シュガーポットを補充していなかったのかな? とも思ったが、机に並べられたシュガーポットをそっと開くが、ちゃんとホワイト・ブラウンシュガーの角砂糖が入っている。
「〜♪」
疑問に頭がいっぱいになる中、タキオンは機嫌良さそうに尻尾を揺らしながら、紅茶をカップへ注いで行く。
ふわり、と芳しい紅茶の香りが広がって。
「ほら、飲んで気持ちを落ち着けたまえ。脳に糖分は足りているかな? 君はストレート派だったとは思うが、糖分が必要ならそこのシュガーポットからだ」
「あ、ありがとう。うん、ストレート派だね、確かに」
そして、特段なんの前触れもなく、ソファーに腰掛けた。
私の、すぐ隣に。
紅茶の香りとはまた違った、甘さのある、花のような香りがふわりと鼻腔を擽った。
しゅるり、と何かが擦れる音がして、背中越しに何か軽いものが触れるような感触がした。
思わず身体が強張る。
袋から次々にティーカップへ砂糖を放り込み始めたタキオンを見て、思考が止まった。
それ、溶けてないと思うんだけど。
「?」
何か不思議なものでも見るような目でこちらを見上げられても。
これが標準なのだとしたら、過去の私は一体どういう気持ちでこれを見ていたのだろうか。
甘党を通り越して、健康に著しく悪影響を及ぼしそうなのだが。
しかし、すらりとした体型には過剰な糖分による悪影響は出ているようには見えない。
オフショルダーのニットの上からでも、その程度はわかる。
肌の血色も良いし、肌理も整っている。
どう見ても精々が二十歳前後にしか見えないが、本当に一児の母か?
「……何だい? 今更じろじろと」
……あ。
失敗を悟る。
思わずまじまじと女性の身体を見つめてしまっていた。
しかたなく、誤魔化すように咳払いを一つ。
「ん゛んっ……それで、聞きたいんだけど」
「なんだい改まって」
「……娘がいるって、本当?」
そう、まずそこだ。
いくら稼いでいるのか、だの。
仕事は何をしているのか、だの。
そういったあれこれもこの後全て確認しなければならないが、それ以前の問題として、これだけは確認しておかなければならないだろう。
本当に娘がいたとして、年数的にはどう見積もっても小中学生程度だろう。
学校から帰ってきて入院していた父親が自分の存在を忘れてました、というのは情操教育に悪いとかそんなレベルではない。
下手をすればグレるし、洗濯物を一緒に洗わないでとか言い出すかもしれない(錯乱)。
「それは間違いなく、本当のことだよ。なにせこのお腹を痛めて産んだんだからねえ」
表情も変えずに言われても。
しかし、その言葉には冗談の気配も感じられない。
となると。
彼女の言葉を信じるのであれば、だが。
もしかして、なのだが。
「……そこに転がってる、その、女の子は?」
「うん?」
そう。
先ほどから、というか彼女が紅茶を用意しにキッチンに消えてから気がついていたのだが。
部屋を見渡しているうちに、一つ気がついた事があったのだ。
恐らくは結婚後の写真なのだとは思うが、私と、タキオンと、そしてもう一人小柄な人物が映っている写真があった。
そしてダイニングテーブルの足元、というか下あたりに、ピクリとも動かない、つい先ほど写真の中で見たような覚えがあるウマ娘が転がっているのである。
口の端から涎を垂らし、殉教者のように手を組んで。
ちょっと見てはいけない感じの顔をしているウマ娘が。
どうしよう。表情が完全にイッてる。
頼む。
あれが私とタキオンの『娘』ではありませんように。
娘があんな顔をして倒れているのに何の反応もない家庭じゃありませんように。
確かに少しの付き合いでもタキオンが若干変わった性格をしているのであろう、ということは理解できたが、それにしたってあれはちょっとどうかと思う。
女の子がしていい顔ではない。いわゆる……いや、やめておこう。
とにかく、ほとんど放送事故のような顔をして身動きどころか瞬きすらせずに倒れているあの子が娘だったら私は色んな意味で立ち直れない。
どてらを着て、額に冷却シートを貼っているので、もしかすると体調不良なのかもしれないが、それにしてもあの表情は一体なんなのか。
一体どういう教育をすればああなるのか。あるいはあれは奇行の類ではなく、何か事故にでも……転倒などして気絶していたりするのだろうか。
だめだ、どう考えてもろくな結論にならない。
私の視線を追って、タキオンがそちらに目をやった。
納得したように一つ頷く。
「ああ。あれは私たちの家族でね」
終わった。
過去の私へ。
トレーナーという教育者の身でありながらなんというザマだ。腹を切れ。