【本編完結】恋人にしたい殿下と何も知らないトレーナー&SP隊長   作:渚 龍騎

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そういえば、最近ウマ娘に影響されて乗馬を始めました。
馬に乗るって最高です。


11 巡り巡って、矛盾の超えた運命

 

 

 

 

「殿下、お時間よろしいですか?」

 

 

 

 トレーナー室へと向かう途中、どこからともなく音も立てずに現れたSP隊長がファインを見つめた。

 その表情はいつもより真剣で、真っ直ぐに主を見据えていた。

 

「隊長、どうかなさいましたか?」

 

 問い掛ければ、隊長は唇を噛み締めて俯く。落とした視線はどこか虚ろげで、それでいてはっきりとしている。やがて息を吸い込んでから、ファインを見つめて口を開いた。

 

「お電話です」

「電話? いったい誰から……?」

 

 隊長は問い掛けに答えることなく、無言で電話を差し出した。

 聞けば分かる──そんなことを彼女の瞳から感じて、ファインは差し出された電話を手に取った。

 

「もしもし?」

 

 誰なのかを探るようにかける言葉。数拍の間が空いて、電話越しでありながら、それを通り抜けて無類の緊張感が席巻した。

 そして数秒の後に────、

 

 

『ファイン』

 

 

 威厳ある声が聞こえて、ファインは目を見開いた。

 

 

 

 ◆◆◆◆

 

 

 

 海には、未だ謎が多い。

 地球の表面の約71パーセントを占めるものこそ、蒼き海洋である。地球の半分以上も占めていながら、この世が知る海は未知が多過ぎる。世の中には海の95パーセントは未知だと言った者もいた。

 地球の外側に存在する宇宙よりも、深海の方が辿り着くのは困難だとも言われる。

 

 遍く空に居並ぶ広大な海──朝は蒼く、夕方は紅く、夜は黒く、時によって変わる美しい輝きは、誰もの心を変化させ、黄昏れては思いを馳せる。

 海は、自然が産んだ紺碧の宝石。

 目を奪われるような燦然とした煌めきを輝かせる海ではあるが、中には恐れられる存在としても語られていた。

 

 誰もが知っているであろう有名なのは、ギリシャ神話でも告げられる〝人魚(セイレーン)〟だろう。

 上半身が人間で、下半身が魚類の怪物。かつては鳥の姿をしていたともされるが、誰もがその名を聞いて想像するのは人魚である。その異形な姿をしていながら、恍惚とさせる美貌や歌声で、様々な航海者を惹き付け、食い殺したと語られる魔物だ。

 

 アイルランドにも人魚は〝murúch(メロウ)〟と呼ばれて、その伝説が多少なりとも語り継がれている。

 人魚、半魚人、セイレーン、マーメイド、地によって様々な名前と姿で語り継がれている中、共通しているのは────どれもその姿は美しく不吉なものの象徴とされていることだ。

 

「なんで人は、直ぐ綺麗なものに不吉なことを語り継ぐんだと思う?」

 

 悩む彼女に対して、彼は「簡単だよ」と爽やかに笑って答えを語った。

 

「それは、純粋ではないから。綺麗なものには〝影〟があると考えているからだ」

 

 海には怪物が、地には災厄が、空には脅威が。

 勿論、不吉なものばかりではない。幸福を語り継ぐ場合も多少なりともある。どれも興味深いものだ。

 人は純粋な知的生命体ではない。綺麗なものには、綺麗である理由が存在する。それを〝光〟ではなく〝影〟の方へと思考を巡らせていく。

 海は生物にとって原初の存在。自然が産んだ奇跡とも言える。奇跡が起こったのには理由がある──そう考えれば、想像が膨らみ、楽しみが増える。

 

「海には、伝説も多い」

 

 海を渡る風が、さざなみを起こす。それが時折、鏡のような水面に皺を寄せては揺らめき、静かな波音が旋律を奏でていた。

 潮騒が響く。波の揺らぎはとても穏やかで、見ているだけでも自然と眠気が襲い来るような感覚があった。

 呟いた言葉が波に掻き消され、横で静かに遠くを見つめていた彼女に視線を移した。

 海を駆け抜けた風が、砂浜の砂を柔らかく撫でて行き、彼女の煌めく髪と服を静かに靡かせる。光を反射して煌めく海面が、彼女の──ファインモーションの瞳に映って、キラキラと宝石のように輝いていた。

 恍惚とした姿に目を奪われ、トレーナーは言葉を失ったが、ふと脳裏にその名前が過った。

 

「セイレーンか……」

 

 ポツリと溢れた声は、さざなみによって容易く掻き消される。声に気が付いて振り向いたファインは首を傾げ、なにやらいつもと様子が違ったトレーナーを見つめた。

 

「いやごめん、なんでもないよ。アイルランドにも海はあったよね」

「うん、アイリッシュ海とか……海水浴場はあまりないけれど、とても綺麗な海はあるよ」

 

 けど、と続けてファインは風に靡く髪を耳に掛ける。地平線の彼方へと沈みつつある太陽を見つめて、その瞳に輝きの反射を映しながら、その柔らかな唇を開いた。

 

「この国の海は本当に綺麗だね。こんなに美しい海なんて、中々見れないよ」

 

 普段はどんな物事も全力で楽しむファインが、一つに対してここまでぼんやりと眺めているのは珍しい。楽しむ心を忘れるほどに、眼前の景色を感慨深く思っているのだろう。

 綺麗だった────海よりも、彼女が。

 横目でバレないように彼女の姿を眺めていると、さざなみに耳を澄ませていた彼女が「ねえ、トレーナー」とこちらに顔を向けた。

 

「海には様々な怪物がいるって、神話やおとぎ話でよく語られているよね」

「そうだね。有名なのだと〝人魚(セイレーン)〟とか〝海獣(クラーケン)〟とかかな。あとは〝海竜(レヴィアタン)〟もいるね」

 

 美しい音色(こえ)と美貌で、人を惑わし食らう〝人魚(セイレーン)〟。

 船を超える巨躯で海の脅威と恐れられた〝海獣(クラーケン)〟。

 神により造られし、海で渦巻く最強の〝海竜(レヴィアタン)〟。

 どれも怪物と恐れられ、神話や伝説としてその名が語り継がれている。中には聖なる獣としても語られている場合もあるが、殆どは海を支配する怪物だ。

 ファインは続けて、言葉を紡ぐ。

 

「もしも、そんな神話の怪物がここに出てきたら、キミはどうする?」

「どうする、か……難しいね」

 

 かなり抽象的な質問だった所為もあり、トレーナーは顎に手を置いて頭を悩ませた。

 もしも本当に神話の生物が現れたのなら、世界は混沌に包まれる。そんな中で、自分はどんな行動を取るのか。そんなこと実際に起こってみなければ分からない。だがそれでも〝取るべき行動〟はある。〝できる〟か〝できない〟ではなく、自分自身が〝やらなければならない〟こと。

 それはたった一つ────。

 

「俺は、最後までファインといたいな」

「…………え?」

「たとえ世界が終わるのだとしても、俺は最後の最後まで君と一緒にいたい」

 

 だって、と続けてファインを見つめた。

 世界や他のものよりも、彼女を選んだ理由。それは今までも、これからも思い続ける本懐は────、

 

「君といれば、どんな時だって楽しいからね」

 

 自然とそんなことを思っていた。

 世界を終わらせるような怪物が現れたとしても、勇者のように果敢に怪物へ立ち向かうのではなく、自由奔放に己のやりたいことをやるのでもなく、ただ最後まで彼女(ファイン)の隣にいたい。それでいて、もし彼女に危険が及ぶのなら、全力で守ると覚悟しよう。

 

「…………そっか」

 

 ファインは、呟いていた。

 嬉しい、嬉しい、嬉しい──本当にずるい。

 喜びと同時に、胸の奥底でそんな感情が渦を巻いて蝟集する。彼はいつだってそんなことを平然と呟く。それが恋愛感情でないのだから質が悪い。

 

 

 

 ────そんな言葉、告白にしか聞こえないのに。

 

 

 

 それだけじゃない。

 彼への質問が、もし自分に向けられたのなら、私だって────最後までキミと一緒にいたいと答える。

 世界を救う勇者なんていらない。

 世界を守る戦士なんていらない。

 ただ私の側にいてくれれば、私と共に最後まで生きてくれれば、それだけでも私は満足なのだから。

 でも、優しい彼はきっと誰かを助けようとする。

 言葉ではそう言っていても、誰かが傷付いていたら黙って見ているなんてことはできない。彼が優しいのはそれが〝普通〟なのであって、私が〝特別〟だから優しいのではない。

 

 ───優しいけれど、そうじゃない。

 

 彼の〝特別〟でありたい。そんな想いは自己中心的で我儘だけれども、彼が私に優しくしてくれるのは私が〝特別〟だからと思いたい。そうなる為には、どうすればいいのか分からなかった。

 

「この時期に海はちょっと寒かったね。それじゃあ、宿に行こうか」

「うんっ、そうだね」

 

 トレーナーにそう促されて、ファインは踵を返す。

 十月末、夏の暑さもようやく落ち着き、秋を過ぎて冬へと向かおうとしている。日によっては風も流れて、涼しい日が続くこともあった。

 今日はいつもより涼しい所為もあって、海を眺める浜辺は潮の香りと共に冷たい風が巡っていた。

 普段の風よりも、海風の方が僅かに涼しい。海を長時間眺めていた所為で、体はそれなりに冷えていた。

 

 トレーナーとファインモーションが、その手に大きな荷物を持って、都会から離れた場所に来ているのには理由がある。それは数日前に、助けた迷子の母親から貰った福引券がきっかけだった。

 特賞は『二泊三日の豪華温泉旅行』だ。

 軽い気持ちで回した結果──今、この場所にいる。

 

 一回目、トレーナーが回した結果はティッシュ。それが当たり前だと、二回目をファインが回してにんじんが当たった。

 そして三回目、二人で回した結果──特賞の温泉旅行を引き当ててしまった。

 

 あの時の驚いた自分の顔がどうだったのか分からないが、恐らく口をあんぐりと開けて阿呆な表情をしていたに違いない。現実が信じられず、ファインに頬を抓ってもらった──千切れるかと思った。

 

「福引券の特賞で、こんな豪華なところ……部屋間違えてない……?」

 

 指定された宿に行き、案内された部屋の中で畳に座り込んで、あまりの豪華さからトレーナーは後々に高額請求されるのではと懸念した。

 怖くて仕方がないトレーナーに対して、ファインは案内された部屋を眺めてはあちこち早足で歩き回りながら感動していた。

 

「わぁぁ〜っ! 凄いねっ! 畳に掛け軸、伝統的日本の温泉旅館て感じ! こんな素晴らしい旅館に二泊も泊まれるなんて感激だよっ!」

 

 視線を巡らせてはしゃぐ姿は、まるで子供のようにも見える。だがしかし、ファインが大喜びするのも理解できた──なにせこの宿は、トレーナー自身が知っている旅館の中でもあまりに豪華過ぎていた。

 泊まれるのは一部屋だが、十人近くが暴れ回ってもまだ空間がある。それに広縁から見えるものは、先程まで眺めていた海。しかし浜辺で見ていたものよりも一望でき、言葉を失うほどの絶景があった。

 

「確かに凄いね。これが二部屋だったら、また違う角度から良い景色が見れたのかも」

 

 海が見える景色の反対には、永きを得て造られた街並がある。自然が生んだ景色とはまったくの正反対だが、それを夜に見れたのなら美しいビル群が産む輝きが夜空の星の如く煌めくに違いない。

 

「まあ、一部屋でも十分過ぎるほどに豪華だけど」

 

 そこまで吐露して、トレーナーは違和感を感じた。

 何事も考えずにこの旅館まで来て部屋に案内されたが、なにかがおかしい。取り敢えず部屋の中に視線を巡らせる──部屋には自分とファインの荷物が隅に寄せて置かれ、ファインが目を輝かせながら部屋を見ている。特になにもおかしな所なんてないはずが、漠然としたなにかが引っ掛かっていた。

 ────あれ?

 

「今日から同じ屋根の下で、よろしくねっ」

 

 ふと振り返ったファインが、頬を少し赤くして身体をくねらせるようにしながら、そんなことを囁いた。

 その言葉で、脳裏に過ぎっていた違和感が明確に現れる。まるでそれは白い霧が一気に晴れたように、はっきりと思考が齎したものは、たった一文字の「は!?」のみだった。

 

「え、ちょっと待って、まさかとは思うけど、俺とファインって一緒の部屋?」

 

 トレーナーの問い掛けに、ファインは疑問を浮かべながらも「そうだよ」と明るく笑顔で答えた。

 考えて見れば、これだけ豪華な部屋を二つも福引の特賞で貰えるはずがない。なによりも年頃の少女と同じ部屋は、かなり問題がある。しかも相手は日本親善大使のファインモーション。なぜここまで来て気が付かなかったのか、マヌケな自分を殴りたい。

 自分はなんとも構わないが、ファインにとっては危ない。よからぬ噂が立っては彼女の立場も祖国にも泥を塗る可能性すらあった。

 

「楽しみだねっトレーナー」

「う、うん……」

 

 何故ファインがここまで乗り気なのかは理解できないが、トレーナーは「ちょっとお手洗いに」と部屋を出てから廊下をキョロキョロと見渡した。

 

「隊長、いますよね」

 

 気配を感じながら呼び掛けると、音も無く「はい、ここに」と隊長が背後に現れる。予想していたとはいえ、自身の背後に現れた為に肩をビクッとさせ、少し驚きながら振り返った。

 

「二人で一部屋なんて知ってました?」

「はい、もちろんです」

「ファインと俺が二人きりで一緒の部屋で寝泊まりするなんて、い、良いんですか?」

 

 小声で問い掛ければ、隊長は首を傾げてから「なにか問題でも?」と、あたかも当然の如く答えた。

 

「問題だらけじゃないですか。殿下と呼ばれる方が、男と同じ屋根の下で寝泊まりするんですよ?」

「男と言っても、貴方は殿下のトレーナーです。でしたら問題ありません」

「いやいやいやいや!」

 

 価値観が朗らかに自分と狂っている。

 アイルランドではこれが普通なのか?

 文化が違うだけで、俺の気にし過ぎが問題なのか。隊長が俺を揶揄っている可能性もあるが、声色や表情を伺っても一定のトーンで顔色一つとして変えない故にまったく分からない。

 隊長とは絶対にババ抜きとかをしたくない。十連敗もした記憶が鮮明に蘇る。

 いや、取り敢えず問題は────、

 

「ファインと過ごすのは良いのですが、彼女はどう思っているのか……」

「トレーナー殿、よく聞いてください」

 

 隊長は真っ直ぐにトレーナーを見つめる。漆黒のサングラスの奥から覗く眼差しが、トレーナーの顔を映して鋭く射抜く。だがしかし、その瞳は優しく、開かれた唇からは柔らかな声色が漏れた。

 

「殿下は、貴方を心の底から信頼しております。トレーナー殿といる時の殿下は、長い間お側にいた私ですら見たことがないほどに、とても美しい表情をしていました。なのでご心配はいりません」

 

 頷いた後で、隊長は「それに」と続け──、

 

「今日から三日間、私たちは殿下の御命令により護衛ではなくなります。その為、私は隊長ではないので、あとはトレーナー殿にお任せ致します」

「は? ちょ、ちょっと待ってくださいよ。この問題を解決せずに逃げないでください」

 

 捕まえようと伸ばした手を潜り抜け、軽やかに回避した隊長は目にも止まらぬ速さで消え去った。

 彼女の言った『隊長ではない』の意味を上手く理解できずにいると、扉を開けたファインが顔を覗かせていた。

 

「折角の温泉地だから、隊長たちには羽を伸ばして貰おうと思ったの。私にはトレーナーがいるからって」

「ああ、そういうこと……」

 

 片時もファインの傍を離れないと豪語している隊長たちが、ファインから離れるとは考え難い。彼女たちにとっては、ファインモーションの傍にいる方が幸せだと思うが、それは言わない方が良いのかもしれない。

 

「……みんな、仕事熱心なの。私の傍を離れないって言うから、思わず『命令』にしちゃった」

 

 申し訳なさもあるのか、ファインは少し苦笑をしながらそう言った。

 まるで休みのない仕事。片時も油断もできず、気を張り続ける時間の多い隊長たちには、僅かにでも休みが必要だろう。ただ、彼女たちにとってそれが幸せかは分からないが────、

 

「ねえ、トレーナーっ! 早速温泉に行きましょ! ざぶんと行こうっ、ざぶんと!」

「そうだね。折角来たんだから入らないと」

「私ね! 少しだけ勉強してきたのっ!」

 

 荷物を纏めながら、ファインは声色を高くして蓄えた温泉への知識を自慢気に語り出した。

 興味深い情報に耳を傾け、トレーナーは聞いたこともなかった話に驚きながらもファインと温泉の方へと向かって行った。

 

「ここの温泉はね、近くで取れる薬草や海藻を使った季節湯とか、檜風呂と岩風呂もあるんだって!」

「凄いな……よくそんなに覚えられたね」

「記憶力には少し自信があるんだー!」

 

 ファインは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。

 〝少し〟なんてレベルではない。思い返せば、ファインの記憶能力はかなり異常だ。

 謎解きや他の場面でも垣間見えていたことだが、彼女は他者からの言葉を一文字も間違えることなく覚え、更には相手の一挙手一投足全ても観察し、記憶に残している。護衛との連携を図るためと、建物内の見取り図を完璧に覚えさえもする。繊細な彼女だからこそできるのかもしれないが、それにしても凄いとしか言いようがない。

 

「楽しむのはいいけど、温泉では静かにね」

「はぁい!」

 

 湯暖簾(ゆのれん)の前まで来て、念の為に注意を促す。貸し切りの温泉なら心配ないが、当然ながら温泉には他の客も見える。その中では静かに湯に浸かりたい客もいる故、静かに入るのが一応のマナーではある。

 ファインなら大丈夫だろうが、念の為だ。

 

「それじゃあ、ゆっくり浸かろう」

「ポカポカになって来るよっ」

 

 言葉を交して、別々に別れて湯暖簾を潜った。

 ────温泉。

 日本での伝統的な文化の一つ。

 他の国と比べて火山が多い日本では、火山性の温泉が多い。湯に含まれる成分によって、色や香りなども異なり、身体や健康にも良く効くと言われている。ヨーロッパでは医療行為の一環として位置付けられる側面もあるらしい──全てファインから聞いた。

 

「こうして入るのはいつぶりかな……」

 

 温泉なんて滅多に入る機会はなかった。

 一人で来ようとも考えてないから尚更だ。もしかすれば、ファインと来たのが初めてかもしれない。

 

「────」

 

 ここの温泉は男女共に露天風呂になっており、温泉から見える景色は絶景そのものだ。

 日はもう落ち始めて、地平線の向こう側へと沈もうとしている。真紅の輝きが露天風呂を照らしながら、吹き抜けた風が冷たく、一刻も早く温泉に浸かりたい思いを急かした。

 念入りにかけ湯をしてから、湯船に向かう。滑らないようにゆっくりとつま先から入った。

 

「はあ……」

 

 肩まで浸かれば、思わず声が漏れた。

 つま先から肩へ、湯船の温度が身体の芯にまで染み渡る。どんな効果があって、どんな成分が含まれているのかは分からないが、湯船から棚引いた白い靄が流れていき、花のような香りが鼻孔をくすぐった。

 疲れが取れるとはこのことを言うのか、改めて温泉の効力は凄まじいのだと身に沁みて感じた。

 

「…………」

 

 湯船を手のひらで掬い上げるようにして、指の隙間から流れる湯をぼんやりと眺めた。

 一望できる絶景を見つめてから、自身の腕に視線を移す。それは決して見ようとしなかった数々。それが身体に刻まれている。溜め息が漏れて、舌打ちが虚しく響いた。

 

「こうしてぼんやりと休めるのも、いいな……」

 

 ファインモーションとの日々は楽しい。それは心の底から思っていたことだが、素直に羽を伸ばせているかと聞かれればよく分からない。自分の中では休めていると考えていても、身体は正直だった。

 温泉に長く浸かるほどに、身体の隅々から疲れが抜けていくように感じられた。

 

「俺は、彼女といるだけでも楽しいし、羽を伸ばせているつもりだけど……」

 

 彼女は、ファインモーションはどうだろうか?

 一人には重過ぎる責任を背負って、彼女自身いつ休めているのか分からない。それでいて彼女は繊細だ。

 休めているように見えても、彼女の身体も精神(ココロ)も疲れ切っているのではないだろうか。もっとなにか、彼女の助けになれることはないのか、彼女が休めるような場を作れないのか──分からない。

 そんなことばかりを考えて、いつも責任感に圧し潰されそうになる。彼女の為にと考えるのは良いが、そうして羽を伸ばせていなければ、彼女が怒るだろう。

 

「トレーナーっ!」

 

 温かさに思考がぼんやりしていると、壁の向こう側から聞き慣れた声が波紋を広げていった。

 静かにと注意を促したつもりだが、マナーを忘れるほど温泉に盛り上がっているのかもしれない。辺りを見渡して、誰もいないことを確認してから「はーい」と軽く返答した。

 

「こっちね、誰もいないの。だからこの絶景を独り占めしてるみたいなんだー! トレーナーは?」

 

 問い掛けられ、視線を景色の方へと流した。

 眼前に広がるのは、思わず声を吐露してしまうほどの絶景。このまったく同じ景色を、彼女も見ている。

 そんな彼女の表情は、隣にいなくてもよく分かる。景色に見惚れて、宝石の如き瞳に海の輝きを映しながら、きっと恍惚とした横顔を作り上げているのだろう。そんな綺麗な表情を浮かべる姿が、トレーナーの脳裏にありありと浮かんだ。

 

「こっちも、〝人〟はいないかな……」

 

 含みを持たせたのには理由がある。

 ぼんやりと再度辺りを見渡して、人がいないのは確認。だが視界の端に珍奇なものを発見し、トレーナーはゆっくりとそれの方へと近寄った。

 

「トレーナー? どうしたの?」

 

 反応がなくなったことに不思議に感じたファインが、心配げな声色を響かせた。

 

「あ、いや、人はいないんだけど……」

 

 それがなんなのか湯気の中で凝視しながら、そのビジュアルに見覚えがある中で手の甲の骨頭で一度叩いてみた。

 固い。硬質的なもの同士の衝突に軽く高い音が鳴り、トレーナーは見た目通りの堅牢を感じて、ビジュアルを見つめながら「うーん」と唸って────、

 

「──サルはいるよ」

「え、サルがいるの?」

「うん。なぜかサルの石像があるね」

「凄い! 私の方にはなにもいないのに! 私も見てみたかったなー」

 

 そういうものなのか……?

 羨まし気な声が響いて、静寂に包まれる。湯口から静かに熱水泉が流れ、波紋を広げる音が、絶景の齎す悠然とした景色に呑まれた。

 なぜサルの石像が置かれているのか予想はつくが、わざわざ男湯にだけ置く意味は分からなかった。

 

「ねえ、トレーナー? この国ではどうしてサルが温泉に入るようになったのかな……?」

「あー、確か……子供のサルが温泉に入った餌を取ろうとしたのがきっかけじゃなかったかな」

 

 元より温泉に入るのは、ニホンザルのみだ。

 最初に温泉に入ったのは、長野県の地獄谷にいるサルと言われている。温泉に落ちた餌を取る為に、子サルが入ったのがきっかけともされているらしい。

 地獄谷は最低気温がマイナスにもなる故、寒さの厳しい状況から身を守るための知恵として、温泉に入るようになったとも言われている。

 温泉に猿が結び付けられるようになったのも、理由は様々ではあるが、有名になった起源はそれだ。

 恐らくこの旅館も縁があってサルの石像を置いているのかもしれない。

 

「私も一度でいいから一緒に入ってみたいなー」

「はは、じゃあ今度は地獄谷にでも行ってみよう」

 

 数秒の間が空き、返答が無いことを不思議に思ったトレーナーは彼女の名前を呼んだ。

 

「ファイン?」

「あ、うん、そうだねっ。その時は、是非エスコートしてくださる?」

「もちろん」

 

 そう言って、沈黙が波紋を広げた。

 とても長い時間が広がったように感じて、隣から誰の気配も感じなくなると湯船から立ち上がった。

 やるべきことを全て終わらせ、温泉の温かさを身体に灯らせながら湯暖簾を潜ると、既に温泉から出ていたファインがソファで寛いでいた。

 トレーナーに気が付いた彼女は、笑顔で手を振った。

 

「あ、トレーナー! こっちこっち!」

「ごめん、待たせた?」

「ううん、全然っ!」

 

 答えたファインは立ち上がり、気分良さげに「はい!」と手に持った瓶をトレーナーに向けた。

 困惑しながらも受け取った瓶は、熱の灯った手から冷えた硝子の感触を与える。瓶の中では天井から照らされた光に揺らめき、ちゃぷんという水音を鳴らす白い牛乳が入っていた。

 

「牛乳?」

「温泉に入った後は牛乳に限るって聞いたから!」

 

 なるほど、と受け取り、牛乳瓶の蓋を開けた。

 温泉の後には牛乳──これは昭和三十年代から始まったとされるが、どうしてそうなったのかまでは分からない。だが、言えることはただ一つ。

 

「温泉の後の牛乳は格別」

「ほんとに美味しいね!」

 

 火照った身体に流し込まれる冷えた牛乳。身体の内側に温かさと冷たさが相殺しながら、口の中に甘い味が席巻する。全身まで温まった身体には、それが極限まで齎された。

 

「段々とこっちの文化が染みて来たんじゃない?」

 

 こっちの文化を全力で楽しみ、学んでいる彼女を見ていると、そんなことを感じられ、声に漏らしていた。

 

「そうかもっ! この国の文化は興味深くて面白いことばかりなのっ! いっそのこと、もうこの国に住んじゃおうかな?」

「はは、それは君のお父さんが困ると思うよ」

 

 冗談ぽく言ったファインに向け、思わず笑みを浮かべながら答える。すると彼女は目線を落として、笑顔が一瞬にして消え去った。

 ────嗚呼、本当はこれか。

 

「…………」

 

 そして、本当の違和感の正体に気が付いた。

 ずっと感じていた違和感は、一つの部屋に二人が泊まることではなく、ファインの様子がいつもと違っていることだった。

 どこが違うかと問われれば、そう簡単に言葉にして答えることはできない。だが漠然とした不思議な感覚が、本能にそう告げていた。

 

「ファイン、ちょっと風に当たろうか」

 

 首を傾げるファインの手を取って、トレーナーは外に向かう。海に近い所為か、冷えた風が髪と服を靡かせながら身体を冷たい世界へと誘った。

 身体が温まっているのもあり、吹き抜ける風が心地よく感じられ、身体一杯に感じたくもなった。

 

「トレーナー、どうしたの?」

 

 トレーナーの行動を不思議に思っていたファインが、背後から心配げに問い掛けた。

 振り返り、息を大きく吸ってから口を開く。

 

「ファイン、なにか困っていることがあるんじゃない?」

 

 するべきことは、ただ寄り添うだけ。

 

「答えたくないなら、それでいい。ただ、なにか力になれるなら全力でやるから──」

 

 彼女の笑顔が見たい。それを横で見ていたい。

 どんな表情の彼女も素敵だが、落ち込み泣いている姿は見たくない。なぜかは分からないが、その姿を見ていると、胸が締め付けられるような感覚になる。だから、力になれるのなら、全力で答えるつもりだ。

 

「ねえ、トレーナー……少し、付き合っていただいてもいいかしら?」

「いいよ。それじゃあ、少し歩こうか」

 

 街灯の少ない夜道──地面を照らす光があまり無いおかげで、夜空の星が燦然と輝くのを見られた。

 都会で鳴り止むことのない喧騒は、ここには存在していない。静謐な夜が跋扈して、席巻するのは沈黙と吹き抜ける風だけ。この感覚に芽生えた郷愁は、自分だけでなく彼女も感じているのかもしれない。

 

「トレーナー」

 

 ふと、その沈黙を破ったのはファインだった。

 その歩みを止めて、彼女を見つめる。その時の表情は、首を傾げながらどこか悲しげなものに見えた。

 

「私ね、キミといるのが好きなの。もっと言うと、キミといる時の私が好き」

 

 ────もちろん、キミも好きだよ。

 そんなことは言わなかったが、心にその言葉を留めて、ファインは続けて柔らかな唇を紡いだ。

 

「もちろん殿下と呼ばれる私も好きだよ? だけどキミといる時の私は、いつもよりワガママで、頑固で、結構しょうもない」

 

 思い返して見れば、確かにファインの行動に振り回されることも多かった。

 それでいて自分の意志を曲げようとしない。

 トレーナーは様々な思い出を脳裏に過ぎらせながら笑みを溢した。

 

「はは、そうかもね」

「ふふ、もー、ちょっとは否定してくれる? 特に、しょうもないの辺り!」

 

 怒っているような言い草ではあったが、声色はとても明るく、片頬を膨らませていながらも、ファイン自身は微かに笑みを浮かべていた。

 そんな彼女に向けて笑顔を向けて、トレーナーは僅かながらの謝罪とプラスして言葉を付け足した。

 

「ごめんごめん。それでいて君は、気品があって、気高くて、とても優しいよ」

 

 ファインは自身のことをしょうもない等と言っていたが、傑物の素質を持っている。そして誰よりも繊細で、誰とも変わらない一人の女性に他ならない。

 

「えへへ、ありがとう、今日はそれで許して上げる」

 

 それでね、とファインはなにやら改まり、僅かな寂寥を滲ませながら、目の前にいる彼よりも矮躯な宝石に、夜空の星々と彼が映った。

 

「私のワガママを聞いてほしいの」

「──いいよ」

 

 即答だった。

 その答えを聞いて内心ホッとしていた。

 安堵の息が漏れて、ファインは息を吸い込んだ。

 

 ────ずっと耽溺していた。

 知っていたつもりで、なにも知らなかった。

 彼を知っているのは、たった三年間のことだけ。それ以外のことは殆どなにも知らなかった。

 彼に姉が存在していたことも、家庭の事情もなにも知らない。自分には時間が残されていないからこそ、彼のことを彼の口から知りたい。だから、この本懐こそ──、

 

 

「──私は、キミのことをもっと知りたいの」

 

 

 その言葉は、辺りの音を掻き消した。

 逼迫したような空気が消えて、冷めきった風が席巻する。彼と彼女の髪が風に靡き、彼は眉を上げて静かに驚いていた。

 

「……俺のことを?」

「そう。私はキミのことを知っているつもりだったけど、なにも知らなかった……だから、知りたいの」

 

 ────どうして?

 その声が聞こえて、ファインは言葉に詰まった。

 好きだから知りたい──そんなことは恥ずかしくて言えない。けれどここで思いを伝えなければ、どこで伝えるべきなのか分からない。もしかしたら、もう一生この思いを伝えることはできないかもしれない。

 それでもまだ、僅かでも時間は残っている。

 それは最後でいいから、まずは知りたい。

 

「俺のことを知っても、意味なんてない」

「意味はあるよ。いいの。教えて」

 

 たとえその過去が、今の関係を壊し兼ねないものなのだとしても、絶対に壊れたりはしないと言い切れる。そんなことにはさせない。

 ────私は、キミを愛しているから。

 愛している相手のことを知りたいと願うのは、悪いことなのだろうか。彼のことをもっと知りたい。

 

「────」

 

 トレーナーは視線を逸らして、頭を抑えた。

 困惑し、悩み、唇を噛み締めてから、ようやく理解したかのように何度か頷いた。

 

「……分かった。けど、一つだけ約束してほしい」

「うん」

 

 息を大きく吸い込んで、言葉を紡ぐ。

 泡沫の夢だと分かっていながらも、トレーナーはファインにそれを願う。嫌われたくないからなのか、この感情が齎しているものがなにかは分からない。だが彼はそう思っていた。

 ファインの宝石のような瞳を見つめて、涼し気な風が吹いた中で願いを開く。

 

「俺が俺のことを教えたら、今度は君のことを教えてほしいんだ」

 

 トレーナーは笑みを滲ませてそう言った。

 その約束を聞き、思わず身構えてしまった自分をおかしく感じてしまった。

 席巻した空気感が崩壊して、ファインは思わず笑みを溢した。

 

「あははっ! いいよ。私のことも教えてあげる!」

 

 遠い、遠い、遙か先の星空──煌めく遊星。

 流れるような輝きが、満ち溢れた漆黒の空にいくつも照らす。それがあまりにも憐憫な光に見えて、二人の声が風に矯めた。

 

 

 

 矛盾も超えて引き寄せた運命は────、

 きっとなによりも燦然な────、

 

 

 




感想評価があれば是非よろしくお願いいたします。

トレーナーの過去とか、二人の過去とかいる?

  • どっちもいる
  • なくてもいいかな
  • 二人の過去だけ
  • トレーナーの過去だけ
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