【本編完結】恋人にしたい殿下と何も知らないトレーナー&SP隊長   作:渚 龍騎

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今回の話は短めです。


13 私の居場所は、きっと永遠

 

 

 

 ────行かないで。

 

 

 

 はじめに思ったのは、ただそれだけだった。

 遥かに遠退いていくあの背中。手を伸ばしても、もう既に届く場所(ところ)にはいなかった。

 

 どれだけ叫んでも、その想い(こえ)は届かない。

 どれだけ想っても、その感情(こころ)は届かない。

 一秒前まで、その目は私を見ていた。

 二秒前まで、その声は私を呼んでいた。

 三秒前まで、その彼は私を────。

 

 だが、全てが過去のものに変わった。

 振り返った彼の眼差しは、軽蔑と睥睨の色が強く滲み出ていて、胸の奥底を貫かれたような錯覚に至る。それでもまだ彼を求め、その(こころ)は諦めていなかった。

 嗄れた声が、裂帛にならず虚しく鳴る。濡れた慟哭が、厭になった彼を虚しく見つめる。逼迫した想いが、空言の如く舞い散った。

 

 ────待って。

 

 光が遠退く。輝きが消え去る。

 手を伸ばしたが、その光は消えて行き、意識を取り戻した時は、今にも泣き出してしまいそうな感情に圧し潰され、胃が捻れるような嫌悪感があった。

 慌てて横に首を向け、(そこ)愛しの彼(トレーナー)の姿があることに安堵して胸を撫で下ろす。あの光景が夢であったことへの安心感が、一気に身体を巡り、深い溜め息と共に顔を覆った。

 

「────」

 

 冬へと向かおうとする十月末の僅かな寒気がありながらも、自身の身体と布団は汗で濡れていた。

 暑さから来るものではない。悪夢を見たことによる恐怖と不安。それらが溶け込んだ冷や汗が額から流れていた。

 横には彼がいる──布団が上下して、深く呼吸を繰り返しているのが見てとれる。こちらに背を向けている所為で、表情は分からないが、きっと疲労を癒やす為に深い眠りについているのだろう。

 彼を見つめて、一秒を刻む時計へと視線を移す。時刻は朝の四時過ぎ。昇り始めた太陽の光がカーテンの隙間から僅かに、淡い輝きで差し込んでいた。

 

「はぁ……」

 

 溜め息を漏らして、視線を再び彼へと向けた。

 かつてのあの日に見た夢──トレーナーと結ばれた幸福の夢と打って変わり、今日見た夢はまさに最悪そのものだった。

 自分が考える最悪な結末。夢で良かったと、心の底から思ってしまった。

 夢で彼は自分から離れていった──だが、現実(いま)はしっかりと隣で彼が寝ている。それだけで、その事実のみが、自分を救ってくれていた。

 

「トレーナー……」

 

 悪夢を見た所為か、それとも最初からそうだったのか、どちらにせよファインモーションの意識は盛大に弱り果てて、羞恥など考える余裕もなく、ゆっくりと身体を動かした。

 布団に横たわり、柔らかな感覚に身を任せて、意識を彼の方へと。そして身体も寄せて行き、彼の布団の中に潜り込んだ。

 たくましく、大きく感じる背中に手を当てて、身を寄せながら、その体温を直に感じていた。

 抱き締めることなどできず、ただその背中から彼の温かさに浸ることしかできない。

 

「……ん、ん゛……」

 

 体温にぼんやりしていると、トレーナーが寝返りを打って向きを変える。ファインの方に正面を向けて、彼の顔が眼前に──息がかかるほど近くに、その愛しい人の顔があった。

 いびきは聞こえず、緩やかに眠る彼の寝息を感じて、ファインは自分の鼓動が活発になるのを、胸に手を当てることで理解した。

 

 いつもは大人びて見える彼の顔は、無防備に眠っている所為か、どこか子供っぽくも見え、愛らしくも感じられていた。

 ファインは眼前で眠る彼へと手を伸ばしたが、触れる直前で指が止まる。僅かに引っ込め、固唾を飲み込んでから意思を決して、彼の頬に優しく手を添えた。

 温かく、柔らかい。そして滑らかな肌。それから、布団の中で無防備に置かれていた彼の手に、自分の手を重ね合わせる。ゆっくりと力を込めていき、指を絡めながら手を握った。

 眠っている彼が手を握り返してくれることはない。だがそれでも、ファインは彼の手を握り締めて、更には包み込むようにしてもう一方の手を添えた。

 

 今なら、彼は寝ている──だからなにをしたって彼がなにかを感じず、なにも知らずに目覚める。目覚めたって、彼はなにも知らない。

 無防備な彼に、なにかをできるのもこれが最後だから。少しぐらい悪戯をしたって、誰も怒らない。神でさえも、きっと許してくれるはず。この運命は、あまりにも狷介で、ずっと昔から定められていた──これは変えられない。

 

 

 

 ────運命は、変えられる。

 ────大切なのは、僅かな希望(ひかり)も信じることだ。

 

 

 

 運命に従おうとすれば、いつも彼の言葉が脳裏を過り、往生際の悪い意思が再び目を覚ます。

 いけない。そんなことは許されない。できるはずがない。これ以上はもう、私が私に戻ることができなくなってしまう。祖国を裏切り、皆の信頼も、お父様の顔に泥を塗ってしまうかもしれない。

 これ以上の幸せは許されない。もう充分この至高な時を過ごすことはできた。

 

 

 

 それでも、少しだけ────。

 もう少し欲張りたい────。

 

 

 

 この数秒だけでも、至上の幸福を味わいたい。

 今まで感じたことのなかった幸せを。

 これからはきっと感じられない幸福を。

 最後に一度だけ──意思を保ち、その心に決意を埋め込んで、ファインは彼の顔に寄る。重ねていた手から、彼の温かな脈動を感じた。

 ────彼は、生きている。

 

 彼が倒れた時は、驚愕のあまりになにも考えることができなかった。

 血の気が引いた。

 立っていることすらもできず、胃が捻れるような痛みと吐き気が襲った。心の臓を締め上げられるような感覚が、幾ばくも、癒えることなく、目の前の光景を受け入れようとしなかった。

 視界がぐるぐると回って、思考がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられて、なにも分からなかった。

 

「トレーナー……」

 

 救急車を呼ぼうにも、その番号すら分からなくなって、咄嗟に目に映った隊長へ連絡をした。

 もしも、あの時、あのスマートフォンに隊長の名前が無ければ、私はきっとなにもできず、ただ狼狽えることしかできなかっただろう。

 彼はちゃんと生きている。手のひらから流れる温もりを感じて、そう思えるだけでも、これ以上ない幸せだった。

 

「キミは、他人のことに敏感過ぎて、自分のことに鈍感になってるんだよ……」

 

 ────決して、その言葉は届かない。

 今の彼は、遥か彼方の夢へと、その意識を委ねている。だから決してその言葉が届くことはない。そんなこと分かっていても、ファインの口からは告げられる言葉は、止まる術を知らなかった。

 

「優し過ぎる、鈍過ぎる。キミの優しさ(それ)は、度が過ぎて、自分を知らずの内に苦しめてるんだよ……それなのに、私は、キミの苦しみに気が付けなかった……ずっと一緒にいたのに、キミの笑顔の裏を見抜けなかった……」

 

 胸が苦しい。自分の服を強く握り締めて、吐き出す懺悔も苦痛も、噛み締める唇から溢れるように。

 心をナイフで突き刺されたような痛み。決して優しくはない。容赦なく、冷酷に、問答無用で突き出された心の激痛。形容し難く、言葉では表せない苦しみを、もう感じたくないと、ファインモーションは願った。

 

「キミが私の為に頑張っているのだと知る度に、痛みが私の中に降り積もる……きっとキミは、私がどれだけお願いしても頑張ることをやめないよね……」

 

 彼のことをなにも知らない。だが、この三年間の彼は知っている。だからこそ、彼に無理をするなと言っても、彼が聞かないことは目に見えて分かっていた。

 トレーナーは、ファインモーションを大切に想い、第一に考えている。悲しみと痛みを知っている彼だから、知らずの内に限界を超えてしまう。

 

「私の為を思うなら、私の為に頑張らないで……私は、ただキミと一緒にいられるなら、それだけでとっても幸せなの。けれど、もしもキミがそれでも頑張ると言うなら、私はキミの隣にはいられない……」

 

 きっと彼は、私の所為ではないと言う。

 きっと彼は、私の為を思ってまた無理をする。

 きっと彼は、私の卑屈を否定する。

 そんなこと、端から分かっている。けれど、私は私が許せない。もしもまた彼が倒れてしまったなら、苦痛のあまりに胸が張り裂けそうになる。

 

 

 

「私は、キミを愛しています。誰よりも、いつまでも、私のこの想いが変わることは絶対にないよ。キミは、まだそれを知らないけれど、残された最後の今日(いちにち)に、私は────」

 

 

 

 流れる。揺れる。時が過ぎて、空間が揺らめく。

 最後の言葉は、唇が閉じられて押し留められる。無慈悲に駆ける時を実感して、窓から吹き流れた風がカーテンを優しく揺らし、静謐と静寂の二つの音が布の擦れと共に響いた。

 静かな吐息が、温かに感じる。愛しい彼の顔が直ぐそこにあって、ファインはその僅かに潤んだ瞳で彼を見つめながら、更に距離を縮めていった。

 視線は彼を見つめていながらも、意識はその視界の端で静かに閉じられた唇へと向けられていた。

 

 

 

「──愛してるよ、トレーナー」

 

 

 

 訥々と呟く。そのまま自分の唇を、彼の唇に重ねようと寄せる。茹でった頭をなんとかして落ち着かせ、太鼓と似た音が脈動と共に胸から響く。その音がとても大きくて、彼を起こしてしまうのではないかと心配になるが、彼は深い眠りの中にあった。

 影が重なる。あと数センチの距離を詰めれば、彼と自分の唇が触れてしまう。鼓動が早くて、全力疾走した後のように呼吸が荒かった。

 吐息が混ざり、ファインはその距離を詰めた。

 

 

 

「…………ん」

 

 

 

 唇に柔らかな感触。触れた感覚は独特な弾力によって押し返され、喉の奥から短な声が漏れた。

 重ねられた唇──ではなく、ファインは彼の頬から唇を離して、熱い吐息をついた。

 身体が熱い。ようやくできた高揚感が熱を持って身体中に灯る。それと同時に罪悪感が込み上げてきて、ファインは胸元の服を握り締めた。

 胸が苦しい。彼がどこかに行ってしまうのではないかと、不安の恐怖が心を蝕んできて、内側からなにかが込み上げてきてしまった。

 

 

 

「ねえ、トレーナー。私にとっての〝光〟はね──」

 

 

 

 彼の耳元に顔を寄せていき、吐息を漏らすようにその〝光〟の正体を彼に告げた。

 その声色に浮かれた色はなく、真剣が滲み出ている。だがそれでいて、囁かれた声は席巻する静寂に瞬く間に呑み込まれてしまった。

 朝色の景色が滲む淡い光の中。

 窓の外から朝を知らせる鳥の鳴き声が響き、吐息と寝息が混じって、僅かに残された暗闇に散る。

 

May the road rise up to meet you,(道が常に、貴方の前にありますように)

 

 気付けば、その言葉を口に出していた。

 

May the wind be (風が、いつも貴方の背中を)ever at your back.(押してくれますように)

 

 それは、祖国(アイルランド)にて数々の者たちに告げられてきた祝福の言葉だった。

 

May the sun shine warm upon your face.(太陽の光が、貴方の顔を温かく照らして)

 

 日本にも、他者の幸福を願って神に祈る言葉はある。日本では〝言祝ぎを紡ぐ〟とも言うらしい。

 

And the rain(そして雨が、) fall softly on your fields.(貴方の畑に優しく降りますように)

 

 アイルランドにも、他人の幸福を願って告げる言葉は多い。今、ファインモーションが謳うその言葉も、幸福を齎す為の願いの言葉だった。

 

And until we meet again,(そして、再び出逢える日まで)

 

 ファインモーションは、添えるようにしてトレーナーの顔に手を添える。そして顔を近付けていき、彼の額と自分の額を優しく当てた。

 視界を封じて、瞼を閉じた暗黒の中で彼の温かみを感じながら、最後の言葉を彼に告げた。

 

 

 

May God hold(神がその手で、) you in the hollow of his hand.(優しく貴方を包んでくれますように)

 

 

 

 神の御技、神のご加護を、彼に願って。

 ファインモーションは名残惜しく感じる彼の顔から離れて、布団から立ち上がった。

 いつかの日のように意識がぼやけている訳じゃなく、視界と同様にはっきりと覚醒している。そんな中で、ファインモーションが立ち上がったのは、温泉に浸かる為だった。

 流石に汗をかいてしまった身体で一日を過ごしたくはない。乙女としても、この恋心の為にも、彼が起きるまでに、身体を清める時間は残っているはずだから。

 

 ファインモーションが去った部屋の中、幾ばくも虚しいくらいの静寂が広がっていた。

 誰の気配も存在しなくなった部屋で、たった一人の影がある。横たわるその姿は布団で覆い隠されていたが、彼は音の消えた静謐で身体を起こした。

 大きく息を吐き捨て、大きく息を吸い込む。激しく脈打つ鼓動をなんとかして鎮めようとするが、そう簡単なことではなかった。

 手のひらで口元を抑えて、吐き捨てた息が熱を持って指の隙間から漏れる。トレーナーは今の出来事を理解できず、困惑して眉を寄せていた。

 

 

 

「え……? どういうこと……?」

 

 

 

 その男は、今の出来事を終始聞いていた訳ではない。

 どのタイミングで目覚めたのか、どこから()()を聞いて、感じていたのか、トレーナー自身もよく理解できない状況だった。

 終わりを迎える鐘の音が聞こえる。

 二人を別つ時間が────最後に迫っていると、高らかに告げていた。




次回、本編最終回。
感想評価があれば是非よろしくお願いいたします。

トレーナーの過去とか、二人の過去とかいる?

  • どっちもいる
  • なくてもいいかな
  • 二人の過去だけ
  • トレーナーの過去だけ
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