【本編完結】恋人にしたい殿下と何も知らないトレーナー&SP隊長 作:渚 龍騎
────行かないで。
はじめに思ったのは、ただそれだけだった。
遥かに遠退いていくあの背中。手を伸ばしても、もう既に届く
どれだけ叫んでも、その
どれだけ想っても、その
一秒前まで、その目は私を見ていた。
二秒前まで、その声は私を呼んでいた。
三秒前まで、その彼は私を────。
だが、全てが過去のものに変わった。
振り返った彼の眼差しは、軽蔑と睥睨の色が強く滲み出ていて、胸の奥底を貫かれたような錯覚に至る。それでもまだ彼を求め、その
嗄れた声が、裂帛にならず虚しく鳴る。濡れた慟哭が、厭になった彼を虚しく見つめる。逼迫した想いが、空言の如く舞い散った。
────待って。
光が遠退く。輝きが消え去る。
手を伸ばしたが、その光は消えて行き、意識を取り戻した時は、今にも泣き出してしまいそうな感情に圧し潰され、胃が捻れるような嫌悪感があった。
慌てて横に首を向け、
「────」
冬へと向かおうとする十月末の僅かな寒気がありながらも、自身の身体と布団は汗で濡れていた。
暑さから来るものではない。悪夢を見たことによる恐怖と不安。それらが溶け込んだ冷や汗が額から流れていた。
横には彼がいる──布団が上下して、深く呼吸を繰り返しているのが見てとれる。こちらに背を向けている所為で、表情は分からないが、きっと疲労を癒やす為に深い眠りについているのだろう。
彼を見つめて、一秒を刻む時計へと視線を移す。時刻は朝の四時過ぎ。昇り始めた太陽の光がカーテンの隙間から僅かに、淡い輝きで差し込んでいた。
「はぁ……」
溜め息を漏らして、視線を再び彼へと向けた。
かつてのあの日に見た夢──トレーナーと結ばれた幸福の夢と打って変わり、今日見た夢はまさに最悪そのものだった。
自分が考える最悪な結末。夢で良かったと、心の底から思ってしまった。
夢で彼は自分から離れていった──だが、
「トレーナー……」
悪夢を見た所為か、それとも最初からそうだったのか、どちらにせよファインモーションの意識は盛大に弱り果てて、羞恥など考える余裕もなく、ゆっくりと身体を動かした。
布団に横たわり、柔らかな感覚に身を任せて、意識を彼の方へと。そして身体も寄せて行き、彼の布団の中に潜り込んだ。
たくましく、大きく感じる背中に手を当てて、身を寄せながら、その体温を直に感じていた。
抱き締めることなどできず、ただその背中から彼の温かさに浸ることしかできない。
「……ん、ん゛……」
体温にぼんやりしていると、トレーナーが寝返りを打って向きを変える。ファインの方に正面を向けて、彼の顔が眼前に──息がかかるほど近くに、その愛しい人の顔があった。
いびきは聞こえず、緩やかに眠る彼の寝息を感じて、ファインは自分の鼓動が活発になるのを、胸に手を当てることで理解した。
いつもは大人びて見える彼の顔は、無防備に眠っている所為か、どこか子供っぽくも見え、愛らしくも感じられていた。
ファインは眼前で眠る彼へと手を伸ばしたが、触れる直前で指が止まる。僅かに引っ込め、固唾を飲み込んでから意思を決して、彼の頬に優しく手を添えた。
温かく、柔らかい。そして滑らかな肌。それから、布団の中で無防備に置かれていた彼の手に、自分の手を重ね合わせる。ゆっくりと力を込めていき、指を絡めながら手を握った。
眠っている彼が手を握り返してくれることはない。だがそれでも、ファインは彼の手を握り締めて、更には包み込むようにしてもう一方の手を添えた。
今なら、彼は寝ている──だからなにをしたって彼がなにかを感じず、なにも知らずに目覚める。目覚めたって、彼はなにも知らない。
無防備な彼に、なにかをできるのもこれが最後だから。少しぐらい悪戯をしたって、誰も怒らない。神でさえも、きっと許してくれるはず。この運命は、あまりにも狷介で、ずっと昔から定められていた──これは変えられない。
────運命は、変えられる。
────大切なのは、僅かな
運命に従おうとすれば、いつも彼の言葉が脳裏を過り、往生際の悪い意思が再び目を覚ます。
いけない。そんなことは許されない。できるはずがない。これ以上はもう、私が私に戻ることができなくなってしまう。祖国を裏切り、皆の信頼も、お父様の顔に泥を塗ってしまうかもしれない。
これ以上の幸せは許されない。もう充分この至高な時を過ごすことはできた。
それでも、少しだけ────。
もう少し欲張りたい────。
この数秒だけでも、至上の幸福を味わいたい。
今まで感じたことのなかった幸せを。
これからはきっと感じられない幸福を。
最後に一度だけ──意思を保ち、その心に決意を埋め込んで、ファインは彼の顔に寄る。重ねていた手から、彼の温かな脈動を感じた。
────彼は、生きている。
彼が倒れた時は、驚愕のあまりになにも考えることができなかった。
血の気が引いた。
立っていることすらもできず、胃が捻れるような痛みと吐き気が襲った。心の臓を締め上げられるような感覚が、幾ばくも、癒えることなく、目の前の光景を受け入れようとしなかった。
視界がぐるぐると回って、思考がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられて、なにも分からなかった。
「トレーナー……」
救急車を呼ぼうにも、その番号すら分からなくなって、咄嗟に目に映った隊長へ連絡をした。
もしも、あの時、あのスマートフォンに隊長の名前が無ければ、私はきっとなにもできず、ただ狼狽えることしかできなかっただろう。
彼はちゃんと生きている。手のひらから流れる温もりを感じて、そう思えるだけでも、これ以上ない幸せだった。
「キミは、他人のことに敏感過ぎて、自分のことに鈍感になってるんだよ……」
────決して、その言葉は届かない。
今の彼は、遥か彼方の夢へと、その意識を委ねている。だから決してその言葉が届くことはない。そんなこと分かっていても、ファインの口からは告げられる言葉は、止まる術を知らなかった。
「優し過ぎる、鈍過ぎる。キミの
胸が苦しい。自分の服を強く握り締めて、吐き出す懺悔も苦痛も、噛み締める唇から溢れるように。
心をナイフで突き刺されたような痛み。決して優しくはない。容赦なく、冷酷に、問答無用で突き出された心の激痛。形容し難く、言葉では表せない苦しみを、もう感じたくないと、ファインモーションは願った。
「キミが私の為に頑張っているのだと知る度に、痛みが私の中に降り積もる……きっとキミは、私がどれだけお願いしても頑張ることをやめないよね……」
彼のことをなにも知らない。だが、この三年間の彼は知っている。だからこそ、彼に無理をするなと言っても、彼が聞かないことは目に見えて分かっていた。
トレーナーは、ファインモーションを大切に想い、第一に考えている。悲しみと痛みを知っている彼だから、知らずの内に限界を超えてしまう。
「私の為を思うなら、私の為に頑張らないで……私は、ただキミと一緒にいられるなら、それだけでとっても幸せなの。けれど、もしもキミがそれでも頑張ると言うなら、私はキミの隣にはいられない……」
きっと彼は、私の所為ではないと言う。
きっと彼は、私の為を思ってまた無理をする。
きっと彼は、私の卑屈を否定する。
そんなこと、端から分かっている。けれど、私は私が許せない。もしもまた彼が倒れてしまったなら、苦痛のあまりに胸が張り裂けそうになる。
「私は、キミを愛しています。誰よりも、いつまでも、私のこの想いが変わることは絶対にないよ。キミは、まだそれを知らないけれど、残された最後の
流れる。揺れる。時が過ぎて、空間が揺らめく。
最後の言葉は、唇が閉じられて押し留められる。無慈悲に駆ける時を実感して、窓から吹き流れた風がカーテンを優しく揺らし、静謐と静寂の二つの音が布の擦れと共に響いた。
静かな吐息が、温かに感じる。愛しい彼の顔が直ぐそこにあって、ファインはその僅かに潤んだ瞳で彼を見つめながら、更に距離を縮めていった。
視線は彼を見つめていながらも、意識はその視界の端で静かに閉じられた唇へと向けられていた。
「──愛してるよ、トレーナー」
訥々と呟く。そのまま自分の唇を、彼の唇に重ねようと寄せる。茹でった頭をなんとかして落ち着かせ、太鼓と似た音が脈動と共に胸から響く。その音がとても大きくて、彼を起こしてしまうのではないかと心配になるが、彼は深い眠りの中にあった。
影が重なる。あと数センチの距離を詰めれば、彼と自分の唇が触れてしまう。鼓動が早くて、全力疾走した後のように呼吸が荒かった。
吐息が混ざり、ファインはその距離を詰めた。
「…………ん」
唇に柔らかな感触。触れた感覚は独特な弾力によって押し返され、喉の奥から短な声が漏れた。
重ねられた唇──ではなく、ファインは彼の頬から唇を離して、熱い吐息をついた。
身体が熱い。ようやくできた高揚感が熱を持って身体中に灯る。それと同時に罪悪感が込み上げてきて、ファインは胸元の服を握り締めた。
胸が苦しい。彼がどこかに行ってしまうのではないかと、不安の恐怖が心を蝕んできて、内側からなにかが込み上げてきてしまった。
「ねえ、トレーナー。私にとっての〝光〟はね──」
彼の耳元に顔を寄せていき、吐息を漏らすようにその〝光〟の正体を彼に告げた。
その声色に浮かれた色はなく、真剣が滲み出ている。だがそれでいて、囁かれた声は席巻する静寂に瞬く間に呑み込まれてしまった。
朝色の景色が滲む淡い光の中。
窓の外から朝を知らせる鳥の鳴き声が響き、吐息と寝息が混じって、僅かに残された暗闇に散る。
「
気付けば、その言葉を口に出していた。
「
それは、
「
日本にも、他者の幸福を願って神に祈る言葉はある。日本では〝言祝ぎを紡ぐ〟とも言うらしい。
「
アイルランドにも、他人の幸福を願って告げる言葉は多い。今、ファインモーションが謳うその言葉も、幸福を齎す為の願いの言葉だった。
「
ファインモーションは、添えるようにしてトレーナーの顔に手を添える。そして顔を近付けていき、彼の額と自分の額を優しく当てた。
視界を封じて、瞼を閉じた暗黒の中で彼の温かみを感じながら、最後の言葉を彼に告げた。
「
神の御技、神のご加護を、彼に願って。
ファインモーションは名残惜しく感じる彼の顔から離れて、布団から立ち上がった。
いつかの日のように意識がぼやけている訳じゃなく、視界と同様にはっきりと覚醒している。そんな中で、ファインモーションが立ち上がったのは、温泉に浸かる為だった。
流石に汗をかいてしまった身体で一日を過ごしたくはない。乙女としても、この恋心の為にも、彼が起きるまでに、身体を清める時間は残っているはずだから。
ファインモーションが去った部屋の中、幾ばくも虚しいくらいの静寂が広がっていた。
誰の気配も存在しなくなった部屋で、たった一人の影がある。横たわるその姿は布団で覆い隠されていたが、彼は音の消えた静謐で身体を起こした。
大きく息を吐き捨て、大きく息を吸い込む。激しく脈打つ鼓動をなんとかして鎮めようとするが、そう簡単なことではなかった。
手のひらで口元を抑えて、吐き捨てた息が熱を持って指の隙間から漏れる。トレーナーは今の出来事を理解できず、困惑して眉を寄せていた。
「え……? どういうこと……?」
その男は、今の出来事を終始聞いていた訳ではない。
どのタイミングで目覚めたのか、どこから
終わりを迎える鐘の音が聞こえる。
二人を別つ時間が────最後に迫っていると、高らかに告げていた。
トレーナーの過去とか、二人の過去とかいる?
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どっちもいる
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なくてもいいかな
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二人の過去だけ
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トレーナーの過去だけ