【本編完結】恋人にしたい殿下と何も知らないトレーナー&SP隊長 作:渚 龍騎
この感情が、なんなのか分からなかった。
胸の奥がなにかで埋め尽くすされるようで、隣にいるだけで謎の高揚感と幸福感が遍いていた。
出会った時から? それとも出会う前からなのか、その感覚を認知し始めた時には、もういつからそれを知っていたのかすら分からない。
ただ、この感覚が杞憂ではないと、本能が絶えずそう叫び続けていた。
彼女の存在が、自分の存在を大きく変えた──それは間違いではない。だが、この渦巻く感情がなんなのかは分からない。
感じたことがなかったのか、はたまたその感情を知らなかったのかもしれない。
彼女の笑顔を知っている。
────見ていると、こっちまで笑顔になる。花のように可憐で綺麗な表情だった。
彼女の悔涙を知っている。
────見ていると、胸が締め付けられるような感覚に呑まれる。それが嫌で、全力で尽くした。
彼女の喜悦を知っている。
────初めてのことに全力で喜び、それを教えてくれる姿は、思わず見惚れてしまう光があった。
彼女の後悔を知っている。
────皆に答えようと走り、窘める姿は応援したくなると同時に、自分の無力さを思い知らされた。
彼女の存在が、この人生の明日を変えていった。
分からない。分からない。分からない。
この渦巻く感情の正体を。彼女を想う度に胸が締め付けられるような痛みの感覚を。一緒にいるだけで感じるこの温もりを──なにもかもが分からなかった。
──『キミと一緒がいいの』
──『ありがとうっ! 流石私のトレーナーっ!』
──『キミは私の〝特別〟だよ』
────嗚呼、いや、違うな。
この感情は、分からないのではない。
知っている。分かっている。分かっていながら、知らないフリをして、現実から目を背けていた。
もしそうだと知ってしまえば、彼女のトレーナーでいれなくなると、この感情が更に大きくなって、周りのことが見えなくなるしまう。だからこの感情を押し留めて、この気持ちを偽ってきた。
────彼女の気持ちを蔑ろにして。
少し考えれば分かることだった。
彼女に相応しくないからと、自分で勝手に理由をつけて、彼女に気持ちを大切にと言っておきながら、自分がそれを大切にできていなかった。
全力で頼ってくれたり、天真爛漫な笑顔を見せてくれたり、自分の身をなにより心配してくれたり、彼女の感情を真っ直ぐ向けてくれる姿が、俺は愛らしいと思って───。
────この気持ちはきっと、きっと。
◆◆◆◆
微かに残る夏の匂い。
穏やかに流れるさざなみが、優しく浜辺を打って、潮騒という音楽を奏でる。それはいつも同じ音でありながら、奏でる長さは変わり、それがまた別の音楽へと変化していった。
遍く空を照らし尽くす太陽が、揺らめく紺碧の海に彩りを与え、瞬く光と転じて煌めいた。
「ファイン、危ないよ?」
恍惚とした景色に心を奪われそうになる中で、海を一望できる道路──津波から海の侵入を防ぐ為に造られた海岸堤防。その上を歩く一人の少女に向けて、トレーナーは彼女を見上げながら心配の声をかけた。
綺麗に彩られた茶色の髪が、海を駆け抜けた風に揺られ、髪を抑えた少女──ファインモーションは、トレーナーを見下ろして手を伸ばした。
「じゃあ、私の手を握っててくださる?」
「仰せのままに、殿下」
差し伸べられた手を握り、二人は歩いている高さこそ違ったが、歩行の速度は同じで並んでいる。ファインは空いた腕を広げ、バランスを取りながら堤防の上を歩いていた。
「もし落ちたら、受け止めてね」
「落ちないで」
冗談ぽく言ったファインは僅かに笑った。
その
今日の朝に起きた出来事──なにが起きていたのか思考が追い付いていない。
今、トレーナーとファインモーションは旅館から然程離れていない道路を歩いていた。
ファインモーションはバランスを取りながら海岸堤防をゆっくりと歩き、トレーナーは彼女の手を握り締めて、彼女が落ちないように引いていた。
時折、バランスを崩して「あ」と声を漏らす彼女を引いて、僅かに冷や汗をかきながら歩く。
潮騒の音に耳を澄ませながら、ファインモーションの提案によって二泊三日の旅行の二日目をぶらぶら過ごそうというもの。三日目にはこの街を出て、東京へと帰る。のんびりと気ままにこの街を観光できるのは、実質これが最後の一日とも言える日だった。
「ねえ、トレーナー?」
「ん」
足を止めたファインモーションに合わせ、トレーナーの歩みも止まる。彼女は堤防の上からトレーナーを見下ろし、首を巡らせては海の方へと視線を向けた。
「
「北アイルランドにある海岸? 世界遺産にも登録されてたっけ」
「そうそれ。よく知ってるね」
アイルランドでは『Clochán an Aifir』だったか。
北アイルランドに存在しており、火山活動の連続で生まれた四万以上の石柱が連なる海岸。その石柱群は印象的で、そこから見える景色はイギリスの中でも語り継がれるほどの絶景だ。
なぜそんなことを突然聞いてきたのか分からなかったが、恐らくは海を眺めていながら、ふと芽生えた郷愁に祖国の海を思い出してしまったのかもしれない。
「日本語だと『巨人の石道』だったかな」
「巨人? なんで巨人の石道?」
ファインモーションは顎に人差し指を置き、視線を空へ向けながら「えーっとね」と思考を巡らせてからその
「フィン・マックールが作ったって言われてるの」
「フィン……ああそっか、彼はアイルランドの伝説だったね」
アイルランドの神話を構成する四つの物語群。その内の三番目──フィン物語群で語り継がれる英雄。かつて
その名前は同じケルト神話でも、
「でもなんで巨人? フィン・マックールは巨人とかじゃなかったよね」
「そうだよ。伝説だとスコットランドにいたベナンドナーっていう巨人と戦いに行くためにコーズウェーを作ったとされてるの」
「それで
ファインモーションは「そう」と頷いた。
ジャイアンツ・コーズウェーのある北アイルランドからスコットランドまでの距離は約350kmもある。それだけの長い距離を繋げたのがフィン・マックール。伝説だとしても、普通の人間が成し遂げられるものではない。それだけフィン・マックールが偉大かつ聡明であった証拠かもしれない。
「フィアナ騎士団といえば、ディルムッド・オディナも有名だったよね。超イケメンで優れた戦士の」
羨ましい、とトレーナーは呟いた。
フィアナ騎士団の一番槍とも謳われ、美貌を持ち、女性を魅了させる
大英雄フィン・マックールが一番信頼を置いていた人物とも言えるのが、ディルムッド・オディナだ。
「うん、彼の勇姿や矜持は、とても素晴らしいものだったんだよ。アイルランドの男の人にとっては憧れの存在でもあったんだー!」
容姿が良いだけでなく、性格も素晴らしく、忠義心と友情にも厚い。主君や友の危機には、逡巡の判断で駆け付ける。それでいて騎士としての矜持を強く持っていた故、魔法に頼らず、戦いでは常に先陣を、撤退では
容姿端麗、温柔敦厚の才色兼備。まさに完璧の二文字を具現化させ、人に変化させた者こそディルムッド・オディナといえるだろう。
ただ一つ、彼に欠点があるとすれば──、
「見た目も格好良くて、中身も良い。それでいて仲間想いで戦いも強い──確かに憧れるね」
「トレーナーももう充分格好良くて、優しい性格だと思うよ?」
「はは、ありがとう。君に言われると嬉しいよ」
軽く笑い、感謝を告げて、トレーナーはファインモーションを見上げる。陽の光を背に受ける彼女の姿は、影を描いてトレーナーを暗く隠していた。
握り締める彼女の手は靭やかでありながら、トレーナーの手を強く握り締めていた。
ファインモーションが歩み始めて、ゆっくりとトレーナーの歩も進む。延々と続き、終わりの見えない海岸堤防。浜辺を叩く波が、時折柔らかに風に吹かれて、ファインモーションの髪が揺れた。
顔に掛かった髪を指で解かして、耳に掛ける。その姿があまりにも美麗に輝いて、恍惚としていた。
思わず見惚れていると、視線に気が付いたファインモーションが「ん?」と首を傾げた。
慌てて視線を逸らして、
「ディルムッド・オディナはまさに完璧だった訳だけどさ。彼の
「えっと、彼の最後は……」
フィアナ騎士団として数々の武功を上げたあれほどの英雄の最後──活躍した全盛期の話は聞いたことがあれど、最後に彼が何処で何をしていたのか、神話や伝説の知識が付け焼き刃程度しかないトレーナーには分からなかった。
疑問を向けられたファインモーションは、僅かに視線を逸らす。なぜ口ごもっているのか理解できていないトレーナーが、彼女の名を
────ファイン。
その直後──海洋から吹き荒れた風が、ファインモーションの身体を外側へ押し込む。痛いほどに強い風は、轟と鳴りながら辺りの大気を吹き飛ばして、整えられた髪と着揃えた服を強く靡かせた。
風に煽られて、ファインモーションの態勢が崩れる。彼女の口からは「きゃっ……」という短い悲鳴が聞こえ、トレーナーは慌てながら両手を広げ──、
────大丈夫?
海岸堤防から態勢を崩して落下したファインモーション。重力のままに落ちていった彼女の身体を、トレーナーは柔らかく受け止め、緩やかに見下ろしながら心配げな色を強く滲ませていた。
ファインモーションはトレーナーの腕の中に収まり、胸の中で顔を埋めている。彼女の息遣いが僅かに熱くて、様子がおかしいことに気が付いた。
「トレーナー……」
「ん? どうしたの?」
背中に回されたファインモーションの腕に、僅かに力が込められる。胸の中に顔を埋められている所為で、トレーナーから彼女の表情は伺えない。だが見下ろせる直ぐそこに、艶のある綺麗な髪とウマ娘特有の耳があった。
ファインモーションの耳は倒れていて、朗らかに様子がおかしいということは直ぐに理解できた。だがしかし、彼女は深呼吸をしてからトレーナーを小さく呼んだ。
「…………突然なんだけど、聞いてもらえる?」
いいよ、と直ぐに返って来て、ファインモーションはトレーナーの胸の中から離れる。一歩、二歩、そこまで離れると、トレーナーから視線を落とした。
ディルムッド・オディナ。アイルランドの英雄にもなった彼の人生の最後──それを答えられなかったのには、彼の妻『グラーニア』と『フィン・マックール』に理由があった。
ファインモーションはその歴史を胸の内に押し留め、告げなければならない現実をトレーナーに向けて、視線を落とす。大きく深呼吸を繰り返してから、唇を開いた。
「本当は、もっと早く言うべきだったんだけど……」
「うん」
短く、そして優しい声が返ってきた。
もっと早く言うべきだった──その思いこそ本当ではあったが、実際は言えなかった。
それは、もしもこれを言葉にして彼に伝えたなら、残された短い日常が一気に消えてしまうような気がして、この夢が現実に塗り潰されると思ったから。それでも、今ここで言わなければならない。この夢は、もう充分の幸せを味わった。だから────、
「──私ね、祖国に帰らなきゃいけないの」
時が止まった。
ありとあらゆる全てが止まる。それは勿論、人間という種族の名を背負ったトレーナーも例外ではない。だが、時が止まったのもただ彼がそう感じただけで、現実は無慈悲にも一刻と時を刻んでいた。
言葉にならない。声が言葉を描けない。思考が言葉を生成しない。彼女の言葉を理解できず、自分の言葉を形にすることができなかった。
数秒、数分、いったいどれだけの時が流れたのかは分からない。ようやく冷静さを取り戻しつつあった思考が言葉を描いた。
「いつから?」
「この旅行が終わったら」
「いつまで?」
「……分からない」
「どうして?」
「お父さまから、最近の私の行動は目に余るって言われちゃったの……」
だが、吐き出されたのはどれも疑問の言葉だった。
止まらない質問。次々と浮かび上がる懐疑の思いが、戸惑いを加速させる。それがなぜなのかトレーナー自身ですらも分からず、止めることもできない。
繰り返される問い掛けに、ファインモーションは至って冷静に答える。だがしかし、彼女の表情は暗く、視線も落ちていて、いつもの天真爛漫な彼女はそこにいなかった。
「…………そうなん、だ……」
「ごめんね。もっと早く言うべきだったんだけど」
もし言ってしまえば、彼はなんとしてでも私が日本に残れるように無茶をしてしまう。
もし言ってしまえば、彼を裏切ったような気がして、この甘い夢が終わってしまう。そう思ったから言い出すことができなかった。
隊長から告げてもらうこともできた。それをしなかったのは、私自身が彼の担当ウマ娘として直接言わなければならないと思ったから。
「そっか……アイルランドに帰っちゃうのか……」
トレーナーは、ぼんやりと呟きながら顔を上げる。空を仰ぎ見て、その表情を隠した。
思考の隅では理解しているつもりだった。
ファインモーションは、ずっとこの国にいられる訳ではない。いずれは祖国へ──アイルランドへと帰ってしまう存在なのだと、そんなこと始めから分かっていることだった。
だが、それを理解していながらも、彼女がずっと側にいてほしいと感じ続け、この淡い日常が永遠に続くものなのだと、勝手に思い込んでいた。
現実がそんな単純で、甘いものではないと知っていたのに。覚悟していたとはいえ、それを突き付けられるのは、心が収斂するような痛苦の感覚があった。
「いつか来るとは思ってたけど、それでもやっぱり……」
言葉を呑んだ。
最後の言葉は、言ってはならない。もし言ってしまえば、彼女が覚悟を持って言ってくれたことを無駄にする。だから、その言葉を胸の内に押し留めた。
祖国に帰る──その言葉は、もうトレーナーとは簡単に会えない事を意味していた。
明朝に彼女と挨拶は交わせない。
彼女の走りを支えることはできない。
彼女の華やかな笑顔を見ることもできない。
日本親善大使という役職は、あくまでも対外的な文化交流の増進を図る役目であって、永遠にその国に留まる訳ではない。ましてやファインモーションはアイルランドにとっても必要不可欠の存在と言える。
日本からアイルランドまでの距離は約9500kmで、ファインモーションの立場も考えるならば、もうそう簡単には会えない。隣に立つことすらも、側で笑い合うことも、もう叶わない。
ウマ娘としての三年間はまさに奇跡であり、その後に与えられた時間は〝おまけ〟に過ぎなかった。
「トレーナー……」
ファインモーションが、悲しみに濡れた声色でトレーナーの手を取る。滑らかで柔らかな指が、彼の手を握り締めて、同時に二人の温もりが脈打った。
彼女の声色に浮かれの色は一切消えている。だが、それ以外の色が強く塗られていて、朗らかに真逆のなにかを含んでいた。
二人の間に、今までにないほどの沈黙が落ちた。
虚しく、悲しく、それでいて儚く、ファインモーションの思考は煩雑していた。
過ぎて行く時間は、いつもとはあまりにも違った雰囲気で、まるで弔慰に席巻するような空気感。悲しみ、弔う、そんなことをする相手など今はまだ存在しないのに────そんな空気に耐えられる訳もなく、トレーナーは冷静になった末、笑みを浮かべた。
「そんなしけた顔しないで。最後の一日なんだから、目一杯楽しまないとね!」
ファインモーションを見つめて、トレーナーは明るい声色でそう告げた。
涙では送りたくない。最後の思い出を悲しみで濡らしたくない。だからこそ、最後は笑顔で送り出さなければ、彼女のトレーナーとして顔が立たない。
「トレーナー……」
「さあ、この一日を全力で胸に刻もう!」
差し伸べられた手は、驚くほど大きく感じられて、ファインモーションは思わず笑みを浮かべた。
いつもこの手がファインモーションを支え、その少女には重すぎる責任を背負った背中を押してきた。パッと見ただけでは綺麗な指と手のひらではあるが、その手には様々な努力が重ねられているのだと、容易に理解できた。
「ええ、是非エスコートして頂けるかしら?」
差し伸べられた手に、自身の手を乗せる。そうすれば、トレーナーが「ああ」と答えてその手を握った。
綺麗な手でありながら、触れて見ると、やはりこの手は大きくて強い男性の手なんだと分かる。この手をずっと握り締めていることができれば、どれだけの苦難を乗り越えられるだろうか。この手とならきっと、どんな苦難も困難も、全ての壁を超えられる。
刹那という久遠の果て、キミとなら────、
────何処までだって行けるから。
腕を引かれた。
彼の背中が大きく見えて、逞しく感じた。
外見的ながたいの話ではない。いつもの背中が、より一層大きく見えたのだ。
頼りになるその背中を、いつも追いかけて来た。
彼は「君の隣に立てるように」と何度も繰り返し言っていたが、本当は逆。
隣に立たなければならないのは自分であって、彼はずっと手の届かないほど前を歩いている。この残された時で、ようやく届いたと思ったのに────。
「ファインはどこに行きたい? やっぱラーメン? それともさっきあっちの方に謎解きをやってるお店があったけど、そっちに行く?」
手を引きながら、次々とファインモーションの好きそうな場所を思案して提案した。
残された時間はあと僅か。早々に決めて行動しなければ、一日などあっという間に過ぎて行く。時間の感覚は、大切と感じるほどに早く加速する。なんと不思議な概念なのか、その感覚を理解するほどの時間は残されていない。逡巡がファインモーションを捉えたが、それを押し切ってトレーナーの服の裾を掴んだ。
歩みが止まり、振り返った彼が首を傾げる。そんな彼に向け、ファインモーションが気後れしたように俯き、懇願するような上目遣いで彼を見つめた。
「私、トレーナーに話したいことがあるの」
「祖国に帰る話は後で聞くよ」
ファインモーションは首を振った。
「ううん、違うの」
恐らく彼はしみじみとした話を切り替え、今は最後の一日を楽しむことに専念しようとしていたのだろう。もの憂いに染まった話は、待ち受ける楽しみを塗り潰す。だが、ファインモーションが言いたいのは祖国の事でも、帰郷の事でもない。
それらよりも、遥かに大事にしたかった想い。
自分が想定していた言葉ではないことを察したトレーナーは、表情を崩さないまま「分かった」とゆっくり頷き、続けて「それに」と繋いで、
「俺も君に話したいことがあるんだ」
トレーナーから告げられ、ファインモーションは首を傾げる。だが彼はその〝言いたいこと〟を言わず、天に遍く蒼き空を見上げた。
蒼いキャンパスに彩られた白い雲が、吹き抜ける風によって運ばれ、時間をかけてゆっくりと空気となって消えて行く。誰も描くことのできないキャンパスは、これから何者も染めることのできない漆黒へと姿を変える────その先を見つめながら、トレーナーは言った。
「今日は満月になるらしい。だから、最後かもしれない夜を見に行こう。きっと、最後の思い出に相応しい綺麗な景色になるから、そこで話さない?」
断る理由はなかった。
寧ろ満月の夜の方がロマンチックな雰囲気もあって、この想いを言い出すにはもってこいの展開。今は楽しむことに全力を尽くして、この想いは最後に残して置くのもいい。きっと今この感情を吐き出してしまえば、この国にずっと残っていたくなってしまう。
だから、答えは一つだった。
「分かった!」
「よし、それじゃあ遊びに行こう」
「うんっ、まずは謎解きの前に腹ごしらえだねっ!」
ファインモーションの言葉を理解して、二人の共通の目的が生まれる。トレーナーは彼女の手を引き、歩み始める。二人で見つめる世界は、色とりどりの花が咲き乱れてるように綺麗で、この過ぎて行く時間を、巡る感情を、全てを抱いて────。
◆◆◆◆
────つまるところ。
暦上にて、十月は〝神無月〟と呼ぶ。なぜそう呼ばれるようになったのかは諸説あるが、有名なのは毎年十月になると八百万もの神が出雲大社に一斉に集う為、各地の神社から神がいない『神が無い月』ということから十月は〝神無月〟と呼ばれるようになった。
そして、十月に瞬く満月は『
黒く染められた鋼青が空に滲んで、見上げれば一際大きく目立つ〝それ〟が一番に映り込む。漆黒の夜空にぽっかりと空いた淡い光の輝き。ウソで塗られた満月の光が、二人の道を緩やかに照らしていた。
「気を付けてね」
「それじゃあ、手を握ってて?」
「いいよ」
捻りもなく了承されて呆気に取られるが、ファインモーションは直ぐにトレーナーの手を握る。ゆっくりと引かれて、足下を注視しながら彼に引かれるまま僅かに並んだ石畳を登っていった。
トレーナー曰く、旅館の女将から満月が一段と綺麗に見える穴場を教えてもらった、とのこと。
唯一の導となる手は、強く握ったままファインモーションを引いていく。どんな場所に連れて行かれるのか、彼からはただ短い言葉で綺麗な場所としか言われていない故に想像もつかなかった。
どれほどの絶景が待っているのか、心が弾むのを感じながらも僅かに寂しい気持ちが上回っていた。
「そういえば、さっきディルムッド・オディナの最後を調べたんだ」
どれほどの時間が経ったのか、歩みが進んでいく中で、トレーナーが今朝話していた事を思い出しながら切り出す。その声を聞いたファインモーションは、困惑を滲ませて「え?」と声を漏らした。
フィアナ騎士団のディルムッド・オディナ。彼の最後は、虚しく、悲しいものだった。彼が結んだ
「完璧と思ってた彼だけど、唯一の欠点は彼が結んだ〝
〝
例えばディルムッドなら『猪を狩ってはならない』、『女性の頼みを断ってはならない』などのような複数の
「そう、だね……ディルムッドは、フィンと結婚したグラーニアに駆け落ちを申し出されたの」
グラーニアに無理やり
「可哀想と言うべきか……愛と
その後、フィンから二人の結婚は許されるが、彼の恨みが消えることはなかった。
とある日の夜、ディルムッドはベン・ブルベンの山で魔獣と化した猪と戦うことになる。『猪を狩ってはならない』という
それこそが、フィアナ騎士団の一番槍ディルムッド・オディナの最後。グラーニアの自分勝手な愛と、彼自身が結んでいた
「ディルムッドは、グラーニアを愛してたのかな?」
「どうだろう……」
ディルムッドに一目惚れをして、半ば無理やりにも彼と逃避行したグラーニア。彼女自身はディルムッドを愛していても、無理やりにも愛を誓わされたディルムッドが彼女を愛していたのかは分からない。
だが、彼の性格を考えるに、グラーニアのことを愛していたのかもしれない。
「でもまあ、子供もできて安息の日々を過ごしていたっていうなら、逃避行の中でディルムッドはグラーニアを愛するようになったかもね」
始めは欠片もなかった恋が、二人で苦難を乗り越え過ごして行く内に愛へと育った。だがその愛は嫉妬を生み、恨みを募らせて、最後は終わりへと至った。
ファインモーションがディルムッド・オディナの最後を語れなかったのは、グラーニアの齎した自分が勝手な愛を抱いた所為で愛する人を失う──それが脳裏に過ぎったからだった。
グラーニアの愛は、ディルムッドを苦しめた。
もしも自分の抱いた愛が、トレーナーを苦しめてしまうのなら、この想いは永遠に胸の中へ押し込んでしまいたい。彼が苦しみ、悲しみ、死んでいく姿など、絶対に見たくないのだから。
「でもディルムッドは、瀕死の重傷を負いながら、自分のことより〝仲間〟の事を心配してたらしいね」
自分が死ねば、仲間を守れなくなる──死ぬ直前にまでそんなことを呟いていたディルムッドは、本当に仲間想いの素晴らしい人間だったと言える。彼のような傑物を見殺しにしてしまったフィンは、嫉妬や恨み、そしてディルムッドを失った悲しみの感情が渦巻いていたという。
「もしも、俺もディルムッド・オディナのように強かったら、君を守れたのに──」
ふと、トレーナーがなにかを呟いた。
聞き返そうと彼を見た瞬間、彼の歩みが止まり、視線が正面へと向けられる。僅かな坂道を登った先にあったのは、さっきまでとはまったく雰囲気の違った拓けた場所だった。
あるのは、一部を切り取ったように拓けている空間と落下防止の為の柵、そしてその前に設置されたたった一つのベンチだけ。トレーナーは柵の目の前まで歩み寄り、眼前に広がった景色を見て思わず感激の声を漏らす。その隣に立ったファインモーションも、それは同じだった。
美しい景色。どれほどの坂を登ったのか、いまはよく分からないが、その拓けた空間から覗いたのは、燦然と煌めく街並。人々の活動を指し示す光の集合体。灯りの少ない夜闇を照らして、その奥で風に揺られる海が一望できる。地平線の彼方、遥か遠くから、夜空にぽっかりと空いた美しい満月が昇っていた。
「君と出会ってから、俺は時を気にするようになったんだ」
その昔、一人の少年は〝光〟を見た。
絶望と暗闇に呑まれる人生で、その〝光〟の意味を探し、この手で掴み取る為に、時を忘れるような努力を積み重ねて来た。他の時間などどうでもいい。ただそれの意味を探せればそれでいい。
だが、一人の少女と出会ってから、流れ行く時間を感じるようになった。
「昔は、ゆっくりと流れる時間が憎くて、さっさとこの時間なんて消えればいいとまで思った。だけど、君と出会ってからは、駆け抜ける時間が終わってほしくないと思ったんだ」
遠くの景色を見つめながら、彼は言った。
「この時間が、永遠に続けばいいと思った。この幸せを、ずっと君と歩めたらいいと思ったのに、現実も運命も、本当に残酷だ……」
彼から呟かれてくる言葉を噛み締める。落とした視線から彼の横顔を一瞥した。
黒に塗られた瞳が、地平線の向こう側から昇る満月に照らされている。その表情に滲む感情が読み取れなくて、言いようのない感覚がファインモーションの胸を締め付けた。
「この時が来るのが怖かった。いずれ訪れるこの瞬間まで、君との時間を忘れないように胸に刻み込んだ」
曖昧になり、掠れていく記憶では、いずれ二人の思い出が消えて行く。だが胸の奥底にある心に刻み込めば、たとえ運命に逆らえずとも忘れることはない。一つを刻む度に、一つの悲しみが滲む。楽しみが増える度に、その真逆の感情が増えていった。
彼女のいない世界を想像するのが辛くなり、元の生活には決して戻れないと、彼女がいなくなった時に気付いてしまったから。その感情が分からず、胸が苦しくなる感覚が理解できず、なにも分からなかった。
彼女のいない世界を────。
彼のいない世界を────。
────想像したくない。
二人の想いは、同じだった。
もう既に、二人は互いが存在しない世界を考えられなくなっていた。
あの時───ファインモーションとトレーナーの運命は変わった。
それが単なる偶然なのだとしても、その事実は決して変わらない。あり得べからざる世界が照らされ、存在するはずのなかった道が描かれた。
「俺に、ディルムッドのような力があれば良かったのに。そしたら、君を連れて何処まででも逃げられたのかもしれない……」
ディルムッド・オディナは、無理やりとはいえグラーニアと駆け落ちをさせられる。そんな中で、フィン・マックールが送り込んでくる敵からグラーニアを守り続けた──たとえその相手が魔法使いであろうとも、全力で守り抜いていた。
彼のような強さがあれば、ファインモーションを守り抜くことができたかもしれない。だが、ディルムッドのような強さも勇敢さも、トレーナーは持ち合わせていない。現実がそれを許してはくれない。
────勇者にはなれない。
────戦士にもなれない。
柵に置いた手が握り締められる──強く、手のひらに爪が食い込むほどに。更に、唇を噛み締めた。
────この運命は、変えられない。
その現実を、叩きつけられた。
後頭部に衝撃が疾走ったような感覚。
運命とは、別離を齎す。
全ての生物に決められた流れ。誰が、どのように行動しようとも、運命の終着点は決まっている。どれだけ足掻いても、その運命が変わることはない。だがそれは、運命を変えようとしなければの話だ。
終着点に着くまでに、その決められた運命に抗う意志があれば、誰だって運命は変えられる。それを、身を以て感じた。だが、今回はどうにもできない。
────つまるところ、二人の関係は既に終わりが決められていた。
最早、二人がここまで歩むことができたのは奇跡に近い。これまでの時間を過ごせたのだから、これ以上のワガママを言うことは決して許されない。だけどそんなこと、認められるはずがなかった。
ファインモーションという名のウマ娘は、生まれた時から運命が定められていた。
三年間を走り抜けた彼女は故郷へと帰り、祖国の礎として全うする。定められた運命を歩み、用意された道を進んでいく。それが当然の話だった。
「君が国へ帰った時、この胸に溢れた感情がなんなのか分からなかった。だけど、君と過ごす事が許された時間で、ようやくこの気持ちに整理がついたんだ」
もっとはやく言えばよかった、とトレーナーは悔しさを僅かに滲ませながら拳を握る。だが、もしこの感情をもっと早い段階で言ったなら、恐らくは彼女と別れることは絶対にできなかった。
トレーナーには、ファインモーションの存在が必要不可欠で、ファインモーションにはトレーナーの存在がいなくてはならない。
「トレーナー……?」
ファインモーションは、トレーナーを心の底から愛している。彼の齎した初めての感情。恒久的に続いてほしいと願うこの想い。彼と共にいることができたから、今の自分が存在している。だから、ずっと彼の隣で過ごしていたい。だが、トレーナーは……?
「────」
トレーナーを見つめて、彼は深く息を吐いた。
長い間、夢を見ていた気がする。とても夢想的で、理想的で、現実的な夢。それをどこか遠くで眺めていて、それでも隣でずっと見つめていた気もした。
だがしかし、それはウソなんかではない。
「なにもなかった俺の世界に、温かい光をくれたのは君だ──ファインモーション」
「…………え?」
ウソの光を纏った満月が、雲から覗く。月光が夜闇を照らして、二人の顔を濡らした。
ようやく言える。ずっと秘めていたこの感情を。ファインモーションがどう思っているのかは分からないが、彼女が去ってしまう前に伝えなければならない。
トレーナーがファインモーションの肩を掴む。真っ直ぐに、月夜の灯りをその瞳に映して、彼女を見つめる。強く彩られた眼差しが交差して、いつにも増して真剣な表情がファインモーションを捉えた。
「上手く言えないかもしれないし、これが大人として、トレーナーとしては間違ってるのかもしれない。いや、絶対に間違ってる。だけど、この気持ちにウソはつきたくない」
次々へと言葉を羅列していくトレーナーは、なにかを言おうとしているが、唐突に襲った恐怖が思考を遠回りさせる。だが、そこまで羅列してトレーナーは大きく息を吐き捨てた──邪魔な失念を吐くように。
「だから、言うよ────」
この歩みが、終わりへと向かうものなのだとしても、今まで得た栄光が消えることはない。輝きに満ちた歩みは、きっと終わらない。
この運命が、偶然から来訪したものだとしても、それはきっと間違いではない。定められた運命に、神様が与えてくれた僅かな幸福。少ない時間であっても、この幸福に満ち溢れた時間は光り輝いていた。
その輝きに満ち溢れていたからこそ、終わりを想像するのが簡単で、考えないようにしていた。
「ファイン、俺は──」
この瞬間は、何者にも邪魔はさせない。たとえ神であっても、運命が阻むものなら、その運命を変えてやる。その覚悟と決意が、彼を突き動かしていた。
ゆっくりと時間が流れる。だが吹き抜ける風によって、時が平常に流れていると気づかせる。揺らめいて、吹かれて、遠方で煌めく波が輝いた。
────遅れて、
「────君のことが好きだ」
瞬間、時が止まった。
聞こえた声に目を見開き、困惑のあまりに状況を理解できず、思考が混乱する。言葉にならない声を途切れながら繋ぎ、ファインモーションは口元を抑えた。
「え……? まさか、私に話したいことって……」
「ああ、それだよ」
気が付かなかった。知らなかった。
この想いは私だけだと勝手に思い込んでいたが、彼も同じ想いだなんて、想像もしていなかった。もしそうだったら嬉しいと、そんな希望的観測しか抱いていなくて、困惑と驚愕、更には嬉しい気持ちで脳が処理を施せていなかった。
ずっと昔から、それを望んでいたはずなのに、それを願って、思案をしていたのに、まさか彼もまた同じ想いだったなんてなにも知らなかった。
「うそ……わた、し……は……」
声にならない。言葉ができない。
胸を締め付けるようなこの想いが、嬉しさなのか分からない。ずっと夢見ていた
「わたし、王家の子女……」
「知ってる」
「祖国の礎になる、ファインモーションだよ……?」
「知ってる」
怖くなってしまった。
彼には彼の未来があり、私には私の使命がある。彼を私の使命に繋げてはならない。だから、否定をして、拒否をして、この想いに蓋をして封じ込めなければ────なのに、それなのに彼は更に踏み込んだ。
「全てを分かった上で言っているんだ。君との思い出は最高の幸せだった。君は思い出が増える度、思い出して喪失感に打ちひしがれる。きっと君はそれを誰にも気付かせない。それが自分の使命だと、心に鍵をする──だから、そんなことをさせたくないから、俺は君を笑顔にする為にも、前へと進むよ」
「でも、わたしは……わた、しは……」
「大切な人が一生側にいることもあるって、俺が君に伝えよう。俺は、ディルムッドのように勇猛でもないし、フィンのように聡明でもない。だけど、誰かを守りたい気持ちは彼らと同じだ」
────嗚呼、私の想いはやっぱり。
内側から感情が込み上げる。蓋をして、封じ込めたはずの感情が溢れる。次から次へと、押し込めようとも、封じようとも、その感情が荒波となって押し寄せては、防波堤を破壊した。
口元を両手で抑える。なんとしてでも表に感情が出ないように口元を隠したが、口角が上がってしまって、嬉しさが表情に滲み出ていた。
「私と一緒にいたら、いつかキミは不幸になるかもしれないよ……?」
「いつかの話なんてされても困るよ。そんな未来、来ないかもしれないでしょ?」
トレーナーはそう言って笑った。
知っていた。きっと、私がなにを言っても、彼は私の隣にいてくれる。それらを否定して、拒絶して、全てを受け入れて私と一緒にいてくれる覚悟が見えた。
「トレーナー……」
「君の隣にいたい。けれど今は、現実がそれを許してくれない」
────そうだ。
今は、彼とは共にいられない。
ファインモーションにはファインモーションの使命がある。それはトレーナーもまた同じ。どれだけ願っても現実も運命も変わることはない。
トレーナーと担当ウマ娘としての関係が、二人を引き離す。本来トレーナーは教員の立ち位置であり、教育者としてもトレセン学園在籍の生徒と恋愛的感情による親密な関係は常識的に許されない。それでいてファインモーションの役目を考えるならば尚更だ。
そんなことは分かっている。だが、トレーナーは「だけど」と更に言葉を紡いだ。
「──俺は、必ず君を迎えに行く。何ヶ月、何年経っても、君と一緒に歩む為に、必ず君に会いに行く。この〝運命〟を変えてみせる」
そんなことは理解している。だからこそ、それを踏まえてトレーナーは先の未来の話をした。現状では何もできないから、トレーナーの立場では何も成し得ることが許されないから、トレーナーは約束を語った。
だから、その言葉が繋ぐ。
「君には待っていて欲しいんだ」
変わらなかった世界が廻り始める。差し出された手は、あの頃と変わらない。そして、その手を握ろうとする自分の手も、あの時のままだった。
瞳に浮かんだ雫が溢れて、口元を抑える手に落ちる。漏らした吐息は熱くて、脈打つ鼓動が更に加速した。答えなんて、絶対に変わることはない。
「自分勝手な願いなのは分かってる。それが君を縛り付けるのも分かってる。それでも、俺が会いに行くまで待っていて──っ!」
トレーナーの言葉が、最後まで紡がれず、無理やり押し留められる。その言葉は、トレーナー自身が止めたものではない。他の者の介入があって、最後まで告げることができなかったのだ。
温かな体温を眼前に感じる。漏らす息が熱を持って、眼前にある彼女の吐息と交じる。突然起こったことに目を見開き、トレーナーは眼前の光景を理解できなかった。
端正な顔立ちが、そこにある。いつも隣で見てきた彼女の顔が、目の前にあった。
自分の顔が滑らかな指で抑えられ、彼女の両手によって引き寄せられている。そして自分の唇に、なにか別の柔らかな感触が重ねられていた。
じっくりと、息が苦しくなるまで。思考が追いつかないまま、彼女の顔が少し離れた──だがそれでも、息がかかるほど近くて。
僅かに離れたことで、彼女の表情を見ることができた。吐息を漏らし、頬は赤く染まっていて、宝石のような瞳には、間抜けな表情をする自分が月光に照らされながら映っていた。
「──もちろん、待ってるよ!」
笑顔で、それでいながら涙で濡れた表情。ファインモーションは、彼の懇願を受け入れ、宣言した。
答えなど、最初から決まっていた。
待っていてほしい、と頼まれなくても端からその答えは決まっている。頼まれなくても、ずっと待ち続ける覚悟がある──彼が全てを分かった上で、想いを伝えてくれたように。
────この時、確かに〝神〟はいなかった。
誰の邪魔もなく、神でさえも介入はしなかった。
光の彼方。闇夜を照らす月光が、二人の顔を濡らす。一人の少女は涙で塗られていて、空いてしまった彼の手を握り締めた。
「初めてのキスは、レモンの味って言うけれど、キミはどんな味だった?」
「分からなかったかな」
「──私もっ!」
照れくさいような表情を浮かべたトレーナー。ファインモーションはその言葉と同時に一歩を踏み出して、顔を突き出す。トレーナーも合わせて顔を寄せ、月光に照らされた影が交わり、唇が重ねられた。
数秒か、それとも数分か、時の狂った中で、名残惜しく感じる顔が離れた。
「そういえば、君の気持ちをまだ聞いてない」
「言わないとだめ?」
「もちろん、その〝気持ち〟を聞かせて」
悪戯っぽく笑みを浮かべるトレーナーが愛らしい。確かに自分だけこの気持ちを伝えないのは、なにか違う気がした。だからファインモーションは、この長かった旅路の末に、ようやく確かめられた本心を告げた。
「──私も、キミを愛しています」
咲き誇る花のような笑顔で、少女はその想いを口にする。知っていたような彼の手を取ると、えへへなんて笑いが溢れてしまった。
彼の表情が好きだ。いつも真剣で、泣いて、笑って、大人びているのに稀に見える子供っぽい顔が。
彼の手が好きだ。いつも優しく差し出してくれて、この震えた手をリードしてくれる強い手が。
彼の背中が好きだ。大きくて、逞しくて、まるで
彼の言葉が好きだ。紛らわしくて、恥ずかしい台詞を吐くのに、どこか博識を感じられる優しい言葉が。
彼の全てが好きだ。なにもかも、嫌いなところなんて何処にもない。きっとこれから嫌いなところができるのかもしれないけれど、そこも含めて彼を愛せる。その〝嫌い〟さえも〝好き〟になって────、
「トレーナー!」
「ん?」
改めて呼べば、彼は首を傾げた。
「〝あなたが私を迎えに来て、私を幸せにすること〟これを
笑顔で告げられた誓いに、トレーナーは一瞬驚いたような表情を浮かべたが、逡巡を押し切って答えた。
「誓うよ、俺の全てを懸けて──」
ウソに彩られた月の輝きが、辺りを照らす。それは確かにウソで塗られていたが、そこにウソは存在していなかった。純粋で、愚直ながらに真っ直ぐで、それでも確かにその想いは届いた。
恋する世界は、素敵な物語を描く舞台。物語の結末は書き変わる。彼らの手によって、神が定めた運命を覆し、ただ隣で一緒に歩む為に────。
◆◆◆◆
────キミにとって〝光〟とはなに?
その漠然とした問い掛けに、彼はなんと答えるべきか頭を悩ませ、思考を巡らせた。だが、その答えは最初から決まっていて、きっと変わることのない光であることは確かだった。
悩んだ理由は、ただなんて言葉に変換させるべきか分からなかったから。
爽やかな草原で、温かな日差しに照らされた風が流れる。辺りの草花を撫で、なにもない草原にたった一本だけ佇む大木の葉が擦れた。
木々のさざめき。空を飛び立っていった小鳥の囀りが、遥か遠くの光となって消える。淡く、柔らかく、とても心地の良い音だった。
「むかしむかし、一人のお姫様がいました」
木の下。葉が揺れる影の下で、一人の女性が絵本を開いていた。
鮮やかな彩りのページを持ち、そこに描かれた絵を眺めながら文字を口に出していく。
「お姫様はウマ娘でしたが、走ることは許されていませんでした」
ページを捲り、ゆっくりと聞き取りやすい声で言葉にする。
「ですが、一人の王子様がお姫様の本当の気持ちに気付かせてくれ、手を差し伸べてくれました」
「二人は、色んな困難を乗り越えていきました。その道は険しく、何度も諦めそうになりましたが、二人は手を取り合い、支え合いながら歩んでいきました」
ページが捲られる。
「やがてお姫様は、王子様に恋をしてしまいます。ですが、その恋は簡単なものじゃありません。王子様とお姫様は、お互い遠く離れた国の人だったからです」
女性はふと笑みを浮かべた。
何度も読み続けてきた絵本。その結末を、彼女は知っていたからだ。
結末へと向かう絵本のページを捲ろうとして、彼女の膝で眠りこけていた一人が唸る。ようやく起きたと二人の視線がそちらに向けられ、女性は絵本を閉じた。
「おはよう」
「あ、あー……
彼はむくりと起き上がり、頭を掻いた。
視線を巡らせ、眠気眼を擦りながらぼんやりと視界で、彼女の持っていた絵本へと視線を向けた。
「好きだね、その絵本」
「キミと作ったこの世に一つの本だもの」
「そっか」
彼がそんなことを呟いた直後、彼女の隣で静かに絵本を見ていた少女が声を荒らげた。
「ねーねー! おひめさまは最後どーなっちゃうの? おうじさまとケッコンするの?」
問い掛けられて、女性は「うーん」と考えるフリをする。そして視線を少女に向けては「どうなったと思う?」と問い掛けた。
少女の疑問は、絵本の結末を見れば分かる。だが分からない。なぜならその絵本には、結末という最後が描かれていなかったからだ。
絵本の最後は、お姫様が王子様に「愛しています」と伝えて終わる。その後の結末も、彼女たちがどうなったのかまでは描かれていない。だから少女はその後が気になっていた。
「うーん、わたしはわかんない!」
「あははっ、そんなに難しいことじゃないよ? きっとお姫様は、思っているよりも近くで幸せになっているのかも」
やんわりとした曖昧な答え。だが、それでいて少女の疑問にはしっかりと答えていた。
少女は絵本を手に取り、また最初からページを捲り始める。それを横で眺めながら、女性は未だに寝ぼけている彼へと視線を映して苦笑した。
「大丈夫?」
「……まあ、それなりに。まさか隊長があんなにもスパルタな方とは思わなかったけど」
「私
「もちろん、だからさっきまで隊長に投げ飛ばされ続けたんだよ?」
首を回して、身体を伸ばしながらそんなことを言う。その声色に嫌味などは含まれず、どことなく楽しげな、笑いが滲んでいた。
「ねー! おとーさんかけっこして!!」
その時、絵本を読んでいたはずの少女が、父親の目覚めに気が付き、即座に立ち上がっては腕を引いた。
「おー、行ってこい行ってこい。俺は眺めてるから」
「だーめー! わたしもおかーさんみたいにかっこよくなりたいのっ!」
「それじゃあいくよっ!」と有無を言わせず、少女は駆け出す。その背中を眺めて、あまり乗り気ではなかった彼の背中を、彼女が押した。
「ほーら、あなたも行くの!」
「……それじゃあ、君も一緒だよ。あの無邪気な愛娘を捕まえるの手伝って」
背中を押した彼女の手を取り、彼は笑った。
腕が引かれる。駆け足になる背中を見つめて、その背中が昔と変わっていないことに笑みを零す。いつだって変わらない大きくて頼りになる背中。そしてこの手を引くそれも、やはりあの時のままだった。
────ありがとう。
他に伝えるべき言葉が沢山あったはずなのに、彼女はそれだけしか考えられない。胸が一杯に詰まっていて、感謝の言葉以外が引っ掛かってしまっている。けれど今は、ただ前へ前へと進みたがっていた。
かつてと変わらずひたむきに。
「──
ふと、呼んだその声が彼らの歩みを止めた。
振り返った先──そこにいたのは、あの時に見た少女の姿。彼女はウマ娘だった。
アイルランドが誇る王家の子女であり、祖国と日本を繋ぐ日本親善大使であり、初代URAファイナルズの優勝者であり、彼を愛する普通の少女だった。
彼女の名前は──ファインモーション。あの頃と変わらない少女と重なって、ファインモーションは純粋無垢で天真爛漫な笑顔を浮かべながら、その想いを彼に告げた。
「──私、あの時キミの手を取って良かった! こんな幸せ、今まで感じたことがなかったよっ!」
告げられ、彼は笑みを浮かべた。
「幸せはまだ終わらないよ。それに、言ったでしょ? 〝運命〟は変えられるって──」
さあ行こう、と手が差し伸べられた。
「──うんっ! 行こう
吹き抜けた風は、草原に似た爽やかさだった。
告げられた言葉は、幻聴でもなく、幻視でもなく、確かに此処に
二人の左手の薬指に嵌められたお揃いの指輪と、それぞれの首に掛けられたネックレスが、太陽の光に煌めいて、互いに手を握り締める。
世界の果てさえ、二人は知らない。
悲しまず生きる術も持っていない。
目指す先に待っている夢。それを手にしたら、変わる運命を描いた。
──ねぇあなた、私にとっての〝光〟はね。
────ずっと私を支えてくれた、キミなんだよ?
その想いを、彼は決して気付かない。だけどそれでいい。この想いを気付かせて魅せる時間は、これから沢山あるのだから。恒久的な時間をかけて、ゆっくりと気付かせればいい。
二人は、再び駆け出す。
終わりの見えない
これにて本編は終わりでございます。
長い間、お付き合い頂きありがとうございました。
駆け込み気味になりましたが、ようやく本編を終わらせることができて心の底から安堵しています。
ですが、本編自体は終わりですが明らかにやっていない話もあり、自分自身やりたい話もある為、更新自体は終わりません。番外編みたいな形でやります。
綺麗な終わり方もできた為、ここまでで満足って方はここまで読んでいただき、ありがとうございました。いつの日か、また出会えたらと思います。それでは。
感想や評価があれば是非よろしくお願いいたします。
以下、小ネタとかその他もろもろ
◇《テーマ》
この作品のテーマは、色々な所にも出てきましたが〝光〟と〝運命〟です。
〝光〟を出した理由はファインモーション(Noble Seamair)の固有スキルで妖精らしき光がファインモーションを導く所からです。ファインが「この光は……」というセリフを言っているのもあります。それになにより、自分が大のウルト○マンネクサス好きだということが大きいです。
ネクサスは絆や運命といったものをテーマに大々的に取り入れており、ファインモーションは運命を愛さなければならないウマ娘ということで、なんとなくそんな感じです。
どこぞの妖怪縁結びの話とかありましたね。月はウソつきってあれは、ドンブ○ザーズのあれです。
────光は、絆だ。
────その輝きは、決して消えることはない。
◇トレーナーの過去
トレーナーの過去は書くつもりでいて、設定もある程度固まっていたのですが、あまりにも暗すぎるため割愛してます。本来はファインがトレーナーのことを知りたいって言った時に書こうとしてました。だけど、ここまであまり曇らせしてなかったのに、変な方向へ持ってくのは間違ってると思ってやめました。それでも知りたいという方がいれば、下に少しだけ載せます。
▼トレーナー
幼少期に線維筋痛症を患い、父親から日々暴力を受け続ける。「お前の身体じゃ無理だ。死んだ方がいいぞ」とまで言われるが、ある日に見たウマ娘の走りに光を見て魅了され、《トレーナーになりたい》夢を描き、諦めないことを決意した。
線維筋痛症とは、今でも治療法が見つかっていない実際にある病気で、全身に激痛が走る症状。ただそれだけ書くとそんな大病に見えないかもしれないが、実際は光や風でさえも身体に激痛が走る。歩くだけでも剣山を歩いているような感覚に陥る。
父親は数年後に事故で他界し、最後まで諦めなかった想いがそうしたのかは不明だが、線維筋痛症も奇跡的に治り、本格的にトレーナーという夢に向かって駆け出した。
お金を得る為にも母親は再婚。血の繋がってない姉ができ、過去を知るとトレーナーを溺愛するようになる。一応、姉の設定としては新たにできた弟(トレーナー)を守る為に武術などを習得するほど。
トレーナーは勉学に関してかなり優秀なもので、トレセン学園の中央ライセンスを一発で取るほど。だが、トレーナーになりたい夢を叶えた後のことは考えておらず、ファインモーションに出会うまでは誰一人としてスカウトもできなかった。
◇《二人の過去》
二人の過去に関しては、番外編にて少しだけ出すつもりです。そんな大々的に書くのは体力的に厳しい為、自分の書きたかったものにプラスしてちょっと載せる程度です。
この作品はURAファイナルズを優勝した後の話ですが、個人的にそのURAファイナルズにどうやって勝ったのかみたいなのを書きたい。ただ、その描写があまりにも難しく、私自身競馬を全く知らない為に苦戦してます。
ファインモーションは、マイルチャンピオンSでデュランダルに敗北して終わっている為、URAファイナルズでは捲土重来ということでデュランダルに勝利!みたいな感じに物語ではちょろっとだけ語ってます。
あと書くつもりなのは、ファン感謝祭や二人がただイチャコラするようなものばっかです。
◇《最終回》
タイトルは、ご存知の通りファインモーションのキャラソンですね。ウマ娘の曲の中で一番好きかもしれません。この作品の中にも、所々あの曲の歌詞を取り入れたりもしてました。
ディルムッド・オディナのくだりは要らないんじゃないかとも思いましたが、当初は駆け落ちエンドも考えてたのでその名残りでもあります。あとはディルムッドの話をすることで後の展開を持って行きやすくしようとしてました。
最後、ファインモーションとトレーナーが結婚して子供ができてるハッピーエンドにした訳ですが、取り敢えずファインモーションには幸せになってほしいという願いが強くでています。
ファインモーションは忠実?だと子供ができない体質だったとのことで、当初は子供ができずともトレーナーとなら幸せだという展開も考えてましたが、運命をテーマにしているのもあり、ファインモーションの産駒とか泣けるなと思って書きました。
トレーナーの過去とか、二人の過去とかいる?
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どっちもいる
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なくてもいいかな
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二人の過去だけ
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トレーナーの過去だけ