【本編完結】恋人にしたい殿下と何も知らないトレーナー&SP隊長   作:渚 龍騎

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一度でいいからファインモーションに会いたかったのですが、会えないらしいのでアイルランドに旅行に行こうと計画を立てております。
注釈を使って見たのですがかなり難しいですねこれ。

最近はキタちゃんの話も書き始めました。続くかは気力次第です。今はファインの方を書き終わらせたいので投稿頻度はかなり低いです。読みたい方がいらっしゃったら下からお願いします。
キタサンブラック』


17 飛び立てない私に、あなたが翼をくれた

 

 

 

 いったいいつぶりだろうか。

 喉が痛い。唾を飲み込む動作ですら、焼けるような痛みが走る。頭痛も酷い。抑えつけられているような感覚が常にあった。身体は錨でも乗せられているように、重過ぎて動かない。風邪とは、ここまで辛く酷い症状の病気だっただろうか──風邪、侮れない。

 元々病弱だったとはいえ、ここ数年はなにもない健康そのもの。完全に油断してしまったか、あの健康さがウソのように酷い。ファインモーションのことばかりを考えてこの有様とは、トレーナーとして失格だ。

 

()()()()()。あたま、いたい……」

 

 頭痛が言葉になって漏れる。痛みに苦悩する呻きが、静かな部屋の中で虚しく響いた。

 呼吸は荒く、汗が止まらない。苦痛によって眠ることもできない。喉が渇き、枕元に置いてあるコップを取ったが、既に中身が空で、淹れに行こうにも身体が動かない。最早絶体絶命の状況に陥っていた。

 

 瞳を閉じて、暗黒の中にあるその先を、ぼんやりと思考の奥で見つめる。あの時と同じ暗闇、二度と見たくは無かったその闇は、いつだって深淵へ引き摺り込もうと手を伸ばしている。それは一本だけでなく、幾つも、無数の腕が伸びて掴んでいた。

 

 

 

 ────イヤだ。

 

 

 

 あそこには戻りたくない。行きたくない。その一心でひたすら足掻くが、掴み取るその手は異常なほどに強くて、逃れることができない。足掻くことでさえも無駄にされ、無数に伸びた手が四肢だけでなく五感をも掴んで離さない。

 人間とは、病に侵されると身体だけでなく心も弱くなるもの。彼もまた同じで、過去の出来事の所為で他人よりも更にそれが大きい。誰もいない恐怖と、誰かに見捨てられる錯覚が全てを負で支配していた。

 

 

 

 ────嗚呼、三途の川が見える。

 

 

 

 否、見えていない。過剰である。

 久方ぶりの風邪によって、彼の心は完全に弱り果てていた。大人で有りながらも、その有様は傍から見てもかなり酷い。それだけ風邪の症状がキツく酷いものなのだろう。

 一人が孤独に感じて、いつもより寂しく感じるのも、全てが風邪の所為である。

 終わりをその身で感じていた時、どこか遠くで物音が聞こえる。玄関の鍵が開くような音──それが部屋の中に響き渡り、彼は深淵に引き摺り込まれつつある意識を浮上させ、その瞳をゆっくりと開いた。

 

 

 

「────あ」

 

 

 

 見慣れた彼女の姿が視界に映り込んで、彼の意識は安堵と同時に消え去って行った。

 もう大丈夫だよ、という優しい声色が鼓膜を叩いたのを最後に────。

 

 

 

 ◆◆◆◆

 

 

 

「トレーナーが熱!?」

 

 

 

 五月、窓を横殴りに何度も叩く雨音を掻き消して、困惑と驚愕の声が響き渡る。断続的に、時が経つほどに重みを増していき、遠くを見つめれば冷ややかな薄闇が辺りを包み隠して、蒼に輝いていた空を灰色の雲が覆っている。そんな憂鬱な気分にさえなる天気で、ファインモーションは驚きの声を上げていた。

 

「はい、先程トレーナーさんの方から電話が来ました。それほど辛くはなさそうでしたけど、大事をとって休むとのことです。ファインモーションさんに移しては大変だと……」

 

 緑色を基調とした制服に身を包み、特徴的な黄色のネクタイを付けた女性──駿川(はやかわ)たづなは、僅かに声色を落としながらトレーナーからの伝言を伝えていた。

 

「ファインモーションさんには、あとでトレーニングメニューを送るとのことです。あとは「本当にごめん」と──」

 

 トレーナーからの言伝をメモに施した紙を見つめながら、ファインモーションにそれを告げる。そして紙から顔を上げ、視線を戻した先──ファインモーションは既に背中を向けて、廊下を走り去っていた。

 

「あ! まだ続きが──!」

 

 幾ら呼び掛けても、その声は既に届かない。ファインモーションの背中は遠くなっていき、ただ一人だけ駿川たづなは取り残されていた。

 いまのファインモーションにはどんな言葉も聞こえない。その聡明な思考を埋め尽くすのは、大切な彼の存在。ただそれだけしか考えられず、彼の身の安否が気になって、心配で仕方がなかった。

 

「隊長!」

 

 大声を上げると、物陰からすぐさま隊長が姿を現す。ファインモーションの言葉を聞くよりも早く、全てを理解した様子で隊長は口を頷いた。

 

「はい、承知しております。直ちにトレーナー殿の様態を確認し、薬を用意いたします」

「ありがとうございます。私も最後の授業を受けたら直ぐに参ります」

 

 言い切ったファインモーションに、隊長は「ですが」と顔を上げて躊躇いながらも────、

 

「トレーナー殿の病気が殿下に移っては大変です。ここは私たちがトレーナー殿の看病を致しますので、殿下は通常通りに生活していただき──」

「──いえ、そうはいきません」

 

 隊長の言葉を遮り、ファインモーションは当然の如く否定した。隊長はあくまでもファインモーションの身を案じて、言葉をかけていたのだが、彼女は悩む瞬間すらなく首を振っていた。

 

「トレーナーは私のために尽してくれています。その彼が危険な状態にあるのであれば、担当ウマ娘でもある私が、行くのが道理だと思います」

 

 危険な状態──ただの風邪だ。言い過ぎである。だがしかし、ファインモーションにとっては関係ない。風邪にかかっているということは、トレーナーの身が危険に晒されているということになる。それでいて、これはチャンスでもあった。

 ここでトレーナーを看病すれば、トレーナーに自身のアピールをすることもできる。故に、この好機(チャンス)を逃す訳にはいかない。ただ一つだけ、問題があるとすれば────それは今、ファインモーションの思考はそれを考えている隙がなかった。

 

「当然ですが、しっかりと対策はします。いつも助けてくれていたトレーナーを、今度は私が助けたいのです。だから隊長、お願いします」

 

 ファインモーションは真剣な眼差しを隊長に向け、その声音から一切の浮かれが消えていた。

 トレーナーの安否が心配で仕方がない。ただの風邪とはいっても、トレーナーは疲労や怪我でさえも、自身にウソすらついて隠す。ファインモーション(わたし)のためを想い、自身の都合には蓋をして誰にも気付かせない。きっと連絡をした時も、心配を掛けないためにウソの笑顔を取り繕っていたに違いない。

 彼はウソつきだから。そのウソを看破して、助けなければならない。

 

「…………分かりました。ですが、細心の注意を払っていただきますよ殿下」

 

 ファインモーションの真剣な眼差しに押されて、隊長は渋々了承する。彼女のトレーナーに対する想いは、何者であっても抑えることはできない。なにより彼女自身も抑えられていないのだから、何人にも止めることはできないだろう。

 

「もちろんです。ありがとうございます隊長」

 

 感謝を述べると同時に、隊長とファインモーションは互いに別の行動を取り始める。隊長はトレーナーの風邪に効く薬を探しに行き、ファインモーションは己の授業へと。そして放課後になると、二人はトレーナーの部屋に向かって歩いていった。

 途中でファインモーションがトレーナーの安否が心配になり、至急大手病院の医師団を呼ぼうとしていたが、なんとか隊長が冷静な判断で鎮めた──かつては隊長も、ファインモーションの体調不良の際に同じようなことをしていたが。*1

 

 トレーナーは、とあるアパートでひとり暮らしをしている。それだけは知っていたのだが、住所などはまるで知らない。そこはトレーナーの同僚たちに聞いて、住所と部屋の番号も調べた。

 トレーナーの危機(ピンチ)に駆け付けない担当ウマ娘など、いるわけがない。寧ろ大切な愛しい彼が病気で苦しんでいるのであれば、何が何でも手を差し伸べたい。それがファインモーションの心境だった。

 

「殿下、ここがトレーナー殿の部屋になります」

 

 東京の一角、トレセン学園からそれほど遠くない場所にアパートはある。三階まで上り、一番端っこの部屋がトレーナーの住んでいる部屋だった。

 質素な扉の前に立ち、ファインモーションはインターフォンに指を置いて固まる。トレーナーを助けたいという気持ちこそあるが、いざ目の前に来ると緊張と不安で感情が呑まれ始めていた。だが、その感情を押し切り、一度その肺に取り込んだ酸素を吐き捨ててから覚悟を決めた。

 

 ゆっくりとしたチャイムの音が、部屋の中に響き渡る。待ち続ける彼女の鼓動とそぐわないゆったりとした音色。それが鳴り止んだあとに残ったのは、異常なまでの静けさだった。

 完全に寝込んでしまっているのか、扉の奥からは人の気配すらも感じられない。病人にとっては、玄関を開けることすらも苦悩なのだ。鍵師を呼んでこの扉を開けてもらおうか──そんなことを脳裏で考えていると、ファインモーションの思考に漠然とした恐怖が湧いた。

 

「もしかしてトレーナー……病気が悪化して動けないんじゃ……誰も呼べなくて、いままさに危機的な状況にあるのかも……っ!?」

 

 その恐怖は、連鎖の如く直ぐに思考を埋め尽くす。ファインモーションはポケットからスマホを取り出して、鍵師だけでなく救急車に電話をかけるために画面を切り替えた。番号を入力して、電話を掛けようとした瞬間──扉の鍵が回る音が響いた。

 

「……っ! トレーナー!! だいじょう──」

 

 ぶ──最後の一文字を繋ごうとして、開いた扉から顔を出した女性の姿に全てが止められた。

 困惑、驚愕、恐怖に呑まれつつあった思考が、彼女の姿を映して『彼女がなぜここにいるのか?』という疑問に塗り変わる。そんなファインモーションを見るなり、扉から顔を出した女性はマスクを外して一気に顔を明るくさせた。

 

「──ファインちゃんだ!!」

 

 トレーナーの()は、扉から飛び出るようにファインモーションの手を取る。だが、ファインモーションを含め、隊長ですらもなぜ彼女がトレーナーの部屋にいるのかまるで分からなかった。

 前はファインモーションの誕生日プレゼントを選ぶために東京へと赴いていたが、それからは実家に帰ったとトレーナーからも聞いていた。だが実際に、彼女は目の前にいる。なぜ、と疑問を向けるよりも先に、彼女の方から口を開いた。

 

「もしかして、ファインちゃんたちもお見舞いに来てくれたの!?」

「いや、その……トレーナーの看病に……」

「看病? あれ、学園の方には私が来るからって弟が連絡したはずなんだけど」

 

 更に困惑。そんな話、聞いていない。記憶を遡り、たづなさんの言葉を思い出していくが、ファインは「あー」と声を漏らしながら思い出した──そういえば、トレーナーのことばかり心配して、たづなさんの話を最後まで聞いていなかった。

 トレーナーのこととなると、なぜか先を見ることができなくなる。誰に似てしまったのか。ファインモーションは頭を抱えて、自分の無鉄砲さに呆れる他なかった。

 

「そう、でしたか……お姉さまがいるなら、私たちは、引き上げさせていただきます……」

 

 その声には、最早元気という概念は消え失せていた。いったいなにが彼女の元気を掻き消したのかは、自分自身ですら分からない。

 看病ができないから?

 トレーナーの姉がいたから?

 それともまた別のなにかか?

 肯定。すべてが原因である。やっとのことで、今まで尽くしてくれたトレーナーに恩返しをできると思っていた。ついでに家庭的な一面を見せて一石二鳥だと考えていながら、それは目の前にいる()()()()によって砕かれてしまった。

 肩をがっくりと落としながら、ファインモーションの声色は地の底までつくような低さを奏でる。それは明らかにがっかりした表情で、いつもは明るい雰囲気からもそれが滲み出ていた。素直に諦めて、隊長と共にその場を立ち去ろうと踵を返した時、お姉さまはファインモーションの手を取った。

 

「せっかく来てくれたんだもの。上がって? きっと弟は私なんかよりファインちゃんに看病してほしいと思うから」

 

 そう言って、部屋の中へと通されるが、隊長は「私はここで待機していますので、なにかあれば呼んでください」と部屋には入らず、玄関扉の前で待つことにしていた。トレーナーの姉のあとをついていき、部屋に案内される。一般的な男性が住むには少し広く、居間とは別にもう一つ部屋があった。

 居間にトレーナーの姿はなく、恐らく隣の部屋で寝ているのだろうと推察できる。二人分の足音が静謐な空間に鳴り響くが、その部屋からトレーナーが姿を見せることなかった。

 

「ごめんね、いま寝てるの。適当にくつろいでて、お茶淹れるから」

「ありがとうございます」

 

 部屋の中を一望する。ひとり暮らしの男性っぽいと言うべきか、趣味の少ないトレーナーらしい、これといって特徴のない質素な部屋。それでいて一通りの家具は揃っており、テレビの前には机と三人が座れるようなソファー。ファインモーションは台所の前に置かれた机の椅子に座り、お茶の入ったカップをトレーナーの姉が机に置いた。

 ファインモーションの向かい側に「よっこらせ」と腰を下ろした彼女は、お茶を飲んでから口を開く。

 

「私もずっと弟の側についていてあげたいけど、今日はどうしても外せない仕事があって困ってたの。だから、ファインちゃんが来てくれて助かったよ」

「トレーナーの様態はどうなのですか?」

 

 彼女は「うーん」と顎に指を当て、隣の部屋へと視線を移す。三秒ほどの沈黙が過ぎていくと、目の前の女性はゆっくりと立ち上がった。

 棚の引き出しに置かれていた薬の箱を取り出して、裏面に書かれた記載をぼんやりと眺めながら答えた。

 

「ただの風邪だね。それほど酷いものじゃないから、二日ぐらい安静にしてたら治ると思うよ」

「そうですか……よかった……」

 

 思わず漏らした安堵の息が、棚引く湯気と混じりて霧散する。異常なほどの静謐が漂う空間で残っているのは、ファインモーションが魅せる安心しきった表情と、溶けていく吐息だけだった。

 そんな静謐を掻き乱すかのように、トレーナーのお姉さんが小さな桶の中には水を張って、ファインモーションに差し出した。

 

「これは……?」

「タオル、替えてきてもらえる?」

 

 困惑を見せるファインモーションに向けて当然の如く答える。そして渡されるがままに桶を受け取ると、お姉さんは微かな笑みを見せて「それじゃあどうぞどうぞ」と背中を押した。

 部屋の中へと押されて、困惑しながら振り返ると手を振られて扉が閉められる。声を上げようと息を吸って、そこにトレーナーが寝ていることを思い出した。声を押し殺し、溜め息を漏らす。そしてゆっくりと振り返った先──そこは部屋の角に設置されたベッドの上で、トレーナーは布団を被って眠っていた。

 呼吸の度に布団が大きく上下して、時折トレーナーの苦しげに唸る声が聞こえた。

 

 これといって特徴的なものがあるわけでもなく、一人暮らしの男性の部屋にしてもかなり質素な部屋だった。その部屋にあるのは、デスクトップとパソコン、大きめな本棚とベッドだけ。窓を叩く雨音のみが、静謐な部屋の中を奏でていて、その輝きが僅かに暗い部屋を淡く照らしていた。

 ファインモーションは音を立てないように、ゆっくりと歩み寄るとベッドの横で腰を下ろした。

 

「トレーナー……?」

 

 囁くように呼び掛ける。するとトレーナーは大きく呼吸をして、苦しげに唸りながら瞳を開いた。意識も視界も風邪でぼんやりしている所為か、トレーナーのその瞳は相手を観察するように眼を細めていた。

 

「あえ、なんでファインがいんの……?」

 

 ただでさえ機能していない脳が、ファインモーションの存在に疑問を持って消え去らない。眉を寄せ、眉間に皺を浮かび上がらせて、トレーナーは困惑。なにもかもが理解不能で、脳は思考を停止して考えを纏めることを破棄していた。

 

「トレーナーが心配でお見舞いに来たの」

「それは、それは……風邪が移っちゃうよ」

「私のことは気にしないでいいから」

 

 ダメだよ、と辛い身体でファインモーションを避けようとするトレーナーだったが、起き上がった直後に咳き込む。そんなトレーナーの身体を支えながら、ファインモーションは慌てて彼をゆっくりとベッドに寝かせた。

 

「トレーナーこそ、ゆっくりと休んで」

 

 トレーナーの額に置かれていたタオルを手に取り、水の張った桶へと滑らせる。冷えた水がタオルだけでなくファインモーションの滑らかな手をも侵食して、桶全体に緩やかな波紋を広げる。指の末端から凍えるような感覚を感じながら、タオル全体を濡らしてから捻って強く絞った。

 微かな水音が波紋を広げるように、静謐な空間に響き渡る。その心地の良い音と水の冷たさを実感しながら絞ったタオルを、添えるように彼の額に乗せた。

 

「あはは、まったく大人として不甲斐ない……君にこんな姿、見せたくなかったんだけど……」

 

 空笑いを痛む喉の奥から漏らすトレーナーを見て、ファインモーションはその顔を顰める。不満にも似ているその表情は、目の前で横たわるトレーナーに向けられていて、ずっと前から募らせていた感情の一つ。

 ファインモーションはずっとトレーナーを頼って来た。だが、彼がファインモーションを頼ったことなど、覚えている範囲では一度もない。信頼していないから頼らないのではない──それは分かっているが、やはり担当ウマ娘として、彼を大切な存在だと思っているからこそ、どんなことでも頼ってほしいのだ。

 

 

 

「バカ」

 

 

 

 たった一言。たったの二文字。一秒にも満たない声が、連鎖の如く脳内に反響して長く感じられる。ファインモーションが告げたたった一言によって、トレーナーは眉を上げて驚きを隠せずに目を見開いた。

 

「それ……はは……」

「いつぞやの仕返しだよ」

「まさか、根に持ってたとはね……」

 

 私はそういうタイプなんだよ、とファインモーションはその罵倒の言葉とは裏腹に、口角を僅かに上げて悪戯の滲んだ笑みを浮かべる。それはかつて、トレーナーがファインモーションに向けて放った一言と同じであり、彼女を想って告げられた言葉だった。

 

「もっとキミは、私を頼っていいんだよ?」

「……でもファインは、ただでさえ忙しい上に大変な役割を担っているんだから、そんなことできないよ」

「ううん、そんなの関係ない」

 

 ファインモーションはきっぱりと否定した。

 アイルランドの王家の子女だから。祖国繁栄の為の礎だから。彼の担当ウマ娘だから。そんなこと全て関係ない。立場や仕事だとか、頼ってほしいと願うのは大切な彼を思う一人の少女としてであって、そこには『殿下』も『王家』も『担当』も関係ない。

 

「キミが私を支えてくれているように、私もキミを支えたい。これは〝殿下(わたし)〟としての命令なんかじゃなくて、キミと共にある〝私〟からのお願いなの」

 

 ファインモーションは、自身の胸に手を当ててゆっくりとそれを紡ぐ。その言葉は今までファインモーションがずっと思ってきたことで、彼を支えられているのか不安になっていたことでもあった。

 トレーナーがその精神を削り、命を懸けてまでも支えてくれているように、ファインモーション自身も同じようにトレーナーを支えたいと願う。大切な人だからこそ、その想いは更に強かった。

 

「キミは不甲斐なくなんかないよ。こんなにも沢山の思い出をこの胸に刻ませてくれたんだもの。だからもっと、私を頼って? 私に色んなキミを見せて?」

 

 トレーナーが口元を抑えて咳き込む。その姿を見たファインモーションが心配の声を漏らすが、彼は柔らかく笑って「大丈夫」と応えていた。

 明らかに体調が悪いように見える。微笑みこそ見せていたが、きっと今も無理をして話しているに違いない。それでもトレーナーは笑って見せて、呼吸を荒くしながらも口を開いた。

 

「ファインは、本当に優しいね……それでも俺は、君のトレーナーとして、君に相応しいトレーナーで有り続けたいんだ。だから、もっと俺は〝完璧〟であるために──」

 

 そこまで言ってトレーナーの言葉は、口に指を当てられて止められる。トレーナーが眉を上げて困惑の眼差しをファインモーションに向けた。彼女は柔らかに微笑んでいて、その眼差しには慈愛に似た色が込められ、トレーナーを見つめていた。

 

「いいんだよ? 私の前ぐらいは、そんなに気を張らなくても。今は、他の人の目もないから」

 

 それにね、と言葉を繋いで、ファインモーションは添えるようにトレーナーの頬に優しく手を当てた。

 

「相応しいとか、相応しくないとかじゃない。キミは充分過ぎるほどに私の為に頑張ってくれてるよ。それを私が、一番良く知ってるから。私の栄光は、全部キミが齎してくれた物語(けっか)なんだよ?」

 

 ファインモーションが今ここにいることも。

 ファインモーションが笑っていられることも。

 ファインモーションが駆け抜けられることも。

 ファインモーションが思いを馳せることでさえも。

 なにもかもが全てトレーナーの齎した栄光(モノ)であり、ファインモーションが今此処にいる理由でもある。全てはトレーナーが、心身を削ってでも支えてくれていたからだ。そこに相応しいといった適切さは関係ない。トレーナーは、彼以外は考えられない──ファインモーションのトレーナーは彼だけなのだから。

 

「〝完璧〟の定義があるなら──それはキミらしくあることだよ。キミの代わりなんていない。他の人がキミになることなんてできないんだから……ずっとキミのままでいてくれればいいの」

 

 トレーナーとしても、自分自身の身体が頑丈でないのは知っている。無理を重ねれば、必ずどこかでその分が返ってくる。だが、それらを全て承知の上で、トレーナーは担当(ファインモーション)の為にあらゆる激務でさえも熟し続けて来た────ただでさえ中央のトレーナーが課せられる仕事は、常人のそれを遥かに凌駕している。それに加えてアイルランドの王家が担当となれば、想像を絶する物量の業務へと変化を遂げる。それら全て、彼は()を上げず、愚直の一つでさえも溢さずにやり遂げてきた──〝完璧〟という概念に囚われて。

 たった一日の体調不良に寝込む程度で、ファインモーションが彼を見放すわけがない。端から〝完璧〟など求めていない。彼が彼でいてくれるだけで、ファインモーションは充分なのだ。

 

「ファイン……」

 

 布団の上に投げ出された手に、ファインモーションがそっと手を重ねる。重ねられた手に力が籠められて、トレーナーはすぐにそれを握り返した。

 波打つような脈動がお互いの手を伝って感じられる。横殴りに叩く雨音が収まりつつあり、空を覆い隠していた暗雲の隙間を縫って淡い光が差し込んでいた。

 

「今日はゆっくりと休んで。体調が良くなったら、私のオススメのラーメン屋にエスコートしてあげる!」

「……それは、ファインが行きたいだけじゃない?」

「うーん? なんのことだろー」

 

 わざとらしく誤魔化すファインモーションに向けて、トレーナーは思わず笑いを溢した。

 ヒカリトオク。話し疲れてしまったのか、トレーナーはゆっくりと一息をついてから瞼を閉じる。消えてしまいそうな声で「おやすみ」とだけ告げて、その意識を彼方へと手放して行った。

 

 

 

「おやすみ、トレーナー」

 

 

 

 たった一言。もはや誰にも届かないその声が、窓を叩く雨音によって静かに掻き消されていった。

 

 

 

 ◆◆◆◆

 

 

 

「弟の様子は大丈夫だった?」

 

 

 

 部屋から静かに出てきたファインモーションに向けて、彼の姉が紅茶の入ったカップを持ちながら問い掛けた。

 

「はい、大丈夫だと思います」

「なにを話したの?」

 

 その言葉に、ファインモーションの思考が一瞬停止。一拍空いた後に、平然と口を開いた。

 

「明日のトレーニングのことなどを……」

 

 ウソを答える。真実を語ろうとする考えはすぐさまに捨て去り、ファインモーションはそれ嘯く。だが、その一瞬の間でさえもしっかりと見ていた彼女は紅茶を啜ってから────、

 

「その割には、随分と嬉しそうな顔をしてるね」

 

 全てを見抜いていた。

 

「聞いて、いたのですか……?」

「いやなーんにも聞いてなかったよ。でも、来た時よりもファインちゃんの顔が明るくなってるのは分かったかな」

 

 流石はトレーナーの姉というべきか、その観察眼はトレーナーと同様に優れているらしい。この人を相手にウソは吐けないと、ファインモーションは唇を僅かに噛み締めた。

 紅茶を飲んでいた彼女は、唐突に何かを思い出したかのように「そうだ」と声を漏らして、ポケットからスマホを取り出す。慣れたような手つきで画面を滑らせていき────画面に()()を映して見せた。

 

「弟の寝顔写真いる?」

 

 その言葉に、ファインモーションが「え!?」と出したこともないような驚愕の声を上げる。ちょっとおいで、と手招きをされるがままファインモーションの身体は彼女の横へと駆け寄り、そのスマホを食い入るように見つめていた。

 

「どれが欲しい? 百枚近く撮ったからいろんなのあるよ。あ、それとも全部ほしい?」

 

 固唾を呑み、息を呑んだ。

 どれが欲しいかなど決められない。全てが欲しいと本能が訴えていたが、そこに芽生えていたファインモーションの常識が、他人の寝顔写真を本人の許可なく貰うのは良くないと葛藤していた──だがしかし、その常識は一瞬にして消え去った。

 

「全部、ください」

 

 震える手でスマホを取り出したファインモーションに、姉は「いいよ」と当然の如く答えた。以降、ファインモーションのスマホの待ち受けはトレーナーの寝顔写真になり、それがトレーナー本人にバレてしまったのはかなり後のお話である。

 

 

 

*1
ファインモーションのイベント『頭痛で憂鬱』にて隊長はウマ娘ドッグやヘリを呼ぼうとしたことがある。




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