【本編完結】恋人にしたい殿下と何も知らないトレーナー&SP隊長   作:渚 龍騎

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18 雨上がりのシャムロック

 

 

 

 六月。梅雨の時期に入ったこの季節は、青き天蓋を厚い雲で覆い隠して、泣き止むことのない雨を降り続かせる。それは神の齎す悲しみか、それともこの地球を潤す施しか、人々は鬱々とした影の中で、憂鬱な感情を巡らせていた。

 

 旧暦──和風月名で六月は『水無月』と呼ばれる。

 今まで水の無かった田んぼに、水を注ぎ入れる頃であることから〝水無月(みずのづき)〟や〝水張月(みずはりづき)〟と呼ばれるようになった。

 この時期の雨は稲が実を結ぶ為に重要なものであり、豊作を願う者の思いがこの呼び名に表れている。

 なにも、雨は憂鬱な気持ちだけを馳せる天気ではない。そこから始まる新たな想いもまた、万感胸に迫る感情が生まれるのだから────。

 

 

 

「雨、か……」

 

 

 

 自室の窓の外に降りしきる雨を見つめて、ぼんやりとした意識が()()を呟いていた。そのまま意識は玄関へと向けられていき、その隅に立て掛けられた二本の傘を映した。

 ぎゅっと堅く巻かれた二本の傘──紺一色で柄一つない傘は彼自身のものだが、もう一本は彼以外の者が残した女性もの。大人しい柄で描かれていながら、女性らしい落ち着いた色の傘だった。

 

 

 

「うーん、出掛けるとか言ってたけど、傘持って行ったのかな……」

 

 

 

 いつもは鈍感な男が、今日だけは察しが良かった。

 

 

 

 ◆◆◆◆

 

 

 

 東京のとある場所──トレセン学園からそう遠く離れていない位置に、小さな公園がある。それほど広くはないが、小さな池と辺りを覆い隠すような木々が、東京の街並みに広がる景色を変えていた。

 人々が造り出した高層ビルが建て並ぶ景色とは一変して、この場所は自然が一望できる。辺りの喧騒も此処ではまるでなく、自然が齎す穏やかな空気が暖かな音と共に運んでくれる。その吹き抜ける風はまるで草原に似た爽やかさで、あの庭園によく似ていた。

 それになにより、そこにはたくさんの約束のシャムロックが咲き誇っていたから、彼女は此処にいた。

 

 

 

 だが、今日は失敗した。

 

 

 

 元より、朝から天気が不穏な景色になっていた。

 完全な自分の判断ミスである。すぐには降らないだろう、と安直な考えのまま寮を出た所為でこの始末。相変わらずの性格というべきか、準備万端の時との落差が激しい。直ぐに帰れば問題はないと思っていた故の失敗だ。安易な考えをした自分が馬鹿らしい。

 

 爽やかな風は、冬の訪れのように冷酷で。

 木々のざわめきも小鳥の囀りも、降りしきる雨音が悲鳴のように騒々しく、小池には蝟集した輝きが幾つも波紋を広げ続けていて、芽生えた郷愁に浸れる数少ない場所だった景色が────そこにあるのは、ただただ〝憂鬱〟に満ちた情景だけだった。

 

 小さな公園にただ一つだけある屋根の下──そこにあったベンチに腰を下ろし、ファインモーションは「うーん」と呻ってから大きく溜め息を吐いた。

 透明感のある柔肌にはシミ一つなく、処女雪のように美しくきめ細やかな肌。精緻に整えられた顔立ちは、笑えばまるで花のような可憐さを誇るであろう。だが彼女が魅せていた表情は、その美貌に似合わず〝憂鬱〟の感情を細微にまで巡らせていた。

 

「こんなに早く降って来ちゃうなんて……」

 

 ぼんやりと降りしきる雨を見つめながら呟いた。

 夜から降るとの予報だったが、どうやら今日のお天道様は機嫌が悪いらしい。

 年季の入った木製のベンチに腰を下ろしたファインモーションは、足をぶらりと揺らす。屋根から滴り落ちた雫が地面に弾かれて、更にきめ細やかな粒となって煌めいた。

 

「日本の天気予報は精度が高いって聞いてたけど」

「あくまでも予報ですから、外れる時もございます」

 

 完全な予報などない。外れる時もあるからこその予報であり、人々はそれも考慮する。傘を持っていくか否か、半袖か長袖か、そんな判断をどちらに偏らせるかで生活をしていく。

 憂鬱な感情を巡らせていたファインモーションに対し、淡々と答えた大人のウマ娘──護衛隊長が彼女の前に立つ。そして頭を低く片膝立ちになると「直ぐに傘を持って参ります」と声色を変えずに提案した。

 だが、(ファインモーション)は「いえ」と首を振った。

 

「それでは隊長が濡れてしまいます」

「私は構いません。殿下の安全を守り、体調を管理するのが私の仕事でもあります。殿下に風邪をひかせる訳には行きません」

 

 隊長の仕事はごもっともではあるが、それでは隊長本人の健康が心配になってしまう。生憎と隊長以外の護衛はいまは近くに配備していない。隊長が傘を取りに行くとなれば、隊長自身が大雨の中を走り抜ける必要があり、風邪を引いてしまう心配もあった。

 ファインモーションにとっては自分の心配よりも、傘を取りに行くことで雨の中に晒される隊長のことを心配していた。

 

「それで隊長が()調()を崩しては元も子もありません」

「…………いまのは、狙って言いましたか?」

 

 真面目な話の途中、隊長はその言葉の中に埋められた罠に気が付いた。

 隊長の視線がファインモーションを見下ろすと、彼女は隊長を見上げて微かに笑った。

 

「もちろん。上手かったですか?」

 

 問い掛けられて、隊長は口ごもる。自然な流れに組み込んだのは評価できるかもしれないが、面白さを求めているのなら、また別の問題である。視線を逸らし、ファインモーションを傷付けない返答を模索する。その優秀な頭脳が導き出した完璧な回答はただ一つ──大きく息を吸って、感じたことを言葉にした。

 

「段々とトレーナー殿に染まって来ましたね、殿下」

「ふふ、三年も一緒に過ごしましたから」

 

 自分の感情を押し殺して、祖国繁栄の為の礎となって使命を果たしていたファインモーションが、いままでよりも感情を豊かに魅せている。いままでの小さな()からでは、空の青さを知ることはできても、空の広さを知ることはできなかった。だが、彼と共にあることですべてが変わっていた。

 それは隊長から見ても一目瞭然の事実だった。

 

「だからこそ、なんとなく分かるんです」

 

 告げられた言葉は漠然としていて、隊長はファインモーションを見つめながら首を傾げる。すると彼女は天を仰ぐように顔を上げ、腐りかけて年季の感じられる屋根を見つめ始めた────その姿はまるで、気長に誰かを待ち望んでいるように見えて。

 無作為に降り続ける雨粒が、容赦なく屋根に叩き付けられ、止むことのない弾けたような音が延々と続く。そんな騒々しい世界の中で、ファインモーションは一際穏やかな声色で陳述した。

 

「あの人が、迎えに来てくれるんじゃないかって」

 

 ────嗚呼、そういうことでしたか。

 そう告げているファインモーションの表情は、隊長が知っている精悍な〝殿下〟の顔立ちではない。純粋な恋を楽しみ、想いを馳せているただの〝少女〟のようで、そこには使命も義務も感じられなかった。

 恋い焦がれているファインモーションが魅せる姿に、隊長は思わず笑みを溢した。

 

「なるほど。殿下は、()()()()()殿()が迎えに来てくれるのを待っているのですか」

「隊長も、最近は私にイジワルになりましたよね」

「はて、なんのことだか」

 

 しらばっくれる隊長に対して、ファインモーションは片頬を膨らませながらその不満を口にする。その反応が面白くも感じられ、護衛という身分でありながらも、隊長はその僅かなイタズラ心を巡らせた。

 

「誰もトレーナーを待っているなんて言っていませんよ」

「それなら、いったい誰を待っているのですか?」

 

 その一言で、ファインモーションが言葉を止めた。

 動きが停止する。ファインモーションの思考は、言い訳を答えようと考えを巡らせていたが、やがてはその思考も纏まらなくなり、敗北を喫した。

 隊長が「誰なのですか?」とその無表情な顔を寄せる。一度だけでなく数度も。顔色すらも変わらない隊長の表情の裏は読み取れず、ファインモーションはその押しに負けて、顔を赤らめた。

 周りの雨音に掻き消されてしまいそうなほど小さく、そしてか細く、その名前を答えた。

 

「…………トレーナー、です……」

「そうですよね。知っていましたよ」

「いじわるー!」

 

 罵られようと、隊長は平然を保ったままでいた。

 ファインモーションが差していた〝あの人〟が〝トレーナー〟であることは明確だった。寧ろ彼以外の選択肢など、端から存在していないのだから、なおのこと分かりやすい。だがしかし、どうしてそこまで彼を信じて信頼するのかまでは、イマイチよく分からなかった。隊長自身もトレーナーを信じていないと言えばウソになる。我が主(ファインモーション)が信じているからこそ、隊長も彼を信じている。今までの行動から見ても、それに拍車をかけていたのは事実だ。

 

「殿下は、なぜそこまで彼を信じるのですか?」

 

 一際大きな雨粒が、溜まった水の上に落下する。辺りを掻き消すような雨が勢いを盛り返すように、沛然とした響きが侘しい音と共に喧騒を奏でた。

 そんな世界の中で、ファインモーションは安らぎに満ちた声色を上書きして答える。その表情(カオ)はあまりにも穏やかで、言葉など聞かずとも一瞬で答えを理解した──トレーナーを心の底から信頼しているのだと。

 

「トレーナーは、いままで飛び立てなかった私に、手を差し伸べてくれました」

 

 一つしか辿れなかった道を、彼がいくつにも照らしてくれて。狭かった世界を、これだけ広いのだと彼が教えてくれて。何度も差し伸べてくれて、何度も支えてくれて────、

 

「ずっと隣にいてくれて、私を懸命に支えてくれました。ただ私に翼を与えてくれただけでなく、飛び立てるように手を引いてくれたのです」

 

 出会い、それはカップラーメンからである。そこからなにもかも、すべてが始まったのだと、誰が思ったであろう──王家の子女と、初心者トレーナーの巡り巡った新たなる日々に。

 全ての思い出を胸に刻むことができた。

 彼が隣にいてくれたおかげで、両手では掬い切れないほどの沢山の思い出を抱けた。

 

「後悔は、ありませんか?」

 

 隊長が問い掛ける。答えなど聞かずとも、きっとファインモーションの答えはただ一つ。そんなこと分かりきっていたのだが、敢えて隊長は問い掛けた。

 もしも、いまのトレーナーがいなければ、いまのファインモーションは此処に存在していない。そもそも彼でなければ、ファインモーションが走ることなど有り得なかったのだろう。愚直ながらに真っ直ぐ、無謀でありながらも誠実に、彼だからこそファインモーションは輝いた。

 雨の中、彼女は微かに笑いを漏らしてから答えた。

 

「──ええ、もちろんです。トレーナーが齎した功績を、隊長も知っていますよね」

「はい、ずっとお側で見守っていましたから。ですが、そのような意味ではなく──」

 

 空いてしまった間で、ファインモーションが首を傾げた。

 

「殿下は、これからもトレーナー殿と駆け抜けて、後悔はありませんか? きっとこれ以上は身分や立場、責務などによって、彼といることは周りから非難の声や阻むものが出て来ると思います。彼よりも、もっと功績を残している者が、トレーナーを引き受けてくれるかもしれません」

 

 それでも、と隊長は真剣な表情を崩さぬまま問い掛ける──ファインモーションのその決意を。

 

「トレーナー殿と共にある覚悟がありますか?」

 

 今更な問い掛けではある。三年も共に駆け抜けて、今更「いいえ」と答えるはずがない。そんなことは百も承知で、分かりきったことだったが、それを言葉にして聞かなければこれからを乗り越える手伝いはできない。その覚悟を聞きたくて、隊長は選別の視線を殿下に向けた。

 ファインモーションは微笑む。まるで当然の如く、自身の胸に手を置いてゆっくりと頷いた。

 

「至極当然──私はこれまでと同じように……いえ、これからは更なる一歩を歩み出して、トレーナーと共に駆け抜けます。その道がどれだけ険しくとも、どんなことが阻もうと、私のこの〝(おもい)〟は決して変わりません」

 

 そうですか、と変わることのない声色で隊長が呟く。だがその表情には僅かに喜色が滲んでおり、思わず笑いが口角から漏れてしまった。

 言わずとも、ファインモーションには彼しか有り得ない。彼が導いたからこそ、ファインモーションは彼を心の底から信頼して、その想いを馳せている。あれだけ誠実な人であれば、恋をしてしまうのも分からなくはなかった──珍奇な人ではあるが。

 

「それなら、私から言うことはなにもございません。私は殿下の全てを尊重し、お守り致します」

 

 その言葉に対して、ファインモーションは「ありがとうございます」と感謝を述べるが、隊長は「ですが」と口調を一段階強く切り出した。

 

「公の場で、トレーナー殿の脚に尻尾を絡ませるのはいかがなものかと思います」

「──んなっ!?」

 

 その一言によって、整ったファインモーションの表情が一気に崩れる。茹でったように表情(カオ)が真っ赤に染まり上がり、宝石を埋め込んだような瞳も見開かれて、それはもう信じられないと言葉にせずともその表情から強く理解できた。

 ウマ娘同士が互いの尻尾を絡ませ合う行為は、もはや恋人がするような行いと同等であり、特別な相手とするものである。それ即ち──尻尾ハグ。

 だがしかし、トレーナーはただの人間で、当然ながら尻尾に該当する部位は存在していない。それ故に、尻尾を絡ませやすい位置にあるのが人間の脚だ。

 トレーナー自身が分かっているのかは不明だが、ファインモーションが彼の隣にいる時は高確率で脚に尻尾を絡ませている。二人だけの時は構わないが、公然の場でもやられてはいつしか業務に支障がでる可能性もあった。

 

「トレーナー殿のことを想うのは構いません。ですが、時と場合というものがあります」

「はい……すいません、ついクセで……」

 

 驚きの言葉が出てきた。

 クセになるレベルで毎回トレーナーの脚に尻尾を絡ませていたのは計算外だった。

 

「クセになるほどやっていたのですか。いったいいつからやっていたのです?」

「分かりません……」

「思い出せないほど前からやっていたのですか……」

 

 ファインモーションの愛の大きさには、心底驚かせられてばかりだ。やはり箱入り娘として育った所為で、溜め込み続けた愛が膨らみ過ぎたのか、それとも元から愛が大き過ぎるのか。どちらにせよ、それを受け止めるトレーナーは苦労をするかもしれない。

 

 ──いや、あの鈍感っぷりなら問題はない……?

 

 そこまで考えて、隊長は思考を放棄した。

 ファインモーションの健康と安全を守り、幸せを願うことこそが隊長の仕事ではあるが、あくまでもそれは影ながらに支える立場。どうするべきかは彼女自身が決めなければならない。

 

「はい……これからは、気を付けます……」

 

 訥々と呟いて、ファインモーションは肩を落とす。そんな彼女を見下ろしてから視線を上げると、隊長は眉を上げ、目の前に歩み寄って来る姿に「おお」と感嘆の声を僅かに漏らした。

 

「隊長?」

「……二人の関係は羨ましいです」

 

 ファインモーションが「え?」と困惑の声を漏らしていたが、なにも答えず瞳を閉じて正面へと顔を向ける。その向けられた先にファインモーションの端正な顔が向き、隊長の見ている〝その人〟に気が付いて表情をパアッと明るくさせた。

 

「──トレーナー!!」

 

 呼ばれた彼は片腕に一本の傘をぶら下げ、柔らかく手を振る。彼が差していた傘に弾かれて、更に砕けた煌めきが辺りの雨に紛れた。降りしきる雨の中、染め上がった水溜りを越えてトレーナーがゆっくりと屋根の下まで歩み寄った──まるで、乙女が夢見る王子のように。

 

「迎えに来たよ」

 

 悲しみが風に流れて降り落ちる世界。あまりにも爽やかな笑顔がファインモーションを迎えた。

 

「まさかと思って来たんだけど、やっぱり傘を持ってなかったね」

 

 来て良かった、と安堵の声を漏らしながら、トレーナーは差していた傘を畳んで回すように振る。傘についていた無数の滴が吹かれるように、辺りに撒き散らされて、ある程度を払ってから「よし」と呟いた。

 

「よくここが分かったね!」

「ファインならここかなって」

「流石トレーナー!」

 

 ここに来ることなど一言も話していなかったが、トレーナーはなんとなく分かっていたらしい。ファインモーションがトレーナーに染まって来ているのなら、トレーナーはファインモーションの考えが誰よりも分かるようになっている。立場も背負っている重荷も、殆どのことが違っている二人でも、互いが互いのことを理解していた。

 

「あ、でも、傘二本しか持ってきてない……」

 

 ふと気付いたことを呟き、全員の視線がトレーナーの持っている傘へと向けられる。いまある傘はトレーナーが差していた分と、ファインモーションの為に持ってきたもう一本の二本のみ。ここにいるのはファインモーションとトレーナー、そして隊長の三人。傘と人数が合っていなかった。

 隊長のことまでは考えていなかったらしい。

 

「私のことは気にしないでください。この程度の雨なら問題はありません」

「ダメに決まってるじゃないですか、俺のことこそ気にせず傘を使ってください」

「そんな訳にもいきません。殿下にとってトレーナー殿は必要な存在なのですから」

「それは隊長も同じです」

 

 自己犠牲精神の塊のような二人が、終わりの見えない押し付けあい始める。この二人のこういった部分は褒めるべきなのか、それとも注意するべきなのか分からない。もう少し考えれば分かるところまで至らないのが勿体無い。

 そこでファインモーションが一言。

 

「私がトレーナーと一緒に一本を使いますから、隊長はもう一本を使ってください」

「ですがそれでは殿下が濡れて──」

 

 苦言を呈そうとする隊長が、ファインモーションを見つめて言葉を飲み込む。彼女はトレーナーの腕を抱き締めるようにして、隊長に向けてウィンクをしていた。

 

「いえ、申し訳ありません。そういえば私にはやらなければならない仕事が残っていました。なのでもう一本の傘は私が使わせていただきます」

 

 トレーナーが困惑を表情(カオ)に浮かばせているが、有無を言わさずに彼の持っていた傘を手に取って隊長は「それでは」とそそくさ駆けて行った。

 雨の中に消えていく隊長の背中を眺めて、ファインモーションがトレーナーの腕を引いた。

 

「それじゃあ行こっか!」

「そうだね。俺で良かったの? 相合傘なんかしたら変な勘違いとかされるかもよ?」

 

 勘違いされて良いんだよ。

 

「あははっ! そうなったら責任取ってね?」

 

 想像しているよりも数倍の重さを持った言葉が飛んで来た。これにはトレーナーも苦笑して、困惑を隠し切れていない。逃がすつもりのないファインモーション──どうやら、束縛と逃げ牽制のスキルが絶賛発動しているようだった。*1

 

「その時は考えとくよ」

「えー!」

「ほら帰ろう、冷えちゃったでしょ?」

 

 はやく温めなきゃ、といつまでもファインモーションの体調を気にしているトレーナーは傘を差す。返事をしたファインモーションは広げられた傘の下に入り、密着してトレーナーの腕を抱き締めた。

 そのまま二人は雨の中へと歩いていき、傘を叩く低い音が響く。濡れた地面を踏み締めて、ファインモーションは横目でトレーナーを見つめると、傘から滴り落ちる雨で彼の肩が濡れていることに気が付いた。それに対して自分はまったく濡れていない。それでもトレーナーは気にしていない様子だった。そこがトレーナーの良いところであり、悪いところでもある。

 

「えへへ、前も私を雨の中迎えに来てくれたよね」

「あー、あの時は俺も君もずぶ濡れだったけど」

 

 思い耽るように、トレーナーとファインモーションは語り出す──過去に起きたその懐かしくも、それほど遠くない過去の話を。

 

「あの時は本当に嬉しかったよ。自分が嫌になって逃げ出した私を見つけて、キミは私の全部を受け止めてくれたよね」

 

 誇れるような成績を残すことができず、なにもかもが上手く行かなくなった時──ファインモーションは一度、自分自身が嫌になった。

 

「傘を差してた俺もずぶ濡れになっちゃってさ、隊長が慌てて暖房器具とかかき集めてたっけ」

「あははっ! 二人で一緒の毛布を被ったね!」

 

 あの日、あの瞬間、トレーナーは誰よりも先に飛び出して、誰よりも先にファインモーションを見つけた。偽りに塗れて、嘘で取り繕った笑顔で謝罪した時──トレーナーはファインモーションの肩を掴んでたった一言を告げた。

 

 

 

『──バカ!』

 

 

 

 罵倒。罵り。いままで言われたことのない言葉を、トレーナーから言われた。その後に彼は、ファインモーションを強く抱き締め、彼女から吐露される悲しみの全てを受け入れた。

 

『もう大丈夫、一人でなにもかもを抱え込まなくていい。苦しい時は『辛い』って言っても良いんだよ。俺が一緒にいるから、俺が全部受け止めるから』

 

 嬉しかった。この人がトレーナーで良かった。

 雨に打たれていた身体はとても冷えていたのに、抱き締められて言葉を囁かれる度に、胸の内にあるなにかが熱を灯していくような感覚があった。

 

「キミがいなかったら、いまの私はここにいないよ」

「いや、俺はただ君の背中を押しただけに過ぎない。君の努力の結果が現在(いま)なんだから」

 

 謙遜が過ぎる。全ては彼のおかげ。彼がどう言っても、誰かがそれを否定しようと、その事実は絶対に変わらないのだから。

 

「でも、あの時はどうして私があそこにいるって分かったの?」

 

 いまはファインモーションの居場所と言えばあの公園となっているが、あの時まだトレーナーは知らない。探し回ったのは事実だとしても、東京は広く、とても人の足で探せる広さではない。それでもトレーナーは、ファインモーションの居場所を探し出した。

 問われて、彼は顎に手を置いた。

 

「うーん、なんでだろうね。なんとなくなのかな……俺だったらここに行くかなーとか、そんな漠然とした感覚で探してたから……」

「そうだったんだ! もしかしたら私とキミは、思っているよりも似ているのかもしれないね!」

「俺とファインが?」

 

 トレーナーは首を傾げ、ファインモーションは「そうだなー」といい例えがないかを考える。

 運命を定められたファインモーション。

 運命を変えようとするトレーナー。

 一見違うように見えて、二人は誰よりも似ているのかもしれない。互いに互いを想い、誰かを助けようとする心の持ち主。繊細な彼女と不器用な彼は正反対でありながらも、なにか通ずるものがあった。

 それは、当の本人たちでも分からない。

 

 そこでファインモーションが「あ!」と声を上げて、そのしなやかな指を一本立てた。

 

「海と空みたいに!」

「海と空?」

「そうっ! 海と空ってお互いに向き合っているけど、決して交わることはないでしょ?」

 

 天に遍く空、地を潤す海。どちらも、果てしなく続くような最果ての存在。それらは平行していて、決して交わることがない。

 だけど、とファインモーションは言葉を繋いで、

 

「──どっちも青い!」

「ああ、そういうこと?」

「そうそう! 空が紅く染まれば、海も紅く染まる」

「なるほど……そして夜がくれば、空も海も黒くなる。だいぶ難しいことを言うね」

「月は嘘つきって言うキミも同じだよ」

 

 言われてみればそうだった──トレーナーは思い出して、納得しながら呟いた。

 傘に弾ける音が優しく感じ、彼の肩が雨に濡れて上着に大きな染みを広げていく。雨が叩きつけた地面を歩き続けた所為で、靴やズボンの裾も濡れていた。

 

「大丈夫? 濡れてない?」

 

 ふと視線を下ろしたトレーナーがファインモーションに心配の声を掛ける。だがしかし、ファインモーションはトレーナーのお陰で傘の中に収まり、それほどまでは濡れていない。

 大丈夫、と答えようとした瞬間──トレーナーがファインモーションの肩を寄せた。

 

「もっと寄って」

「でも、トレーナーが濡れて……」

「俺のことは気にしなくていいよ」

 

 言われて、ファインモーションはトレーナーの腕を更に身を寄せて強く抱き締める。寒天とした冷気が張り詰める空間の中で、抱き締めたトレーナーの腕から彼の温かな体温を感じた。

 

「キミの手は冷たいから、心はとても温かいのかな……?」

 

 彼の触れた手はとても冷えている。時に〝手が冷たい人は、心が温かい〟と言われるらしい。なぜそうなったのか、由来や理屈は不明だが、イギリスには『Cold hands, warm heart』という言葉がある。それはそのまま〝手が冷たい人は、心が温かい〟との意味だ。他にもドイツやフランスにも古くからそれが伝えられていた。

 しかし、実際は体温と心の温度差は関係ない。だが、そう言われているのも心理的な暗示のようなプラシーボ効果に近いのかもしれない。*2

 

「さあ、どうだろうね。そうだといいけど」

「きっと温かいよ」

 

 こんなに優しいんだから、とその言葉は心に留めた。必ず誰かのことばかりを考えて、自分のことは後回しにする自己犠牲心。優し過ぎると言っていいほどにその心は寛大だと、身をもって感じていた。

 

「でも〝心〟って不思議だよね」

「そうだね。ウマ娘にも、人間にもある唯一無二の存在」

 

 想いを受け継ぎ、それを背負って走るウマ娘──想いとは、心がその願いを込めて祈られるもの。

 ウマ娘は想いのチカラによってどれだけでも速く、気高く、強くそのレースを駆け抜ける。その根本たる存在こそが〝心〟である。〝心〟がなければ想いは生まれず、ウマ娘は夢を駆け抜けることができず、人々はその願いを馳せることができない。

 

 

 

 ならば────その〝心〟とはいったいなんだ?

 

 

 

 千差万別、その者にしかない概念。

 固有の物体としてある身体とは、また別の存在。この発展した世界で、唯一なにも分からない力の根源。それは何者にも探ることができず、何者にも解明できない心臓の更なる内側。

 トレーナーは、こう答えた。

 

「〝心〟っていうのは、俺が思うに胸の奥底で燃える熱い炎──謂わば、命の雄叫びだと考えてる」

「〝命の雄叫び〟……」

「その雄叫びが最も強い者こそ、レースでも燦然と燃え盛り、勝利を掴むことができるんじゃないかな」

 

 雄叫びが強ければ強いほど、その炎は紅く燃え盛る。それに呼応して、精神や肉体は極限の領域に至っていく。〝心〟とは生物が魅せる生への渇望と言えるだろう。勝利を望み、栄光を照らすための力の本質。

 

「そうかもしれないね。誰だってレースでは勝利を望む……それは私も同じ。勝利を決めるのは才能だとか身体じゃなく、最後まで諦めず、その勝利に手を伸ばした者だから──」

 

 側で見守っていたトレーナーよりも、その場を駆け抜けていたファインモーションがそれを身を以て感じている。より深く、強く、そして広く、その研ぎ澄まされた感覚の中で感じていた。

 

「それじゃあ、URAファイナルズ(あの場)では最も強く命の雄叫びを上げた君が勝利した訳だ」

「そうかもっ。キミやシャカール達の声が聞こえたの。私の名前を叫ぶあの声が──」

 

 ファインモーションは柔らかく胸に手を当てた。

 行け、という言葉に背中を押され、呼ばれた名前が腕を引いた。諦めかけていたその瞬間、大切な人たちの想いを背中に感じた。そのおかげで『不滅の聖剣(デュランダル)』に勝利して、URAファイナルズで新たな蹄鉄をその栄光に叩き付けた。

 

「あの時は本気で泣いたよ」

「私のこと抱き締めたままね」

「あーあーあーあーあー、やめてやめてやめて」

 

 思い出されたくない過去の光景に、ファインモーションが悪戯心を巡らせて嫌な記憶を蘇らせる。それをトレーナーは声を上げてファインモーションの言葉を無理に遮った。

 

「あははっ! バラされたくなかったら、今日は私の言うこと聞いてねっ!」

「え! それズルくない!?」

 

 冗談だよ、といつもの悪戯の滲んだ笑顔を向けられ、トレーナーも笑いを溢した。

 東京の街並み。先程よりも心なしか雨の勢いが収まったように感じられるが、辺りを見渡すと地面を叩く雨が世界を仄白く染め上げていた。

 

「雨、まだ止まないね」

 

 トレセン学園の正門前で、ファインモーションがふと天蓋のされた灰色の空を見上げた。

 その言葉には隠された意味が存在している。日本でもそれほど有名ではないが、フレーズとしては夏目漱石の放った『月が綺麗ですね』と似たものがある。当然ながら、ニブチン鈍感トレーナーが理解できるはずもないのだが────、

 

「そうだね。さっきよりかは落ち着いたけど、明日までは降ってるかな……」

 

 僅かに傘を避けて、トレーナーもファインモーションと同じように空を見上げる。隙間から溢れる太陽の輝きが、暗雲の奥でまだ煌めいている。そして視線を下ろして、隣で物憂げな表情を滲ませていたファインモーションを映した。

 

 

 

 ────そう、いつもの鈍感なトレーナーでは、その言葉の意味を理解することはできない。ファインモーションの気持ちなど微塵も分かっていない。

 

 

 

 だがしかし、冒頭の辺りでも前述した通り、()()()()()()()()()()()()()()()()

 抱き締めていた腕を放したファインモーションが、ゆっくりと息を吐いてから僅かな物寂しさを胸に抱きながらも、トレーナーに別れを告げようとした。

 

「今日はありがとう、トレーナー。それじゃあ──」

「──なんだか身体が冷えちゃったなー」

「…………え?」

 

 そんな言葉が返ってきて、ファインモーションの困惑した瞳に遠くを見つめていたトレーナーが映る。彼は僅かな照れ臭さを顔に滲ませながら、頭を掻いた。

 

「これから一緒にラーメンでも食べて、暖まりに行かないかい? ついこの間、美味しいと噂のラーメン屋を見つけたんだ」

「トレーナー……」

 

 

 

 ファインモーションが告げた言葉の意味──それは〝まだもう少し側にいたい〟である。

 

 

 

 何度も言うが、今日()()は彼の察しが良かった。

 その意味を理解して、ファインモーションの手を握り締める。彼女は困惑していたが、やがてその表情を喜色でいっぱいにして笑顔を見せた。

 

「うんっ! 私もラーメンが食べたいなっ!」

「それじゃあ行こう。今日は朝も食べてないからお腹が減ってるんだ」

「私もお腹ペコペコっ!」

 

 握った手が、握り返される。降り注いでいた柔らかな雨が、二人を送り出す。傘を叩く音がどこか優しく、二人が歩む道の端──そこには雨露を乗せて煌めくシャムロックが、恍惚と咲き誇っていた。

 

 

 

*1
本来はファインモーションのスキルにありません。いったいなぜ持っているのでしょう……?

*2
プラシーボ効果とは、心理的な暗示によって効果が現れること。




またまた大先生の台詞をねじ込んでみました。
無理矢理感が否めないですが。
感想評価があればよろしくお願いいたします。

あと今後の更新などは、変な呟きと共に私のツイッターアカウント@hokattya258でお知らせしていますので、ぜひ興味があればよろしくお願いします。

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